【短編小説】違いが分かる男は、白い息を吐く
秋の日曜日、朝の光が商店街を優しく撫でていく。神谷酒店の重雄は、いつものように錆びかけたシャッターを引き上げる。四十年間、この街角で酒を売り続けてきた。
「おはよう、お父さん」
化学教師の娘、由香が顔を出す。彼女は、週末になると父の店を手伝いに来る。分子の世界を教える日々の中でも、この古い店への愛着は変わらない。
棚には、各地の銘酒が並んでいる。彼が全国を廻り、集めてきた酒。
「今日も本物の酒を売るぞ」
重雄は胸を張って言った。本物。それが重雄の、変わらぬ信念だった。
十時を回った頃、作業服姿の男が店に入ってきた。トラック運転手らしい。
「すみません、ノンアルビール、ありませんか?」
「無いよ、そんなもん」
重雄は素っ気なく答える。
「え、今時ないんですか?」
「酔わない酒なんて酒じゃねぇ」
運転手は困ったような顔をする。
「夜勤明けでどうしても飲みたくて…でも、これから運転があるもんで」
重雄は首を振った。
「麦茶で良いじゃないか」
運転手は何かを言いかけて、結局黙って店を後にした。由香が父を見つめる。
「お父さん、あの人の気持ち、少しは分からない?」
「わからん。あんなものは酒じゃない」
「でも、アルコール以外の成分は普通のビールと同じなのよ。麦芽、ホップ…」
「そういう問題じゃない」
昼過ぎ、営業用バンから降りてきた若い男が、サンプルケースを抱えて店に入ってきた。
「失礼します。ベジフーズの田中と申します。新商品のご案内で伺ったんですが、お時間よろしいでしょうか?」
営業マンは慣れた手つきでサンプルケースを開ける。
「大豆ミートのサラミなんですが、見た目も味も本物そっくりで」
確かに、サラミにしか見えなかった。
「肉が食いたいなら肉を食え。なんで大豆で肉の真似なんかする必要がある?」
重雄の声が少し上ずる。
「実は私、ベジタリアンなんです」営業マンは苦笑いする。「でも、どうしても肉の味が恋しくて…矛盾してるのは分かってるんですけど」
重雄は営業マンをまじまじと見つめた。
「あんた…動物を殺したくないのに、肉は食いたいのか?」
「はい。おかしいですよね」
営業マンの素直な告白に、重雄は絶句した。
由香が口を挟む。
「味って、結局は分子の組み合わせだから」
「分子って…」
「お父さん、人間って矛盾した生き物でしょ?完璧な一貫性なんて不可能よ」
「でも、それじゃあ…」
重雄の言葉が途切れる。
午後になると、次々と客が訪れた。健康診断で引っかかった中年男性、妊娠中の女性。皆、何かを諦めながら、それでも何かを求めている。
夕方、営業マンが去った後、重雄は置いていかれた大豆ミートのサンプルをじっと見つめていた。誰もいないのを確認して、そっと一口味見する。
「…本当に、肉みたいだ」
小さな声が漏れた。
その時、常連の田中が千鳥足で入ってきた。
「おやじ、いつものくれ」
重雄は黙って日本酒を注ぐ。田中は一息に飲み干す。
「うめぇ。やっぱり酒はこうでなくちゃ」
しかし、彼はすでに十分酔っている。本当に味を感じているのだろうか。
田中が去った後、静寂が店を包んだ。
「お父さん、あの人も、結局『酒を飲んでいる気分』を味わってただけじゃない?」
由香の問いかけに、重雄は答えられなかった。
本物の酒を売る。それが重雄の信念だった。しかし、酔わないために「酒のような液体」を飲む客、肉を食べたくないのに「肉の味がする植物」を食べる客、すでに酔っているのにさらに酒を求める客…
由香が棚を拭きながら言う。
「『本物』って、何なんだろうね」
シャッターを下ろしながら、重雄は呟いた。
「人間の欲しがるものは、いつもねじれてるのかもしれない」
「そうね。でも、だからこそ人間なのかも」
父と娘は、解けない謎を抱えて、夜の静寂に包まれた。
翌朝、店先に小さな貼り紙が現れた。
「大豆ミートのサラミあります」「ノンアルコールビール 入荷予定」。
重雄は一人、店先で貼り紙を見つめていた。タバコの箱を取り出しながら考える。
人間は倒錯した生き物だ。酔いたくないのに酒を求め、殺したくないのに肉を求める。
慣れた手つきで銀紙を剥がし、ゆっくりと一本のタバコを抜き出す。
飲まなければ良い、食べなければ良い——だが、そんな単純に人間はできていない。
タバコを金属の筒に挿入し、加熱を待つ。
「お父さん」
振り返ると、由香が静かに微笑んでいた。
「人のこと言えないじゃない」
「医者に言われてな」
重雄は苦笑いして、白い水蒸気を吐き出した。
