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茨城百景 鹿島砂丘と神之池

今までB級スポット等を巡っても記録に残すような事はしてこなかったんですが今回はせっかく資料まで引っ張って調べたので記録に残す事に

ハァ~~コロナ禍はどこも空いてたから有名観光地に行きまくってたけど、旅行支援が始まってから国内旅行がブームになり始めてすっかりボーナス期間も終わりって感じです・・・
と言う訳で最近はB級スポット開拓を再開してたんですが、地元茨城のそこかしこ(特にB級っぽい微妙な場所)で茨城百景と書かれた謎の石碑を多々見かけて気になってググったんですよ。そしたら昭和25年(1950年)に茨城県によって選定された県の名所100選の事という事が分かり、その百景の一覧表も出てきました。
その中に鹿島砂丘という文字を発見。茨城に砂丘・・・?気になる・・・と言う訳で調べてみたらこれが中々奥が深かった。

神栖市ってあるんスよ。サッカーとか鹿島神宮とか工業地帯で有名なアノ鹿島市の南にあります。まぁ自治体は違えどほぼ同じ生活圏です。で昔ですね神栖や鹿嶋にデカい砂丘があったらしいです。

明治頃の地図。おにぎり型の池が神之池。肌色の部分が砂丘。
戦後すぐの航空写真(国土地理院の空中写真)
現在

今と全く違います。ちょっと大きな砂浜という訳ではなく内陸部にドカンとあったわけです。↑の地図では神之池周辺しか写してませんが砂丘自体は神栖市の南端の波崎のあたりまでまたがって存在していました。どれだけ巨大な砂丘だったか分かると思います。
しかし神之池は鹿島港の開発で約7分の1の大きさに、砂丘も市街地や畑になりほぼ消滅。

そしてその茨城百景に選定されたここの景はこの鹿島砂丘神之池、そして包含風景の軽野のサンドスキーです。

茨城百景一覧表の一部抜粋

と言っても70年以上前の百景なんで仕方ないですが前途の通り現地の景色はかなり変化しています。かつては神之池の後ろに鹿島砂丘の巨大な砂山が見える景色が見所だったそうです。これが絶景だったんだべよと語る地元のお爺さんのインタビューが出て来てワクワク。

引用元:今までも、これからも愛される神栖のシンボル——市民なら知っておきたい神之池の歴史 - 神栖市魅力情報発信ポータルサイト「カミスミカ」

この景は現在は消失しているので写真資料を見つけ出して閲覧するしかありません!調べてみるとどーやら神栖市歴史民俗資料館に砂丘の写真がある事がわかりました。せっかくなのでかつての池と砂丘だった場所も行ってみたいので行く事に。
そんでもって下調べをしている内に神栖には中々興味深い歴史がある事が分かりました。この百景が前提としていた鹿島砂丘と神之池という観光地を理解するためにはこの歴史を知る事が必須だと思うのでざっくりと書いていきます。

神栖の歴史

戦後に鹿島港と工業地帯が作られるまで農業と漁業で生計を立てる僻地の農村といった感じだったそうですが砂丘が真ん中にまたがっており農業においてはかなり苦労していたようです。
しかし大正になると大貫公光という人が1922年に事業として神之池の西側にある鳥栖村にて鹿島文化村という分譲別荘地を始めます。これは当時、平和記念東京博覧会で紹介された文化住宅、そしてこの頃の日本に伝播した田園都市の理念が合わさった上で明治頃はお偉いさんや外国人が自分で建てるような存在だった別荘という物を大正に入ると大資本が手掛けて販売するようになったという背景があったようです。そして大正頃は歴史の授業でも出てきた第一次世界大戦特需の成金のような新興富裕層が誕生した時代でした。この文化村もそういった経済成長期・好景気で生まれた新富裕層がターゲットだったわけです。

鹿島文化村

そして今度は神之池の東側の軽野村がそれに対抗して鹿島理想郷を作ります。鹿島文化村の事業が分譲地の販売と別荘の建設であるのに対し理想郷は分譲地の販売と別荘の建設に加えて息栖神社参拝や砂丘を利用したサンドスキー場(包含風景のサンドスキー)、グライダー練習場等の各種レジャーまで含まれているクソデカ計画だった。

