フーコー派の真理
Foucauldian truth
クールベ「世界のはじまり」の画像に対して「みょうじなまえ」がOUR BODYというタイトルのプロジェクト(2017, 当時,東京芸術大学)でデジタル加工して「パンティをはかせた」もの
【フーコー派の真理】
したがって、真理は、認識論的基準によってではなく、権力の戦略に依拠する。
1)真理とは、言表を生産、規則、分配、循環、操作する秩序化された手続きの体系として理解 すべきである、
2)真理とは、これを生産し支える権力の体系と循環的な関係で結ばれており、真理が誘い出し 拡張させる権力の諸効果と結びつく、
3)この体制は、たんにイデオロギー的でも上部構造的でもない。それは資本主義の発展のため の一条件である。
(Foucault 1980:133)— (1980). "Truth and Power", in Power/Knowledge: Selected Interviews, edited by C. Gordon. New York; Pantheon Books.
| 'Truth' is to be
understood as a system of ordered
procedures for the production, regulation, distribution,
circulation and operation of statements. |
「真実」とは、言明の生成、規制、分配、流通、および運用に関する秩序
立った手続きの体系として理解されるべきである。 |
| 'Truth' is linked in a circular relation with systems of power which produce and sustain it, and to effects of power which it induces and which extend it. A 'regime' of truth. | 「真実」は、それを生み出し維持する権力システムと、それが引き起こし
拡大する権力効果と、循環的な関係で結びついている。真実の「体制」である。 |
| This regime is not merely ideological or superstructural; it was a condition of the formation and development of capitalism. And it's this same regime which, subject to certain modifications, operates in the socialist countries (I leave open here the question of China, about which 1 know little). | この体制は単なるイデオロギー的あるいは上部構造的なものではない。そ
れは資本主義の形成と発展の条件であった。そしてこの同じ体制が、一定の修正を加えられつつ、社会主義諸国でも機能している(中国については、私がほとん
ど知らないので、ここでは問題にしない)。 |
| (Foucault 1980:133)[pdf] | — (1980). "Truth and Power", in Power/Knowledge: Selected Interviews, edited by C. Gordon. New York; Pantheon Books. |
☆人工知能によるフーコー派の真理の3つの特色
| In Foucauldian
thought, truth is not an objective reflection of reality. Instead, it
is a socially constructed product of power relations. Every society
operates under a "regime of truth"—a specific web of discourses,
institutions, and rules that dictate what is accepted as "true" and
what is dismissed as false. |
フーコーの思想において、真理は現実を客観的に反映したものではない。
むしろ、それは権力関係によって社会的に構築された産物である。あらゆる社会は「真理の体制」の下で機能している。これは、何が「真実」として受け入れら
れ、何が虚偽として退けられるかを規定する、言説、制度、規則からなる特定のネットワークである。 |
| Michel Foucault explored this concept across three main pillars: |
ミシェル・フーコーは、この概念を以下の3つの主要な柱に沿って考察した: |
| The Power/Knowledge Nexus:
Foucault argued that power and knowledge directly imply one another.
There is no power relation without the correlative constitution of a
field of knowledge, nor any knowledge that does not presuppose and
constitute power relations. What counts as "truth" actually legitimizes
and enforces power. |
権力と知識の結びつき:フーコーは、権力と知識は互いに直接的に相互に
決定し合うと論じた。知識の領域が相関的に構成されなければ権力関係は存在せず、また、権力関係を前提とし、それを構成しない知識も存在しない。「真実」
とされるものは、実際には権力を正当化し、強要するものである。 |
| Regimes of Truth: A regime of
