【短編小説】名前の喪失と記憶の意味
春の朝日が窓を通り抜け、朝食のテーブルに落ちていた。佐々木明子は新聞の見出しに目を留めた。『選択的夫婦別姓法、本日施行』。
「今日、区役所に行くんだね」健太がコーヒーを啜りながら言った。
「ええ、午後でいいかな。午前中、住田公園で取材があるから」
健太は静かに頷いた。法律事務所で働く彼は、父親に似た物静かな情熱を持つ青年だった。五年間の内縁関係を経て、今日という日を二人は静かに待ち望んでいた。
「父さん、どう思ってる?」明子は少し緊張した様子で尋ねた。佐藤雅人は選択的夫婦別姓を支持する弁護士だったが、息子の妻が「佐藤」を名乗らないとなると。
健太は少し考え込むように窓の外を見た。「理念と感情は、時々違う場所にあるものなんだろうね」
桜の花びらが風に舞う住田公園。明子は取材ノートを開き、羽鳥明日香を待っていた。区役所公園課の課長は、この公園の存続に深く関わった人物だった。
「お待たせしました」
五十八歳の羽鳥は、穏やかな表情で近づいてきた。公務員らしい丁寧な口調だが、その瞳の奥には若い頃の闘志がまだ残っている。
「住田公園の裁判について、お聞かせください」明子は丁寧に言った。
二人はベンチに腰掛けた。
「十数年前」羽鳥は遠くを見る目で語り始めた。「この公園は、財政難を理由に売却される予定でした。一度失われれば、二度と戻らない場所だったのです」
明子はペンを走らせた。「佐藤雅人弁護士が関わったと聞きました」
「ええ。彼は法廷で理論を語りました」羽鳥は淡々と答えた。
そして、彼女の表情がわずかに変わった。懐かしさと共に、何か悔いのようなものが浮かんでいた。
「転機は住民説明会でした」羽鳥は静かに続けた。「美咲という車椅子の少女が質問したとき、私は思わず本音を漏らしてしまって...」
風が二人の間を通り抜けた。
「数字だけでは測れない価値がここにあると」
「それが転機に?」明子は静かに尋ねた。
「はい。職員として不適切だと叱責されましたが」羽鳥の唇に小さな笑みが浮かんだ。「その言葉を佐藤さんが拾い、拡散してくれたんです。彼は『アクセシブルな公共性』という視点を広め、裁判の流れが変わりました」
明子は黙って頷いた。
「美咲さんは今、私の同僚なんです」彼女はふと言った。「川上書房の編集者で」
羽鳥の目に光が灯った。「そうなんですか」彼女の声には温かみが戻っていた。「彼女は立派になられたのですね」
会話が美咲で繋がり、二人の間に不思議な親近感が生まれた。
「今日は別姓法の施行日ですね」羽鳥はさりげなく言った。
「はい。実は午後、婚姻届を出す予定なんです」明子は静かに答えた。「私は『佐々木』のままで」
羽鳥は小さく頷いた。「おめでとうございます。大切なものを持つ選択ですね」
編集部に戻った明子は、車椅子の音で顔を上げた。
「住田公園の取材、どうだった?」美咲が微笑みながら尋ねた。
「羽鳥さんから、あの説明会のことを聞きました」
美咲は静かに目を細めた。「懐かしいわ。私は彼女の言葉を覚えていないけど、『わかってくれる人がいる』と感じた。それだけで十分だった」
彼女はデスクの引き出しから小さな桐箱を取り出した。「あなたへのプレゼント」
中には、漆塗りの栞が収められていた。花々の繊細な模様が光を受けて輝き、裏面には「上原美咲より」と細い筆で書かれていた。
「美咲さん...」明子は言葉を失った。
「おめでとう」美咲は柔らかく微笑んだ。
明子はそれを静かに手帳に挟んだ。
区役所の窓口には多くの人が並んでいた。選択的夫婦別姓法の施行初日、皆が待ち望んでいたのだ。
「あれ、父さん?」健太が驚いて言った。
窓口の近くに佐藤雅人の姿があった。公園関連の申請で来ていたという彼は、二人をカフェに誘った。
「住田公園の話を聞いたそうだね」雅人は明子に言った。
「はい。羽鳥さんの説明会での言葉が転機になったと」
雅人は静かに微笑んだ。「彼女は自分を責めたがるけど、あの言葉が真実だった。私は具体的な顔を見ずに公共性を語っていた。理論よりも大切な何かがあるんだと、教えられたよ」
彼はコーヒーをゆっくりと飲み、少し視線を落とした。
「正直に言うと」雅人の声は少し低くなった。「息子の妻が『佐藤』を選ばないと知ったとき、複雑な気持ちになった」
明子と健太は黙って聞いていた。
「でも住田公園の闘いを思い出したんだ」雅人は穏やかに続けた。
「あの時、私たちは単なる土地ではなく、そこに刻まれた人々の記憶と日常を守っていた」
雅人は明子を見つめた。
「『佐々木』という名前も同じなんだろうね」
明子は美咲からもらった栞を取り出した。漆の黒地に映える花々の模様が、光を受けて静かに輝いていた。
「美しいね」雅人はそれを見て、静かに頷いた。栞を手に取り、裏返すと「上原美咲より」の文字を見つけた。「美咲って…」
「はい。同僚なんです」
「世界は思ったより小さいな」雅人は微笑んだ。
窓口での手続きを終えた後、三人は桜の木の下に立った。健太と明子の手には、同じ日付、異なる姓の記された受理証があった。
舞い落ちる花びらを見上げながら、明子はふと思う。
名前も、公園も、あるだけでは意味を持たない。人々が記憶を刻み、共に生きるとき、はじめて守るべきものになるのだ。
春風が柔らかく吹き抜け、世界は新しい一日を迎えようとしていた。
