見出し画像

なぜ手塚治虫の『復活編』は50年経った今読んでも恐ろしく面白いのか?誰も真似できないSFの最高到達点

前回は「火の鳥」屈指の名作「鳳凰編」のご紹介をしました。
(前回記事は最下部へどうぞ)

今回ご紹介する「復活編」は大傑作「鳳凰編」の次作
1970年に発表されました。
これもまた、
「火の鳥」シリーズの中でも最高傑作との呼び声高い、圧倒的人気作です。
「鳳凰編」から「復活編」へと続くこの流れ……、まさに無敵。
すべてにおいて完成度の高い両編。
この両編が並んだことが「火の鳥」の人気を決定づけた、
そう断言しても、異論はないでしょう。
間違いなくこの時期が「火の鳥」の最高到達点と言えます。

今回は「復活編」が如何に凄まじい作品であったかを
ご紹介いたしますので是非最後までご覧になってみてください。



SF世界で描かれる「輪廻転生」


「復活編」では「鳳凰編」での文学的且つ重厚なアプローチの作風から一転してお得意のSFを主戦場として「火の鳥」らしい「不死」や「復活」といった火の鳥を象徴するテーマをベースに物語が展開します。

人間は永遠を求めるが決して永遠を獲得できないという
「黎明編」から続く定番のテーマに原点回帰しているのも特徴な一遍。

そして本作は
「破壊と再生」を繰り返す不死鳥伝説の「蘇る」部分に
フォーカスしてSF版の「輪廻転生」が描かれているのですが
SF? 
輪廻転生?
と一見すると小難しくなりそうなテーマを
SFというファンタジーの土壌の中で成立させる構成は圧巻。

ロボットも転生するってそんな発想あります?

しかもそれが荒唐無稽なSFではなく、
そこには確かな科学的視点もあって単なるファンタジーマンガに留まらない未来像としてのリアリティがあります。

それらに織りなす人間ドラマも実に普遍的で
50年以上経過した今、読み返しても恐ろしく新鮮で正直ビビります。

永遠を表現するために○○を描く?あり得ん!


そんな「火の鳥復活編」の凄みは
永遠の命を求めるファンタジックなテーマに挑みながらも
ひどく現実的で普遍性のある表現が施されているところでしょう。
この普遍性こそがいつの時代の読者をも惹きつける要素になっているのは間違いありません。

その最たるものが
最も苦しいのは「孤独」だと突きつけてくるところ。

永遠=孤独
なんなんすかこのエグさ。

永遠と聞くとすごくファンタジー要素が強くなりがちの設定ですが
「孤独」とすることですごく身近に感じることができます。
そしてそのエグさが「復活編」では、容赦なく炸裂します。

「未来編」では
人類の孤独をたった一人で背負う苦行が展開されていましたが

「復活編」では
他者との繋がりを断たれた内面的な「孤独」が描かれています。

自分は「人間なのか?」
誰も答えてくれない、その問いを、自分自身に問い続ける苦しみ。
自分自身の存在意義を否定される「孤独」がそこにはあるんです。

そして人生に絶望したその救いにロボットとの恋愛
なんすかこの展開。
ヤバくね?

「人間とは何か」
「生きるとはどういうことか」

人間として認められないチヒロの目線と、
人間の心を宿すロボット、ロビタの目線。
この対比が、ハイブリッドで問いかけてきて
もう大変な事になっています。

はっきり言って「復活編」には火の鳥自体の重要性はさほどありません。
火の鳥が登場しなくてもストーリーを成立させてしまえるほど
物語単体としての完成度がバカ高い一作になっています。

何っといってもロボットとの共存AIとの向き合い方などのテーマは
この時代に本当にやっていたのかと信じがたいレベルにあります。

その先見性もさることながら漫画としての構成力も秀逸で「復活編」は、
二つの物語が時間軸を遡る、非常に複雑な構成をしています。
…なのに、読んでいてまったく難しくない。
むしろ、どんどん物語に引き込まれていく。

ヤバくね(2回目)
このテクニック、マジで凄まじい…。

これは没入していると気づきにくい事ですが
当時としては(今見ても)ハンパなく高度なテクニックを使っています。

同じような事を「太陽編」でも採用していますが「復活編」の完成度の方が高いとボクは思っているので是非読み比べてみて下さい


「火の鳥」が如何に異様な存在であったのか?


