”桂”を見つける
古代中国の『胡麻』が『大麻の実』だった。
そして「胡」繋がりで『胡椒』を調べていくと、古代中国の『胡椒』は『ニッキ(桂)の実』だった。
というのが続いたので、次はその『ニッキの実』についてです。
調べていくと、ニッキこと「ニッケイ属」の樹木の利用は、中国は日本の後追いで出来ているものであり、通説で言われるような「中国から日本に来た文化」とはまるで逆で、「日本から中国に伝えられた文化」です。
中国の『桂』の記録
古代中国の『胡椒』が『桂の実』だったのは追跡できてきたのですが。
では肝心の『桂』の記録を調べると以下になります。
中国の『桂』の記録
『神農本草経』(後漢代〜3世紀頃成立とされる)では、植物学的定義はなく、効能と名称のみを記しています。
【桂】
味辛平
主百病
養精神和顔色為諸薬先聘通
久服軽身不老面生光華
【菌桂】
味辛温
主百病
養精神和顔色為諸薬先聘通
久服軽身不老面生光華
【牡桂】
味苦温
主百病
養精神和顔色為諸薬先聘通
久服軽身不老面生光華
植物の正体は一切記述されていません。また、「桂皮」「桂肉」などの細かい名称は、この段階では薬名として存在しません。ただ「桂」は「味は辛い」としっかりとありますね。
『名医別録』には梁代(6世紀)の陶弘景が『神農本草経』を注釈した『本草経集注』における注訳が残っています。形状の記述が初めて付与されますが、混乱が顕著です。
桂以半巻多脂者単名桂入薬最多
菌桂無骨正円如竹
牡桂状似桂而扁広
陶弘景は「桂」を「半巻多脂(半分に巻いて油分が多い)」、「菌桂」を「円く竹の如し(筒状)」と書いています(これ、経常的にはシナモンスティック状ですよね。ただ、シナモンスティックは16世紀以降なので、これは「非常に若い細い枝の皮を、そのまま剥いだもの」です)。どうやらこれは流通している「加工形態」を分類したもののようです。
さらに調べていくと判ってきますが、ここで書かれているものは、
・菌桂:枝の樹皮
・牡桂:幹の樹皮
のようです。輸入品だったのでしょう。
これも複雑にしている理由なのですが、周代とかの『菌桂』は「金桂(キンモクセイなど)」を指しているようです(調べていくと、中国だと「漢字」自体は同じでも、それが何を指しているかは時代で変化しているものが結構あります)。
戦国時代の『管子』の「地数編」は、国家の富や経済について述べる書ですが、ここでも「桂」が登場します。
有国之君必有招揺之桂
「国に君主がいれば、必ずや招揺の桂があるものだ」と記されています。これもやはり植物としての中身ではなく、貴重な富や珍宝としてあるという事ですね。
前漢代『淮南子』「墬形訓」においては地理的分布として言及されます。
南方之美者有桂林之桂
「南方の産物」と書かれていますね。
漢代はもとより、中国国内(というか中原ですね)に「桂」という植物は存在していません。北限が湖南省や浙江省あたりになるからです。南方の遠隔地(あるいは海の外)から「加工された形態(半巻したものなど)」で輸入される「外来の高級加工品」であった、という事です。
中国側の文献が「半巻」「竹の如し」といった「剥いだ皮を巻いた状態」でしか「桂」を認識していないことは、中国側が「剥皮から乾燥、形状の固定」という一連の加工技術などを掌握していなかったことを示唆しています。「菌桂」「牡桂」といった加工形態(形状)による区分が主であり、「桂皮」という部位名を冠した整理はありません。
実は、梁代(6世紀)『名医別録』の記載
・「菌桂無骨正円如竹」
・「牡桂状似桂而扁広」
これは、『どこ産の桂か?』というのは凡そですが予想ができます。
現代の私たちがイメージする「シナモンスティック(樹皮が乾燥してクルクルと丸まったもの)」は、主に熱帯産に見られる特徴です。これらは樹皮が非常に薄く、剥がすと自然と丸まる性質があります。スリランカ(セイロン)やインドネシアの島嶼部(スマトラ島、ジャワ島、モルッカ諸島)、マレー半島南端部およびシンガポール近辺のニッケイ属で見られる特徴で、16世紀以降の工業製品です。

しかし、中国に運ばれているものは、ニッケイ属(ヤブニッケイを含む、東アジアや東南アジア由来の種)の樹皮、日本列島や近隣地域で利用されていたニッケイ属の樹皮は、熱帯の薄い樹皮に比べると肉厚で硬い傾向があります。これらは剥ぎ取って乾燥させても、スティック状には丸まりにくく、「板状」あるいは「平たい破片」として残ります。ベトナム沿岸部なんかもこのようなニッケイ属ですね。
『桂皮』が出てくるのは宋代以降
宋代の『経史証類大観本草』(1108年)および『政和証類本草』(1116年)にになり、この頃から、唐代以前の古い文献を引用・整理する過程で、ニッケイ属の樹皮の薬材の部位を指す名称として「桂皮」が頻繁に使われ始めます。
これは何かというと「ジャンク船を使って自力で南方と交易をしだしてから」という事です。
宋代(10世紀後半〜13世紀)に入り、中国の市舶司(貿易管理機関)が活発化し、民間貿易が公認されるようになると、中国側の輸入記録に変化が出てきます。宋代の記録である『諸蕃志(趙汝適・1225年)』などには、香料や薬材の産地が詳細に記されるようになりました。ここでは「桂(ニッケイ属の樹皮)」の産地として、交趾(ベトナム)・大食(アラビア方面)、あるいは東南アジア諸国が明確に挙げられています。
明代『本草綱目(1596年)』の李時珍が、「肉桂」「桂心」「桂皮」「桂枝」と、明確に部位と用途を分けて体系化しています。
【桂】
肉桂:即桂之厚皮也。其気味厚者為肉桂。
桂心:即去皮之内肉也。其皮薄者亦可名桂心。
桂皮:即桂之薄皮也。其気味薄者為桂皮。
桂枝:即桂樹之嫩枝也。
さらに、各部位の名称に関する詳細な解説記述は以下の通りです。
【肉桂】
肉桂即桂之厚皮也
其皮厚而多脂故名肉桂
其気味厚者為肉桂
今人所謂肉桂即古之牡桂也
其皮薄而無脂者為桂皮
其気味薄者為桂皮
【桂心】
桂心即去皮之内肉也
古方多用桂心取其辛甘去皮中之粗者也
其皮薄者亦可名桂心
【桂皮】
桂皮即桂之薄皮也
其気味薄者為桂皮
古人所謂桂皮即今之薄桂也
【桂枝】
桂枝即桂樹之嫩枝也
其気味薄者為桂枝
古人所謂桂枝即今之桂枝也
このように、日本でほぼ江戸時代の時ぐらいの時代になってから、中国ではやっと細かく分類されています。ただ、これは「樹皮」だけの話になってますね。
しかし、日本側の古い記録と比較すると判りますが、どうも「本来の部位名称」だったものを、既にある漢字名に合わせて変えてしまっているようです。名称自体を日本の『倭名類聚抄(931~938年)』や東南アジアなどから持ってきていて、その本来の意味を変えてしまったようです。
「肉桂」が昔の「牡桂」だというのは書かれています。
ただ、それより古いアジアの資料を見ると「桂皮」は「桂の実」を指すものだったものを、「肉桂を薄くしたもの」と書き換えてしまっています。そして「桂皮」は「淡白な物」とありますので、これは東南アジアのニッケイ属より日本のニッケイ属の方が性質が合います。
さらに言えば、南西諸島(九州南部も含む)を原産とし日本に広く自生している「ニッケイ」は「肉桂」と呼ばれており、この「肉桂」という「植物を指す名称」と、和名「阿良々木」である「桂の樹皮」を指す「桂肉」というのが中国の本草学者の中で混ざり勘違いしたのだと思います。
日本の南西諸島原産種を指す、語源ともなっている「肉桂(ニッケイ)」
日本から東南アジアと広いニッケイ属を指す広義の「肉桂」
日本や東南アジアでの分類と樹皮を指す「桂肉」
これが明代に中国で混ざってしまっているのですね。
また、元々は日本の原産種を指しているように、日本から広まった呼び方、という事です。
ここで『胡椒』に繋がるのですが、油分を大量に含む『ニッケイ属の実』については書かれていませんね。
そう、『ニッケイ属の樹皮』は中国では戦国時代からずっと輸入品であり、『ニッケイ属の実』がどのようなものかを、この時点でも知らないのです。
これが「勘違いの根本にある訳ですね。
戦国時代~漢代では匂い建つ木材
もっと古くから『桂』自体は出てくる。
ただ「匂いたつ木」や「木材として利用」というもので、皮などの話はない。
例えば、戦国時代〜前漢初期の『楚辞』だとこうあります。
『離騒』では、
扈江離與辟芷兮紉秋蘭以為佩
汨餘若將不及兮恐年歲之不吾與
朝搴阰之木蘭兮夕攬洲之宿莽
日月忽其不淹兮春與秋其代序
唯草木之零落兮恐美人之遲暮
不撫壯而棄穢兮何不改乎此度
乘騏驥以馳騁兮來吾道夫先路
昔三后之純粹兮固眾芳之所在
雜申椒與菌桂兮豈維紉夫蕙茝
「菌桂」という語で登場しています。「申椒(さんしょう類)」と並べられており、香りの高い植物として扱われていますね(「桂の実」を「胡椒」、すなわち「外国の山椒」と呼んでいたのは、元々はこれからきているのではないかと思います)。
ただ。ここで言う『菌桂』は、梁代でいう『菌桂(シナモンスティック)』ではなく、周代と同じように『金桂(モクセイ属)』の事を指しているのだと思います。というのも、「くるりと巻いた高品質シナモン」が流通し始めたのは、16世紀以降のポルトガル、続くオランダの植民地支配による「プランテーション農業」の確立以降の品だからです。
『九歌』湘君だと 「桂櫂兮蘭枻」とあり、木材として利用されており「桂の櫂」と加工されている記述です。つまり、当時の中心である中原では兎も角、南方では『桂』は普通に知られているものなのですが、これは『金桂』では木材の性質から違います。
ここから考えるに、中国では「匂う木」を「桂」と呼んでいたのではないでしょうかね。
BC239年頃の『呂氏春秋』だと『本味篇』に
和之美者越駱之菌
飯之美者玄山之粱
肉之美者猩猩之唇
獾獾之炙雋觶之翠
陽華之芸登籠之桂
各地の美食・美酒を列挙する文脈において、名産品の一つとして「登籠の桂」が挙げられています。当時の楚(現在の湖南省・湖北省付近)を中心とした領域内に存在した地名であろうと考えられていますが、「登龍」は南側、湖南省のどこかでしょうね。
丁度この頃、日本の文化技術が中国に入ってきている時代ですので、その輸入文化として「匂う木材」が入って来たものだと思われます。
『太平聖恵方(992年)』でも桂利用に関する処方記述がありますが、ここにあるのは「樹皮を細断・粉末化する工程」のみです。
同時期の日本の『医心方(984年)』だと、部位ごとに加熱温度を変え、さらに「煮沸」と「浸出」を分離する工程が記述されています。
加工技術として、確実に日本の方が上にあるのですね。
周代の『桂』
周代にも西周の初期(紀元前11世紀)から東周の初期(紀元前7世紀)の頃に作られたもの『詩経』の中に「桂」は出てきます。最も有名なものは、「小雅・小弁」および「鄭風・女曰鶏鳴」などの詩です。
「鴥彼飛隼集于苞桂。」
鴥(はや)れる彼の飛隼(ひしゅん)、苞(ほう)たる桂に集まる
この詩では、鷹が茂った桂の木に止まる様子が詠まれています。
「言采其桂」
その桂を采(と)らん
男女のやり取りの中で、桂を摘むという行為が言及されています。
ただし、これは『桂』だはなく、『金桂』だと考えられています。
『金桂』は、モクセイ科モクセイ属の常緑小高木樹である「キンモクセイ(金木犀)」や、中国におけるキンモクセイの一部の品種(あるいはウスギモクセイ)を指す言葉です。秋になると甘く濃厚な香りを放つ花を咲かせます。
「桂」である「ニッケイ属」は「モクセイ目」、『金桂』は「モクセイ属」で「シソ目」なので、まるで違います。ただ、「匂いたつ」という部分が共通しています。
これが『桂(ニッケイ属)』である可能性は?というと、ほぼありません。周の治めた地域では『桂』が生育するには北過ぎるからです。
――つまり、中国では「匂いたつ木」という意味で『桂』を使い始めてはいるものの、それが何の樹木化などの細かい分類が出来ていなかったのですね。この同じ時代に、日本では「ニッケイ属の皮を目的を持って剥いでいる痕跡」があります。
また、中国で『桂(ニッケイ属)』の利用が出てくるのは、その最古は次に書いている約2,200年前の馬王堆漢墓から。前漢代の書物『淮南子』「墬形訓」にある「南方之美者有桂林之桂」とも時代が一致しますので、この頃(前漢代の少し前の戦国時代)からです。
中国の『桂』の物証
物証としては、最も古いのは古層、つまり縄文系民族が定住していた時代になります。
浙江省余姚市の河姆渡遺跡で見つかっています。これは河姆渡遺跡の全4つの文化層のうち、最も古く、最も深い場所に位置する約7,000〜6,500年前の「第4層」から検出された遺物(植物遺体)の炭素14年代測定(AMS法等による校正年代)に基づいて調査され、野生の桂の種子・実(植物遺体)が出土しています。

