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「恋愛」の文化史 その2 - 近代は、恋を人生の理由にした――恋愛結婚という甘くて残酷な制度

この記事は「『恋愛』の文化史 その1」の続きです。



結婚するなら、好きな人としたい。

そう口にすると、あまりにも自然で、ほとんど倫理的に正しいことのように聞こえる。好きでもない相手と暮らすより、好きな相手を選ぶほうがよい。親や家や財産に決められるより、自分の心で決めるほうがよい。そこには、疑う余地のない明るさがある。

けれど、その明るさには、少しだけ影がある。

自分で選ぶということは、選べなかったことも、選び損ねたことも、選んだあとに幸福になれなかったことも、どこかで自分の責任になるということだからだ。

近代は、恋を発明したわけではない。人は古代から、欲望し、嫉妬し、待ち、失い、歌い、狂ってきた。近代が発明したのは、その恋を結婚の理由にし、個人の自由と幸福の証明にし、自己実現の物語にする仕組みだった。

恋は、制度の外側で燃えるものであった。近代はそれを、制度の入口に置いた。そこから恋愛は、甘い感情であると同時に、人生を審査する静かな装置になった。誰を愛するのか。誰に選ばれるのか。その相手によって、自分の人生は成功したと言えるのか。自分の内面は本物なのか。自分は愛されるに値する人間なのか。

恋愛結婚の歴史は、自由の歴史である。ただし、自由だけの歴史ではない。そこには、財産、法、読書、階級、女性の沈黙、消費、心理学、そして壊れやすい親密性が、薄い膜のように幾重にも重なっている。

恋は古い。だが、恋で結婚するのは新しい

前近代の世界に恋がなかったわけではない。むしろ、恋はありすぎるほどあった。古代の詩にも、中世の宮廷文化にも、イスラーム神秘主義にも、平安文学にも、人を眠らせず、誇りを崩し、時には社会秩序から逸脱させる感情は、いくらでも見つかる。

ただし、その感情がそのまま結婚の中心に置かれていたかといえば、話は別である。結婚は多くの場合、家と家、土地と土地、財産と相続、労働力と血統、宗教的義務と共同体秩序を結びつける制度だった。そこでは恋は、結婚の根拠というより、しばしば結婚を乱すもの、あるいは結婚の外で語られるものだった。

ロマンティック・ラブが近代的なのは、恋愛感情の存在そのものではない。恋愛、結婚、性、幸福、自己実現を一つの線で結んだことが新しい。好きになることと、結婚することと、幸福になることと、自分らしい人生を選ぶことを、ひとつの連続した物語として読むようになった。その読み方のほうが、ずっと若い。

近代は、恋をつくったのではない。恋に人生の責任を背負わせたのである。そこに、自由の始まりがあり、同時に、疲労の始まりがある。

家から個人へ――恋愛結婚を可能にした条件

ローレンス・ストーンは、16世紀から18世紀にかけてのイギリス家族史をたどり、親族や地域共同体に開かれた家族関係から、相互の情愛と個人の幸福を重視する核家族へ移行する流れを「感情的個人主義」と呼んだ。家族は、ただ財産を保持し、労働を配分し、血統をつなぐ場所であるだけでなく、内面の安らぎや親密な感情を宿す場所として再定義されていく。

しかし、この変化を、冷たい昔から温かい近代への単純な進歩として読むと、すぐに足をすくわれる。近世以前のイギリスで有産階級の結婚を支配していたのは、かなり冷静な家産管理だった。地主貴族やジェントリは、限定相続によって土地の散逸を防ぎ、娘には婚資を用意し、次男以下には控えめな取り分を与え、家長の死後にも一族の財産が決められた筋道で流れるようにした。若い男女の結婚は、二人の胸の震えというより、遺言書や信託のなかで組み立てられる経済的再生産の手続きだった。

ステファニー・クーンツが強調するように、婚姻は長いあいだ、見知らぬ家族同士を姻戚として結び、交易、土地、政治的影響力、互恵関係を広げる手段だった。愛で配偶者を決めることは、むしろ共同体の経済的基盤を危うくする無分別と見なされることすらあった。

