鈴木尚
Hisashi SUZUKI, 1912-2004
☆
鈴木 尚(すずき ひさし、1912年(明治45年)3月24日 -
2004年(平成16年)10月1日)は、日本の人類学者。縄文時代から現代に至る日本人の形質を人類学や解剖学の面から研究し、それまで知られていな
かった、歴史時代を通じての日本人の大きな形質変化を明らかにした事で著名。東京大学教授、国立科学博物館人類研究部長、成城大学教授を歴任。東京大学名
誉教授、医学博士。1998年紫綬褒章。
| Hisashi
Suzuki (March 24, 1912 - October 1, 2004) was a Japanese
anthropologist. He is well known for his anthropological and anatomical
studies of Japanese traits from the Jomon period to the present day,
and for his clarification of major trait changes in the Japanese people
throughout history, which had been previously unknown. He has served as
professor at the University of Tokyo, director of the Department of
Anthropology at the National Museum of Nature and Science, and
professor at Seijo University. He was awarded the Medal with Purple
Ribbon in 1998. |
鈴
木 尚(すずき ひさし、1912年(明治45年)3月24日 -
2004年(平成16年)10月1日)は、日本の人類学者。縄文時代から現代に至る日本人の形質を人類学や解剖学の面から研究し、それまで知られていな
かった、歴史時代を通じての日本人の大きな形質変化を明らかにした事で著名。東京大学教授、国立科学博物館人類研究部長、成城大学教授を歴任。東京大学名
誉教授、医学博士。1998年紫綬褒章。 |
| Career and Achievements Born in Hatogaya-cho (now Kawaguchi City), Saitama Prefecture. After graduating from Tokyo High School, entered the Faculty of Medicine at Tokyo Imperial University. In the summer of 1951, he discovered a group of skulls of unknown age and origin in the skeletal specimen room of the University of Tokyo and determined that they originated in the Muromachi Period. Since then, he has devoted his energies to the discovery and research of skeletons from various periods of Japanese history. At that time, there was little research on ancient human skeletons throughout the Japanese historical period, and it is fair to say that nothing was known about how Japanese people's traits had changed from ancient times to the present day. During the several years around 1955, Suzuki excavated about 2,000 remains of those who died in the battle that led to the downfall of the Kamakura shogunate in 1333, and also investigated remains excavated from cemetery sites in Tokyo during the Muromachi and Edo periods. As a result, he found, for example, that the head was long in the Kamakura period but gradually became shorter. As a result, it was found