truth is the system of ordered procedures for the production,
regulation, distribution, and circulation of statements. Society’s
truth is not fixed; it shifts historically alongside changing political
and economic structures. |
「真実の体制」:真実の体制とは、言明の生成、規制、分配、および流通のための秩序立った手続きの体系である。社会における真実は固定されたものではなく、政治的・経済的構造の変化に伴い、歴史的に変動する。 |
| Parrhesia (Truth-telling): In
his later lectures, Foucault studied the ancient Greek concept of
parrhesia, or "frank/fearless speech". He defined this not as stating
objective facts, but as the ethical activity of a "truth-teller" who
risks their own safety to challenge power dynamics and speak freely. |
パレシア(真実を語る行為):フーコーは後期の講義において、古代ギリ
シャのパーレシアの概念、すなわち「率直かつ恐れを知らない発言」について考察した。彼はこれを、客観的な事実を述べる行為ではなく、自らの安全を危険に
さらして権力構造に異議を唱え、自由に発言する「真実を語る者」の倫理的行為であると定義した。 |
| For a deeper dive into the
relationship between discourse, knowledge, and society, you can explore
the Discourse and Truth: the Problematization of Parrhesia lecture
series. |
言説、知識、社会の関係についてさらに深く掘り下げたい場合は、「言説と真実:パレシアの問題化」と題した講義シリーズを参照するとよい。 |
☆真理の生産と病院という空間
| 医学、精神医学、刑事司法、犯罪学。これらは
長い間、認識という規範における真理の表
明の果てにあり、試練という形における真理の生産の果てにあった。今日でも大部分におい
てそうである。試練という形での真理の生産は、認識という規範における真理の表明の下に
隠れ、それによって正当化される傾向にあった。これらの「分野(デイシプリン)」が今日見舞われてい
る危機は、その限界や不明確さを認識の領域において問いに付すのみならず、認識を、認識
という形式を、「主体ー対象」という規範を問いに付す。この危機は、我々の時代の経済
的・政治的構造と認識との関係を問いただす(認識の内容の真偽においてではなく、知とし
ての権力の諸機能においてこの関係を問いただす)。したがってこの危機は、歴史的・政治
的な危機である |
(フーコー 2006:139) |
| まず医学の例を、これに付帯した空間、すなわち病院とともに見てみよ
う。かなり遅くま
で、病院は曖昧な場のままだった。そこは、隠れた真理のための認証の場でもあり、生産す
べき真理のための試練の場でもあった。 |
(フーコー 2006:140) |
| 疾病に対する直接的な行動。それは、疾病の真理が医師の目に明らかにな
るのを可能にす
ることであるが、のみならず、疾病の真理を生産するということでもあった。病院とは、真
の疾病の孵化の場であった。事実、自由な状態に放置された病人——病人の「環境」に、家
族のうちに、近親者のうちに置かれ、本人の食生活、習慣、先入見、幻想をそのままにして
放置された病人——は複合的な疾病、縫れ錯綜した疾病にしか罹患していないと想定されて
いた。そうした疾病は一種の、本性に反した疾病であり、複数の疾病の混合であると同時に、
真の疾病がその本性の真正性をもって生産されるのを妨げるものであるとされていた。した
がって病院の役割とは、こうした寄生的な植生や甜ばれた形態を遠ざけることで疾病をあるが
ままの姿で見られるものとすることであり、のみならず、それまで囲い込まれ枷をはめられ
ていた疾病を疾病の真理において生産することでもあった。疾病のもともとの本性、本質的
な諸性格、個々の疾病に特有の発達は、病院への収容の効果によってようやく現実となるこ
とができるようになる、というわけである。 |
(フーコー 2006:140) |
| 18世紀の病院は、病気の真理が輝き出るための諸条件を創り出すものと
見なされていた。
したがって病院は観察と証明の場であったが、純化と試練の場でもあった。それはある複合
的な設備をなしており、この設備は、疾病を出現させると同時に疾病を現に生産すべきもの
でもあった。すなわち、種について観想する植物学的な場でもあり、病理学的な実体を製錬
する錬金術的な場でもあった。 |
(フーコー 2006:140-141) |
| この二つの機能が、19世紀に設立された大病院構造によっても依然とし
て長い間引き受
けられていた。1世紀の間(1760年〜1860年)、病院への収容の実践と理論は、ま
た、一般に疾病の構想は、この二面性に支配されていた。疾病の迎え入れの構造である病院
は、認識の空間ないし試練の場であるべきなのか、というわけだ。 |
(フーコー 2006:141) |
| そこから、医師たちの思考と実践とを貫く多くの問題が生ずる。以下が、
そのいくつかである。 |
(フーコー 2006:141) |
| 一、治療法とは、病気を消去し、存在しなくなるまで縮減することであ
る。しかし、この
治療法が合理的であるには、つまり治療法が真理のもとに基礎づけられるには、疾病が発達
するがまま放置しなければならないのではないか?いつ、どちら向きに介入しなければな