それが動き始めるのは、啓蒙思想、市場経済、賃労働の一般化、都市化、識字率の上昇、女性教育、中産階級文化の形成が重なったときである。若者が親の土地や家産に完全には依存せず、現金収入を得て、都市で働き、読み書きし、自分の内面を言葉で理解し始める。すると、結婚相手を選ぶ権限も、少しずつ家から個人へ移っていく。

もちろん、移っていく、と言っても、扉が一気に開いたわけではない。家はなお重く、父はなお強く、財産はなお口を出す。愛は、家の外へ逃げ出したのではなく、家のなかで場所を取り直したのである。

法は、愛を簡単には信用しなかった

恋愛結婚の歴史を、感情の自由化としてだけ見ていると、婚姻法の冷たさを見落とす。イギリスのコモン・ローにおけるカバチュア、すなわち夫婦一体の原則は、その代表である。結婚した女性は「被保護女性」となり、未婚時に持っていた独立した法的人格を失った。夫婦は法的に一体である。ただし、その一体を代表するのは夫だけだった。

既婚女性は自分の名前で契約を結ぶことも、訴訟を起こすことも、遺言を作ることも難しかった。賃金や動産は夫の所有物となる。財産のある家では信託によって女性の個別財産を守る工夫もあったが、一般の女性にそのような余裕はない。愛する人と結ばれるという甘い言葉の下で、法は女性の人格を静かに畳んで、夫の名の中へしまい込んでいた。

1753年のハードウィック卿の婚姻法は、婚姻手続きをさらに厳格化した。口頭契約や無認可の秘密婚姻は抑え込まれ、聖公会の教会や礼拝堂での公式挙式、婚姻予告、許可証、未成年者に対する親の同意が求められるようになる。恋人たちは、自由意思で結婚するために、しばしばスコットランド国境のグレトナ・グリーンへ駆け落ちした。そこで行われた「アンヴィルの結婚」は、法の網をかいくぐる恋愛の小さな逃走路だった。

ここには、近代恋愛の初期の姿がよく表れている。愛は自由を欲する。法はそれを疑う。家は財産を守りたい。若者はそこから少し逃げたい。逃げた先に、幸福があるとは限らない。それでも逃げる。恋愛結婚は、最初からすこし逃亡の匂いを帯びていた。

近代小説は、人に恋愛の仕方を教えた

近代小説は、恋愛を描いただけではない。人々に、恋愛をどう感じればよいのかを教えた。誰を選び、何に傷つき、どのように自分の感情を本物だと思い込むのか。その作法を、読者は物語のなかで少しずつ身につけていった。

ナンシー・アームストロングは、18世紀から19世紀の国内小説が、単に社会関係を映したのではなく、女性独自の主体性を作り出し、近代中産階級のヘゲモニーを確立する政治的な媒介だったと論じる。サミュエル・リチャードソンの『パミラ』から、ジェーン・オースティン、ブロンテ姉妹へ至る流れのなかで、個人の価値は身分や財産や外見の豪華さではなく、道徳的純粋性、豊かな内面、自己統制によって測られるようになる。

この変化は、ただ美しいだけではない。女性主人公は、内面的な優位性を示すことで、男性の欲望や恣意を飼い慣らし、相互尊重に基づく伴侶型夫婦関係へたどり着く。そこには確かに、女性の選択と主体性がある。しかし同時に、その主体性は、家庭という場所に配置される。女性は、冷たい市場や公的領域の外側に、美徳と感情の聖域を保つ者として描かれる。

いわゆる結婚プロットは、恋する男女の出会い、誤解、階級差、ライバルの出現、そして結婚へ向かう物語の型を整えた。オースティンの小説では、結婚は愛だけでなく、判断力、階級、財産、社交、誤読の問題として現れる。ブロンテの小説では、情熱と人格の自立が緊張しながら交差する。フローベールの『ボヴァリー夫人』やトルストイの『アンナ・カレーニナ』になると、恋愛の夢と婚姻制度の現実が、もう少し暗い角度から照らされる。

小説は、恋愛を私的な感情として深くした。その一方で、恋愛を読む形式、期待する形式、失敗する形式も作った。人は物語を読んで、自分の胸の内を理解する。けれど、その胸の内は、すでに物語によって少し整えられている。愛していると思うとき、人はしばしば、どこかで読んだ愛し方をしている。

