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【小説】「共性する私たち」第4章

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第4章

享が乗って閉まったばかりのエレベータをうっかり開けてしまった千弥子は、たった数秒前の、慎重さを欠いた自分の行動を心底悔いた。

2人が働くオフィスは、25階建てのビルの10階にある。
ドアが閉まり、エレベーターの上昇とともに、後ろから、享の刺すような視線を感じたが、それは千弥子の思い込みかもしれなかった。3階…4階…5階…「早く着いて」とひたすら心の中で祈りながら、わずか10秒ほどの時間がその何倍にも感じられた。10階に着くなり千弥子は、まるで、まずくてこらえきれずに吐き出された飴のように、エレベーターから飛び出した。

廊下を足早に歩き、社員用セキュリティカードを入口でかざし、急いで自分のデスクに腰を下ろし、自分のパソコンを開いて、タイムカードの機能である打刻システムに社員番号を入力し、あぁ、と深いため息をついた。

怖かった。別れた男性———しかも気心の知れない人間———と狭い空間で2人きり、相手に背を向けた状態というのは、こんなにも恐怖なのか。千弥子はそのことにショックを受けた。

享と千弥子のデスクは8mほどしか離れていないが、互いに目線の合わない配置である。しかし、享との間にも、カードをかざさないと開かないバリアが欲しいと思った。いつまで、この居心地の悪さと付き合うことになるのだろう。

入社して来年で10年を迎える千弥子には、新卒で同期入社したメンバーが千弥子を含めて7名いて、3名が男性、4名が女性である。入社後数年で転職する者もいる中、千弥子の同期は誰も辞めていない。比較的仲が良く、20代前半は全員で国内・海外旅行へ行ったり、数ヶ月に1回、同期会と称した親睦会を開いていた。

しかし、1人、2人と結婚し、さらには、親になっていく者も出てくるうちに、交流の機会は減っていった。

今では、千弥子ともう一人の女性だけが独身で、残り5人は既婚者となり、忘年会か新年会を年に1回開催するのみとなった。

同期入社の同僚たちに対して、千弥子は身内のような親しみを感じているので、毎回結婚式に呼ばれるたびに、彼らの末永い幸せを心から祈るのだけど、独身があと2人だけとなった今、気づけば、「最後の1人になりたくない」と考えるようになっていた。そう思ってしまうことが愚かだということがわかってはいても。

先週金曜日の勤務中は、自分が独身の振り出しに戻ることをまだ予想できていなかったが、週をまたいだ月曜日、完全にスタートのマスに戻ってしまった。戻ったこと自体は残念なのだが、選択に後悔は全くない。むしろ、もっと早くスタート地点に戻るべきだった。
この週末は、人生の岐路に立って、思い切って方向転換した重要なポイントだったかもしれない、などと独りごちながら、千弥子は定常業務に取り掛かった。

翌日の火曜日。
始業後、係長が千弥子の席に来て、取引先に導入しているシステムの、あるデータを出すよう言われた。詳しいことは、五十嵐いがらしに聞いてと言って、係長は去った。

五十嵐———五十嵐享。データを出さねばならないその取引先は、享の担当している会社だった。つまり、このあと千弥子は「詳しいこと」を享に聞かなければならなくなった。

千弥子の勤める会社は総社員数200名ほどで、東京本社には約150名が在籍している。
営業部には35名いて、そのなかで営業事務をしているのは、千弥子を入れて6名いる。今回依頼された、実績を出す業務を担当しているのは、千弥子ともう一人の女性社員、石井さんであった。

石井さんは、千弥子の3年先輩の既婚者で、子どもが2人いる。確か、4才と2才だったはずだ。そして、今日に限って、子どもの発熱でお休みしていた。

ついてない。
もし石井さんがいたら、なんとかうまい言い訳を考えて、石井さんの担当業務をいくつか代わってでも、それによってしばらく残業になったとしても、享と関わるこの仕事を石井さんにお願いしただろう。千弥子は、仮病を使って帰ることまで一瞬考えた。

しかし、昨日のエレベーターでの鉢合わせといい、同じ社内にいて、いつまでも逃げ続けることもできないだろうと腹をくくった。
悪いことはしていない、自分を守るために離れたのだから、と千弥子は努めて毅然とした態度で、享の席まで行った。