息栖河岸の船着き場と奥に見える息栖神社

他の茨城百景でもいくつかそういう所がありますが当時はまだまだ水運が活発で船で息栖河岸に来て当時は珍しかった車での送迎をして池や砂丘の遊覧コースを巡る優雅な体験を・・・という感じだったみたい。魅力度ランキング全国最下位の現代の茨城よりだいぶちゃんとやってますね。

鹿島理想郷のパンフ。投資物としても安全確実(笑)

しかしこの投機じg・・・村おこしに不穏な影が近づきます!
まず鹿島文化村には海軍村ができます。海軍村とは端的に言えば海軍将校とその関係者がまとまって住むオシャンティーな住宅地の事です。
そして昭和に入り日中戦争の直前1935年に鹿島理想郷のグライダー場が完成します。
しかしそこには2年後の日中戦争開始の年に帝国飛行協会鹿島支部が設置されます。帝国飛行協会はバリバリに軍人が所属しているような組織で支部の発会式にも予備役軍人が参加して名を連ねています笑
そして1937年に日中戦争が始まり戦争が激化し戦時体制に入っていく中で1939年に文化村の敷地は軍と国に接収されます(つまり文化村は17年間しか存在しなかった)
一方理想郷は戦時体制に入ってからの情報は無し。しかし文化村の運命や帝国飛行協会の事を考えると無事ではなかったでしょう。

1947年の航空写真。おむすび型の神之池の左手にあるのが元文化村の敷地。北側の滑走路が神之池航空基地。元文化村の敷地の南側には内閣中央航空研究所鹿島実験場 (国土地理院の空中写真)

戦時中、文化村の敷地には神之池航空基地(海軍)内閣中央航空研究所鹿島実験場があったそうです。平和な行楽地が軍事基地に・・・当時の平時から戦時体制に進んでいく日本の空気がひしひしと感じられます。

神之池と神之池航空基地

神之池航空基地桜花の訓練基地として知られています。
訓練は中々常軌を逸していて訓練用の桜花に着陸用のソリを装備して爆撃機から投下、滑空、地面を滑走しながら着地するというものだったそう。
当然死者も出る頭のおかしい訓練だったそうですがもうサンドスキーを超えるエクストリームスポーツみたいになってます。
神栖市内には桜花関連の史跡が保存されているので百景巡りと合わせて見学するのもオススメです。

一方内閣中央航空研究所鹿島実験場は神之池航空基地と違い、戦時中の実験場という事で元々謎が多いモノなのでネットでも調べられる情報に限りがありますが基本情報はこれです。

昭和十四年(一九三九)四月、航空技術の世界制覇をめざし、高速の成層圏飛行機の開発を目標に、内閣中央航空研究所は設立されました。当初は逓信省内に準備機関がおかれ、後に東京の三鷹市に研究所がつくられます。その飛行実験部が横浜に水上機用の実験場を設け、ついで神栖町域に「鹿島実験場」として陸上実験場を造成することになったのです。
軍事用地として神栖が選ばれたのは、太平洋に面し、砂丘があり、広大な土地が安く入手できたことや、東京・横浜に近いわりに交通が不便で秘密を保つための適地とみられたことが考えられます。昭和十六年(一九四一)より十八年にかけて、用地の買収がはじまり、約八〇〇ヘクタールという広大な土地が、約六〇〇戸の所有者から買い上げられたのです。建設工事には地元の人々などが参加し、鹿島実験場には二、000㎡の格納庫二棟と滑走路が造成されました。
戦時中でもあり、具体的な研究内容は不明ですが、昭和二〇(一九四五)の三~四月頃に練習機が数回飛行した程度だったということです。終戦後の昭和二〇年一二月三一日で研究所は解散され、職員と用地・施設などはいったん鉄道技術研究所へ引き継がれますが、戦後の海外引揚者などのために緊急開拓事業がはじまり、広大な用地は入植者に解放され、大野原開拓がはじまります。息栖から溝口にかけての広大な実験場は、現在では鹿島開発を経てこのような町並に変わりました。一方、航空技術の開発から鉄道技術の新開発へと方向転換した技術者たちは、その成果を昭和三九年(一九六四)東海道新幹線の開通として完成させるのです。