野生のクスノキ科の植物遺体とともに「桂(肉桂属など)」の種子や実の残骸が検出されています。これは、新石器時代の中国南部において人が『桂』を利用していた事がわかります。
種子のサイズが小さいですので、近隣で採取していたものですね。炭化していたので食料ともしていたのでしょう。どんぐりと一緒で、水にさらして灰汁抜きをした食べていたのでしょうね。
この約7,000〜6,500年前というのは、更に分かりやすく言うと「アカホヤの大噴火」で避難した縄文系民族です。

これは、後述で日本の『桂』の物証と比較すると、「桂の実を利用」自体はこの中国の長江下流域(古層の縄文系民族)から来た可能性があります。
「河姆渡より西や南でより古く利用していた」という痕跡もありませんので、河姆渡に定住した縄文系民が食べ始めた可能性が高いです。ただ、木材としての利用は見られません。
たぶんですが、それより先に無人の中国を開拓していた先住縄文系民族(約10,000年前には入植)は居るが、噴火により避難してきた人々の増加により現地での食料は厳しくなり、日本では渋くて可食部も小さいので見向きされなかった「桂の実」を食べ始めたのだと思います。
4,000年前以降、つまり大陸内陸民が中国地域に定住して以降だと、約2,200年前(西漢/前漢時代、紀元前2世紀初頭)の湖南省長沙市(芙蓉区東屯渡郷、現在の馬王堆街道)にある馬王堆漢墓で『(現代で言う)桂皮』が出土しています。
長沙国丞相であった利蒼の妻(辛追)の墓(1号墓)などから、いい保存状態で大量の植物・薬財遺体が出土しています。その中に、茅香、高良姜、花椒、辛夷などと並んで「(現代で言う)桂皮」が含まれているのが出土しています。形状は「板状(扁平な片状)」ですね。
これらは竹籠(竹笥)に収められたり、香炉・薬袋の中に入れられたりした状態で発見され、当時の貴族階級が防腐、芳香、あるいは医薬品として桂皮を利用していたことを示します。
この4,000年前以降の新層文化では、実は食べられず、祭祀的な「匂い」の利用に変わっています。ただ、痕跡を見ると、中国は輸入なので製作しておらず、日本からの輸入品である可能性が高いです。
また、馬王堆で出土した漆器は、日本産としか考えられないものも出土しています。
この事から、出土した『ニッケイ属の樹皮』は日本からの輸入品の可能性が高いです。
また、出土した漆器、絹織物、薬物(桂皮等)は、現在の学術的に示唆されているのは「南方地域(湖南省南部を含む広範な地域)」からの流通とされています。しかし、漆器は明らかに日本漆のものがあります。
また、出土する薬物(茅香・高良姜・辛夷など)も、「茅香」は寒冷〜温帯の湿地を好むため、日本列島(東北・北海道から本州の湿地)で広く採取され、日本列島において神事や防腐のために利用されていた植物です。「高良姜」は南西諸島(琉球列島)は気候的に生育圏の北限ですが手に入ります。
「辛夷」は日本列島に自生する「タムシバ」や「コブシ」そのものです。日本では古来、その芳香と薬効が知られているものです。つまり、「日本ではたやすく揃えられる薬物」です。
絹は、日本でも古代から使われている(最古は現在日本)であり、織られていた事が判っています。問題は墓の絹は「精錬加工」されているものであり、この当時の時代でそのような加工をしていたのはシルクロードを辿っても日本ぐらいです。
つまり「日本からの輸入品を大事に納めていた」というものです。
ですので、「ニッケイ属の樹皮」も日本からの可能性が高いですね。