that, for example, the head was long during the Kamakura period (1185-1333) but gradually became shorter, that the root of the nose (bikon, meaning the bridge of the nose) was low throughout history but rapidly rose after the Meiji period (1868-1912), and that this trend is still ongoing. He has also conducted anthropological research on the mummies of the Oshu Fujiwara clan at Chuson-ji Temple (1950) and on the skeletons of the Tokugawa shoguns (1958), and has published his findings in books and on television. In 1961, he led an excavation team from the University of Tokyo to the Amud Cave in Israel, and became the first Japanese to successfully excavate the skeleton of a Neanderthal (Amudites). In Japan, fossil human skeletons have been discovered in Mikahi Man (Mikahi-cho, Hamana-ku, Hamamatsu City) as fossil extant humans and Ushikawa Man (Ushikawa Mine, Toyohashi City, Aichi Prefecture) as a possible Neanderthal stage, but later objections have been raised that the former is early Jomon Period and the latter is animal bones (Naumann elephant). |
経歴と業績 埼玉県鳩ヶ谷町(現、川口市)に生まれる。東京高等学校を経て東京帝国大学医学部に入学。解剖学教室で古人骨を研究していた小金井良精(こがねいよしき よ、1859-1944)の教えを受けた。1951年(昭和26年)夏、東京大学の骨格標本室で時代・出所不明の頭骨群を発見し、それが室町時代に由来す る事を突き止めて以来、日本の各時代の骨格の発見と研究に精力を注ぐようになった。当時は日本の歴史時代を通じての古人骨研究は殆ど行なわれておらず、古 代より現代までの間に日本人の形質がどう変化したかについては何もわかっていなかったと言ってよかった。 鈴木は、1955年(昭和30年)前後の数年間で、1333年の鎌倉幕府滅亡に至る戦闘の戦死者の遺骨を約2000体も発掘調査し、同じ頃に東京都内で室 町時代や江戸時代の墓地跡から出土した遺骨を調査するなど資料収集に力を注ぎ、その結果、例えば頭型は鎌倉時代には長頭であったがしだいに短頭化したこ と、鼻根(びこん。鼻筋を意味する)は歴史時代を通じて低かったが明治以降急速に高くなって現在も進行中であること、その他の時代による変化が明らかにさ れた。 また、中尊寺にあった奥州藤原氏のミイラの人類学的調査(1950年)や、徳川家代々の将軍の骨格の調査研究等も行ない(1958年)、その成果を書籍や テレビで一般にも公開するなど、世間の耳目を集める業績も多い。特に、1961年(昭和36年)には東京大学の発掘調査団を率いてイスラエルのアムッド洞 窟で、日本人としては初めてネアンデルタール人類(アムッド人)の全身骨格の発掘に成功 した。 日本国内では、化石の現生人類として三ヶ日人(浜松市浜名区三ヶ日町)、ネアンデルタール段階と考えられるものとして牛川人(愛知県豊橋市牛川鉱山)など の化石人骨を発見しているが、その後、前者は縄文時代初期、後者は獣骨(ナウマンゾ ウ)ではないかとの異論が出されている。 |