神栖市教育委員会 神栖市歴史民俗資料館

首都から近い割には交通の便が悪く機密を守り易そうだからというのが理由←ひどくない?
航空技術の世界制覇
そして高速の成層圏飛行機・・・とにかく最新鋭の航空技術を開発する場として作られたようでこんな情報も出てきました↓

鹿島砂丘の上空で実験中の萱場式無尾翼滑空機

・・・まぁこんな感じで最新鋭の航空機の実験場だったんで滅茶苦茶情報は少ないです。しかも新幹線を作った技術者はここで鍛えられた人達だったんですね~そんな繋がりが。

そして戦後すぐ食糧難対策として基地の敷地(即ち砂丘)が解放され畑として開墾。航空写真を見ると戦後から砂丘が徐々に削られ始め農地に徐々に変わって行き1960年代に入る頃には神之池の東側の砂丘はほぼ農地化しています。かろうじて文化村があった神之池の西側に砂地が残っていたようです。

1960年代初頭の航空写真

そしてまたすぐ自衛隊の基地にするだのなんだのでジモピーと揉め基地化はせず。しかし1963年から鹿島港開発が始まります。それによって文化村の敷地跡に残った砂地も工業地帯や市街地、農地に変わり消滅。神之池は7分の1サイズの調整池へ・・・という流れらしい。
敷地の開放を受けて苦労して開墾したあたりでやっぱり基地にするから返してちょ~は痛覚無さ過ぎてビックリですが仮に基地化していたら習志野駐屯地みたいにそこだけ原風景が残っていたかもしれません。

と、ここまで下調べをしてとりあえず目的地ははノルマの石碑、現在の神之池、元砂丘だった山、神栖市歴史民俗資料館に決めました。
車に乗って行くで・・・!神栖へ・・・!(ニカッ

現地編

まずは石碑。今回はGoogleマップで検索したら簡単に出てくるタイプだったのでイージーです!

えぇ・・・
なんか神之池の公園の駐車場(正確には神栖郵便局の横にある駐車場)の端っこの緑地帯だか空き地だかよくわからないスペースに設置されてました。この石碑置き場にアクセスする道みたいのはなく草ボーボーで国道の歩道とは植木で寸断されてるし。
過去のストビューを見るとここは元々商工会館のビルがあってこの場所はその商工会館の駐車場の一角だったようです。

過去の地図や資料に載っている写真からすると石碑の位置は選定当時とほぼ同じっぽいですね。商工会館の敷地に収めるために若干動かしているとは思いますが立地はほぼ同じです。

神栖町史より
昭和前期の地図。赤丸の所に記念碑の地図記号。
現代。赤丸は商工会館があった敷地。

つまり元々石碑は神之池の向こうに砂丘を望む場所に建てられてたという事ですね。

んでそのまんま歩いて神之池まで行きました。

かつてはこちらの方向の奥に砂丘が見えたらしい

かつては漁師のいかだ船が浮かび風光明媚だった面影はなく残念。
しかしそれは余所者観光客である自分の勝手な感想に過ぎません。当時の地元の人からすればかつてこの地は過酷な環境でまともな産業も無く交通の便も悪い陸の孤島という劣悪な環境だったわけでそういった環境から抜け出すのに鹿島港と工業地帯の開発は切実な話だったわけです。
今、この港と工業地帯が稼ぎ出す額を考えると間違いなくこれで正解だったと思います。財政状況も良く行政サービスは維持され若年層も沢山いる。鹿島港と工業地帯を作らなかったルートだったら絶対あり得なかったと思います。

次は元砂丘の山?丘です。一番標高が高く祠が設置されていた弁天山というのもまだ残されているようなのですがそこは工場の敷地内にあるので現在は入れません(一応手続きを取れば見学は出来るようです。見学した人の記事) よって公園として整備されている砂山都市緑地に向かいました。

グライダーの石碑。陸軍大尉の名前がある
かつての神之池方向。工業夜景の名所らしいが夜来たら森なので絶対怖い
砂丘の名残

アッ砂ありますねぇ!
緑地化されてますがちゃんと砂丘の砂は残ってました。
というか工業地帯の奥という僻地にあるんですけどこの公園、休憩スポットなのか働く漢たちでメッチャ混んでました。

