見出し画像

情報過多の今だからこそ、書くことを見失う。整理された情報が、自分の感覚を薄くしていく【エッセイ / noteの続け方 / HSP / 画像生成AI】

書きたいことはあったはずなのに。
調べれば調べるほどに、それを見失う。


noteを書こうとするとき、そんな風に思うことがあります。

どんなテーマであれ、検索すれば、noteなりブログなりSNSなりで、もう似たような話は誰かが書いている。
あるいは生成AIに聞けば、まとまった答えがすぐさま返ってくる。

しかも、それらはある程度は整理されていて、筋も通っていたりする。
だからこそ、最初に自分の中にあったはずの引っかかりが、急に弱く見えてしまうことがある。

「もう既に言われていることならば、自分があえて書く意味はあるのだろうか」

そんなふうにして、書きたかったはずのことが、書く前に急速にしぼんでいく。
それはネット上に情報が多すぎるからというだけではなくて。

きっと考えるより先に納得してしまう構図にあるように感じます。



このことって、書くことに限った話じゃないですよね。
たとえば、旅行先を決めるときも、似たようなことは起こり得ます。

最初は、写真で見た綺麗な街並みや建物の雰囲気が気に入って「ここに行ってみたい」と思ったはずなのに、調べれば調べるほど、コスパ、効率的なルート、定番グルメ、ランキングといった「一般的な正解」が積み上がっていく

最初の純粋な動機は、情報の山に埋もれて、いつの間にか自分でも見えなくなってしまう。


あるいは、映画を観たあとの解説やレビューも同じですね。

「この作品の根幹にあるのは人種差別のメタファーで、あの伏線は……」という鮮やかな解説を読むと、たしかに「わかった気」にはなれる。

でも、最初に抱いた感想はどこかに消えていく。
単純に「中盤のアクションシーンがかっこよかった」とか「感情移入しすぎて、終わり方が辛かった」とか、そういった実感を上書きしてしまう。

そうして、自分が紡ぐべき言葉をどこかに置いてきてしまうのでしょう。



現代社会においては、納得できるだけの情報があまりに多いですよね。
わからないことがあれば、すぐ答えらしきものに触れられる。
以前よりも、理解にたどり着く速度はずっと速い。

本来、何かについて考えたり悩むことって、時間が掛かる行為だったはず。
すぐには答えに行き着かないし、そもそも答えがあるかも分からない。
その中で脇道にそれたりしながらも、納得しようと試みる時間を含んでいたはずなんですよね。

今はそれを失いやすく、自分なりの考えを内側で育てる時間は削られてしまってきている


もちろん、整理された情報が悪いわけじゃない。
実際、誰しも、それに幾度となく助けられているわけだし、わからなかったことが短時間で整理されるのは、現代の大きな恩恵でもあるのだから。

ただ、その便利さが強くなりすぎたとき、今度は自分で考えるための切っ掛けまで失う。

だから、今の時代に書くというのは、整理された世界の中で、まだ整理しきられていない自分の感覚を見失わないことなのだと思います。

noteを書くにせよ、どんな媒体で文章を書くにせよ、一般論でコーティングした立派な意見よりも、自分の感覚の起点を持たせることが大事なのだから。

そのためには、安直に納得を得る前に、少しでも自分で考える時間を意図的に残しておく必要があるように思います。
その時間は、たいてい非効率ですし、すぐには何も生まれない。
けれど、そういう遠回りの中でしか育たない言葉もきっとあるようには思うんですよね。



よければスキしてくれると嬉しいです。
それではまた。


〇関連記事


いいなと思ったら応援しよう!

Alpaka もし気に入っていただけたら、チップで応援して頂けると嬉しいです。その気持ちが次の創作の大きな励みになります!