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『マミの1980(イチキュッパ)団地狂騒曲』 #2

#2:貯金ゼロ夫婦と、お城の国の芳香剤

我が家には、お国に申請すれば何らかの手当てがもらえるんじゃないかと思うレベルの「致命的な欠陥」があった。
それは、33歳のお父さんとお母さんに、『貯金』という概念が1ミリも存在しないことだ。

お父さんは工場勤めで、パチンコ、競艇、麻雀をこよなく愛するフルコンプリート型ギャンブラー。給料日には「よっしゃ、今月もパチンコやるぜー!」と軍資金を握りしめて飛び出していく。対するお母さんは、田舎の結構な地主の娘として育ったせいか、お金は「土から湧いてくるもの」とでも思っているフシがある。
パート代が入れば、2Kの狭い部屋をさらに圧迫する謎の健康器具や、当時流行りの洋服を二つ返事で買ってくるのだ。

そんな貯金ゼロ世帯の我が家に、私が爆弾を投下したのは、ある日の夕食時。おかずの主役が「もやし炒め」の日だった。

「お父さん、お母さん。私、一軒家が欲しい」

私が真剣な顔で言うと、お父さんは口に含んだビールを「ぶふぉっ!」とコンクリートの壁に向かって派手にぶちまけ、お母さんはもやしを箸からポロリと落とした。
8歳のお兄ちゃんにいたっては、「マミ、お前ついに頭がおかしくなったのか!?」と、私の額に手を当ててくる始末だ。
「おいおいマミ、一軒家ってあんた……あれは、テレビの『三枝の国盗りゲーム』の賞品でもらうもんだぞ? 普通の人間が買えるわけないだろ」
お父さんが真顔で、とんでもない常識を語り始めた。

お母さんも深く頷く。
「そうよマミ。一軒家なんて建てたら、屋根の掃除も、庭の草むしりも全部自分でやらなきゃいけないのよ? 団地なら、何かあったら市が全部やってくれるのに、わざわざ苦労を買うことないじゃない」

お金がない現実から全力で目を背け、謎の理由で一軒家をディスる両親を前に、私は唇を噛み締めた。
なぜ、6歳の私が突然「家が欲しい」などと言い出したのか。

それは、今日の放課後、クラスメイトのミカちゃんの家に初めて遊びに行ったからだ。
ミカちゃんの家は、我が家の灰色でザラザラした団地とは何もかもが違っていた。

外壁は眩しいほどに真っ白。そして、見上げるほどの「2階建て」だった。階段を登った先に、さらにもうひとつ部屋があるなんて、平屋2K育ちの私からすれば、ドラえもんの四次元ポケット並みのスペース歪みである。

(こんな世界で、私と同じ6歳の子が暮らしているんだ……)
その瞬間、私は生まれて初めて「自分の家が恥ずかしい」と思ってしまったのだ。

あのお父さんのおならの音が筒抜けになるコンクリート壁、夜になると5人がテトリスのように敷き詰まる布団、そして何より——。

「ミカちゃんの家のトイレ、すごかったんだもん……!」
私はお父さんたちに、一番のカルチャーショックをぶちまけた。

「椅子みたいに座るやつでね、レバーを回したらお水がジャーって流れて、ちり紙じゃ無くてトイレットペーパーだったの、流れるトイレは小学校とデパートだけだと思ってた! それにね、トイレなのにキンモクセイじゃなくて、イチゴのすっごく良い香りがする芳香剤が置いてあったんだよ!」

もちろん、お父さんもお母さんも、洋式水洗トイレや芳香剤の存在くらい知っている。
デパートや映画館に行けばあるし、職場にだってある。
だが、この「コンクリートブロック製・2K・ぼっとん便所」という、昭和の不便さを凝縮した我が家とは、あまりにもかけ離れた「きらびやかな世界」が同級生の家にあるという事実に、私は打ちのめされたのだ。

私の切実な訴えを聞いたお父さんは、急にバツの悪そうな顔をして腕を組んだ。ギャンブラーのプライドがチクッと痛んだらしい。
「……マミ。お前、我が家のボットンが嫌だったのか」
「だって、夜は怖いし、臭いんだもん……」
私がポツリと言うと、お父さんの目がギラリと光った。競馬の出馬表と赤ペンを力強く握りしめる。
「よし、分かった。マミのために、お父さんが一肌脱いでやる。一軒家だな? 予算はいくらだ。2000万か? 3000万か?」
「お父さん……! 貯金してくれるの!?」
私が目を輝かせた次の瞬間、お父さんは吠えた。
「貯金なんかまどろっこしい真似ができるか! 今週末の天皇賞(春)で、3000万馬券を一点買いでブチ当てる! これが一軒家への最短ルートだ!」
「ちょっとお父さん! 競馬なんて不確実なものに頼るんじゃないわよ!」
お母さんが一喝する。さすがはお母さん、地主の娘、まともな意見を……。
「こういう時は、パチンコの『フィーバー機』よ! 計算上は三ヶ月で一軒家が建つわ! 私のパート代、全部突っ込んでくる!」

ダメだ。この夫婦、完全に終わっている。
「貯金をしてコツコツ貯める」という選択肢が、脳の構造上、最初から存在していないのだ。一軒家という巨大な目標に対して、手段が「一発逆転の大博打」しかないのである。

結局、その週末。
お父さんは「一軒家の玄関代」と言って競馬に出かけ、お母さんは「一軒家のトイレ代」と言ってパチンコ屋へ消えていった。

夕方、二人は絵に描いたようなトボトボとした足取りで、2Kの我が家へ帰ってきた。
お父さんのポケットには、ハズレ馬券という名の紙クズ。お母さんの手には、パチンコの景品である「アーモンドチョコ3個」と「パイの実」が握られていた。
「……一軒家が、チョコになっちゃったね」
お兄ちゃんが冷ややかに言う。

お父さんはコンクリートの壁を殴りながら、「クソッ! 4コーナーまでは完全に我が家の2階部分が見えてたんだ! 幻の白い壁が!」と悔しがっていた。
その日の夜。
相変わらず五人でギチギチに布団を敷き詰め、川の字になって横になる。
するとお母さんが、暗闇の中でポツリと言った。
「でもさ、お父さん。マミにあんな思いさせるのは親として可哀想よね……。一軒家は無理でも、明日にでもスーパーで『イチゴの芳香剤』くらい買ってきてあげましょうよ。せめて匂いだけでもさ」
「おう、そうだな。我が家のポットンを、ミカちゃんの家に負けないくらいイチゴまみれにしてやろうじゃねえか」

お父さんの頼もしい(?)言葉を聞いて、私は暗闇の中で笑ってしまった。
我が家が一軒家を買う確率は、お父さんがパチンコでビルを建てる確率くらい低い。でも、この物欲に塗れた貯金ゼロの両親のフットワークの軽さなら、もしかしたら数年後、謎の臨時収入で「団地なのに無理やり水洗トイレにリフォームする」くらいの暴挙には出るかもしれない。

「お父さん、次は勝ってね」
私が言うと、「任せろ。次は『宝くじ』だ」とお父さんが寝言のように答えた。
足元からはお父さんのいびき。横からはお母さんの寝息。お兄ちゃんは寝返りで私の脇腹に容赦ないエルボーを叩き込んでくる。

ミカちゃんのお城のような家は羨ましいけれど、この「いちごの芳香剤」で大騒ぎする、明日をも知れぬスリリングな我が家も、やっぱり退屈しなくて最高なのだった。

(#2・了)
この小説はノンフィクションです。

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