ロマンティック・ラブは女性を自由にしたのか

ロマンティック・ラブは、女性に自由を与えた。少なくとも、親や家によって決められる婚姻に対し、自分の感情を根拠に相手を選ぶという可能性を開いた。その意味で、恋愛結婚は確かに解放の言葉だった。

しかし、解放の言葉は、しばしば新しい義務の言葉にもなる。

ヴィクトリア朝の中産階級文化において、「家庭の天使」という女性像が力を持った。コヴェントリー・パトモアの詩に象徴されるこの理想像では、女性は自己主張を控え、夫を慰め、過ちを許し、家庭の静かな秩序を保つ存在として描かれた。外部の市場で男性が疲れ、競争し、汚れて帰ってくる。その汚れを家庭で洗い流すのは女性である、という構図である。

この構図は、いかにも優美に見える。だが、よく見ると、その優美さは労働でできている。怒らないこと、許すこと、慰めること、察すること、家の空気を整えること、夫や子どもの感情を先回りして管理すること。それらは愛の名で自然化された。女性は愛される存在であると同時に、愛を供給する存在にされた。

1837年、ロバート・サウジーが若きシャーロット・ブロンテに、文学は女性の人生の仕事であってはならない、と諭した有名な書簡は、この規範をよく表している。女性には内面がある。しかし、その内面は表現のためではなく、家庭を支えるために使われるべきだとされた。

シモーヌ・ド・ボーヴォワール、シュラミス・ファイアストーン、エイドリアン・リッチ、ゲイル・ルービン、ベル・フックスらの議論が照らしたのは、恋愛が女性にとって自由の言葉であると同時に、異性愛規範、家父長制、感情労働、ケア労働をなめらかに再配置する言葉でもあったという事実である。

恋愛は女性に選択を与えた。しかし、その選択はしばしば、愛の名を借りた新しい労働でもあった。

感情は、政治にもなる

近代恋愛を考えるとき、感情は私的なものだと思いがちである。誰を愛するか。何に傷つくか。どのように自分の心を表すか。それは一人ひとりの内面の問題に見える。

ウィリアム・レディの「感情体制」という考え方は、その見方を少しずらす。感情はただ胸の中にあるのではない。社会は、どの感情を表すべきか、どの感情を隠すべきか、どのような表情が誠実とされ、どの沈黙が疑われるのかを、あらかじめ組織している。感情は、権力のもっとも繊細な領域でもある。

フランス絶対王政期の宮廷社会では、名誉、礼儀、主君への恭順、不倫をめぐる社交的な戯れが、人工的な感情コードとして機能した。その息苦しさから、サロンや文学サークルが、より率直な感情を交わす「感情の避難所」となっていく。ルソー的なセンチメンタリズムは、そこに新しい誠実さを与えた。

ところが、フランス革命はその誠実さを政治の中心に置いた。祖国への愛、革命への熱情、美徳への透明な献身。これらが公的に求められるようになると、感情は自由の言葉であると同時に、疑いの制度にもなる。誠実さは見えない。だから、表情の曇りや沈黙までもが裏切りの兆候として読まれる。感情を解放しようとした政治は、やがて感情を監視する政治へ転じる。

これは恋愛にも遠く響いている。愛は内面の自由である。しかし、その愛が制度の正統性を支える言葉になると、今度は「本当に愛しているのか」「その感情は誠実なのか」「幸福になる努力をしているのか」が問われ始める。感情は、解放されるほど、測られる。

恋愛は、なぜ消費と相性がよかったのか

20世紀に入ると、恋愛は家庭の居間から外へ出る。外へ出た恋愛は、すぐに商品と出会う。

エヴァ・イルーズは、経済的取引が感情的に組織され、同時に親密な関係が経済的な交渉や契約のモデルによって作られていく状況を「感情資本主義」と呼んだ。恋愛は、市場によって汚されたというより、むしろ市場によって場面を与えられた。映画館、レストラン、ダンスホール、自動車、花束、チョコレート、カード、指輪、旅行。恋愛は、私的な感情でありながら、つねに外部の演出を必要とする。

19世紀までの英米社会では、若者の交際は親の目が届く家庭の玄関先や居間で行われることが多かった。だが、第一次世界大戦後の都市化、女性の職場進出、自動車や映画館やレストランの発展によって、男女は家庭を離れ、二人だけで外出するようになる。これがデート文化を形作った。