| On the Theory of Japanese Origins Since the 1990s, there has been widespread support, including in the mass media, for the "dual structure theory" proposed by Kazuro Haniwara, Suzuki's academic successor, regarding the origin of the Japanese people. This theory holds that the Jomon people, who were the original inhabitants of the Japanese archipelago, were greatly influenced by the Yayoi people, who came from the continent, in the form of replacement and admixture, and formed the basis of the subsequent Japanese people. However, Suzuki, following in the footsteps of Hasebe Kotohito and others, and based on his own long years of research, especially detailed examination of human remains from the transition period from the Jomon to the Yayoi period, proposed the "deformation theory" that the Jomon people changed into the Yayoi people through so-called minor evolution due to changes in living environment caused by the influx of Yayoi culture. The "deformation theory" holds that the Jomon period people changed into the Yayoi period people through a so-called minor evolution due to changes in living environment caused by the influx of Yayoi culture. |
日本人起源論について 1990年代以降、日本人の起源をめぐっては、マスコミも含め、鈴木の学問上の後継者とも言える埴原和郎の提唱した「二重構造説」 が広く支持されている。これは日本列島の原住民であった縄文人が、大陸からの渡来人である渡来系弥生人から置換および混血という形で大きな影響を受け、そ の後の日本人の基盤が形成されたとするものである。しかし鈴木は、長谷部言人らの 流れをくむと共に自らの長年の研究、なかんずく縄文時代から弥生時代へと 移行する時期の人骨の詳細な調査検討に基づき、縄文時代人が弥生文化の流入に伴う生活環境の変化のため、いわゆる小進化によって弥生時代人に変わったとい う「変形説」を主張した。 |
| 【下記の文献】 Hanihara K (1991) Dual structure model for the population history of the Japanese. Japan Review, 2: 1–33. 金関丈夫(1976)日本民族の起源.法政大学出版会,東京,pp. 597. 木村賛(2006)鈴木尚先生を偲ぶ.Anthropological Science (Japanese Series),114: 1–3. 木村賛(2019)西アジア調査団によるアムッド洞窟遺跡の発掘.Anthropological Science (Japanese Series).127: 81–94. 中橋孝博(1987)福岡市天福寺出土の江戸時代頭骨.人類学雑誌,95(1): 89-106. 鈴木尚(1963)日本人の骨.岩波新書,東京,pp.223. 鈴木尚,江原昭善(1956)双生児の生体研究.内村祐之編,双生児の研究第I 集.日本学術振興会,東京,p.50-77. Suzuki H, Takai F (Eds) (1970) The Amud Man and His Cave Site. Univ. Tokyo, Tokyo, pp. 439, Pls. 64. 鈴木尚,矢島恭介,山辺知行編(1967)増上寺徳川将軍墓とその遺品.東京大学出版会,東京,pp. 438, Pls. 142. 鈴木尚先生傘寿記念会編(1992)鈴木尚骨格人類学論文集.てらぺいあ,東京,pp. 859. 寺田和夫(1975)日本の人類学.思索社,東京,pp. 266. |
著作 『骨―日本人の祖先はよみがえる』学生社、1960年(改訂新版、1996) 『日本人の骨』岩波新書、1963年 『化石サルから日本人まで』岩波新書、1971年 『人体計測 マルチンによる計測法』人間と技術社 1973 『骨から見た日本人のルーツ』1983 岩波新書 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』東京大学出版会、1985 『鈴木尚骨格人類学論文集』鈴木尚先生傘寿記念会編 てらぺいあ 1992 『骨が語る日本史』学生社、1998年 共編 『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』矢島恭介、山辺知行共編、東京大学出版会、1967年 |