らないのか?そもそも、介入などしなければならないのか?疾病が発達するように行動
しなければならないのか、それとも疾病が止まるように行動しなければならないのか?疾
病を弱めるように行動しなければならないのか、それとも疾病が終わりに至るように導かな
ければならないのか? |
(フーコー 2006:141) |
| 二、疾病と、疾病の変化したものがある。純粋な疾病と不純な疾病、単純
な疾病と複合的
な疾病がある。最終的には一っの疾病があり、他のすべての疾病は遠近の差はあれそこから
派生した形態なのではないか、それとも、相互に還元不可能ないくつかの範疇を認めるべき
なのか?(炎症という概念に関してブルーセと反論者たちとの間でおこなわれた議論。本
質的熱病の問題。) |
(フーコー 2006:141-142) |
| 三、正常な疾病とは何か?順調な経過を辿る疾病とは何か?死に至る疾病
か、それとも、進展が完了すると自発的に治癒する疾病か?ビシャの立てていた、生と死の間という疾病の位置についての問いがこのようなものである。 |
(フーコー 2006:142) |
| パストゥールの生物学がこれらすべての問題に対して導入した非常な単純
化はよく知られ
ている。病気の作用因を規定し、これを単独の組織として定めることで、パストゥールの生
物学は、病院が観察の場、診断の場、臨床的かつ実験的な標定の場となることを可能にした。
のみならず、直接的な介入の場、細菌の侵入に対する反撃の場ともなることを可能にした。 |
(フーコー 2006:142) |
| これで、試練という機能は消滅しうる、ということがわかる。これ以降、
疾病の生産され
る場は、実験室、試験管になる。しかしそこでは、疾病は発作という形でおこなわれることは
ない。その過程は、膨れあがる機構へと還元される。疾病は、検証可能で制御可能な現象へ
と帰着させられる。もはや病院という環境は疾病にとって、ある決定的な出来事に有利な場
である必要はない。病院という環境は単に、還元、転移、増大、認証を可能にするものであ
る。試練は、実験室の技術的構造において、また医師の表象において、証拠へと姿を変えて。 |
(フーコー 2006:142) |
| 医
学にまつわる人物についての「民族学的認識論」をやってみたいのであれば、パストゥ
ールによる革命が、疾病の儀礼的生産と疾病の試練とにおいてこの人物がおそらくは千年も
の間果たしてきた役割を奪った、と言わなければならないだろう。この役割の消滅は、おそ
らくパストゥールの示したことの内情によって劇的なものとなった。パストゥールが示のは、医師は疾病を「真理において」生産する者である必要がない、とい
うことだけではく、医師は真理に対する無知ゆえに何千回にもわたって自分が疾病の伝播者かつ再生産者なってしまった、ということである。病床から病床へと
渡り歩く病院の医師は感染の主要な
作用因だったのだ。パストゥールは医師の心に、ナルシシズムを傷つけるひどい傷を医師は長い間このことで彼を許さなかった。病人の身体をくまなく見、触診
し、調べなばならない医師のあの手、疾病を発見し、これを白日のもとで生産し、示さなければならな
いあの手を、パストゥールは病気を運ぶものとして示した。病院という空間と医師の知それまでは、疾病の「危機〔発作〕」としての真理を生産するという役割
をもっていや、医師の身体と病院への押し込めが、疾病の現実を生産するものとして現れた。 |
(フーコー 2006:142-143) |
| 殺菌されることで、医師と病院は新たな無罪を付与された。そこから、医
師と病院は新たな権力を抽き出し、人間の想像力における新たな立場を抽き出した。しかし、それはまた別の話である。 |
(フーコー 2006:143) |
☆
★一般的な真理観
真理・真実(truth)とは、一般的な語義として は、事 実(fact)やリアリティ(reality)に関連づけられる存在の属性の こと。多くの言語で、「真理・真実」に相当するもの(=翻訳可能なもの)には、「我々の前に現れている現実」や、偽っていない「信条」、「前提」や、「言 明の内 容」も真理・真実という。つまり、こういうことだ。「我々の前に現れている現実」とは、車に轢かれ血を流している犬を見ている私は、確かに気は動転してい るが 「間違いではない」。自分は、ある宗教を信じており、その儀礼を実践している(=「信条」)。三角形の内角の和(=合算)は180度である「前提」をもと に、残り1つの内角の角度を知る。満腹になったお腹をさすって「私は餃子をふた皿も食べたわ」と会食した人に告げる(=「言明の内容」)。これらは、みな 真実である、ないしは事実やリアリティに基づいて表現する「真実なるもの」である。
フランソワ・ルムワン(François Lemoyne, 1688-1737)の絵画は、この作者が自殺する直前に完成したものだが、その標題は「『時間』が『真理・真実』を『誤謬』と『嫉 妬』から救済する」というものだが、確かに誤謬や嫉妬は、時間的には持続できない儚いものだが、真理・真実は時間を超えて存在するという観念(=イデオロ ギー) が見事に表現されている。美しく豊かな女神として表現された「真理・真実」がなぜ天上を見ているのかも、興味ふかいところである。
天上をみるのは、神をみているのだろうか? レッシ ングはいう、Jeder sage, was ihm Wahrheit dünkt, und die Wahrheit selbst sei Gott empfohlen! - Lessing(各人が自分が真理・真実と思うことを語ろう、そして真理・真実そ れ自体は神に委ねよう!(レッシング))
●クレジット:垂水源之介「フーコー派の真理: Foucauldian truth」
リンク
文献
Do not copy and paste, but you might [re]think this message for all undergraduate students!!!



++
Copyleft,
CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099