デートは、自由を広げた。家族の監視から少し離れ、都市のなかで二人だけの時間を買うことができるようになった。けれど、その自由は無償ではない。コカ・コーラを飲むこと、映画を見ること、車に乗ること、夕食をともにすること、花を贈ること。そうした行為が、ロマンチックな体験の記号になる。愛は内面にあるはずなのに、なぜか領収書の影もついてくる。

このことを、単に恋愛の堕落と呼ぶのは簡単すぎる。恋愛はもともと、身振り、場所、沈黙、衣服、記憶、贈り物に支えられる。資本主義はその感情の周囲に、商品を並べたのである。そして人々は、商品を買ったのではなく、商品を通じて、愛が本物であるという感じを買った。

心理学は、恋愛の内面に入ってきた

恋愛が商品化される一方で、内面そのものも管理の対象になっていく。1909年のフロイトのクラーク大学講義を一つの契機として、アメリカ社会には精神分析とセラピー文化が広がった。心理学者たちは、軍や国家機関だけでなく企業にも雇用され、労働者の怒りや不満を管理し、生産性を高めるためのコミュニケーション技術を提供するようになる。

この流れは、企業だけにとどまらない。自己啓発本、女性誌、テレビのトークショー、支援グループを通じて、私的な人間関係にも入り込んでいく。自分の感情を観察し、測定し、言語化し、パートナーと交渉する能力が、成熟した大人の資質として求められるようになる。

ここで恋愛は、ただ感じるものではなく、管理し、改善し、説明し、相手に伝えるものになった。感情は深いものとして尊重される。しかし、その深さは、いつしか技術の対象になる。なぜ怒ったのか。なぜ不安なのか。なぜ相手に期待したのか。関係をどう修復するのか。愛は、内面の告白であると同時に、小さな会議になっていく。

アーリー・ホックシールドの感情労働論は、この問題を労働の場で鋭く分析した。客室乗務員は安心や喜びを、債権回収業者は疑いと圧力を、仕事として演じる。表層演技だけでなく、深層演技として、自分の感情そのものを仕事に合わせて変えていく。

この負担は、ジェンダーの非対称性と結びつく。幼い頃から、他者の気分を読み、誕生日や記念日を覚え、関係の空気を整えることを期待されてきた女性は、労働市場でも家庭でも、感情を管理する役割を担いやすい。恋愛や結婚のなかで「愛情深い」と呼ばれてきたもののかなりの部分は、見えにくい労働でもあった。

自由になった恋愛は、なぜ不安定になるのか

戦後しばらくの欧米社会では、男性稼ぎ主と専業主婦を前提にした世帯モデルが、一見安定した形をとった。若い年齢で結婚し、特定の相手と固定的に交際し、家庭を持つことが標準的な人生として語られる。だが、1970年代以降、女性の労働市場への再進出、避妊薬の普及、生殖とセクシュアリティの分離、離婚率の上昇、非婚化、晩婚化が進むと、この安定は大きく揺らぐ。

アンソニー・ギデンズは、この変化を「親密性の変容」としてとらえた。生殖から自由になった「プラスチック・セクシュアリティ」と、外部の経済的利害や血縁の要請ではなく、関係それ自体がもたらす感情的満足によって維持される「純粋な関係」である。

純粋な関係は、いかにも自由に見える。二人が相互に満足し、信頼し、自己開示し続ける限り、関係は続く。満足できなくなれば、終わる。そこには、伝統や家や法の重さから離れた、対話による親密性の理想がある。

けれど、この理想は、壊れやすい。関係を支えるものが感情的満足だけになるなら、満足が失われた瞬間に関係は理由を失う。愛は永続の誓いではなく、更新され続ける契約になる。相手を選び続けること。自分も選ばれ続けること。その緊張は、静かに神経を削る。

リン・ジェイミソンは、ギデンズの対話中心の親密性論が、家事労働、育児、介護、所得格差、心理的負担の非対称性を軽く見すぎていると批判した。関係を実際に支えているのは、自己開示の美しい会話だけではない。掃除、料理、洗濯、育児、病人の世話、沈黙したまま相手のために動くこと。そうした実践的なケアが、関係を支えている。愛は、言葉で確認されるだけでなく、誰かがゴミを出すことで保たれる。