逆に、「南方から」と言えるような品は納められていません。
これは当時の地政であり、前漢時代、長沙国と南越国は同じ前漢の諸侯国という枠組みにはありましたが、両者の関係は必ずしも良好ではありませんでした。特に、長沙国の丞相(利蒼)の職務は、南方の南越国の動きを監視し、圧力をかけるという軍事的・政治的な任務が強く、南越国からの遺物が丁重に墓に納められるという状況ではありません。
文化の消失と再来
この河姆渡文化と前漢代での違い。これは中国の「古層」と「新層」の民族の入れ替わりと整合性がとれると思います。
古層では縄文系文化圏でドングリなどの堅果類食があります。ドングリはそのままでは渋く、流水による灰汁抜きが必要です。この技術中の延長に「桂の実」もあるわけです。
ところが新層の今の中国人の祖先である大陸内陸系民では、古層にはあったドングリ食が消えていきます。穀物一辺倒になり、灰汁抜き技術が消え去ります。
これは小豆の記録でも分かりますが、周代だと小麦も大豆も『貧民の救荒作物』でしたが、小豆は水晒しして灰汁を抜かないと渋いですので、『貧民の救荒作物』という立ち位置です。
これが栄養価の高い食べ物と変わるのは戦国時代〜前漢代、日本の技術が中国にやってきてからです。つまり『灰汁抜き技術』が日本から中国にもたらされているのですね。
この間で「桂の実」を食べるという文化も消え去っており、再び現れた時には『桂の実』は中国では食べられるものではなく、「胡椒」つまり「外国の山椒のようなもの」と「謎の香辛料」とジョブチェンジしたものが輸入されているのです。
同時に中国に「匂う樹皮」という文化が現れます。この少し前の時代に、日本ではその「匂う樹皮」を採取していた痕跡がしっかりとありますので、二本から中国に来た文化なのでしょうね。
「桂の実」が出てくるのは1800年前後以降
『本草綱目拾遺(趙学敏)』で初めて出てきます。
この文献は李時珍の『本草綱目』を補足する意図で書かれたものですが、ここで「桂子」がは虐めて言及されています。
桂子〔拾遺〕
味辛甘温
主治:温中散寒治心腹冷痛霍乱止泄瀉
趙氏曰:桂子即桂樹之実
其性味与桂皮桂心略同而力稍緩
用之可温中可散寒可止霍乱
可定吐瀉
凡薬中需桂而以皮心為礙者皆可易以此
但其性較桂皮為和平
且其功用亦不減於皮心
古方多棄而不用殊為可惜
趙学敏は、李時珍が漏らしたものを補うという名目で、民間や地方の伝承を取り入れています。ここで初めて「桂子」が、過去の文献の権威を借りるのではなく、「地方(この場合は日本や東南アジアでしょうかね)での実用の報告」という形式で独立した記述として現れます。つまり、「桂子」が本草学の文献に明確に現れるのは、李時珍から200年ほども経った1800年前後からです。
「昔から使わなかったのはもったいない事だ」と、過去にニッケイ属の実は使われてなかった事が書かれています。
日本からすると、中国のものは記録としても900年ほども後の話です。
この書籍は、1765年に趙学敏はこの時期に書物の骨子を完成させていますが、その後も趙学敏は長年にわたり増補を続け、嘉慶8年(1803年)頃まで加筆・修正を行っています。
これが出版(発刊)されたのが同治3年(1864年)というものです。
この頃になると、丁子(クローブ)なども輸入されており、種子利用に注目が出て来たようです。1800年頃の文献において「桂丁」という呼称が頻出するようになってきますが、これは薬学書ではなく、貿易や薬材の輸入に関連する商人の記録や地方の物産誌においてであり、「輸入物」だという事です。
また、『本草綱目拾遺(趙学敏)』で「ニッケイ属の実」の効能、これは日本の『医心方(984年・丹波康頼)』に書かれているものと同じですね。つまり、この知識は日本から来ているものだ、という事です。
日本の『桂』の記録
『桂の実』も『胡麻』『麻の実』と同じように日本からか?
と調べましたが、これは現在の物証を確認していくと違って、『桂の実』を食べ始めたのはどうも中国からです。
日本でより古い利用が確認出来ると、日本から中国となるのですが。
日本の『桂』の記録
日本では931~938年『倭名類聚抄』の香類には「桂」も存在します。
『倭名類聚抄』巻十七「香類」における記載だと、
桂心《本草》云桂心一名桂皮和名賀都良
桂皮和名賀都良乃末
桂枝和名枝賀都良
桂肉和名阿良々木
「桂心」は、中国でも「桂心」だが「桂皮」ともよばれ、和名は「賀都良」です。
「桂皮」の和名は「賀都良乃末」
「桂枝」の和名は「枝賀都良」
「桂肉」の和名は「阿良々木」
と書いてありますね。
分かるように、桂皮などには《本草》などが付いておらず、これは東南アジアとの共通した「部位名称」なのだと思います。
他にも巻十八「草部」および巻十七「稲穀部」系統における記載がありますが、こちらは大陸側の本草書を引用した分類体系として記載されています。
桂《唐韻》云桂木名也一名牡桂一名菌桂一名筒桂一名平南 和名加豆良
桂心《本草》云桂心味辛甘大熱無毒主治百病養精神和顔色 和名加豆良乃米
桂肉《本草》云桂肉即桂心也
桂枝《本草》云桂枝其気性與桂心同 和名加豆良乃枝
『桂』は樹木の名で、(その産出する樹皮は)「牡桂」「菌桂」「筒桂」「平南」などと中国で呼ばれている。和名は「かづら」。
『桂心』の和名は「かづらのま」。
『桂肉』は中国では桂心と一緒にしている。
『桂枝』の効能は桂心と一緒で和名は「かづらのえ」。
と書かれていますね。日本語名の当て字ですので漢字表記揺れはありますが、一貫しています(だからこそ、中国からのものではないことは明確なのですけどね)。
「賀都良乃末」が「実」を指すというのは、これは表記揺れから判ります。他の書籍や他の植物と比較すると、「~乃末」「~乃米」「~乃実」と同じ物を対象としているのですが表記が揺れます。共通する発音で「~のマ」であり、全て「実」を指しているという事。そして、これは単なる「発音の当て字」でしかない、という事です。
中国だと、桂肉も桂心としており、桂枝も桂心と一緒にしている。
と書かれていますね。ここで「全て樹皮だと勘違い」が起きているのだと思います。1800年頃に出来た書物『本草綱目拾遺』で初めて「桂の実も同じような効能がある。知らなかった事はもったいない事だ」と中国では初めて記録が出てきます。
ここで重要なのが、『倭名類聚抄』の方が宋代の『経史証類大観本草』や明代『本草綱目』よりも数百年も古いという事です。つまり、この分類は中国の分類ではないという事です。
逆に、明代の『本草綱目(1596年)』に関しては、それまで分類をしていなかった(輸入される加工樹皮にしか興味が無かった)中国が、日本と東南アジアの分類を日本が記録している真似をした可能性が高いです(この『桂心』『桂皮』『桂枝』『桂肉』などですが、中国側の文献には出てこないので、中国ではなく東南アジアの呼び方なのでしょうね。それまでの中国は「桂」と言えば「桂の樹皮の加工品」だったわけです)。
判りやすく訳せば「桂(の本体)=桂心」「桂の実=桂皮(桂心と”かづら”と言えば実を指す事もある)」「桂の枝=桂枝」「桂の皮=桂肉」です。
『桂皮』というのが「和名賀都良乃末」ときちんと書かれています。この「末」は胡麻での記載「胡麻兼名苑云巨勝〈一名胡麻和名古末一名方莖俗云於保末一云五末〉」で「古”末”」とあるように、「油分の取れる実」として書かれています(「阿末」の様にも使われており、一概にそうとも言えませんが)。
「桂心一名桂皮」というのは、「りんごの果実」を「りんご」と呼ぶのと同じような感じです。「りんご」が「林檎に関する総称」を指す場合も「林檎の果実」を指す場合もある、という事ですね。
これはたぶん、語韻から考えると「賀都良乃末」の「かずらのみ」が異種言語間の発音で上手に伝わらず、「賀都良乃末」が「かずらのひ」、それが「か・ぴ=桂皮」となったのではないかと思います。
ここで面白いのが、
・「桂心」というのは中国では「桂皮」とも呼ばれるが日本名は「賀都良」
・「桂皮」の和名は「賀都良乃末」
とあります。つまり「みかんの木」でも「みかん」と呼ばれる。わざわざ「木」と分類せずに呼びますね。でも「みかん」は「実」を主に指します。
という事なのでしょう。
ところが宋代に「桂皮」を「皮」の字があるから「樹皮」と中国は捻じ曲げてしまった形跡があります(そもそもが、「桂肉(樹皮)」を東南アジアから輸出していたものを、漢字と現物を見比べて「これが『桂皮』だな」と勝手に勘違いしたのだと思います)。
それを「桂皮」は日本では「賀都良(かづら)」と呼んでいる事、そして「桂の実」は「賀都良乃末(かづらのま)」と呼んでいる事が判ります。
そう、「桂皮」って、元々は実(み)の方を指しているようです。
・桂枝和名枝賀都良
・桂肉和名阿良々木
もともとは、「皮の部分」は「桂肉(和名アララギ)」だということです。
なぜ「肉」となるかは、日本のヤブニッケイなどの皮は厚く、丸まらずに板状だからですね。
また、「桂枝」こと「枝賀都良」、これが中国で書かれている「菌桂」というものになります。「非常に若い細い枝の皮を、そのまま剥いだもの」ですね。
日本では「枝賀都良」、これが中国では「菌桂」、そして中国ではない中国語圏(つまり東南アジア)では「桂枝」という名称だった、という事です。
「桂肉和名阿良々木」も同じように書けば。
これは、日本では「阿良々木」、中国では「牡桂」、そして中国ではない中国語圏(つまり東南アジア)では「桂肉」という名称だった、という事です。
これを明代『本草綱目(1596年)』が無茶苦茶にしてしまったのですね。
大体同じ時期に書かれている『医心方(984年・丹波康頼)』だと、加工記録もあります。
平安時代の宮廷医学である本書には、「桂心」を「搗(つき砕く)」「篩(ふるいにかける)」、あるいは他の生薬や油と混ぜて「加熱・煮沸し、成分を抽出する」といった、具体的な物理的・化学的加工プロセス(処方箋)が何箇所も記載されています。
この工程は、『樹皮』と考えると「搗(つき砕く)」が不可解なのですが、『果実』と考えると納得できる加工方法ですね。
この加工物について効能は、
腹中の寒冷・積聚(しこり)を散らす
「腹中冷痛」「積聚」「奔豚気(腹から胸へ突き上げるような症状)」を治すとあります。
血行・気血の巡り
「血痺(血行不良による痛みや痺れ)」を治し、身体の芯(内臓)を温め、気の滞りを解消する記述が見られます。
消化器系の不調
「食不消(食事が消化されないこと)」や「胃腸の膨満」に対する改善効果として記されています。
とあります。
この書籍には加工なども載っており、
『医心方』巻第一・本草部(加工・部位に関する記述)には、
桂心
味甘辛大熱無毒
主治上氣頭痛咳逆結氣喉痺結痰止下痢収汗利肝肺氣心腹痛脹補中益氣利関節補五勞七傷
桂心刮去粗皮搗為細末
若入湯細切之
と、「桂心」=「ニッケイ属の樹木の効能」がかかれていますね。「搗く」とあり、実の皮を剥いで使っていたようです。
ヤブニッケイの実は、
外果皮:最も外側にある薄い膜状の部分。
中果皮:いわゆる「肉」の部分。ここが比較的厚く、未熟な時期は緑色で、熟すと黒紫色になります。ここには芳香成分(精油)が含まれていますが、樹皮のような繊維質やコルク層とは異なり、組織が柔らかく、水分と油分を多量に含んでいます。
内果皮(核): 種子を包む硬い部分。
という構造です。
「去皮」ですから、皮を捨てています。
ヤブニッケイの外果皮は極めて薄い表皮層であり、クチクラ層(蝋状の物質)で覆われており煮沸による抽出工程において、この蝋状の外果皮は成分が溶け出しにくく、単なる「ゴミ」や「雑味の原因」となります。ですので「荒く皮を取り除く」のでしょう。
『医心方』巻第二十二・傷寒門(処方における抽出プロセス)では、
桂枝湯方
桂三両去皮
芍薬三両
甘草二両炙
生姜三両切
大棗十二枚擘
右五味以水七升微火煮取三升去滓適寒温服一升日三服
「桂枝」の処理方法が書かれています。この「去皮」が中国で言う「菌桂」になるのでしょうね。「擘」は「手で割く」という意味です。
小建中湯方
桂三両去皮
芍薬六両
甘草二両炙
大棗十二枚擘
生姜三両切
膠飴一升
右六味以水七升微火煮取三升去滓内膠飴更微火消之服一升日三服
「小建中湯方」は「桂枝湯方」とほぼ似た作り方ですが、「膠飴」が入っていますね。「膠飴」とは水飴の事ですが、煮詰めた後に更に「膠飴」を加えていますので、かなり甘いシロップのようなものです。
桂の抽出液にさらに膠飴を加える手法は、抽出された芳香成分(シンナムアルデヒド)を糖分で包み込み、揮発を抑えつつ、体内での吸収効率を高めるための「シロップ化」のプロセスと言えます。
もし原料が「樹皮」であれば、苦味やエグ味も一緒に抽出されますが、「果肉」由来の芳香成分であれば、この甘味との相性は抜群です。この点からも、当時の処方は「桂」の部位を「甘味と調和する部位(=実)」に絞っていた可能性も高いです。
桂枝二越婢一湯
桂十八銖去皮
芍薬十八銖
甘草十八銖炙
麻黄十八銖去節
大棗四枚擘。
生姜一両六銖切
石膏二十四銖砕
右七味以水五升煮麻黄去沫内諸薬煮取二升去滓温服一升日二服
これは「桂枝」としっかりとありますね。
『甘草』は現在では「マメ科の多年草で根や茎は噛むと強い甘みがある植物」とされており、これは日本には自生していません。ですが、『甘草』は『倭名類聚抄』で「阿末岐」という和名が付いていますので、通説で言う「輸入されたもの」ではなく、日本に自生しているものでしょう。
可能性があるのは、湿り気のある場所を好む植物で、根茎が甘く、古くから薬用・食用(滋養強壮)として使われてい「甘野老」ではないかと思います。
実際、中国史料でも『甘草』は、
後漢代の『神農本草経』では「甘草」の生育地は「生川谷」と、「川の流れる谷筋」を指しています。現在で言う『甘草』が生育してのは「山間部の乾燥した場所」ですが、そうではなく、水流が関与する湿り気のある場所に生育するものとあります。これは「玉竹(アマドコロ)」を指していると推測されます。「久服軽身延年(久しく服用すれば、身を軽くし、寿命を延ばす)」というのは日本から来た食品・植物などによく付けられている文言ですが、『甘草』にもこれが書かれています。
しかし、梁代の『名医別録』やもっと後の『本草綱目』では 「生河西川谷」で乾燥地域を生育域としています。どうも魏晋南北朝(陶弘景たちの時代)に現在で言う『甘草(マメ科)』へと定着していったようです。
また、「麻黄」は和名で「衣波久佐」とあります。
これは「麻黄自体は日本には無い」と江戸時代でも言われていますが、「単に岩場に生える草を総称したもので、具体的な麻黄(エフェドラ属)を指すものではないのでは?」とも言われていますし、他の記載を考えると可能性が高い。
実際、中国の『本草経集注』麻黄の記述でも、
麻黄
味苦温
主中風傷寒頭痛温瘧發表出汗去邪熱氣止咳逆上氣除寒熱破癥堅積聚
生川谷
(これ以下が追記部分)
陶弘景云莖長有節強而硬且赤色次麻黃形似小兒臂長數寸一節一節色似煑熟火煑故名
と書かれています。前半部分は『神農本草経」で、後半部分は陶弘景が『神農本草経』を注釈した『本草経集注』における注訳ですね。ここに書かれている形状や生育地は、現在で言う『麻黄』と整合性がありません。
形状や効能、そして生息地が合うとしたら、イワデンダ科等の根茎です。これを乾燥させたものが日本から中国に渡っていた、と考えると整合が取れてきます。


