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なぜ「望郷編」は奇跡の復活を遂げたのか?「火の鳥」史上最も混乱した曰くの問題作の舞台裏を解説。

今回は「望郷編」誕生の秘密をお届けいたします。

前回で完結としていた「火の鳥」創作の裏側シリーズでしたが、どうしてもこれもお伝えしたくなりまして「望郷編」を追加しております。

未完で終わったはずの物語が、
なぜ4年半後に奇跡の復活を遂げたのか。
「火の鳥」史上最も混乱した曰くの問題作誕生の舞台裏を、
じっくり紐解いていきます。

前回までの記事です。

「火の鳥」創作の裏側シリーズ ①実は絶望からのスタートだった!
「火の鳥」創作の裏側シリーズ ②なぜ「COM」は「ガロ」に負けたのか
「火の鳥」創作の裏側シリーズ ③「未来編」で時間軸を破壊した理由
「火の鳥」創作の裏側シリーズ ④「未来編」は最初の構想にはなかった?
「火の鳥」創作の裏側シリーズ ⑤なぜ「鳳凰編」が傑作になり得たのか?
「火の鳥」創作の裏側シリーズ ⑥SF界震撼!50年早過ぎた「復活編」



望郷編とは


まずは「望郷編」の経緯をサラリとおさらい。

1971年12月号、雑誌「COM」にて連載スタートした直後、
事件が起きます。

なんと雑誌「COM」が「COMコミックス」として名称が変わります。
さらに翌年1月に
「COMコミックス」誌にて第2話が掲載されるも、突如掲載誌が廃刊。
これによりたった2話掲載されたのみで
強制的に「望郷編」の連載が終了することとなりました。

しかしそれから4年半後の1976年9月、朝日ソノラマから
新たに刊行された月刊誌「マンガ少年」にて急遽連載が復活します。
ストーリーが全く変わってしまうなどトラブルがありつつも度重なる紆余曲折を経て「奇跡」と呼ぶしかない復活劇を遂げることになります。

その舞台裏を知るうえで、参考にさせていただいた一冊があります。
それが、講談社文庫から刊行されている
大下英治 著『手塚治虫 ― ロマン大宇宙』


この本、ただの評伝ではありません。
大下英治さんならではの徹底したリサーチによって、まるでその場に立ち会っているかのような、創作現場の熱気、そして手塚先生のリアルな息遣いが伝わってくる至極の一冊になっております。

本編には「望郷編」誕生への経緯が事細かく紹介されておりますので
引用させていただきました。

ド変態出版社の執念「火の鳥」復活の物語


時は昭和五十一年五月、
物語は、地獄のスランプを脱し再びブームで成功を収めた手塚治虫の元へ
一人の担当者が相談に来るところから始まります。

その担当者とは朝日ソノラマの松岡さん。

「雑誌「COM」で連載されていた「火の鳥」の単行本が、
「COM」の廃刊と同時に絶版になっています。
ファンの間では、再版をして欲しいという根強い声が絶えません。
うちで、やらせてください。」

松岡さんはそう手塚先生に告げました。

手塚先生にとってはライフワークである「火の鳥」の単行本が再販されることはめちゃくちゃ嬉しい申し出だったのですが
大切な作品であるだけに松岡さんにひとつの条件を出したそうです。

「前に一冊にまとめたときに評判が良かった理由は、
B5判の大きなものにしたからです。
絵が見やすく、印刷もきれいに印刷されていたからです。
あの大きさでお願いしたいのです」

「わかりました。その方向で考えましょう」

既定の大きさではないにも関わらず手塚先生のお願いに松岡さんは即答。

それは読者から「火の鳥」の続編を待望されていることを心から実感しているからでありました。

こうして1976年8月1日 
月刊マンガ少年別冊としてB5判「黎明編」が発売されます。
これが現在我々が手にできる朝日ソノラマ版の「火の鳥」シリーズの原型となっています。


そんなあるとき松岡さんが新作の提案を持ち掛けかけます。

「先生、火の鳥を、是非また描いて欲しいのですが…」

すると手塚先生が言葉を濁すように言います。

「あの作品は、言うまでもなくぼくのライフワークです。
機会があったらいづれまた描き続けたいと思っていました、でもね…
『火の鳥』は、決して商業ベースに乗らないんですよ。
だから前もプライベート雑誌に近い「COM」で連載したのです。」

なんだか喉にモノが詰まったような物言いの手塚先生
それでも諦めきれない松岡さん。
なぜならファンからの手応えの確かさは、松岡さん自身が肌身で感じていたので出せば絶対に売れると思っていました。

そして身を乗り出して説得します。

「でも、ぼくは続編を待望する読者の声を沢山聞きました。
ということはファンが多いということです。
売れるはずじゃないでしょうか」

手塚先生は人差し指で眼鏡をあげながら言います。

「ただね、あれは読者層がバラバラの作品なんですよ。
小学生で読む子供もいれば
意外に五十代の中年男性からもファンレターをもらったりするんです。
ということは掲載する雑誌を少年誌にしても洩れてしまう、
かといって大人マンガとして描いてもいけない。
一冊の本にまとまってはじめてファンがつく
『火の鳥』を掲載したらどの雑誌でも浮いてしまいます」

