“好きなのに向いてない”と感じた時点で、才能はある|書籍化ログ(note/創作/エッセイ/小説/自己理解)
私は、ラノベを出版してはいますが、「文学」はまったく書けません。
本を読むのは好きですし、文章を書くことも愛しています。
それでも、息を呑むような人間の業の深さや、芸術的で精緻な構成を、自分の手で生み出すことはどうしてもできないのです。
朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』を読んだときもそうでした。
圧倒的な描写力と生々しい人間らしさに、現実との境界線を忘れて夢中でページをめくり、読み終えたあとに残ったのは——
「とてつもないものを浴びた」という余韻と、
「これは一生かかっても書けない」という、清々しいほどの打ちのめされ感でした。
私は、ああいう才能の背中を見上げながら、日々もがいている凡人です。
正直に言うと、
noteに関しても「書くのをやめようか」と思ったことが何度もありました。
書くことは好きなはずなのに、
バズっている記事を読めば読むほど、自分の限界ばかりが見えてくる。
何気ない日常をそのまま言葉にして、
誰かの心を動かしてしまう人たちがいる。
私は、ああいう書き方ができない。
やろうとしても、どこかで止まってしまう。
何気ない一言で誰かの心を掴める人がいる一方で、
自分の言葉は、どこにも引っかからずに流れていく。
「好きなものに向いていない」って、
こんなにしんどいのかと、何度も思いました。
Web小説やnoteという場所は、ある意味でとても残酷です。
なぜなら、
書き始めたばかりの拙い文章も、
思わずひれ伏したくなるような天才の文章も、
すべて同じ場所に並んでしまうからです。
同じ場所にあるからこそ、嫌でも見えてしまう。
自分と評価されている人との間にある、
どうやっても埋まらない「圧倒的な差」が。
私もかつて、その差に打ちのめされて、
「自分の声には価値がない」と思い込んだ一人です。
でもあるとき、YouTubeでたまたま見た話が妙に腑に落ちました。
誰のかと思ったら、岡田斗司夫さんでした(笑)
そのときに、ふっと掴んだ感覚があったんです。
これは慰めでも、負け惜しみでもなくて——
「そもそも、磨く場所が違うのでは?」という視点でした。
私たちはよく、「文章が好き」「小説が好き」という、
大きすぎる言葉で自分を捉えてしまいます。
そしてその中で、その分野の成功者が当たり前にやっている
「自分にはできないこと」を見つけては、自分を責めてしまう。
でも、その「好き」を少しだけ分解してみると、
見えてくるものがあります。
「好き」というのは、ただの感情ではありません。
違いが“わかる”という能力です。
それはとても鋭くて、立派な才能です。
じゃあ、自分は何が「わかる」のか。
それを一つずつ丁寧に見ていったとき、
私はあることに気づきました。
私は、物語の構成やテーマではなく、
特定の“言葉の表現”に強く反応しているのだと。
たとえば、
「濃藍の澱をはった夜空に——」
これは私が好きな小説の一文なのですが、
こういうのに出会うと、
理屈ではなく、感覚で心が震えます。
ただ言葉が綺麗、という話ではありません。
その一文の中に、
それまで積み重ねられてきた物語の空気や、
登場人物の感情や、
時間の流れまでもが、ぎゅっと圧縮されている。
それが一気にほどけて、流れ込んでくるような感覚。
私は、その“凝縮された情緒”に強く反応してしまうのです。
だから私の中にあったのは、
文学という大きな構造を作り上げる才能ではなく、
物語の文脈が圧縮された一文から、情緒を受信する才能でした。
言い換えれば、
「わかること」に特化したフェティシズムです。
ここで、少し別の話をします。
山田五郎さんをご存知でしょうか。
知的でユーモアのある方で、美術の解説で有名な方です。
YouTubeの『大人の教養講座』を見たことがある方も多いかもしれません。
あのチャンネルでは、
膨大な知識と深い愛情をもとに、
変態的で耽美な美術がとても面白く語られています。
でも——
山田五郎さんは、自分で絵を描きません。
これ、当たり前のようでいて、
実は見落としがちな大きなポイントです。
人は、
すごく好きで
知識もあって
たくさん触れてきた分野に対して
「自分もできるはずだ」と思ってしまう。