そして、時代背景から振り返ってもとんでもないことやっています。
当時のマンガのスタイルは構成はシンプル、
どこから読んでもわかる作品が主流でありました。

その背景にはマンガ雑誌が続々と月刊誌から週刊誌への移行が進み
非常に消費サイクルが早くなっていったことが挙げられます。
そんな中で、月刊連載で、
こんな複雑な構成をやるなんて……普通はやりません。

やりませんというより怖くてできません。

月刊誌の連載ともなれば月一掲載ですから
読者がストーリーを覚えているのも大変です。

…というか正直萎えます。
伏線や考察が当たり前の現代とは違い、
当時は「漫画=娯楽」ですから、分かりやすいものが一般的の中で
あえてこの複雑さを突きつける変態っぷり
剛腕すぎます。
これはもう、「神様」手塚治虫ならではの離れ業と言えるでしょう。

むしろ手塚先生は「火の鳥」シリーズを通してあらゆる表現方法を模索し
その技巧たるや他の追随を許さないくらいむちゃくちゃやってます。

各エピソードごとに趣をガラリと変えてみたり
一目見て分かるものから玄人受けするものまで、
そこかしこでその挑戦が見られます。

その背景には白土三平の「カムイ伝」の存在や
同じ雑誌「COM」で描いていた石ノ森先生へのライバル心
その他、台頭してきた新人作家たちへの嫉妬
これらの対抗心がバッチバチに影響を与え
「火の鳥」をさらに研ぎ澄まされた作品に押し上げていくんです。

言い換えれば「火の鳥」は完成されたマンガではなく
挑戦し続けるマンガと言えます。
綱渡りのように不安定であるがゆえに、ハマったときの爆発力が半端ない。
そういう不思議な魅力を纏ったマンガではないでしょうか。

各エピソードの完成度のバラつきもまた愛嬌と言いますか
完成されていない不完全な魅力にも見えてしまうという…
それでもその一篇が恐ろしく完成度高かったりするのは
一体なんなんでしょうね。
本当、不思議な作品なんですよ…。

そんな調子なので他の雑誌連載であったなら
絶対に掲載できなかったマンガですし、
まさしく自らが編集長を務める雑誌「COM」だからこそ
成立したマンガと言えるでしょう。

傑作?当時の「火の鳥」の立ち位置とは?


実際「火の鳥」はこれだけのレジェンドマンガでありながら
連載当時は引く手あまたの大人気作品ではありませんでした。
「火の鳥」は連載中断という憂き目に通算で3回あっていますが
これだけの人気作であれば連載を引き受ける雑誌があってもいいはずです。
なのに大手掲載誌からのオファーはなかったんですね。
(あくまでも大手と言っておきます)

これは当時のマンガのトレンドや手塚先生が落ち目であったことなど
多数の要素はあったとはいえ、
連載を引き受ける掲載誌がなかったのは当時の空気感を物語るひとつの証明と言えます。また手塚先生自身も「火の鳥」が一般誌での掲載が難しいことは理解していたようですし明らかに一般誌とは毛色の異なる作品であったのは間違いありません。

実際にこの後、
「火の鳥」が掲載された雑誌は潰れるとまで言われたくらい
出版社から敬遠された経緯もあります。
一筋縄でいかない作品であったことは確かです。

「復活編」連載終了後は、
1971年10月に「羽衣編」が描かれ、11月に「休憩」と続き
12月に「望郷編」が掲載されますが
その直後に雑誌「COM」自体の廃刊
「火の鳥」は強制的に事実上の終了を迎えることになります。

この後、掲載誌を変え再び復活することになるのですが
最後の完成を見ることなく手塚先生死去により永遠の未完となりました。

雑誌「COM」以降も素晴らしい作品を残しましたが
やはり「火の鳥」の真骨頂は手塚治虫自らが編集長を務めた雑誌「COM」で描かれた作品群にこそ集約されていると思います。

雑誌「COM」以後の「火の鳥」は地続きであるにせよ
作品の完成度や面白さといった比較ではなく
作家の内面性の部分がより濃く反映されたという点において
大きく隔たりがあるように感じます。

そういう意味でも今回は雑誌「COM」時代の「火の鳥」を中心として
作品の中身そのものではなく、手塚先生がどのように「火の鳥」に向き合い
そして当時の環境を踏まえ、どのような心境で執筆していたのかを個人的解釈としてシリーズでまとめた次第です。
しがない手塚ファンの戯言レベルではございますが
今回の「火の鳥」創作の裏側シリーズ
多少は参考になるところはあったかと思います。

一度読まれた方も振り返り再読してみると
また新しい楽しみ方ができるのではないと思いますので
機会がございましたらお手に取ってみて下さい。

ではでは。



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集