そして次は神栖市歴史民俗資料館です。

ここは展示資料の保護のため、無断撮影はお断りしています・・・という事になってますが情報サイトから個人のブログSNS、自治体自身までガンガン展示の写真をネットにアップしているので果たしてそのルールに意味があるかはイマイチ謎です。

まぁ茨城県民はすべてがテキトーなのであんまり深く考えてはいけません(いわゆるごじゃっぺ)

展示の説明によると元々鹿島~神栖~波崎のあたりは海から流れ着いた砂が少しずつ溜まって出来た土地だそうです。砂丘があった理由はそういう事ですね。
砂丘があった頃の風景を再現したミニチュアがいくつかあるのでここは必見ですね。

神之池と砂丘の再現ミニチュア
(引用元:https://seespo-ibaraki.jp/kamisushi-rekisiminzokusiryoukan/)
権現塚古墳の再現ミニチュア
(引用元:https://ameblo.jp/brphtj/entry-12862539870.html)

また茨城百景が関連の物を確認できそうな大正~昭和までのコーナーはしっかりと文化村&理想郷の事と戦時中の特攻のモノになっています。文化村や理想郷を紹介するコーナーでは当時のパンフレットや地図があり更には池、砂丘の写真が印刷された絵葉書も少しありました。神之池と砂丘を一緒に映した風景の写真は確認出来ませんでした。
いや~しかし風景の写真が印刷されている絵葉書の展示が雑で重なった状態になっていて何枚かちゃんと見れませんでした。(上側の数枚だけ見れて下に置かれた絵葉書が少しだけチラチラ見えてる状態)オォイ!どーなんてだオラッ!
しかし受付にケース空けて並べ直して全部見せてクレメンスと言おうにも完全に厄介客っぽいしな~(陰キャ)
まぁ完全には見えないですがチラっと見え、どういう絵葉書かをおおよそ確認したので別口でそれを探してみるか~という事でそのまま退館。

絵葉書ありました~

資料館で他の絵葉書に重なって少ししか見えなかったモノも無事発見。
何故か理想郷の絵葉書は砂丘にフォーカスしていて、文化村は神之池にフォーカスしてますね。
恐らくなんですが前途の通り理想郷は砂丘を利用したレジャーを目玉にしていたから。一方文化村側は資料や昔の地図を参照しているとどーやら砂地は砂地なんですが砂丘のような目立つ物は無く砂地に生える松林が延々と広がっているだけの場所だったみたいです。なので湖畔の別荘地というのをアピールポイントにしてたのかな?

そして資料館の後は神栖市の南端にある波崎海水浴場へ向かいます。
波崎の海岸線一帯は砂地に低木と松がチョイチョイ生えていて植生も少し特殊という景観で少し砂丘の名残があります。
目玉だった内陸部分の砂山群はもう存在しませんがこんな感じだったんだろうなという雰囲気は感じれます。砂も同じ地域の物だし実質同じでしょ(適当)

そういえば現地の砂は白系ですね。神栖市の資料でも「白い一面の砂原~」とあるので実際砂丘の砂は↑のように白っぽかったと思われます。

地域の歴史シリーズ 第4回 - 神栖市教育委員会 より

そんでここまで来て一応石碑ノルマと池、砂丘それぞれ単体でコンプ出来ましたが包含風景の軽野サンドスキーが確認できません!
帰宅してまた調べ物をしてると『目で見る鹿嶋市・鹿島・行方の100年』という本に軽野サンドスキーの写真があるらしい。

じゃあせっかくなので百景に一番近い千葉の東部図書館いくべ!
というわけで行きました。

受付でアッアノコノホンカリタインデスケド…と言ったら奥の倉庫から持ってきていただいて。

定価11000円(笑)

ありました~

しかし本によるとサンドスキーの営業は1935年~1941年と書いてあります。あるぇ~?茨城百景の選定は1950年だよ?どーいう事なんスか!
茨城百景の選定が戦後なので軽野サンドスキーも戦後営業してたモノと勝手に想像してましたがどういう事なんだってばよ。
これに書いてないだけで営業を再開してたのか、選定した県が営業していないのを認識していなかったのか・・・
ちなみに場所的には現在でいう神栖市立神栖第三中学校のあたりで営業していたそうです。

