係り結びと古典|宇宙語だった漢文
私は読解力のなさには、わりと自信がある。文章を読んでも、読み終わった瞬間に内容が湯気のように蒸発していく。主人公の心情など、ほとんど分からない。「この時の主人公の気持ちを答えなさい」と言われても、「知らんがな、本人に聞いてくれ」と思っていた。
ところが不思議なことに、国語の点数は悪くなかった。むしろ現代文は、ろくに勉強しなくても取れていた。内容を理解していたかと聞かれると怪しいが、問題文を見ると「ああ、答えはこのへんに書いてあるな」と、場所は分かったのである。読解ではなく、宝探しに近かった。国語のテストという名の埋蔵金発掘である。
あとから考えると、私は文章そのものを読んでいたというより、書き手の構造や問題の作り方を見ていたのかもしれん。ここで優しい言葉が出てきたから、たぶんここが答えだな。やけに説明が長いから、ここを拾わせたいんだな。そんなふうに、本文よりも出題者の人間性を読んでいた気がする。ひねくれた中学生である。
そんな私にも、まったく歯が立たない相手がいた。古典と漢文である。現代文なら、なんとなく空気で押し切れた。しかし古典は、そもそも空気が遠い。係り結びと言われても、何と何が結ばれているのか分からない。活用形など、覚える前から心が店じまいしていた。
漢文にいたっては、返り点の時点で敗北である。あんなものは勉強ではなく、暗号解読である。キングダムの世界の人に任せたい。
私は言葉の意味を丁寧に追うより、文章の流れや出題の匂いで進むタイプだったのだろう。だから現代文ではなんとなく戦えた。
でも古典や漢文は、匂いでどうにかなる相手ではなかった。ルールを覚えろ、文法を押さえろ、時代背景を理解しろ。そう言われた瞬間、頭の中の小さな私が「本日は閉店しました」と札を出すのである。
結局、私の国語力は読解力ではなく、書き手と出題者を横目で見る力だったのかもしれん。作文はそこそこ書けた。現代文も点は取れた。でも古典と漢文は無理だった。
国語が得意だったのではない。現代文のテストが、たまたま相性が良かったのだ。
あの頃、もう少し古典と漢文に努力していれば、満点も狙えたのだろうか。いや、係り結びが私の心と結ばれる日が、最後まで来なかったから無理やろ。
……知らんけど (-ᴗ- )フフフ…✨
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