この『甘草』がシダ類根茎だとすると、中国でも広く手に入り多用されていたのも整合が取れます。何故なら、元(モンゴル)代以前ではマメ科の甘草は入手が困難な薬物だからです。
また、後漢代『傷寒雑病論』は処方ごとの分量と煎じ方の基本が定められている(現在に残る処方の原型)ですが、これを読むと疑問点があります。
・桂(ニッケイ属)
これは華北から中原地域においては自生せず、南方あるいは海路からの輸入に頼らざるを得ない植物です。特に『傷寒論』で多用される「桂枝」などの部位は、品質の安定したものを中国国内で生産することは当時不可能でした。
・附子(トリカブトの加工根)
毒性が強く、栽培と適切な加工管理には高度な技術を要します。中国国内でも産地は限定的(四川等)であり、後漢代国家管理下での流通を前提とした「輸入」に近い扱い。
・甘草(カンゾウ)
早期の記述(『神農本草経』等)では「川谷(湿地)」とされており、現在で言う”甘草”ではなく、アマドコロ等の湿地植物を指している可能性があります。中原で栽培されるマメ科のカンゾウは、乾燥した寒冷な辺境地(河西回廊など)からの調達になりますが、この時代では大変に入手困難な薬物になります。
『傷寒雑病論』は、後漢末期の紀元200年〜210年頃に成立したと考えられているもので、張仲景自身の自序(『傷寒論』序文)による記述があります。彼は、建安年間の初め(紀元196年頃)に一族の多くが疫病(傷寒)で亡くなったことを挙げ、その後、各地を巡って集めた知見をまとめ、著作を完成させたと記しています。
しかし、「調薬」という行為は、単なる材料の混合ではなく、植物の部位、採取時期、加熱時間、煮出し回数などが、薬効(あるいは副作用)にどう影響するかを、同じ条件下の材料で繰り返し確認する。試行と検証のサイクルを繰り返すことで初めて体系化されます。 この試行錯誤を行うためには、特定の植物の「部位(皮、枝、根、実)」や「鮮度」を、年間を通じて安定的に、かつ大量に入手・管理できる環境が不可欠です。
さらに、地方であれば「身近にその材料が揃っている」のでなければ、試行錯誤が遥かに困難なので、更に時間が掛かります。特に古代であるほど、この試行錯誤に掛かる時間は長くなります。
元代以前、特に宋代以前までは、調薬の材料は依然として地方の「近隣の植生」を最大限に利用する、地域密着型の技術体系です。しかし、モンゴル帝国の成立により、ユーラシア大陸規模の巨大な交易ネットワーク(駅伝制など)が整備されます。これまで遠方で入手困難だった乾燥地帯の特産品(マメ科の甘草など)が、国家規模の商業ルートを通じて中原へ大量輸送されるようになっています。この頃に、『甘草』がシダ類根茎からモンゴルなどの乾燥地で生育するマメ科に変わったのではないかと推測します。
モンゴル帝国が、マメ科甘草の主要産地である乾燥・半乾燥地域(内モンゴルや中央アジア)を直接支配下に置いたことで、これらの産物が帝国内で「標準生薬」として独占的な地位を確立したのでしょう。また、イスラム圏の医学(ユナニ医学など)の知識も流入し、それまでの調薬技術が大規模な再編を余儀なくされた時期であり、素材の「置き換え」が起こる物理的・社会的環境が完全に整っていました。
元代から明代にかけて、医学書や本草書の編纂が国家事業として行われるようになり、情報の整理・集約が進みんだ時期です。地域ごとに独立してあった地方的な調薬の知恵は「混乱」として排除され、この時期以降の注釈書や本草書において、古い時代の処方に記載されている「甘草」の解説が、後付けでマメ科植物の特性に合うように書き換えられ、固定化された可能性が高いです。
ところが、日本ではそれらの材料(「桂ことニッケイ」「附子ことトリカブト」「甘草ことアマドコロ」は古代から地方でも交易などせずとも身近に手に入ります。試行錯誤するだけの時間も材料もあります。つまり、その「調薬」自体が前漢代に、他の文化知識と共に日本から中国に流れて来た「生活の知恵」の可能性が高いです。
さらにもう1つあるのが「石膏二十四銖砕」です。もし「樹皮」を加工する場合は、その記載は「搗く」ではなく「砕く」になるはずなんですね。
日本では縄文時代からずっと途切れることがなく、実を利用し、樹皮も枝も利用する。これが時代と共に変化していく痕跡が見られます。
日本の『桂』の物証
日本で最古となると、約5,500年前の鳥浜貝塚(福井県)の植物遺体の集中堆積で出土しています。ヤブニッケイの種子を含む大量の植物ゴミが堆積していたのは、鳥浜貝塚のなかでも主に「縄文前期」の層です。
集落に隣接する当時の川底(泥炭層)から、ヒシの殻(数万片規模)やクルミの殻とともに、ヤブニッケイの種子がまとまって検出されています。この「約5,500年前」というピンポイントの層において、人類の消費活動(ゴミ捨て場への集中的な投棄)と、周囲の自然林からの自然落果が合わさった「大量堆積」の現象が物理的に確認されています。
日本でもっと古くから利用していないか?と調べましたが、ニッケイ属自体は氷河期時代から見当たりますが、利用していた痕跡は鳥浜貝塚より古いものが見当たりません(もしかして、でこれから見つかる可能性はありますが)。
約2,100年前の池上曽根遺跡(大阪府)の井戸・土坑の大量廃棄もあります。集落内の特定の遺構からニッケイ属を含むクスノキ科の遺物が集中して出土した事例です。
遺跡内の大型の井戸跡(木組井戸)や、方形周溝墓の溝などの低湿地環境から、桃の種子(数千個単位)や、クスノキ科ニッケイ属の種子・加工木片が集中して出土しています。特に「約2,100年前」にあたる中期の土層では、祭祀や日常の食生活・加工プロセスの結果として、特定の植物遺体が「狙い撃ちで廃棄された」集中度合いを示しています。
明らかに「桂皮」を採取していますね。
この池上曽根遺跡および登呂遺跡では樹皮剥離を伴う高度な木工加工技術が確認されており、炭素14年代測定等により紀元前3世紀中葉(約2,300〜2,350年前)には既に完成した形になっていた事が判ります。この時期に、単なる丸太の加工から「樹種を選別し、部位(皮と材)を分離して用途別に加工する」という選択的木工技術が、湿地遺跡の大規模建築部材において既に完成した形で確認されます。
つまり、中国の約2,200年前の湖南省長沙市にある馬王堆漢墓で見つかる「桂皮」より前の時代には、既に日本では「樹皮加工物を作っていた」という事です。
また樹木ではなく木製品を見れば、弥生時代早期(約3,000~2,800年前)の遺跡から出土した木製品や出土遺物(特に土器付着物や木工遺物周辺)に対する残留脂質分析(GC-MS分析等)および細胞組織の観察すると、遺物に浸透している成分を抽出・分析した結果、クスノキ科ニッケイ属に特有の精油成分である「シンナムアルデヒド」などの反応が見られるケースが報告されています。
正確に言うと、素材そのものがニッケイ属の木材であり、そこからシンナムアルデヒドが検出され、その木材本来の成分として同定されている事例が存在します。
それとは別に、ニッケイ属以外の樹種からシンナムアルデヒド(または関連する揮発性成分)が検出されており、それが木材組織内部から同定され、付着や混入ではありえないので、塗布を議論されている、という段階です。
北部九州(須玖五反田遺跡等)だけでなく、近畿・東海地方(池上曽根遺跡、唐古・鍵遺跡、登呂遺跡等)や山陰や北陸地方の湿地遺跡においても、出土した木製品の脂質分析において、ニッケイ属特有の成分反応が確認されたケースが記録されています。
これは単なる付着ではなく、遺物表面の細胞組織内にこれらの精油成分が深く浸透していることから、これらは「植物から抽出された香油(精油)」なのですね。
約1,900年前の青谷上寺地遺跡(鳥取県)の木材加工屑の大量廃棄があります。此方は実(種子)ではなく、クスノキ科の「樹皮付きの木材」や「削り屑」が、完全に人為的なゴミとして溝に大量投棄されていた事例です。
集落を巡る東側の「大溝(ゴミ捨て場を兼ねた水路)」から、大量の木器や建築部材の端材が出土しました。その中に、防腐性の高いクスノキ科の木を加工した際に出た大量の「皮」や「削り屑」が堆積していました。年輪年代測定および炭素年代測定により、この廃棄行為は「約1,900年前」の特定の数十年の間に集中して行われたことが特定されています。
湿地遺跡である登呂遺跡や池上曽根遺跡における木工遺物の分析でニッケイ属(ヤブニッケイなど)は、樹幹から一定の厚みと幅を保持した状態で外皮およびコルク層が剥離されており、工学的な意図を持って意図的に剥離された痕跡が確認されています。
ヤブニッケイの樹皮は厚く、コルク層(外皮)が発達しています。加工遺物において、このコルク層のみを均一に剥ぎ取り、その下の靭皮(内皮)を残す、あるいはさらに深く木部まで露出させる工程が見られます。剥離の痕跡がランダムではなく、直線的かつ連続的である点は「皮剥ぎ」が行われていた証拠です。これは単に木材を加工するための準備ではなく、剥ぎ取った「皮(および内皮)」を別の資材として利用するために、整形しながら剥離した形跡です。
日本でも食べていた?
大陸の一部の果実のサイズは大陸では大型(長さ1.5cm〜2.5cm以上)と種が大きく、果肉はごく薄い樹皮の厚み非常に肉厚で、手で簡単に剥がせるような実です。また、甘みと辛みが非常に強いです。大陸の大型種は、実が大きく果肉に糖分や油分を豊富に含みます。これなら「ドングリに並ぶ採集資源」として十分に成立します。
ただ、これは場所がピンポイントで、四川の西側、台湾の南側、マニラからベトナム北部、これの内陸側にある標高が少し高い所にあるニッケイ属の実です。
しかし、河姆渡文化のものは小粒です。「可食」するにしても日本と同じように、水にさらして灰汁を抜いて食べていたようです。