| 鈴木尚の人類学(日本解剖学会)——原出典:解剖学雑誌98巻
pp.71~72 (2023) |
ウィキペディア「鈴木尚」https://x.gd/CCzcO |
| https://www.anatomy.or.jp/hiroba/article202404-6/ |
|
| 【1】
1912年3月24日に出生し2004年10月1日に92歳で亡くなられた鈴木尚先生は,私の恩師である.先生については,
Anthropological Science( Japanese Series)から依頼され追悼文を載せた(木村
2006).この際は私の主観的思いも書いたが,今回の肖像執筆方針は客観的とある.この方針になるべく添えるようこの先は敬称・敬語なしで進めることと
する.先の追悼文との重複があることはご容赦願いたい. |
【2】鈴
木の主な研究は古人骨の骨格人類学である.80歳を記念し単行本を除くおもな文献をまとめて「鈴木尚骨格人類学論文集」(鈴木尚先生傘寿記念会
1992)が出版された.ここにあるその年までのおもな経歴は以下の通りである.1936年3月東京帝国大学医学部医学科卒業,同年5月から同学部解剖学
教室助手,1939年同大学臨時医学専門部講師,1943年同大学理学部人類学教室専任講師,以降助教授,教授と昇格し1972年定年退職まで人類学教室
の主任を務め,東京大学名誉教授,1972年国立科学博物館に人類研究室を創設し室長,1973年より1976年定年まで増創設した人類研究部部長,
1976年から1982年定年までは成城大学教授として人類学を講義した.1969年から日本学術会議会員,同第4部副部長,部長を歴任した.日本解剖学
会名誉会員.日本人類学会と日本洞窟学会の会長を務めた.このように人類学の研究教育を進めるのみならず,そのための環境や組織などの運営や充実にも尽力
している.紫綬褒章と勲2等瑞宝章を受章した. |
| 【3】解
剖学教室に入り骨格人類学を志したのは,日本人初の解剖学講義者小金井良精の教えにあり彼が師にあたる,と鈴木は語っていた.小金井は鈴木の学生時代には
すでに退職し名誉教授であったが,解剖学教室の一角で発掘古人骨を自ら洗い復元し計測して研究を進めていた,という.学術的指導ばかりでなくその研究姿勢
をも学んだのであろう.鈴木は旧制7年制東京高等学校在学中から考古学班を率いて遺跡を探索するなど考古学や古人類に興味を持っていた,とのことだ. |
【4】31
歳の若さで東大理学部人類学教室の主任へ移った事情を本人が語るのを筆者は聞いたことがない.欠員となっていた人類学教室主任に東北帝国大学解剖学教授長
谷部言人が乞われて着任しさらに1939年に人類学科を創設したが,その定年退職時の後任には鈴木が講師として着任した(寺田 1975). |
| 【5】坪
井正五郎が1891年理科大学(のちの東京大学理学部・理学系研究科)に創設した人類学教室は長らく日本で唯一の人類学の大学講座であり,長谷部が人類学
科を創設してもこれは変わらなかった(寺田
1975).人類学の広い研究教育分野を推進するため,講座内に多数分野の研究者を含むことが必要であり,伝統であった.考古学,民族学(文化人類学)な
どは独立して他学部講座で行われるようになったが,鈴木の主任時代にも先史学,年代学,生理人類学,生態人類学,生体機構学,遺伝人類学など次々と拡がる
分野は人類学教室内にそれぞれ研究室が生まれて研究教育を進めていた.1968年に鈴木が2講座目を増設するまで教授1名の1講座が続き,この間の学生・
院生は専門にかかわらず鈴木が指導したところがある.生理人類学を専門とする院生が論文原稿を見てもらった時,真っ赤に添削されて返ってきてあとは考えな
さいと言われた,とも聞く. |
【6】鈴
木は自身で発掘した骨格の研究により,縄文時代から近代にいたるまでの日本列島住民の骨格特に頭骨の時代変化を実証的に明らかにした(鈴木
1963).なかでもそれまで集団の違いの指標とも考えられていた頭長幅示数(頭蓋骨最大横径の最大前後径に対する示数)が容易に時代変化し,中世鎌倉時
代に極小(長頭)になることを初めて発見した.鈴木は日本列島における人類集団の地域差を考慮して,比較集団を南関東地方中心に統一し地域の混同を避け
た.その上で見られるこれら時代変化は,移住や交雑よりは遺伝的同一系統での生活状態の変化によるところが大きい,と考えた.このことは明治以降急激な近
代化が進む中での大きな身体変化でも示されている,とした.縄文時代人と弥生時代人の間に骨格上の違いがあることを認めたが,これもこの間の(狩猟採集生
活から農耕定住生活への)大きな生活・環境変化が要因,と考えた. |
| 【7】鈴
木は環境により骨格が変わることを示す研究も行っている.一つは東大で総合研究として行われていた双生児研究班に参加した頭形の研究である.頭長幅示数は
遺伝子が同じ一卵性双生児間でも差をもつことが示された(鈴木,江原1956).現在ではエピジェネティックスにより同一遺伝子個体間でも各個体の環境要
