カッコ悪い自分を語ったら、寝ていた高校生が顔を上げた。——「経験で書く」文章のはなし
ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックが閉幕した。
深夜、眠たい目をこすりながらテレビ画面に見入った日々。
スキー、スノーボード、スケート、フィギュア……。
どの競技にも目が離せない瞬間があり、幾度となく胸が熱くなった。
なぜ、私たちは選手の姿にこれほどまでに釘付けになるのだろう。
メダルをめぐる白熱の展開か。
それとも、技の難度や動きの美しさ、ジャッジの行方か。
いや、それだけではない気がする。
私たちの心を強く揺さぶっているのは、
「いま持てるすべてで、挑みにいく姿」
そのものではないだろうか。
転倒するかもしれない。
失敗するかもしれない。
それでも、積み重ねてきたものすべてを出しにいく。
だからこそ、見ているこちらも息をのみ、強く引き込まれる。
人間が生み出す、圧倒的なドラマ。
それは、オリンピックに出場する選ばれしアスリートだけの特権ではない。
私にも、あなたにも、だれにでも、自分のドラマを生み出す力がある。
「経験を書く」と「経験で書く」
私はこれまで、累計5600人に文章指導を行ってきた。
一人ひとりと対話を重ねるなかで、確信していることがある。
どんな人にも、唯一無二のドラマが宿っているということだ。
だからこそ、もったいないと感じることがある。
文章を書くときや言葉を発するとき、つい自分を「出し惜しみ」してしまう人が、あまりにも多い。
ここで言う「出し惜しみ」とは、才能や技術の話ではない。
「経験の出し惜しみ」だ。
文章講座で、私が最初に伝えているのは、
「経験を書く」のではなく「経験で書く」こと。
この二つには決定的な違いがある。
「経験を書く」とはーー
「こんな出来事があった」「こんな体験をした」「こんなものに出合った」と、自分のエピソードを報告するだけで終わってしまうこと。
「経験で書く」とはーー
これまで経験したことや見聞きしたことなど、自分の全人生から絞り出したオリジナルの言葉で語ること。
ただエピソードを並べるのではなく、「それは自分に何をもたらしたのか」「どう受け止めたのか」を自分の頭で考え、意味づけしていくこと。
とはいえ、「記事を書く」ことは「世の中に自分をさらけ出す」ことだ。
守りに入りたくなる気持ちは、よくわかる。
「できるだけ"ちゃんとした人"に見えるように」
「社会人としてマイナス評価を受けないように」
そうして無意識のうちに「減点されなさそうな言葉」ばかりを選び、自分を安全圏に置こうとしてしまう。
誤解のないように言うと、
「出し惜しみするな」というのは、感情をむき出しにしろ、という話ではない。
あなたのリアルな経験を、惜しまず「材料」にしよう、ということだ。
準備してきた原稿を、裏返した日
以前、ある高校に依頼されて、「職業講話」に登壇したときのこと。
「記者やライターの仕事内容、向いている人、やりがい、心がまえなどを話してほしい」というオーダーだった。
高校生の前で語るからには、大人としてきちんとしたことを言わなければならない。
そう思った私は、職業ガイドに載っていそうな内容を事前にまとめ、教科書っぽく整えた原稿を、生徒たちの前で読み上げていった。
ふと顔を上げると、生徒たちの三分の二が寝ていた。
「……これじゃ、何も伝わらないな」
私は、手にしていた原稿を裏返した。
さあ、何を語ろうか。
プロットもゴールもないまま、口をついて出てきたのは、記者になるまでにたどってきた遠回りの道のりだった。
大学卒業後、舞台役者になろうとして上京し、挫折したこと。
心身のバランスを崩し、逃げるように実家へ戻ったこと。
それでも、小さいころから続けていた鍵盤楽器の経験を活かして、楽器メーカーの営業職に就いたこと。
営業成績が伸びないなかで、「文章で伝えること」に自分なりの可能性を見出し、それが今につながっていること――。
カッコいい話なんて、ひとつもない。
むしろ、カッコ悪すぎる。
履歴書にしたら、回り道だらけでぐちゃぐちゃだ。
そんな経験を通して、私が最後に伝えたのは、このひと言だった。
「人は、いつからでも、何度でも、生き直せる」
気づけば、ほとんどの生徒が顔をあげ、まっすぐな瞳でこちらを見ていた。
授業が終わってから、何人かの生徒が質問に来てくれたり、声をかけてくれたりした。
オリンピック選手たちは、4年に一度の大舞台で、積み上げてきた日々を信じ、試合に挑む。
競技後の選手たちの表情が、言葉にならないほど輝いているのは、
自分の経験や人生のすべてを、惜しみなく正直に出し切ったからにちがいない。
noteで記事を書くことも、本質的にはきっと似ている。
あなたが失敗したり、遠回りしたりしてきた経験を通して、いったい何を語るのか。
出し惜しみせずに書かれたドラマを、私は読んでみたい。
