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政策としての医療援助:援助モデルの誕生

Medical Aid as an International Politics: The Invention of the Aid Model

Anti-cholera Inocution in Caltutta in March 1894

Anti-cholera Inocution in Caltutta in March 1894, Simpson, W. J. (William John), Sir, 1855-1931.

池田光穂

3.  政策としての医療援助:Medical Aid as an International Politics

3.3  援助モデルの誕生:The Invention of the Aid Model

1953年にW・コーディルは、 当時の各国の政府機関や私 的な財団は健康と病気における社会的側面に興味をいだきつつあると述べている (Caudill 1953)。しかし、肝心の人類学者たちの関心は「未開医療」にあり、自分たちのデータを保健衛生問題にどのように活用するかについては関心は少なかっ た。この時期に村落における医療援助にコメントした人類学者の助言の与え方は、西洋医療を導入する際にその社会の文化的背景を計画を実施する主体に理解し てもらうというものだった(eg. Paul ed. 1955)。さまざまな民族集団に対する西洋医療の導入の際に、西洋医療の従事者に対して適切なアドバイスを提供するという医療人類学者の役回りの伝統は このころ確立した。この伝統は現在にいたるまで続いており、現在でもその種の社会的要請に応えている(eg. Harwood ed. 1981)。

1950年にポイント・フォーで表明されたアメリカの国際援助機関設立に関する法案が議会を通過し現在の米国国際開発局 (U.S.AID;United States Agency for International Development)の前身であるTCA(Technical Cooperation Administration)が創設される。同年、WHOに初めて人類学者C・デュボス(Cora Dubois)が雇用される。彼女はWHOにおける活躍のみならず、十数年後にはアメリカの医療人類学会の創設に深く関わることになる。また1954年に はアメリカで通称PL480(Public Low 480; the Agricultural Trade Development and Assistance Act)法案が米国の議会を通過する。これは米国内での余剰農産物を海外への食糧援助に利用するというもので、60年代から70年代にかけての米国の外交 政策に大きな役割を果たす(Garst and Barry 1990)。それに伴い西洋栄養学が低開発国をフィールドにするようになり、70年代以降の生物文化的人類学(biocultural anthropology)の研究領域の基礎をかたちづくる(Hass-Ashmore and Johnston 1985)。

1このころロックフェラー財団は、ラテンアメリカの各国での大学医学校の設立に力を入れていた。例えば、南米コロンビアのカリでは1950 年代に財団の援助でバジェ大学に医学校が作られた。ロックフェラーの援助のもとで、コロンビアのカウカ谷では、いくつかの栄養プログラムが実施され農民た ちがそのプログラムを受けた(Taussig 1978;1980)。

世界的な規模での発展を遂げ始めた1950年代当時の経済開発の考え方は、エスコバールによるとおよそ次の4つの要素からなっていた (Escobar 1995:74)。(1)資本蓄積、(2)周到な工業化、(3)開発計画、そして(4)外部からの援助である。彼は開発についての「言説」 (discourse)が形成される過程において、豊かな開発国すなわち欧米の先進国に比較されるべき「貧しい」低開発国あるいは開発途上国の対抗的イ メージが作り出される必要があったという。それは貧しさや低開発の隠喩であり、「停滞」や「機能不全」など病理を表現する隠喩をもって語られた。医療援助 は当初から西洋がこの地域に投影する隠喩に支配された象徴的な行為だった。そして応用可能な学問の隠喩は治療の用語で語られた。たとえば50年代に応用人 類学の指導的な立場にたった人類学者たちは、人類学者による介入(intervention)を、患者を治療する医師としてたとえた(Tax 1958;Peattie 1958)。援助の枠組みが批判される時、まず経済援助や農業開発などが「新・植民地主義」などとして矢面に立たされるのに対して、医療援助はそこから免 罪されてきた。人を医療によって治療救出するという隠喩の力が、医療援助をして批判に曝されることを長い間拒んできたとも言える。

医療援助の妥当性や効率性が問題にされることなく、開発国の提供する人道援助の構図が無批判に受け入れられていた時代に、援助の失敗は開 発の当事者にとってどのように理解されていたのであろうか。大きくわけて2つの説明があった。ひとつは、もっぱら非人類学者に受容された考え方で、(a) 硬直した近代化論にたつ説明である。それによると、近代医療の普及は伝統的なものの駆逐を通して可能になるから、医療援助が失敗しているのは、対象になる 人びとや生活の近代化がまだ進んでいないからであろう、というのものである。

このような伝統と近代を相互に排除させる説明に対して、人類学者たちは近代化論に依りながらも、より「文化」に即した仮説、つまり(b) 「技術変化」(technological change)論で説明した(Mead 1953;Gould 1957)。これは次のようなものである。1940年代のラテンアメリカでの失敗を例にとろう。まず失敗した保健センターを中心とした計画は母子保健や予 防医学を中心とするものだった。しかし住民の視点によると、彼らが近代医療に期待するものは治療であり医薬品である。人びとは近代医療の治療効果には信頼 を寄せているが、伝統と近代というふたつの医療を症状に応じて相互に使い分けている。彼らは伝統の世界に生きているから近代医療を受け入れないのではな く、予防医学に不審を抱きそれを受容しなかっただけなのだ。計画を失敗から救うのはこの新しい予防という概念やそれをもとにした実践の普及である (Foster 1969)。技術変化論では、伝統社会に近代医療などの新しい技術が導入されるときに、古い制度や技術体系がすべてが根こそぎ同質的に変化するのではな く、その技術のコスト、利便性、人びとの解釈や意味づけに応じて多様に変化してゆくとみる。人類学者の役割は、最適な状態で人びとの功利的な行動をいかに 促すかにかかっている。

さらに1950年代はアクション人類学が唱道された時代でもある(Tax 1958)。アクション人類学が上の技術変化論と異なる特徴は、人類学者は外部の助言者ではなく、内部者として自ら変化することを前提としている点であ る。ホーベンによると、アクション・プログラムでは人類学者自身が、技術者やプランナーに役に立つように自らすすんでその役割をかって出た。人類学者は村 落でアクション・プログラムへの参加であると同時に調査者としてその役割を果たしたという(Hoben 1982:354)。プロジェクトに対して人類学者が直接のコミットメントするか、あるいは参与者として助言を求められたときに関わるかは、個々のプログ ラムによって異なった。いづれにしろ、後にプライマリ・ヘルス・ケアにおいて共同体の医療プログラムに介入する人類学者の未来の姿をここにみることが可能 である。

この時代に登場した理論では、もうひとつ重要なものがある。それは行動科学である。1940年代末に生物科学と社会科学の統合理論として シカゴ大学の心理学者たちが発展させた実証経験科学であり、1951年にフォード財団がバックアップすることで急速に成長する。医療援助の領域において は、現地人の行動を理解するモデルとして技術変化論が、人類学者の現地への関与のモデルとしてアクション理論が導入されたのに対して、行動科学は現地の人 びとの行動を一定の変数で実体化し、援助の期間中および援助後の変化を測定するために使われた。しかし、この当時には医療援助の現場での行動科学の影響は それほど大きなものではなかった。




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★ クレジット:「健康の開発」史——医療援助と応用人類 学、文学部論叢(地域科学編),第49号,pp.41-72, 熊本大学文学会,1996年2月

リ ンク

引用参考文献

クレジット:「健康の開発」史——医療援 助と応用人類 学、文学部論叢(地域科学編),第49号,pp.41-72, 熊本大学文学会,1996年2月

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