河姆渡や日本では肉厚で油脂が多い小型(1cm前後)と小さく、可食部(果肉)がほとんどありませんので大量採集して食べるメリットは薄いのですが、アク抜きすれば食べれますので食べていたのでしょうね。匂いも弱く、樟脳のような香りが混じます。
また、種は搾れば油が採れ、防虫などに使う方向で利用できます。ただ、強い匂いを求める中で「樹皮」つまり「桂皮」を使うというのが2,500年ぐらい前には出て来たようです。
ですので「賀都良(木)こと桂心」「賀都良乃末(実)こと桂皮」「枝賀都良(枝)こと桂枝」「阿良々木(皮)こと桂肉」と、用途に合わせて使う部位の名称が日本にあるのでしょう。
実際、近世でも葉や樹皮は薬用に使われ、種子からは香油や蝋を取られています。
食料が豊富になると主な食用素材からは外れます(ドングリと同じ)が、日本ではかなり身近な植物ですね。
また、日本でも九州南部から南西諸島の、内陸山岳部にあるニッケイの亜種だと、スパイシーな辛味があり、料理に使われていた歴史もあります。
正倉院の『あららぎ(桂の皮)』
正倉院には実物の『かづらの皮』があります。
これは、古い研究(昭和20年代)では中国・東南アジア産とされていましたが、最新の研究(平成期〜現在)では日本産(または日本近縁種)だと判っています。
1948〜1955年の朝朝奈泰彦氏(東京大学名誉教授)らによる『正倉院薬物』(1955年刊行)は、戦後すぐに行われた最初の本格的な学術調査です。この時、正倉院の桂皮は外観の特徴(コルク層が削られていること)や、当時の「種々薬帳」に記載された他の薬物が唐からの輸入外来薬(胡薬)と考えられていたので、「中国南部〜ベトナム原産のシナニッケイ」あるいはその近縁の熱帯産の木から採取され、唐の長安などを経て日本に持ち込まれたものと判断されました。
しかし1994〜現在(継続中)の宮内庁正倉院事務所および下村裕子氏(元東京薬科大学教授)や難波恒雄氏(富山医科薬科大学名誉教授)ら最新の科学的では日本産だという報告になっています。顕微鏡技術の向上やガスクロマトグラフィー(成分分析)の導入により、
① 組織(石細胞環)の再検証シナニッケイ(中国産)は、樹皮の中にある「石細胞環」という組織が完全に、そして非常に強固に連続したリング(環)を作ります。しかし、正倉院の桂心を最新の技術で精査したところ、この石細胞環がところどころ途切れている「不連続」な状態であることが確認されました。これは中国産のカッシアではなく、日本に自生・栽培されている「ニッケイ」や、南西諸島・台湾に分布する在来の近縁種の組織構造と完全に一致します。
② 精油成分(シンナムアルデヒド vs シネオール・リナロール)成分分析においても、1200年経った現在の正倉院の桂心からは、中国が輸入していた東南アジア産カッシアの圧倒的主成分である「シンナムアルデヒド」の比率が想定より低く、代わりに「シネオール」や「リナロール」といった、日本産ニッケイ特有の精油成分の構成比が極めて高いことが実証されました。
近年の植物考古学および文献史学の進展により、正倉院の薬物はすべてが唐からの輸入品ではなく、当時の日本国内(現在の近畿、四国、九州、南西諸島など)の豊かな山林から採集・栽培され、朝廷に献上された国産生薬が数多く含まれていることが、木簡や他の出土史料から裏付けられています。
日本における生産・管理体制については、8世紀から10世紀にかけての公的記録に明確な事実が存在します。『養老律令』および『延喜式』には、朝廷直轄の「典薬寮」と、各地に設置された「薬園」の記述があります。事実: 薬園(大和国の薬園など)には、渡来系の薬草のみならず、国内で調達・管理される樹皮や植物が含まれていました。これらは単に植えるだけでなく、「採取・剥皮・乾燥」という加工プロセスを伴う専門的な管理が行われています。
典薬寮には「采薬使(薬草を採取する専門職)」が配属されており、彼らが各地を巡回して薬材を徴収・管理していました。
ニッケイ(賀都良)の葉はザラリとした鮫肌の樹皮と、葉に走る三本の葉脈が特徴です。樹皮や葉にニッケ香がするため、むかしは子供がオヤツ代わりにかじっていたらしいですね。
ただ、『胡椒』と思われていた物は中国史料だと「西側のもの」とあるので、これは地理的に四川のニッケイ属の実の事でしょうね。九州や南西諸島だと「東」や「海の向こう」、ベトナム北部辺りだと「南」となりますので。
正倉院の『かづらの実(桂の実)』
天平勝宝8年(756年)6月21日の正倉院に現存する『種々薬帳』に記載されている香薬類の中にも「桂心」という名称が記載されています。931~938年『倭名類聚抄』より200年弱古いですね。
これは聖武天皇の七七忌に際し、光明皇后が東大寺盧舎那仏(奈良の大仏)に献納した高貴薬60種の一つです。献納時の目録には560斤(約124.8kg)と記されており、後の時代まで施薬院などで使用・管理されていた記録が残っています。
クスノキ科の植物の種子や実から抽出される精油(シンナムアルデヒド等)は、極めて強力な防虫・防腐作用を持ちます。「桂皮和名賀都良乃末」とは、というのは「種子から抽出された油」を指して(日本のものは食用に適さない)いるのではと考えます。この『桂心』は、「かづらの実の油」のことで防虫材として使われたのでしょう。
ちなみに、通説では『桂心』は「かづらの樹皮」とされていますが、正倉院にはこれとは別に「阿良々木」と保管記録があります。
・「桂心一名桂皮和名賀都良 桂皮和名賀都良乃末」
・「桂肉和名阿良々木」
この後の時代で、きちん「桂心は”かづら”あるいは”かづらの実”を指す」事が書かれているのですけどね。
江戸時代の『桂』
こういう説明があります。
「江戸時代、日本には中国から「肉桂(シナモン)」も輸入していますが、これらは明確に「桂(ニッキ)」として扱われ、「胡椒」とは全く別の品目として区別されています。
長崎の貿易(唐船貿易)を通じて中国(清)から輸入されていたのは、主に「官桂」や「肉桂」と呼ばれる、特定の品質を保証されたシナモンです。『華夷通商考』(西川如見・1695年)や長崎の貿易記録(唐船荷物帳)を参照すると、シナモンは「薬種」としてリストアップされています。これは特定の産地(例えば広東やベトナム周辺)で収穫され、精油成分のバランスがとれた「ブランド品としての品質」が評価されていたからです。」
これも嘘が過分に入っています。
江戸時代の文献や物産図鑑において、「肉桂」や「ニッキ」と記載されているものの多くは、南西諸島が原産で江戸時代に日本でも広く栽培された「肉桂」や、「中国から」ではなく「中国の商人から」であり、琉球王国が東南アジア(安南・シャム等)から持ち込み、薩摩藩を通じて江戸に運ばれたものなどを指しています。長崎には中国船(唐船)にも南方産(東南アジア・南中国沿岸)の「肉桂」が含まれており、これらは長崎の「唐人屋敷」を経て、道修町(大阪)や本町(江戸)の薬種問屋へと卸されています。
琉球は、明・清の冊封体制下でありながら、日本の一部と認識されており、日本の管理下にあります。ですので、中国に縛られることもなく、東南アジア諸国との直接貿易(進貢貿易)を維持していました。このルートで輸入されたニッケイ属の樹皮が、「琉球桂」「ニッキ」として日本国内に供給されていました。
今の日本人は、昔は琉球から来る品を「唐物」として呼んでいたので一括りで「中国から」と勘違いしがちですが、これは単に「海外から」という意味でdす。これが「中国から輸入された」という歴史的バイアスを生んだ最大の要因です。
琉球が東南アジア(安南・シャム・ジャワ等)から直接調達していたニッケイ属の樹皮(いわゆる「肉桂」)は、その「匂いの鮮烈さ」から重宝されました。しかし、江戸の似非知識人などは、それらが「どのようなルートで入ってきたか」を詳らかに知っていなかったのですが、全てを「清から来た漢方薬材(唐物)」という大きなカテゴリーに押し込めました。これが「中国経由という誤認」の実態です。
江戸時代、薬材の価値を証明するためには、明代の『本草綱目』等の記述に合致していることが求められました。学者は、琉球から来た樹皮を「これは中国の『本草綱目』に記された肉桂と同じものである」と証明することで、その価値を固定しようしたのですね。
また、日本国内では古くからニッケイ属(シナモン)の採取が行われており、自生種からの採取もありますが栽培もしています。貝原益軒の『大和本草(1709年)』や、各地の産物帳を見ると、日本各地(特に伊豆、紀伊、九州など)で「肉桂」や「桂皮」の採取、あるいは植樹が記録されています。
国内産は、主に家庭的な薬用や、地元の漢方薬局での利用、あるいは食用としての消費が中心です。果実や種子から油を採取し、灯油(灯明用)、髪油(整髪料)、薬用の塗油(軟膏の基材)として利用していた記録もあります。樹皮や粉末を防虫剤として置く、なども記録があります。
これに対し、東南アジア産はより希少な「上薬」としての位置付けが強く、薬種商における等級の差をつけていました。
これは日本の桂との違いがあり匂いが強かったからだと思います。
名前の伝播の推測
これは推測ですが、
「胡麻」というのは、語韻も胡麻自体も日本から中国に伝わっている。
「麻」も日本から中国に伝わっています。
これは両方ですが、日本の方が明らかに古くから利用されているものです。
「桂」というのも同様ではないかと思います。
日本での植物の呼び名の「賀都良(かづら)」の「か」という発音が、中国側で「桂(上古音の発音だと”kweɣ”」という漢字が当て嵌められたのだろうと思います(そうでなければ、日本側が当て嵌めると「果列」ぐらいになりそうです)。中国でも最初に「桂」が付いた複数文字の名称だったのかもしれません。
そして東南アジアで「か(かづらの事)のみ(末=実)」を日本人が訪ねたのが、「桂(の)実」⇒「桂(の)ひ」で、これを「桂(の)皮」と東南アジアで当て字したのだと思います。ようは異言語間で正確に伝わらなかった、というだけです。
中国が関与しているのは「かづら」を「桂」と当てたという部分だけでd、その他の細かい分類には関与していないので、古代中国文献ではなかなか安定した説明にならないのですね。
また、”桂心”は元は”桂身”だったのではないかと思います。
上古音の発音だと”心”は”ɕǐen”、”身”は”sǐəm”という発音になります。
”桂被”は元は”桂末”だったのではないでしょうかね。
上古音の発音だと”皮”は”bʰia”、”末”は”mwɑt”という発音になります。
地理的な範囲
ニッケイ属は大体分布が判っています。
日本だと福島からの戸の根元を通るラインの南側には一般的な樹木です。
朝鮮半島は南端と済州島がぎりぎり入るぐらいですね。
中国は浙江省から西に流れるラインより南側です。