「五十嵐さん、木場テックさんのデータを出すよう係長に言われたんですけど、何に使うためですか」

座ってパソコンの画面を見ていた享の顔を見下ろす体勢で、千弥子は話しかけた。目的さえ聞けば、抽出するデータの種類はほぼわかる。端的に会話を終わらせたかった。

享は、ゆっくりと千弥子を見上げ、一言、
「髪切ったの?」と言いながら薄笑いを浮かべた。

その様子に、千弥子は強い嫌悪感を抱いた。
一体どういうつもりなの。

「切りましたけど、何か?」
それだけ返した。

「似合ってるじゃん」
享はそう言ったかと思うと、一転、顔から表情は消え、データ抽出の目的を千弥子に淡々と伝えた。

千弥子は動揺しながら自席に戻った。

気持ち悪いやつ———。

人を馬鹿にしたような態度を取ったかと思えば、いきなり褒める。
「いかにもモラハラ男」という感じがした。
それに、プライドの高い享のことだ。彼は「女に捨てられた男」になり下がりたくないのだろう。会話や態度で優位に立とうとしているように千弥子には感じられた。

そうだ、今までの人生で、小説やドラマ、映画などで見てきたことがあったじゃないか、ああいう男を。
なのに私は、佳奈に指摘されるまで、彼からの態度がモラハラとは気づかずにいたなんて。
渦中にいると、気づけない。そんな典型的な見本だった。情けない。

落ち込む気持ちを奮い立たせるように、享の依頼をさっさと終わらせようと気持ちを切り替え、パソコンに向き合った。

結局、千弥子はその週、毎日残業をすることとなった。
石井さんのお子さんはインフルエンザで、さらに下の子から上の子に移ってしまったらしく、その週は出社ができなかった。

きっと子どもがいたら、これは「あるある」なんだろう。
同期の同僚も、以前、似た状況に見舞われ、1週間ぶりの出社時に申し訳なさそうにしていたことを思い出した。
しかし、子どもを育てながら働くには、避けられないことなのだろう。

今、子どもを持つ女性社員は、女性も働きやすい社会を願いながら、葛藤しながら、後輩たちのためにその道を作ってくれている。千弥子はそう思っていた。それに、自分もそのうち後に続くだろう———。

それにしても、同じような状況下で、申し訳なさそうにしている男性社員は見たことがないな、と千弥子は思った。こんなに女性の社会進出が進んでいるというのに。
数日、奥さんに代わって休んだ男性社員は、周りから「大変でしたね」「優しいですね」というような労いの言葉を積極的にかけてもらっている気がした。男性の育児参加が叫ばれて久しいが、長年かけてしみついた人の価値観が変わっていくには時間がかかる。とはいえ、不公平だなと思った。

脳裏に、田舎の両親のことが浮かんだ。
昨年、定年退職した父親は岡山県の職員で、母親はずっと専業主婦だった。
父は気難しい人で、母は父の機嫌を損ねないように気を遣って暮らしていることを、物心つく頃には千弥子は理解していたし、そんな母をいつからか不憫ふびんに思うようになっていた。

小学生低学年の頃、母親に、
「お母さんはお仕事しないの?」と聞いたことがあった。
すると母は、何を言ってるの、と言わんばかりの表情で、
「お仕事したら、誰があなたたちを育てるの?誰が家のことをするのよ」と呆れたように言われ、千弥子は口をつぐんだ。

千弥子がそんな質問をしたのには、理由があった。
近所の仲良しの子の両親は共働きで、土日に家族で仲良く出かける姿を何度か見たことがあり、千弥子は羨ましく思っていた。
お母さんが働いている方が家族が楽しく笑って、仲良しでいられるんじゃないか。うちのお母さんも働けばいいのに、という思いで、母に訊いたのだった。

いつしか「お母さんは働いていないから、お父さんに言いたいことも言えないんだ。対等じゃないんだ」と思うようになっていった。千弥子はそうはなりたくなかった。自分も仕事をして、男性と同じように収入を得て、対等な立場になる、ということがいつしか千弥子の目標となっていた。そんなかすかな野望を胸に秘め、高校入試から大学受験、就職活動を乗り切ってきた。

途中、何度も親、特に母親とは衝突した。母は、千弥子に短大を出て、岡山で就職することをずっと望んでいた。大学で地元を出たのは、自分の理想とはかけ離れた両親と離れたかったのと、単純に京都という街に憧れたからだった。そして、就職では東京へ。距離がどんどん開いていくのが、千弥子の心を表しているようだった。

千弥子には、4才上の兄がいて、彼は地元岡山の大学に進み、そのまま地方銀行に就職した。
兄は千弥子よりも成績が良く、父の希望した通りの進路に進んだ。結婚し、子どもも1人いる。母は父の理想通りに兄を育て上げたことで、自分が賞賛されるべきと思っている節があり、それが言動ににじみ出るとき、千弥子は鼻白む思いがするのだった。