そして実際にやってみて、
周囲と比較して、勝手に絶望する。
ここまでが、ほぼワンセット。
その結果、
本来は大切だった「好き」そのものに、
蓋をしてしまうことすらある。
これは、かなりもったいない状態です。
なぜなら、
「好き」は、そのまま才能だからです。
山田五郎さんが人を惹きつけるのは、
絵を描けるからではなく、
「好きで、わかる」からです。
そしてこれは、創作でも同じです。
人は「好きなこと」でしか、人を惹きつけられません。
問題は、
その「好き」を多くの人が大雑把に捉えすぎていることです。
たとえば、
「文章が好き」と言っても、その中身は人によって全く違います。
・物語の構造が好きな人
・キャラクター心理が好きな人
・考察が好きな人
・教えるのが好きな人
・一文の美しさに執着する人
全部、別物です。
それをひとまとめにしてしまうと、
ズレた場所で勝負して、
傷つくことになります。
もしかすると今、小説を書いている人の中にも、
本当は「評論」や「考察」の方が向いている人がいるかもしれないし、
私のように“文学書ける!!”と思っていたら「言葉フェチ」だった、
というケースもあるでしょう。
もし今、
周囲のすごさに圧倒されて、
少し自信をなくしている人がいるのなら——
むしろ、“おめでとうございます”です。
あなたはすでに、
違いがわかってしまう感性を持っています。
人は、理解できないものに対しては、
そもそも強く反応できません。
たとえば私は、現代アートの一部がどうしても理解できません。
村上隆さんの作品も、どこに魅力を感じればいいのかさっぱりわかりません。
(本当にすみません)
でもこれは裏を返せば、
そこに対する感性を私が持っていないということです。
持っていない感性で傷付くことはできません。
逆に言えば、
「すごい」と感じてしまう時点で、
「自分はどうして…」と傷付いてしまう時点で、
その分野に対する感性はすでにある。
十分に受信できるアンテナをあなたが持っているという証拠。
だからこそ、
「向いていない」と早々に切り捨てるのはとても惜しい。
やるべきは
自分の“好きの正体”を突き止めること。
そして、“好き”の理解と深度をとことん深めること。
大谷翔平さんのように、
「ここです」とわかりやすい場所に才能がある人は、とても少数です。
多くの人は、
「文章」や「創作」という大きな枠の中にある、
とても小さくて見つかりにくい場所に、
自分の“本当の好き”を持っています。
それはもしかしたら、
私のようにかなり細かくて、
意識しないと通り過ぎてしまうような場所にあるかもしれません。
そう考えると——
思うような結果が出ないことなんて、むしろ当たり前なんですよね。
「創作」も「芸術」も、
読めばわかるし、観ればわかる。
だからこそ厄介なんです。
広く“わかってしまう”からこそ、
その中のどこに自分の“好き”が潜んでいるのかが、とても見えにくい。
枠が大きければ大きいほど、
探すのは難しくなります。
「創作」なんて、
ほとんどサハラ砂漠みたいなものです。
どこまでも広がるその中から、
自分だけが強く反応してしまう一点を見つける。
それだけでも、ひと苦労です。
しかも——
見つけたあとも終わりではありません。
それを形にして、外に出す。
そこまで含めて、ようやく“表現”になります。
だから、うまくいかなくて当然なんです。
あなたが心地よく書ける場所は、
今いる場所のすぐ隣に、
まだ名前もついていない形で、広がっているのかもしれません。
自分の「好き」を追求するというのは、
その場所を見つけに行くことだと思うのです。
せっかくのGWですし、
少しだけ立ち止まって、
自分の「好き」がどこに反応しているのかを、
確かめてみる。
そんな時間を取ってみても、
いいかもしれませんね。
あなたの「好き」が見つかったならぜひ教えてください♪
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また次回の投稿でお会いしましょう。
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●普段から創作や出版まわりのことを書いています。
●中の人はこんな感じです。
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