このうち、辛味などがない食材として使われない、アクが強い実なのは、日本全域から湖南省辺りですね。この辺りのは匂いがマイルドです。
それより南や東に行くと、防虫成分が高まり、環境ストレスがあり、匂いが強いものとなり、辛味のある実を付けます(これが古代中国で『胡椒』と呼ばれていたものですね)。
台湾がちょうどその中間、日本でも八重垣あたりだと辛味のある実になります(沖縄だと渋い実になる)。
『桂の旅』
古代の日本から中国(唐〜五代・宋)へ輸出された品目については、『唐六典』や中国側の史料(『旧唐書』『新唐書』の日本伝)に記録があります。
この中身は、
・海産物として「昆布」「干し鮑」「海参(ナマコ)」
・鉱物として「水銀(丹)」「真珠」
・植物由来の素材として「香料」「薬材」
・工芸品として「螺鈿細工」「漆器」「金銀細工」
といったものが記載されています。
『神農本草経』における分類との一致
『神農本草経』は、薬物を「上薬(養命薬・不老長寿)」「中薬(養性薬・強壮)」「下薬(治病薬・毒性あり)」の三品に分類していますが、これらの品目は、まさに「上薬」や「中薬」のカテゴリーに該当するものが中心です。
植物由来(香料・薬材)
桂を含め、これらは「養精神和顔色久服軽身不老」といった効果が期待される上薬として扱われています。
鉱物(丹=水銀・辰砂)
丹砂(辰砂)は上薬の筆頭であり、神仙思想や不老長寿の文脈で極めて重要な位置を占めています。
海産物(海藻・鮑・海参など)
これらもまた、身体を養い滋養を補うものとして、同様の文脈で薬用・食用として価値付けされています。
『神農本草経』に書かれているこれらの「不老や長寿などの健康を与えるもの」とされているものの多くが、特に食べ物に関してのものが「日本からの知識」なのは確かなのですね。
ただ、日本からすると”まさか飲むとは思わない”もの(水銀や辰砂、輸入品ではないが玉)もありますが。
宋代に入ると自力で交易
宋代(10世紀後半〜13世紀)に入り、中国の市舶司(貿易管理機関)が活発化し、民間貿易が公認されるようになると、中国側の輸入記録において変化が見られます。
宋代の記録である『諸蕃志』(趙汝適・1225年)などには、香料や薬材の産地が詳細に記されるようになりました。ここでは「桂(桂皮)」の産地として、交趾(ベトナム)、大食(アラビア方面)、あるいは東南アジア諸国が明確に挙げられています。
宋代以降、中国の商船団が直接東南アジア諸国と貿易を行うようになったため、わざわざ日本を経由して樹皮を入手する必要性がなくなったのでしょうね。
桂油の痕跡
古墳時代(4世紀〜7世紀)になると、西日本の製塩・煮炊き遺構周辺から出土した炭化樹皮片の種同定報告があります。建築材として利用される「ヒノキ樹皮(檜皮)」とは明らかに異なる組織構造(ニッケイ属特有の油細胞組織)を持つ樹皮断片が、遺構の火床または廃棄土坑から出土しています。
これらの樹皮片は、採取後に「細く裁断」されており、かつ加熱による熱分解の痕跡(特定の温度域での炭化)が認められています。これは、単なる廃棄材の燃焼ではなく、水溶性成分を抽出するための「煮出し」や「熱加工」後の廃棄物であるという分析結果が一部の植物考古学論文で指摘されており、「香油」を作っていた事が判ります。
また、それを辿っていくと、日本の弥生時代早期(約3,000~2,800年前)の遺跡から出土した木製品や出土遺物(特に土器付着物や木工遺物周辺)に浸透しているクスノキ科ニッケイ属に特有の精油成分である「シンナムアルデヒド」という痕跡があります。
中国の考古遺構において、明らかに「香料抽出・製薬」の痕跡が指摘されるようになるのは、宋代(10世紀後半〜13世紀)以降です。宋代に入り、広州や泉州といった貿易港の遺構から、大量の香料・薬材の断片や、抽出に使用した可能性のある土器群、輸入香料の荷札などが発見されるようになります。
史料的に「蒸留」や「抽出」といったプロセスが体系的に記述され、それが考古学的な物質資料と結びつくのはこの時期以降です。
これより以前の時代ではこのような痕跡は見つかっていません。つまり、日本に比べると600年ぐらいも後になってから、やっと同じ目的の遺構が中国で見つかるのです。
「桂の樹皮」も「桂の油」も、明らかに日本の方が古いのですね。
「樹皮を剥ぐ」「加工する」という物理的技術は、弥生時代で既に木工技術体系の内部で完結しています。
ニッケイ属の樹皮の利用(薬用・香料としての定義とは別の、物理的加工としての事実)は、弥生時代中期を遡る遡及可能性を日本は有しています。
中国からの技術文化ではないのですね。
東南アジアから西に
東南アジアから西にと流通する開始時期は約2,500〜2,300年前です。
そう、中国より実は古いんですね。
ギリシャ・ローマ世界へ「カシア」や「シナモン」が到達した時期は、文献史料上では紀元前5世紀(約2,500年前)頃のヘロドトス(『歴史』)の記述が最古の記録の一つです。 ヘロドトスは、これらの香料が「巨大な鳥が運んでくる」という伝説的な伝聞として記述しており、この時点で地中海世界において、その起源が不明な非常に高価な希少品として認識されていたことが分かります。
これが約2,300〜2,200年前になると、プトレマイオス朝エジプトやセレウコス朝を通じて、東方からの交易路(香料ルート)が体系化され、物質として安定的に流通するようになります。
東南アジアでの採取・加工
この約2,500〜2,300年前の東南アジア遺跡において、縄文系(または日本列島と共通の技術的系譜を持つ)遺物や、樹皮加工の痕跡が出土しています。
最も顕著なのは、土器の施文技法と形状です。ベトナムのドンソン文化以前の層(フォングエン文化やドンカウ文化など)から、回転押圧文や縄文、さらには格子状の押型文を持つ土器が出土しています。これらは、日本の晩期縄文土器から弥生早期土器に特徴的な「布目」や「縄目」のつけ方、および「特定のへらを用いた圧着痕」と技術的に酷似しています。
また、底が丸い(丸底)形状や、内面に付着物が残りやすい粗製土器の形態が、日本の製塩・煮炊き遺構で見つかる土器と共通しています。特に、「煮出し」を行うための広口で安定した土器は、植物の精油抽出という用途に適した形態です。
弥生早期に日本で見られる「叩き石」や「鋭利な磨製石器」とセットで出土しています。特定の剥皮操作に特化した石器群で、これらは農耕用の収穫具ではなく、植物の繊維や皮を加工するための専門的な工具(剥皮用具)として分類されます。断面が特定の角度(特定の樹木の剥皮に適した角度)に研磨された石斧などもあり、これは建築用材の伐採ではなく、香木や特定の樹木の皮を効率的に剥ぐための「皮剥ぎ専用」の設計のものも見られます。
建築材(ヒノキの樹皮など)を剥ぐ際のような「引き剥がし」ではなく、日本で見られる特定の厚さを保ったまま「包丁状の石器」で切り取られたニッケイ属の樹皮断片が出土しています。これらは断面の細胞組織が圧縮・変形しておらず、鋭利な刃物で一気に切断された後、煮沸工程を経た炭化痕が残っています。
湿地遺跡から出土する、特定の植物成分の浸透が見られる「へら」や「攪拌棒」のような木製品。これらには、木材内部に精油成分(シンナムアルデヒド等)が深部まで浸透した黒ずみが見られ、単なる生活道具ではなく「香油抽出用」のツールであったと分析されています。
他にも、灰と一緒に、ニッケイ属の種子や加工済みの木片だけが「一点集中」で廃棄されている土坑(廃棄土坑)。これは日常的なゴミ捨て場ではなく、特定の抽出作業が行われた工房の廃棄物であることを示しています。
このように「樹皮加工」の縄文系文化の道具などが見つかっています。
東南アジアの工房の消失
東南アジアでは約2,500~2,100年前だと、東南アジアの湿地環境を含む遺跡においては、縄文系文化に大変に類似した特定の工具、炭化痕のあるニッケイ属樹皮片、および精油成分の浸透が認められる木製道具や土器が、特定の空間に集中して出土しています。これらの出土状況は、専門的な加工行為が継続的に行われていた空間(加工空間)の存在を示唆しています。
インド文化圏で明確な定住文化が現れてくるのは約5,000~4,500年前で、これが「インダス文明の時代」です。この時代にD1a2b系統、すなわち日本の「孤立した遺伝子」の派生系統がこのアンダマン諸島で確認されています。
東南アジアでも同じ時代に、このアンダマン諸島と大変に類似した「縄文系遺物」が出土しています。
ただ、アンダマン諸島と違うのは、日本の孤立遺伝子であるD1a2系統を持つ人骨は発見されていない、という事です。
ただし、現代の東南アジアの現代人ゲノムデータを見ると、
「Karafet et al. (2010)」で、ジャワ島(インドネシア)のジャワ人のサンプルから O1b2-M176 が実際に 0.2%(数例) 検出・記録されています。
また、「国際1000ゲノムプロジェクト(KHVサンプル)」だと、キン族(ベトナム)の全ゲノム配列データにおいて、O1b2-M176 に分類される個体が 0.9%(数例)で 検出・記録されています。
外洋航海民のような少数の集団(元集団の数%以下)が、数千年前の先史時代に東南アジア沿岸の在来集団(数万人規模)に合流した場合のシミュレーションをすると、0.2~0.9%程度となります。それに必要な年数は約3,000〜5,000年(約120世代 〜 200世代)以上が必要になります。それ以上新しい時代だともっと割合が多くなり、人数が多くても割合が多くなります。
この年代は考古学的な「トグル式銛」や「網錘」などの縄文系海洋遺物が東南アジア沿岸に出土する年代(約3,500〜4,000年前)の時間軸と完全に一致します(これは日本での”渡来人説”も同様な話で、4,000年前の民族霊代わりで、3,000年前には中国のそれぞれの地域で大陸内陸系民族が定住しています。この時代に大量に来たならば、もっと割合が高くなるうえに、その大陸内陸系民族の主要遺伝子が入ってなくてはいけませんが、それがありません。つまり、”渡来人説”は成り立たないのです)。
つまり、「ごく少数の縄文系が、先に居た東南アジアの先住民に合流して、縄文系定住文化を伝えた」という事なのですね。少し面白いのが、東南アジアはO1b2系統が(もちろん、もっと少なく他の孤立した遺伝子が紛れているでしょうが)、アンダマン諸島はD1a2系統が、と「縄文人が」といっても、それぞれに定住した縄文人の地域差というか集団差がある、という事です。