因により遺伝子発現が変わる,と分かってきている.また,江戸時代最高権力者の将軍家一族の墓地改葬に際しての調査で,彼らの形質は江戸庶民とはかけ離
れ,むしろ現代的,さらには超現代的である,と見た.これを貴族形質と名付け,京都皇族公家出身の将軍家正妻や大名家などにも見られることを示した.たと
えば顔が面長で横幅が狭く,とくに顎が狭いことや,鼻筋が高いこと,歯の咬耗減少などがある.これらは彼らの特殊な生活とくに柔らか物を食べていた咀嚼力
低下が関係した,とする新しい知見を示した(鈴木尚他,1967).この考えと用語は広く用いられている. |
【8】縄
文時代より古い人骨を求めて,鈴木は更新世の化石人骨の調査を進め,多数の人骨を発表している.浜北人,港川人などの報告を行い,日本列島最古の人類集団
を実証的に論じた.さらにこれらを遡る人類集団を求めて海外へ目を向け,西アジア地域で4度にわたり学術調査団を率いて古人類を追求した.この調査団は人
類・先史学のみならず地質・古生物・地理学の研究者も結集した総合的なものであった(木村2019).なかでもイスラエル国アムッド洞窟遺跡でのネアンデ
ルタール人全身骨格発見は国際的に高く評価され,その報告(Suzuki, Takai 1970)は常に引用され続けている. |
| 【9】鈴木の主張は多数の自身発掘人骨に基づく実証的・数量的なもので
あり,それまで一部にあったような少数例からの推定や他者の資料を集めた結論などとは異なる新しい地平を切り開いた.しかし,発掘人骨による仮説は新しい
発掘資料により覆されることがある.鈴木の日本列島人時代変化説に対しても反論が出されている.なかでも九州大学解剖学教室の金関丈夫は,自身が発掘した
北九州・山口地区の多数の弥生時代人骨の研究から,縄文人と形質の異なる弥生人が朝鮮半島など大陸から多数渡来して定住しており南関東地方の結果を日本列
島全体に当てはめるのは疑問である,と主張した(金関
1976).鈴木が地域を限定した関東では土壌の関係で弥生人骨の残存が悪くその調査例数は少ない.鈴木は渡来人の数は列島全体人口に比べ少ないだろうか
ら影響も少ない,と主張したが(鈴木
1963),この時期の渡来人の大きな影響を否定するのは難しいであろう.ただし,金関の主張は北九州・山口地区以外の地域の自身以外の資料を含んだもの
にも寄っている.歴史時代の頭長幅示数時代変化については,北九州地方に限定した資料においても鈴木報告と同様に中世における長頭への極小が見られている
(中橋
1987).埴原和郎は,日本列島に広く分布していた縄文人へ対し,渡来人の影響が本州から九州までの範囲では強く,北海道以北のアイヌと沖縄のグループ
では弱い結果縄文人の形質を強く残している,という二重構造モデルを提唱した(Hanihara
1991).アイヌと沖縄の人たちが,縄文人に似ているか,また相互に似ているか,については議論が続いている.しかし現在では仮説としての二重構造モデ
ルを中心として,この問題の検討が進められている. |
【10】アムッド人報告当時のネアンデルタール人報告例は少なかった
が,その後の発掘・研究の発展は大きく,鈴木らの論文内容には今では疑義の点もある.たとえば鈴木らのアムッド遺跡発掘では,当時の技術水準から年代測定
は不成功に終わり,生活の場の利用法や資源収集の方策研究などには不十分なところが多かった.これらは30年後に同じ遺跡を再発掘したイスラエル隊によっ
て新たに解明されてきている.しかし,彼らが再発掘できたのは,鈴木らが研究発想,方法論,技術などの発展する後世のために三分の二以上の堆積物を積極的
に残し,発掘過程や層序を明確にして記録したからである(木村
2019).発掘とは破壊を伴うので,科学的検証のためにこのような配慮がなされたのであった. |
| 【11】大量の発掘人骨の洗浄には技術員や学生も当たったが,頭骨の復
元・計測・研究は主に鈴木が自身で行った.鈴木らが1966年に創立した東京大学総合研究資料館(のち博物館)の建物が構内にできるまでは,人類学教室内
には先史学や民族学を含む創設以来の収集資料と共に鈴木の集めた人骨資料が大量に保管されていた.教授室内一面のガラス戸棚にも発掘頭骨が並び,室前の廊
下には復元中の頭骨が置かれていた.少しでも時間があれば鈴木はそこに出て研究に勤しんでいた. |
【12】鈴木の主張の中には上記のように批判されたものも含まれるが,
その実証的研究報告は今なお意義を持ち続けている. |
☆ 木村賛(2006)鈴木尚先生を偲ぶ.Anthropological Science (Japanese Series),114: 1–3.より
右:
80歳の誕生日を迎えられた鈴木尚先生(1992年3 月24 日,東京大学総合研究資料館にて足立和隆撮影)『鈴木尚骨格人類学論文集』より
☆ 鈴木尚の教え子の埴原和郎の「二重構造モデル」を現在の民族集団で区分すると[日本列島付近の人類史に おいて]琉球民族の独自性はゆるぎないものになる
