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納豆のトラウマ|苦手な味は“拒否する”記憶の話

納豆が食べれない。

あれは小学生時代の昼休みを奪い、五時間目の記憶まで支配した、茶色く粘る刺客である。

我が家には納豆文化がなかった。関西育ち。しかも父が納豆を苦手としていたため、食卓にあの小さな発泡スチロールの容器が並ぶことは一度もなかった。

納豆の初対面は、小学校の給食だった。

ふたを開ける前から教室中に匂いが充満していた。もうその時点で無理である。周りの子たちは一心不乱に混ぜている。その糸すら気持ち悪い。

当時の給食には「残してはいけない」という、かなり乱暴な正義があった。昼休みを納豆と向かい合って過ごし、五時間目になってもまだ睨み合っていた。

最後は先生に無理やり口へ入れられ、教室で見事にリバースし、その後一週間、学校を休んだ。

あの日から、納豆は食べ物ではなくトラウマになった。匂いも無理、粘りも無理、混ぜる音も無理。ついでにネバネバ仲間というだけで、オクラまで巻き添えを食らった。

大人になっても、吉野家の朝定食で誰かが納豆を混ぜているのを見ると、胃は小学生に戻る。あの頃の教室、あの匂い、あの粘り。味覚というより記憶が拒否しているのだ。

ただし、別にグルメではない。味の違いなど聞かれても分からない。焼きそばは具なしでもいいし、そばもうどんも毎日いける。繊細なのか雑なのかよく分からない舌をしている。

それでも、納豆は食べれない。

だから「納豆食べられないなんて人生半分損してる」と言われても、やかましいわい!

すでに昼休みと五時間目を失っている。人生どころか、小学生の一日をまるごと損しているのだ。

納豆好きな人は、無駄に勧めてくる。「やれ健康にいい」だの「こうアレンジすれば食べれる」だの。

いや、ただのありがた迷惑である。どうしても食べたいのであれば、視界に入らない場所でお願いしたい。

🔗前章はこちら:選択的注意とは🧠
🌀シリーズ序章:ADHD?いや、ただのナマケモノかもしれん🦥

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