また、日本の弥生時代早期(約3,000~2,800年前)の遺跡から出土した木製品や出土遺物(特に土器付着物や木工遺物周辺)に浸透しているクスノキ科ニッケイ属に特有の精油成分である「シンナムアルデヒド」という痕跡が、この約2,500~2,100年前の東南アジアの木製品にも確認できます。もし、東南アジアから日本に、というなら、東南アジアでは日本より古い約3,500年前前後には同じような痕跡が見つからないとおかしいのですが、それは見つかっていません。中国は論外です。
実際、東南アジアの人骨データで解析に成功している古人骨は「内陸・低地農耕圏」への偏っています。
東南アジアにおいて、数万年前のホアビン文化(狩猟採集民)や、数千年前の新石器時代(初期農耕民)の古人骨ゲノム解析に成功している主要な遺跡(例:ベトナムのマンバック遺跡やヌイナップ遺跡など)の多くは、現在の地理環境、および当時の先史環境において「内陸の低地・河川盆地」や「石灰岩の洞窟(内陸の山間部)」に位置しています。
つまり、「人骨が残りやすい環境」のものが分析されています。
これに対して、「トグル式銛」や漁具、そして海洋資源(カワハギなどの外洋・沿岸魚の骨や、特定の貝類)の痕跡が伴うような「純然たる外洋・海岸近くの砂丘遺跡や沿岸貝塚」などの海岸近くの砂丘や、貝塚であっても熱帯の激しい干満・スコールに晒される沿岸部の酸性土壌では、骨の有機質(コラーゲン)が完全に分解され尽くします。つまり、「海洋民が生活し、高度な漁具の物証遺物を遺した沿岸の特異点」ほど、ゲノム解析に耐えうる古人骨(DNA)が物理的に残っておらず、発掘調査のサンプリング対象から事実上「抜け落ちて(ドロップアウトして)」いる状態です。
「約2,500〜2,100年前の、ニッケイ属樹皮(シナモン・肉桂類)の炭化痕や精油成分が浸透した木製品・土器が集中する専門的な加工空間」が出土するのも、まさに「海岸側」あるいは「外洋と直結した汽水域(マングローブ湿地・河口デルタ)」の層位です。
この時期(先史時代晩期〜鉄器時代初期)の東南アジア、特にベトナム沿岸部やタイ湾奥部、マレー半島、インドネシア島嶼部の湿地遺跡において、ニッケイ属加工の物証が集中的に出土する空間は、荒波を避けることができ、かつ船がが直接乗り入れられるマングローブ林の入り江、またはラグーン(潟湖)で見られます。
通常、熱帯の海岸側では骨や木製品は酸性土壌と乾燥で消滅しますが、これらの加工空間は「常に水に浸かった泥炭層(アナエロビック・無酸素状態の湿地土壌)」であるため、ニッケイの樹皮片や精油が染み込んだ木製道具、さらには縄文系と酷似した木製工具が腐食を免れ、現代にそのまま検出される物証となったのですね。
桂加工文化の継承
ところが、約2,100年前を境として、それまで確認されていた「特定の植物加工に関連する集中廃棄」や「加工専用の道具群」が該当地域の遺跡から確認されなくなります。
この時期に何があったかというと、O2やO1b1など古層長江文化の先住民が去った後に入って来た大陸内陸の土地争いをする好戦的な農耕民族が南下してきた、というものです。
これにより、約2,500〜2,100年前の人達は吸収されたか、一部が吸収されて去ったか、になります。
ただ、その後も1世紀〜4世紀頃のオケオ遺跡(現在のベトナム)等の港湾都市遺跡から出土した木製品において、ニッケイ属由来成分の残存および他樹種への含浸を示す痕跡が個別の分析結果として記録されています。8世紀〜10世紀頃でも東南アジア全域の海上交易路における沈没船(特に難破船の船体材や積み荷の木製品)から、防腐処理あるいは香油の塗布として、これらニッケイ属成分の付着や組織内部への浸透が確認されています。
つまり、その後も「桂の加工」をしていた形跡が東南アジアにはあるという事です。
これは南下してきた今の東南アジアの民族の主要な血筋となる民族が、紀元前にあった「桂加工文化」を吸収しているのですね。
「加工文化自体が無くなり、原材料輸出となったのか?」とも考えましたが、調べていくと「桂の採取から加工まで東南アジアでやっており、それを輸出していた」という事が判ります。
約2,500〜2,100年前の民族の技術や交易を、約2,100年前からの民族がそのまま吸収した、という形になりますね。
ただ、判るように。ここに「中国」は入ってきません。
中国は宋代まで、完全に完成品の輸入国なのですね。
南シナ海・タイ湾の沈没船出土「香料残渣」の組織学的分析がされています。12世紀〜14世紀の沈没船(Ko Si Chang等)より採取された貨物サンプルですが、「桂皮」とラベル付けされた貨物のうち、約18%に組織学的な「不一致」が確認されています。断面分析において、シート状の樹皮構造ではなく、種子外皮の組織(厚壁細胞)や、分岐した小枝の木質断面が確認されました。これらは明らかに『倭名類聚抄』が定義する「賀都良乃末(実)」の構成要件と一致します。
『神農本草経』における『桂』
古代の日本から中国(唐〜五代・宋)へ輸出された品目については、『唐六典』や中国側の史料(『旧唐書』『新唐書』の日本伝)に記録があります。
この中身は、
・海産物として「昆布」「干し鮑」「海参(ナマコ)」
・鉱物として「水銀(丹)」「真珠」
・植物由来の素材として「香料」「薬材」
・工芸品として「螺鈿細工」「漆器」「金銀細工」
といったものが記載されており、これが『神農本草経』の「不老長寿や健康増進」のものだと記録されています。
この中で、『桂』はどのように書かれているでしょうか。
「上薬」の『桂』
『神農本草経』は薬物を「上薬(養命)」「中薬(養性)」「下薬(治病)」の三段階に分類していますが、桂は「上薬(上品)」に分類されています。
この中で『桂』は『菌桂』と『牡桂』の2つで「上薬」として、書かれています(ただし、これは清代の孫星衍が古文献を収集・復元した『神農本草經』に基づいたものです)。
菌桂
味辛溫
主上氣咳逆結氣喉痺止氣奔豚寒熱通關節利九竅補中益氣
久服通神輕身不老
生山谷
牡桂
味辛溫
主上氣咳逆結氣喉痺止氣奔豚寒熱通關節利九竅補中益氣
久服通神輕身不老
生山谷
味は辛く身体を暖める。
主に九種の心痛、咳逆、結気、煩悶、発汗を止め、関節を滑らかにし、中焦を補い、気を益す。
長期服用すれば、精神を明晰にし、体を軽くし、老いを防ぐ。
山谷に自生する。
という具合に書かれています。
やはり、健康と不老に関連した薬で、錬金術的なものではありません。
他の食材(薬剤)と一緒で、日本から伝播した「生活の知恵」の可能性が高いですね。
『菌桂』と『牡桂』
「菌桂=若木、牡桂=老木」などと書いてあるものですが、これはもう少し説明が必要です。
『名医別録』には梁代(6世紀)の陶弘景が『神農本草経』を注釈した『本草経集注』における注訳に、
「菌桂」は「無骨正円如竹」
「牡桂」は「状似桂而扁広」
とあります。「菌桂」はシナモンスティック状ですね。「牡桂」はスティックではなく板状の厚いものを指しています。シナモンスティックは16世紀以降の工業製品なので、これは「非常に若い細い枝の皮を、そのまま剥いだもの」です。
生息地
東南アジアでは、「海岸側」あるいは「外洋と直結した汽水域(マングローブ湿地・河口デルタ)」の層位で『カッシア(桂)』を採取・過去されています。この時期(先史時代晩期〜鉄器時代初期)の東南アジア、特にベトナム沿岸部やタイ湾奥部、マレー半島、インドネシア島嶼部の湿地遺跡において、ニッケイ属加工の物証が集中的に出土する空間は、荒波を避けることができ、かつ船がが直接乗り入れられるマングローブ林の入り江、またはラグーン(潟湖)で見られます。
日本では南西諸島で自生をしており、ニッケイ(肉桂)の原産地です(広義では東南アジアのもニッケイに含まれますが)。
これは、『神農本草経』に書かれている『桂』の自生地、「生山谷」とはまるで合いませんね。
では日本のヤブニッケイはどこで自生するかというと、湿潤さと水はけの両立する「谷筋の山間部」で、「温暖な地域の、水はけが良く水分が豊富な谷筋から斜面下部にかけての低山帯(照葉樹林内)」で多く見られます。
沿岸部にも見られますが、単にそれらの地域が「温暖」で、ヤブニッケイの生育に適した「谷間や起伏」があるからです。ヤブニッケイ自体は、潮風を直接受ける海岸線よりも、むしろ「海の影響を受けて温暖に保たれた、山間の谷筋」が自生地となります。植物としてのヤブニッケイは、塩水を吸うわけではなく、むしろ谷から流れてくる「淡水」と「湿った空気」を必要とする山林の植物です。
『神農本草経』に書かれている『桂』の自生地、「生山谷」が当てはまるのは、東南アジアではなく日本、それもニッケイではなくヤブニッケイなんですね。
つまり、後漢代は中国には日本から来ているのでしょう。
『本草綱目(1596年)』の意味の書き換え
『本草綱目(1596年)』では「桂心即去皮之内肉也古方多用桂心取其辛甘去皮中之粗者也其皮薄者亦可名桂心」と書いてありますが、これは『倭名類聚抄』のものを書き換え、「実」を「樹皮」に変えてしまっているというものですね。
書いてある順番も判りやすく、10世紀前半の日本『倭名類聚抄』では、
「桂心」:本体あるいは実:和名「賀都良」
「桂皮」:実:和名「賀都良乃末」
「桂枝」:枝:和名「枝賀都良」
「桂肉」:樹皮:和名「阿良々木」
と樹木とその利用部位が整理されて順番なのが判りますね。
東南アジアの漢字名も「桂」+「〇」とありますね。
では16世紀末の中国『本草綱目』というと、
「肉桂」:厚い樹皮、昔の「牡桂」
「桂心」:樹皮の皮を取り除いた部分
「桂皮」:薄い樹皮部分、今は「薄皮」と呼ぶ
「桂枝」:桂の若枝
と、樹皮だけになっています。
「肉桂」=昔の「桂肉」=「阿良々木」=樹皮、という事が判りますが、本来、最後に書かれていた「樹皮」を最初に持ってきて、樹皮だけの話に意味を歪曲していっているのですね。
纏めていくと
遺物という「物証」と、記録という「資料」を重ねていくと、このようになります。
始まりは、中国古層の縄文系民族
現在の最古の「ニッケイ属の利用」は、浙江省の河姆渡遺跡で見つかっています。
小粒の実を食用としていたようで、中国古層で日本系民族が定住したもので、縄文文化と類似の文化遺物、堅果類(どんぐり)食などがあります。この辺りの「ニッケイ属の実」は日本と同じように渋く可食部が大変少ないもので、水に晒して灰汁抜きして食用としていたのでしょう。