☆ 年譜(鈴木尚, 1912年3月24日〜2004年10月1日)
1912
3
月24日 鈴木万平•まさの次男として埼玉県鳩ヶ谷市辻に生まれる
1924
4
月 東京高等学校尋常科入学
1928
3 月 東京高等学校尋常科修了
4
月 東京高等学校理科乙類入学
1931
3
月 東京高等学校理科乙類卒業
1932
4
月 東京帝国大学医学部医学科入学
1933
東
京人類学会(現:日本人類学会)入会
1936
3
月 東京帝国大学医学部医学科卒業。
4 月 東京帝国大学医学部副手(解剖学教室)
5
月 東京帝国大学医学部助手(解剖学教室)
1939
6
月 東京帝国大学臨時医学専門部講師
1943
2
月 東京帝国大学医学部より医学博士の学位取得
4
月 東京帝国大学理学部専任講師(人類学教室)
1944
3
月 東京帝国大学理学部助教授(人類学教室)
1950
3
月 平泉中尊寺にて藤原四代のミイラ調査
1953
5
月 鎌倉市材木座にて鎌倉時代人骨の発掘(昭和31年まで)
1955
11 月 東京大学理学部教授(人類学教室)
尾本恵市によると、鈴木教授、須田昭義(生体学)助教授、山内清男(やまのうちすがお——先史考古学)講師、渡辺直径(年代測定学)助手、渡辺仁(生態人類学)助手、近藤四郎(整理人類学)助手がいた。(尾本 2016:24)
1957
8
月 愛知県牛川町にて更新世人骨,牛川人を発見(昭和34年まて発掘調査)
1958
7 月 増上寺徳川将軍家の遺体調査(昭和35年まで)
12
月 静岡県三ケ日町にて更新世人骨,三ケ日人を発見(昭和36年まて発掘調査)
1960
『骨
―日本人の祖先はよみがえる』学生社、1960年(改訂新版、1996)
1961
5
月 第1次西アジア洪積世人類遺跡調査団,団長としてイスラエル・アムッド洞窟を発掘し(同年10月まで)ネアンデルタール人類(アムッド人)を発見
1962
7
月 静岡県浜北市にて更新世人骨,浜北人を発見(昭和38年まで発掘調査)
1963
『日
本人の骨』岩波新書、1963年
1964
7
月 第2次西アジア洪積世人類遺跡調査団,団長としてイスラエル・アムッド洞窟調査(翌年1月まで)
1967
『増
上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』鈴木尚、矢島恭介、山辺知行共編、東京大学出版会、1967年
9
月 第3次西アジア洪積世人類遺跡調査団,団長としてレバノン・シリア調査(同年12月まで)
1968
1
月 21日、大山盛保(1912-1996)は港川遺跡から人骨を発見する。同年
3月19日、山下町第一洞穴遺跡の発掘のため来琉していた東京大学教授の鈴
木尚らを港川に案内する。予備調査を行うと、大山が採集していた化石骨のうちに、ヒトの脛骨2点、上腕骨1点、足の親指、頭骨片が確認された。
3
月 那覇市山下町および具志頭村港川採石場にて更新泄人骨,山下町人,港川人の調査。
1969
1
月 第8期日本学術会議会員。
1970
8 月 第4次西アジア洪積世人類遺跡調査団,団長としてシリア・ドゥアラ洞窟,ルレバノン・ケウエ洞窟発掘調査(同年12月まで)。
11 月 日本人類学会会長(昭和51年11月まで)。
12
月 山下町人・港川人第2 次発掘調査。
1971
『化
石サルから日本人まで』岩波新書、1971年
1972
1 月 第9期日本学術会議会員。第4 部(理学)副部長。
3 月 東京大学教授を定年退官。
4 月 日本解剖学会名誉会員。
5 月 東京大学名誉教授。
8
月 国立科学博物館に人類研究室を創設,同室長。
1973
『人
体計測 マルチンによる計測法』人間と技術社 1973
1974
4 月国立科学博物館に人類研究部を創設,同部長。
同
月第9 期日本学術会議第4 部(理学)部長。
1975
10
月日本洞窟学会会長(昭和54年12月まで)。
寺
田和夫(1975)日本の人類学.思索社,東京,pp. 266
1976
3 月,国立科学博物館,人類研究部長を定年退官。
4 月,国立科学博物館名誉館員。同月,成城大学経済学部教授
金
関丈夫(1976)日本民族の起源.法政大学出版会,東京,pp. 597.
1982
3 月,成城大学教授を定年退職。
4
月,東京大学総合研究資料館研究分担者。
1983
勲2 等瑞宝章を受章
『骨
から見た日本人のルーツ』1983 岩波新書
1985
『骨
は語る 徳川将軍・大名家の人びと』東京大学出版会、1985
1990 国立民族学博物館元老(78歳)
1991
埴
原和郎「二重構造モデル」を提唱。
1992
6 月 『鈴木尚骨格人類学論文集』てらぺいあ、 出版
1996
『骨
―日本人の祖先はよみがえる』学生社、1960年(改訂新版、1996)
1998
紫 綬褒章受賞
『骨
が語る日本史』学生社、1998年
2004
10 月1日死去(享年92歳)
2006
木
村賛(2006)鈴木尚先生を偲ぶ.Anthropological Science (Japanese Series),114: 1–3.