ともかくこれにてようやく茨城百景 鹿島砂丘と神之池コンプかな?しかし単体では見れましたが神之池の奥に鹿島砂丘がある景色を写した写真は見れませんでした。それだけがちょっと心残りになりました(小並感)

追記(2024年11月)

後に資料『茨城百景めぐり』と『茨城百景巡歴』を入手したのでそれを基に分かった事を追記します。

茨城百景めぐり 著:鈴木彰 (1956) より
茨城百景めぐり 著:鈴木彰 (1956) より

この項は何回見てもモータリゼーション前の日本人の常軌を逸した健脚っぷりに笑ってしまいますw 何キロ歩いてんだ笑

いや~しかし鈴木センセに水郷第一の勝景と言わせるとは俺も見て見たかったよおおおおおお。巨大な砂漠、異彩を放つ、大陸的詩情・・・規模といい神之池とのコラボレーションといい東京からの近さといい今も存在したら鳥取を圧殺してそうです。まぁ鹿島港と工業地帯ある方が稼げるでしょうけど。

工業地帯と言えば茨城百景巡歴の方には1966年版の新しい茨城百景一覧表が掲載されていたんですがこの景には新しい包含風景『鹿行臨海工業地』が追加されていました。

茨城百景巡歴 著:室伏勇 (1980) より

ちなみに茨城百景巡歴を入手した後、茨城百景自体を詳しく調べ直したんですが、その中で茨城百景は戦前に出来なかった茨城四十五景の続編であり戦前の観光地を選定しているという考察をしました。この景はそれをかなり裏付けるものだと思います。根拠は3つです。

①軽野サンドスキーは1941年に営業を終了していた上に前途の通り戦後は砂丘が開墾され出したので営業再開もほぼ考えられない事

②軽野サンドスキーはその茨城四十五景に選定されていた景である

③茨城百景巡歴に掲載されている情報を参照すると鹿島砂丘、神之池、軽野サンドスキーは茨城百景の候補地リストにすら入っていない

以上の事からこの鹿島砂丘と神之池は選定専門委員会がねじ込んだ物と思われます。候補地にすら入ってないのはワンチャン茨城百景巡歴側の記載漏れの可能性もありますが、もし本当なら地元は推薦すらしていなかったのかもしれません。選定されてから開墾の手を緩めてる様子が全くないですし。

話は戻りますが鹿島の工業地帯と言えば工業夜景がプチ有名なので過去に何度か見に行ったことありますあります。現代だとむしろメインの景でしょう。

参考①
参考②

ところで茨城百景めぐりの方に書いてあるおとりの手掛松ってもしかして絵葉書のヤツか?弁天山は理想郷の方にあったわけだし・・・と思ったけどそこまで幹は曲がってるようには見えない・・・でもなんで一本松の写真?とは思いますが。

あと鈴木センセが言及している宝山は現在でいうと常陸川大橋を茨城側に渡り切ってすぐのあたりにあったらしい。(交差点に地名が残っている)
まあ開発で全く名残はないですね。古い地図を見ると現在の宝山交差点のあたりから東側は全部砂丘だったみたいですしそれは壮大な景色だったでしょうね。

昭和前期の地図

鈴木センセの描写を見てると俺も雰囲気だけでもいいから砂山の上からの眺めを体感してぇよ~。と思ってGoogleマップとにらめっこしているとなんと軽野サンドスキーが営業されていたとされる場所の付近には今でも高台が存在するようです。

丁度高台のフチには用意されたかのように分譲住宅地の空き地があります。ここから見晴らしできそうです。軽野サンドスキーの跡地には何もないと思っていましたがこれは行くしかない。

再訪

利根川方向です。筑波山まで見えます。宝山と違い利根川からは遠いですが昔のように建物が遥かに少なく、巨大な砂漠が広がり、神之池もデカかった頃は壮大な景色だったと思われます。

昭和前期の地図。上の写真は赤〇のあたりから矢印の方向に撮影。

そして空き地から通りに出て北側方向も撮影。

そこからは包含風景『鹿行臨海工業地』を丁度眺める事が出来ます。

茨城百景 鹿島砂丘と神之池 ~完~

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