ジグムント・バウマンは、さらに暗いところからこの問題を見た。液状近代において、人間関係はいつ崩れるかわからない不安要因となり、強い絆は足枷とみなされる。人々は長期のコミットメントを避け、いつでも接続でき、いつでも切断できる関係を好む。スマートフォンやマッチングアプリは、その欲望に適した装置である。出会いは簡単になる。だが、簡単に出会えるということは、簡単に交換されるということでもある。

自由になった恋愛は、なぜ不安定になるのか。答えは単純ではない。ただ少なくとも、恋愛は自由になればなるほど、自分で選び、自分で失敗し、自分で傷つくものになった。家や共同体が押しつけていた重さから逃れた個人は、今度は自分の内面の重さを抱えることになった。

近代恋愛の光と影

近代恋愛は、否定すべき幻想ではない。人を家や親族の決定から解放し、本人の同意を重んじ、夫婦間の情愛や伴侶性を重視し、女性の選択権を少しずつ広げていったことは、軽く扱えない。好きな人を選べることは、やはり自由である。

しかし、その自由の背後には、別の冷たさがある。恋愛できるかどうかが自己価値に結びつく。誰に選ばれるかが、自分の魅力や人生の成功と結びつく。結婚相手選びの責任が個人化する。市場は人を比較し、心理学は感情を説明させ、消費文化は愛の演出を求める。女性には、なお多くの感情労働が期待される。階級、人種、ジェンダー、外見資本、経済資本は、愛の自由の下で見えにくくなる。

恋愛結婚は、甘い言葉である。けれど、その甘さのなかには、かなり冷たい制度が混ざっている。

近代恋愛は、自由の物語である。同時に、選ばれることを人生の証明にしてしまった物語でもある。だから人は恋愛に憧れ、恋愛に疲れ、恋愛から逃げようとして、なお恋愛の言葉に傷つく。自由は、逃げ場を広げる。けれど、ときに責任の置き場を一人の内面に狭めてしまう。

近代は、人に愛する自由を与えた

近代は、恋愛を結婚の入口に置いた。それはたしかに、人を家や親族の決定から解放した。だが同時に、人は自分の感情、自分の選択、自分の幸福に責任を負わされるようになった。

かつて結婚は、家と家の問題だった。近代以降、それは自分の内面の問題になった。誰を選ぶか。誰に選ばれるか。その選択によって、自分の人生は幸福だったと言えるのか。

こうして恋愛は、甘い経験であると同時に、自己評価の場所になった。

この近代恋愛は、やがて日本にも入ってくる。明治の「恋愛」という言葉、近代文学、家制度への反抗、戦後の恋愛結婚、1980年代以降の消費文化、携帯電話、SNS、マッチングアプリ、そして2020年代の親密性の再編。そこでは、欧米近代が作り出した恋愛の形式が、日本の家族、メディア、ジェンダー、経済不安と結びつき、別の陰影を帯びていく。

近代は、人に愛する自由を与えた。そのかわり、愛されない不安もまた、個人のものにしてしまったのである。(その3へ続く

主要参考文献・出典一覧

・Lawrence Stone, The Family, Sex and Marriage in England 1500-1800.

・Stephanie Coontz, Marriage, a History.

・Nancy Armstrong, Desire and Domestic Fiction.

・William M. Reddy, The Navigation of Feeling.

・Eva Illouz, Consuming the Romantic Utopia / Cold Intimacies.

・Arlie Russell Hochschild, The Managed Heart.

・Anthony Giddens, The Transformation of Intimacy.

・Lynn Jamieson, Intimacy.

・Zygmunt Bauman, Liquid Love.

・Ulrich Beck and Elisabeth Beck-Gernsheim, The Normal Chaos of Love.

・Viviana A. Zelizer, The Purchase of Intimacy.

・Gayle Rubin, The Traffic in Women.

・Simone de Beauvoir, The Second Sex.

・Nancy Cott, Public Vows.

・Jane Austen, Pride and Prejudice / Sense and Sensibility / Mansfield Park.

・Gustave Flaubert, Madame Bovary.

・Leo Tolstoy, Anna Karenina.

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