松岡さんはなるほどと思いながらも
手塚先生の言葉は続きます。

「いままで『火の鳥』を連載してきた雑誌はまるで『火の鳥』に潰されたかのように、ことごとく廃刊になっているんです」

「それでもいいんですか…?」

手塚先生の重い言葉に打ちのめされ普通であれば引き下がるところですが
松岡さんは、諦めきれず
その場は一旦、編集部に戻り、編集長の原田さんに報告したそうです。

「『火の鳥』はどの雑誌でも浮いてしまうから掲載は難しいって手塚先生は仰っているんですが何かいい方法はないでしょうか。」

原田編集長はいとも簡単に答えます。

「だったら、
『火の鳥』が浮かないような新しい雑誌をつくればいいじゃないか」

まさに青天の霹靂

松岡さんは一刻も早く手塚先生に相談したかった。
翌日、はやる気持ちを抑えきれずに
午前早々に高田馬場の手塚プロダクションへ。

当然ながら手塚先生は仕事中
編集者が訪ねる部屋はアシスタントの仕事部屋と事務所のある二階
手塚先生の仕事部屋は、さらに二階上に上がった部屋で
マネージャーの松谷さん以外は入ることが許されない完全な別室
松岡さんはひたすらに待つしかありません。

一時間、二時間、…それでも一向に手塚先生は降りてきません

そんなとき内線が入ります。
電話を取った松谷さんが
「手塚先生が向かいの大都会で食事をしながら話をしましょう」とのこと。

「大都会」とは仕事場から歩いて一分もかからない場所で、本格的な洋食が出て来ることで頻繁に使っていた手塚先生お気に入りのレストランです。

松岡さんは、レストランの席に着くなり切り出します、

「手塚先生!昨日お話しした『火の鳥』の続編の件なんです!」

手塚先生はメニューに目を落としたまま

「ああ…でも昨日いったようなことでね……」

松岡さんは、興奮した面持ちで顔を紅潮させ言いました。

「『火の鳥』に合った雑誌を創刊するという条件ではいかがですか」

手塚先生は、びっくりしたように顔をあげ、
松岡さんの眼を覗き込むようにみつめ、聞き返します。

「新しい雑誌を?」

松岡さんは手塚先生の興味のありげな反応を逃さず
喰い気味で返答します。

「そうなんです!ただの少年誌じゃない。
『火の鳥』が浮かないような、時代の流れに従属しない、
質の高い漫画雑誌にするんです!その創刊の目玉として、『火の鳥』を掲載させてもらえたら、きっとウケますよ!」

にわかに表情が明るくなった手塚先生

「本気なんですね」

「はい。」

そこで手塚先生はひとつの提案をします。

「では、どうでしょう。『漫画少年』と名づけては——」

松岡さんは聞き返します。

「あの『漫画少年』ですか?」

『漫画少年』とは、戦後最も早く発刊されたマンガ雑誌の一つで
手塚先生が上京してからのデビュー作である「ジャングル大帝」を連載していた雑誌でもあります

のちに漫画界を背負って立つ石ノ森先生や赤塚先生、藤子不二雄先生など
錚々たるレジェンド漫画家たちが
こぞって投稿していたことでも知られるまさに伝説の雑誌です。

そして
手塚先生は思い入れたっぷりにこう言います。

「そう、あの『漫画少年』と同じ名前です。
とてもいい雑誌だったのに時代の荒波に飲まれて
惜しまれながら消えてしまった…
この企画にはぴったりのネーミングだと思いますよ」

続けて

『漫画少年』がそうだったように
本当に漫画好きが心待ちにするような雑誌にしましょう。
ただ読者に媚びているものや俗っぽいだけの内容のものは止めましょう。」

はじめて「ジャングル大帝」を入稿したことを
思い出すかのように熱く語り出す手塚先生
おそらく脳裏に次々と懐かしい場面が思い起こされていたのでしょう。

ここで少し補足ですが
手塚先生は『漫画少年』というよりも、出版元であった学童社の加藤謙一編集長を人生を変えるほどの運命の人、人生の大恩人と語っており、ひとかたならぬ強い想いを持っておられました。
というのも手塚先生を中央の檜舞台に送り込んだ「ジャングル大帝」も加藤さんでしたし初代「火の鳥」の時もそうです。

「おやじ」と呼ぶほどお世話になり恩義を感じていた人なんです

ただ手塚先生が『漫画少年』執筆時にはとてつもない遅れで
発売日を延期させたり営業的にも多大な損害を与え出版社を閉鎖にまで追い込んだ責任の大半が手塚先生自身にあったことをずっと悔やんでおられ
そのお詫びを果たす前に加藤さんが亡くなってしまったことを
ずっと心に引きづっておられました。

だからいつか恩返ししたい『漫画少年』のような雑誌の復刻させたいという思いが常にあったんです。

そしてただマンガが面白いだけの雑誌ではなく
新しい才能を発掘する投稿タイプのそれこそ過去の『漫画少年』から
藤子不二雄先生のような新人が誕生したように
新人発掘の場とリアルトキワ荘を再考したい、本当のマンガ好きが集まる雑誌を作りたいとずっと心に秘めておられました。

その秘めた想いが、ちょうどこのタイミングでやってきたと感じ
この提案をしたのだと思います。

ついに復活!