物心つく頃は、母のことが好きで不憫と思っていたけれど、今は種類の違う憐憫れんびんの情を母親に対して抱いていた。

兄とも不仲とまではいかないが、彼が親の言うなりに生きている気がして、親を反面教師に生きてきた自分とは真逆だと境界線を引いてしまっているところがあった。お兄ちゃんは幸せなのかな、と思うこともある。

・・・・・

やばい、ぼんやりしてた、と千弥子はハッとした。
石井さんの定常業務もこなさなきゃいけないのに。早く片付けよう。

そうして千弥子は、享に関する心労と、残業続きの1週間で、クタクタになっていた。金曜日の午後には、「月曜日に有給もらって3連休にしよう」と思うほど、疲れていた。

気づけば、師走になっていた。
千弥子は、街がイルミネーションで輝き出す都会の12月が大好きで、毎年心が華やぐのだが、今年はどうにも感傷的だった。

土曜日、飲みに行けたらと思い、昼過ぎに佳奈に連絡してみたが、彼女は取引先との忘年会が今週立て続けにあったとのことで、ごめん、今日はとにかく眠りたいのよ、と返信があった。日曜日は先約があるという。

あぁ、なんだか寂しいなぁ。
こういうとき、独身はつらいな、と千弥子は思う。
旦那さんがいれば、子どもがいれば、不自由なこともあるだろうが、寂しさとは無縁なんだろうと思った。

ふと、久しぶりに思いっきり泣ける映画でも観に行こうと思い立ち、出かける準備をした。

新宿まで出た千弥子は、あの合コンはたった1週間前か、と思い出していた。幹夫はあの日、仕事が終わった後に、吉祥寺から新宿へ駆けつけたのか。幹夫の顔を思い浮かべ、なんだか切なくなり、会いたいと思ったが、先週美容室で帰り際に微妙な雰囲気になったことを思い出し、なんとなく、積極的なアプローチは控えたほうがいい気がした。

しかし、月曜日に有給を取った千弥子は、幹夫も月曜が定休であることを思い出し、お茶くらいは許されるんじゃないかと思い始め、連絡をしてみることにした。

LINEを見ると、あの日、帰宅後に幹夫からもらったメッセージに返信していなかったことに気づき、これなら送りやすいと千弥子は思った。一方的な連絡が多いと、相手の負担にもなってしまうから。

こんにちは。今新宿に来ていて、あの合コンから1週間経ったのかと思い出していました。
幹夫さん、もしご迷惑じゃなければ、月曜日が私、有給でお休みなので、どこかでお茶でもいかがですか?

そう入力してみて、色々考えた末、一部修正した。

こんにちは。今新宿に来ていて、あの合コンから1週間経ったのかと思い出していました。
幹夫さん、もしご都合よければ、月曜日が私、有給でお休みなので、どこかでお茶でもいかがですか?

「ご迷惑じゃなければ」と書いてしまったら、本当に、自分の気持ちが相手に迷惑なものとして受け取られてしまうのではないかと思考を巡らせた結果だった。なんてことはない、ただお茶するだけなんだから、迷惑なんてことはないよね、と自分に言い聞かせたくもあった。私は先週、頑張った。ご褒美に幹夫さんに会いたい。本音はそれであり、冗談めかして、そう送ってみようかとも思ったが、いや、危険だ。例のビジュアル系女性スタッフ、あるいは別の人と交際中の可能性もあるのだ。断られる理由を減らすためにも、好意は隠して、さらりと書こう。そうしてやっと送信した。

こんな短文にどれだけ策略を練って悩んでいるんだろうと、千弥子は自分にツッコミを入れた。

結局、映画は観たいものがなく、流行していたサスペンスの洋画を観たが、後味が悪かったので、もう1本、穏やかな日常を描いた邦画を観た。あまり心に残らなかった。

その後、書店に寄り、気になる小説を数冊ピックアップした。そして、そのうち3冊を買うことにした。そういえば、唯一の趣味は読書だったが、享と暮らすようになって、なかなか一人で読書に没頭する時間もなく、読書好きであることを忘れていた。これから時間はたっぷりある。明日は1日、読書デーにしよう。

会計を済ませ、時間を見ようとスマホを取り出すと、幹夫からLINEの返信が来ていた。

千弥子さん、こんばんは。
ご連絡ありがとう。
月曜日、大丈夫です。
お茶、どこでしましょうか。
買い物とか、もし行きたいところがあれば付き合いますよ。

ち、千弥子さん…?
買い物…?
付き合いますよ…?

うわー!と声をあげたくなるのを必死にこらえて、千弥子はしばらくスマホを握りしめて、幹夫からのメッセージを嚙みしめて、新宿の雑踏の中にしばらく立ち止まっていた。


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※この作品はフィクションです。実在する公共交通機関名、商業施設名が出てきますが、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。

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