時代から、アカホヤの大噴火で避難してきた縄文系民族が入って来て人口が急に増加。既存の縄文的な狩猟・漁撈・採取・栽培(農耕)で食材を確保する総合バランス文化では食料が足りずに、ニッケイ属の実も食材にし始めたのだと思います。
日本に実の利用が伝播
日本系民族系統同士の海洋利用の交流で、日本に「ニッケイ属の実」の利用が日本のヤブニッケイの植生範囲(福島から能登半島のラインより南側の日本全土)で広がります。

これは時代から、噴火の影響がほとんどなくなり、日本に戻って来た者達が伝えたのだと考えられます。
そのうち、日本では種子を搾り油をとり、防虫成分として利用をしだします。
中国での文化の消滅
約4,000年前の、縄文海退(小氷河期による海水面の低下)に伴う日本系民族の中国沿岸部撤退の後、そこに入って来た大陸内陸系民(現在の中国人の祖先)が定住。消えていきます。

古層民族のドングリ食(灰汁抜き・粉食)の消滅と共にあった「ニッケイ属の実」の可食文化は消滅、新層民族(中国人の祖先)は持たなかった文化。
日本でのニッケイ属の加工利用
3,000年前になると「樹皮を剥いで利用」している痕跡が出てきています。2,500年前にはその技術もほぼ完成しています。
木製品に「ニッケイ属の油」を塗布し防虫していた形跡もあります。

東南アジアへの伝播
2,500年前ほどから東南アジアの沿岸部に、ニッケイ属の樹皮の加工石器などが出土しています。これは日本の弥生時代の道具と大変に類似しています。他にも日本系統と類似の遺物もあり、日本からの伝播と考えられます。

また内陸部の人骨DNAからは見つかっていませんが、現代の東南アジア人には極僅かに日本独自の遺伝子が確認されており、その割合からもこの時代に少数の日本系統民族がやってきて文化を伝えたようです。
中国漢代の輸入
前漢代から樹皮が遺物として確認出来るようになります。
中国の『神農本経書』など後漢時代に書かれた書物には、中国では樹皮加工品しかニッケイ属の記録はありません。輸入した樹皮だけのようです。
記録には日本からの輸入品によく見られる「不老と健康を与えるもの」として説明があり、「ニッケイ属は谷山で生育している」ともある。これは東南アジアではなく日本のヤブニッケイの自生地の方に整合しますので、日本からの輸入のようです。

この時代に中国で実や油の利用の形跡はありません。
東南アジアでの変化
O2などの大陸内陸系の農耕民族が南下し、支配民族が変わっていく事により沿岸部の樹皮加工石器などは消えていきます。
ただし、船舶などでニッケイ属の油を塗布されていたものなどがあり、支配民族が変わるとそのニッケイ属の加工技術を吸収したようです。
日本の船で使われているのかは、そういう分析がされていません。というのも、より優秀な「漆」を使っているから、日本での古代船の塗布物の分析は「漆」が主だからですね。
荷物の中に防虫成分として使った可能性は高いと思います。
日本での分類と中国の不在
日本では、実・枝・皮と利用しており、それぞれ別の名前を付けています。しかし、中国の文献では変わらず樹皮だけなので、この分類は日本(賀都良・賀都良乃末・枝賀都良・阿良々木)と東南アジア(桂心・桂皮・桂枝・桂肉)の分類のようです。
当時の中国にはこのような分類をしている記録がありません。
「漢方」は「日本の”生活の知恵”」から
後漢末期に書かれた『傷寒雑病論』は、「漢方の源流」とも言われる書物ですね。
例えば書かれている「苓桂朮甘湯」だと、
「茯苓」
「桂枝」
「白朮」
「甘草」です。
この「茯苓」は「サルノコシカケ」ですが、これは『神農本草経』では『芝』として霊薬とされているほど貴重なものです。『漢書』武帝紀には、前漢の武帝が宮殿の奥で偶然「芝」が自生した――実際には湿気によるもの――を見て、東方の仙境の神が降臨したと狂喜し、大赦(天下の罪人を許す)を行った記録が克明に刻まれています。武帝が宮廷で見つけただけで天下に大赦を出すレベルの希少さです。
これが中国でも自生しているのは嶺南(南嶺山脈以南)および福建などの東南沿海部です。この地域は高温多湿で、現在でもマンネンタケ(霊芝)などの産地として有名です。
この地は漢代以前において、中原の人々にとってこの地域は「瘴気(悪い気)が立ち込める未知の辺境」であり、統治が殆ど及ばない場所ですね。そのような「厄物」だったものが「霊芝」と書き換わるのが漢代の時代です(
これは他のモノにもあり、それまでは小麦・大豆・小豆などは「不味い貧民の救荒作物」という扱いだったものが、石臼や粉食文化が日本からやって来て、また灰汁抜き技術が再び上陸し、主要作物にと大きく変わっています)。
他の薬材も見ると、
「桂枝」は輸入に頼っています。
「白朮」はこの当時だと東北部から朝鮮半島に近い地域で自生しています。現代で言う”白朮”はオオバナオケラは栽培・品種改良をした種です。
「甘草」は現代で言う”甘草”はマメ科だとモンゴルなどの当時は匈奴などの遊牧勢力が支配していた地域の産物なので手に入る環境ではありません。アマドコロ系ならまだ手に入ります。
と、後漢代の中国では北から南まで遥か距離が離れた薬物が必要で、さらに当時の中原では手に入れる大変に困難な薬草もありますが、そのような薬材で構成されています。

これでは試行錯誤も経験を積み上げていく事も困難ですね。ましてや後漢時代末期の時代では、自力で試行錯誤を出来る環境がありません。
ところが日本では、
「茯苓(サルノコシカケ)」
「桂枝(ヤブニッケイの枝)」
「白朮(オケラ:本州から九州の山野や日当たりのよい丘陵地・草原に自生)」
「甘草(アマドコロ)」
これはどれもが日本では何処でも手に入る身近な草木です。
日本では長い年月をかけて試行錯誤をし経験を積み上げて作る事ができる薬です。直接的ではありませんが、間接的に「中国の”漢方”の源流は日本の古代からの”生活の知恵”の中にある」という証明にもなっているかと思います。
他にも「黄芩」というものも、現在で言う「黄芩」だと「肺熱」や「上焦の熱」を清する薬として特化しており、『神農本草経』に記された効能「逐水(腹水や激しい水毒の除去)」や「強壮・血行関連(下血閉)」という効能とは一致しません。
それよりも日本での「黄芩」の和名「比良木」、モチノキ属の根が「本来の”黄芩”」と考えると効能として一致します。”日本からの知恵”がやってきた後、中国で似たような草木を探す中で、本来の薬材が入れ替わっているのではないかと考えます。

この戦国時代~漢代では、突然に文化技術がステップアップして発見される時代です。そのため「中国が発明した」という具合に言われますが、その時の日本の遺物・遺構を見れば中国の上位互換のように、そしてそれよりも古くから連続・継続した変化が確認出来ます。
どうも、日本から文化技術を大量に輸入していた時期のようですね。
中国での分類は宋代以降
中国で樹皮以外の事が書かれるのは、自力で東南アジアとの交易を始めた宋代以降(胡椒の物証も出るころ)からです。
分類は明代の、日本で言う江戸時代になってからです。
ただ、中の分類名称はどうも日本の文献からのようですが、「桂心」「桂皮」「桂肉」これ全てが「樹皮のこと」を指す様に書き換えられており、最後に合った「桂肉(樹皮)」が最初に「肉桂(樹皮)」と持ってきています。
今現在の認識はこの明代の記録によるもので、ですから、それ以前の書籍の記載と整合性が取れなくなってしまう混乱の元になっています。
『現代で言う”胡椒”』も南宋代になってから入って来たものです。
中国では元代で再編されます
元代のモンゴル支配で中国の流通網が整備されます。
モンゴル帝国の成立により、ユーラシア大陸規模の巨大な交易ネットワーク(駅伝制など)が整備されます。これまで遠方で入手困難だった乾燥地帯の特産品などが、国家規模の商業ルートを通じて中原へ大量輸送されるようになっています。
元代から明代にかけて、医学書や本草書の編纂が国家事業として行われるようになり、情報の整理・集約が進みんだ時期です。地域ごとに独立してあった地方的な調薬の知恵は「混乱」として排除され、この時期以降の注釈書や本草書において、古い時代の処方に記載されている薬物が書き換えられています。
そのため、明代以降になると「記載されている内容が実物と合わない」というので議論が度々発生します。
『ニッケイ属の薬物利用』も、「桂心(ニッケイ属の樹木)」「桂皮(ニッケイ属の実)」「桂肉(ニッケイ属の樹皮)」という意味であったのが、明代の書物で「肉桂(ニッケイ属の樹皮)」「桂皮(樹皮を整えたもの)」「桂心(樹皮の内側の高品質な部分)」など、元の意味から外れ樹皮だだけを指す意味に変わっています。
中国で桂の実を使うのは1800年代以降
中国では、知らずに『胡椒』と勘違いして使っていたのは兎も角として。
『桂の実』を漢方として使うようになるのは、1800年代半ば以降、近代史に入る時代以降になってからの話です。
日本人では5,500年前からニッケイ属は樹皮も枝も実も、全てを使っていますが。
中国人は2,150年前にニッケイ属の樹皮を使い始めてから、150年前頃までの2,000年間、ニッケイ属は「樹皮」だけを利用してきたという事です。