2012
大
山盛保(1912-1996)は、日本人類学会から学会功労賞を(没後)受賞し、同年12月23日には生誕100年を記念して故郷の北中城村に記念碑が建
立された
++
☆ 大山盛保(金澤 英作, 2012: 153-154)
| 1967 年 11 月 1 日 |
1967 年 11 月 1 日に購入した石材からイノシシ
化石を発見し,以後港川採石場に足しげく通い,長期に
わたり化石資料の収集に努めた。 |
| 1968 年の 1 月と 3 月 |
1968 年の 1 月と 3 月に
は初めて人骨化石,すなわち後に「上部港川人」とよば
れる資料を発見し,沖縄を訪問した故東京大学・鈴木
尚教授らに閲覧提供したこと |
| 1968 年 12 月から翌1969年 1 月 |
1968 年 12 月から翌年 1
月まで港川フィッシャーの第一次学術調査が実施された。 |
| 1970 年 8 月 10 日 |
大山氏はその後も独自で
発掘を続け,1970 年 8 月 10 日に再び人骨を発見し,ただ
ちに東京大学に連絡した。連絡をうけた渡邊直經教授が
8 月 20 ~ 23日に来沖して調査した結果,後に港川人 2,3,
4号とされる人骨が発見された。 |
| 1970 年 11 月 2 日 |
大山氏は現地に
通い続け,1970 年 11 月 2 日には一体分のヒトの全身骨格
の化石を発見した。これはいわゆる港川 1 号人骨と呼ば
れるもので,ほぼ完全な人体の形態を保った化石であっ
た。化石の年代については,洪積世遺跡調査団などの調
査により,今からおよそ 1 万 7 千年前のものとわかり,
日本では数少ない旧石器時代の人骨として人類学の分野
で大きな注目を浴びたばかりでなく,第四紀学,地質学,
古生物学,考古学など広い分野に多大な影響を及ぼすこ
ととなった |
☆ 渡 辺直経(わたなべ なおつね)は、1919年に生まれ、1999年に亡くなった日本の人類学者です。彼は東京大学で教授を務め、特に先史時代の遺跡研究に貢献しました
渡
辺 直経
ワタナベ ナオツネ
昭和・平成期の人類学者 東京大学名誉教授。
生年大正8(1919)年3月10日
没年平成11(1999)年5月10日
出生地東京
学歴〔年〕東京帝大理学部人類学科〔昭和17年〕卒
学位〔年〕理学博士〔昭和32年〕
主な受賞名〔年〕勲三等瑞宝章〔平成4年〕
経歴東京大学助教授を経て、昭和43[1968]年教授。退官後、54〜59[1979-1984]年帝京大学教授。59〜63年国際協力事業団の第四紀
地質長期派遣専門家としてインドネシアに滞在。51〜55年日本人類学会会長もつとめた。先史時代の遺跡年代などを調べる磁気年代学の開発と応用研究など
で日本やインドネシアの人類学に貢献。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について
☆ 東京大学所蔵の沖縄県由来の人骨の概要(東京大学 2025年12月12日)
(1)
中城村(沖縄本島) 頭骨18 点
(2)
今帰仁村(沖縄本島) 頭骨1 点
(3) 那覇市(沖縄本島) 頭骨4 点ほか
頭 骨4 点、上腕骨3 点(それぞれ別個体)、大腿骨1 点、脛骨1 点。
東京大学理学部人類学教室教授(1972 年まで)の鈴木尚(故人)が研究のために保管し ていた人骨で、1994 年9 月に本学総合研究博物館人類先史部門に移管された。移管時に鈴 木から伝わっている由来等に関する情報は「沖縄県那覇市の洞窟」「風葬墓」だけであった。
那覇市と確認する中で、これらの人骨は保存状態がよいことから、厨子甕に納められてい た可能性があると思われる。鈴木がこれらを保有するに至った経緯は推測するよりほかな いが、例えば以下のようなケースがあり得るだろう。
まず、鈴木は1967~1974 年に沖縄の現地調査に関わっていたので、関連の研究活動の一 環としてこれらを保有するに至った可能性がある。ただし、もしそうであれば遺跡名や地点 名の記録があってよいはずであるが、それがないのはやや不自然に思われる。もう1 つの可 能性は、鑑定や研究のために外部から寄贈されたというものである。ただしそれを示す依頼 文や手紙類は付随しておらず、これも推測の域を出ない。
以上(東京大学 2025:7)
(4) 石垣市(石垣島) 頭骨3 点
(5)
与那国町(与那国島) 頭骨1 点
(6)
沖縄・市町村不明頭骨1 点ほか
(7)
その他頭骨3 点
リ ンク
文 献
そ の他の情報
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