結局雑誌名は「漫画」の部分をカタカナに変え「マンガ少年」に決定

それからの手塚先生は、
雑誌創刊にあたりコンセプト、方向性、漫画家の選定、具体的な作業に至るまで細かな相談に乗り
手塚先生自身も「火の鳥」続編の構想を練りに練っていました。

しかしその「火の鳥」の続編の構想については
多くを語らなかったそうです。
それでも松岡さんにはふたつだけその方向性を漏らしたそうです…。

「この作品には、ぼくの最大のライフワークとして描きつけておきたいテーマがたくさんあるんです。
ぼくの集大成になるものにしたい。
それともうひとつ
この作品はね、時計の振り子のように未来と過去を行ったり来たりするようにしたいのです。
その振り子は太古と人類滅亡の遠い未来から大和の古代と2577年というふうに少しづつ現在に近い小さな振り子になって
未来と過去がせめぎあいながら現代に近づいてくるのです。」

この2つを再開のコンセプトとしていたようなんですが
これって特に伏せるようなことではなく
むしろ周知の事実と思えるような
「火の鳥」を読んでいる読者なら誰でも知っているような内容ですよね。

このくだりは本当に手塚先生は事あるごとに口にしていたので
これらのテーマが「火の鳥」の一貫したテーマであったことが伺えますよね

こうして「火の鳥」望郷編が誕生。
1976年9月に「マンガ少年」創刊号の顔として復活し
現在我々の知る「望郷編」になるわけであります。

月刊「マンガ少年」創刊時の連載陣も非常に豪華絢爛で
石ノ森章太郎、松本零士、ジョージ秋山など
早々たるメンバーが連載に名を連ね
藤子不二雄も読み切りを描いておりました。まさに申し分ないキラ星の如きラインナップになっており最高のスタートを切ります。

異様なる朝日ソノラマの手塚推し!


そして「火の鳥」人気もここから一気に加速していきます。
というか朝日ソノラマの「火の鳥」推しがハンパありません。

8月にB5判のコミックスが刊行されて
9月に「新連載」(望郷編)が始まったかと思えば

なんと12月には「火の鳥」の愛蔵版と題したA5判の単行本も朝日ソノラマから発売されています。

どゆことこれ?

新連載を単行本で挟むと言う意味不明の刊行!!

謎すぎる!

さらに驚くなかれその後がもっとすごい。

1978年7月に
講談社が「手塚治虫漫画全集」の「火の鳥」を出版するんですが
なんと全く同じ日に
朝日ソノラマも普及版としてA5判の「火の鳥」を販売しています。

なんでやねん!

普及版ってなんじゃいそれ?

講談社の方は事前に発売日を予告していたので
朝日ソノラマが追撃かましてる形になるんですけどコレ。
マジで面白すぎるやん!

同じマンガの発売日に違う出版社から同じもの出します?

そんな事ある????

出版会議とか大丈夫やったんか不思議すぎる(笑)

これがド変態朝日ソノラマなんですよ。

これらも松岡さんが仕込んだことなのかまでは分かりませんが
朝日ソノラマが如何にしょんべんちびるくらい
ハンパない「手塚推し」だったことが分かるかと思います。

これにより超短期間で「マンガ少年別冊」「愛蔵版」「普及版」
三連発につき「火の鳥」祭りになったのは言うまでもありません。

こうして「火の鳥」はこの後、手塚先生が亡くなるまで連載され
押しも押されぬ日本史に燦然と輝くレジェンドマンガなっていくわけですが

この松岡さん含め朝日ソノラマの「変態手塚推し」なるストーカーに勝るとも劣らない推し活がなければ、もしかしたら今日の「火の鳥」の存在はなかったのかも知れませんね…。

以上今回は奇跡の復活を遂げた「望郷編」誕生の秘密を
お届けいたしました。如何でしたでしょうか。

こうしてみてみると
混乱の背景に様々な人間模様が浮かび上がっているのが分かります。

作品単体の内容だけではなく作者含め周囲の熱い思い、そして
時代の流れと照らし合わせることでまた違った「火の鳥」の側面が垣間見ることができると思いますので興味がありましたら是非お手に取って熟読してみてください。

それではまた次回

ではでは。


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