『マミの1980(イチキュッパ)団地狂騒曲』 #1
#1:ぼっとん・サルベージ作戦
1980年、昭和55年。
スペースインベーダーのブームが落ち着き、テレビからは松田聖子の『青い珊瑚礁』が爽やかに流れているが、我が家——コンクリートブロックむき出しの平屋団地(2K)——の空気は、ちっとも爽やかでなかった。
何せ、殺人的に狭い。
33歳の父(工場勤務)、31歳の母(パート従業員)、8歳の兄、4歳の妹、そして私、6歳のマミ。この計5人の人間が、リビング兼寝室というたった一つの部屋にひしめき合って暮らしているのだ。
プライバシー? そんなお洒落な横文字、我が家には存在しない。お父さんがおならをすれば、コンクリートブロックの壁に反響して「ブッ」と見事な重低音が響き渡り、遮るもののない部屋の隅々までリアルタイムで届く。それが我が家の日常の距離感だった。
そして、我が家にはもうひとつ、精神的に超えられない大きな壁があった。
トイレが、俗に言う「ぼっとん便所(汲み取り式)」なのだ。
あの暗い楕円形の穴の底には、未知のブラックホールが広がっている。6歳の私にとって、そこは「一歩足を踏み外して落ちたら、二度と現代社会には戻れない恐怖の奈落」だった。
用を足すときはいつも、コンクリートの壁に両手を突っ張り、決死のサスケばりの体勢で挑んでいた。
そんな我が家を揺るがす大事件が起きたのは、よく晴れた日曜日の午前中。
「ないーーーーーーーッ!!!!!(エコー)」
狭い団地の天井を突き破らんばかりの、引き裂くようなお兄ちゃんの悲鳴が響き渡った。トイレのベニヤ板製のドアが勢いよく開き、お兄ちゃんが顔を真っ青にして飛び出してきた。
「マ、マミ……! お前、オレのスーパーカー消しゴム、どこやった!?」
「え? トイレのカウンターの上のやつ? 飾ってあったから、ちょっと神様にお供えしようと思って……」
「お供えってなんだよ! 落としたのか!? ランボルギーニ・カウンタック(最高級・エメラルドグリーン)をポットンに落としたのか!?」
お兄ちゃんは私の両肩を掴んで、親の仇のように激しく揺さぶった。
無理もない。それは当時、小学生の間で社会現象レベルで大流行していた、BOXYのボールペンでパチンと弾いて遊ぶための、あの貴重な消しゴムだった。
しかもお兄ちゃんのは、わざわざ隣町の文房具屋まで遠征して引き当てた、クラスの誰も持っていないレアカラーのカウンタックなのだ。
「だって……トイレが寂しそうだったから、お友達をあげようと思って……」
私がモジモジしながら言い訳すると、お兄ちゃんはその場にガクッと崩れ落ち、頭を抱えてのたうち回った。
「うわぁぁぁん! オレのカウンタックがー! ウンチまみれの底なし沼に沈んじゃったよぉぉぉ!」
「うるさいねぇ! 朝から何をご近所迷惑な声で騒いでるの!」
台所の狭いシンクでネギを刻んでいたお母さんが、包丁を持ったまま鬼の形相でリビングに怒鳴り込んできた。
「マミ! あんたまた余計なことして! お母さんこれからスーパーのパートなんだからね、忙しいの! お父さん、ちょっと寝てないでなんとかしてよ!」
押し入れの前に器用に敷いた座布団の上で、サッカー生地のステテコ姿の父は煙草を吹かしながら『週刊少年ジャンプ』を読んでいた。
母に促され面倒くさそうにパサリとページを閉じた。
「おいおい、諦めろ。ボットンに落としたものは、言ってみればもう『別の次元』に行ったんだ。
あの穴はブラックホールだ。光さえも戻ってこないんだから、消しゴムが戻るわけないだろ」
「嫌だぁぁぁ! 諦めない! お年玉とお小遣い貯めて、買ってからまだ3日しか経ってないんだ! うわぁぁぁん!」
お兄ちゃんの涙のローリング猛抗議に、お父さんはついに重い腰を上げた。
さすがは町工場勤めの33歳。できないと言われると燃え上がる、職人の妙なプライドが騒いだらしい。
「よし、泣くな。父さんが、工場の技術……いや、大人の意地ってやつを見せてやる」
ここから、我が家の歴史に残る「ボットン・サルベージ作戦」が幕を開けた。
2Kの狭い廊下にお父さんが仁王立ちする。
その手には、庭から持ってきた物干し竿が握られていた。
お父さんは埃まみれの工具箱から出してきた針金を器用に曲げて頑丈なフックを作り、それを物干し竿の先端にガムテープでこれでもかとぐるぐる巻きにした。自作の「超ロング・マジックハンド」である。
「いいか、一発勝負だ。底に沈みきってたらもう見えん。お前たち、ライトで照らせ!」
お父さんは、さながら決死の爆弾処理班のようなピリついた緊張感を漂わせ、トイレのドアを開けた。
ただでさえ狭いトイレだ。お父さんのガタイのいい体が入ると、それだけでもう定員オーバー、満室である。
「お父さん、がんばれー! つりあげろー!」
事情をよく分かっていない4歳の妹が、どこからか持ってきたおもちゃの太鼓を「ドンドン!カッカッ!」と小気味よく叩いて応援し始めた。
「うるさい! 集中力が切れる! 静かにしろ!」とお父さんが汗をダラダラ流しながら怒鳴る。
「ちょっと、お父さんの大きなお尻が廊下にハミ出してるから、私、台所から玄関に通れないんだけど!」とお母さんが時計を見ながらイライラを募らせる。
「カウンタック……オレの緑のカウンタック……」と、胸の前で手を合わせて祈るお兄ちゃん。
カオスである。
2Kの全人口がトイレの半径1メートル以内に集中し、この瞬間の我が家の人口密度は東京ドームを遥かに凌駕していた。
お父さんは意を決して、自作マジックハンドをあの暗黒の穴へと、ゆっくり、慎重に突っ込んでいった。じりじりと竿が深く沈んでいく。
「……ん? 待て。何か固いものにカツンと当たった手応えがあるぞ」
「本当!? お父さん、それカウンタック!? カウンタックのウイングに引っかかった!?」
お兄ちゃんが便器のギリギリまで身を乗り出す。
「危ないから下がる執念を見せろ! よし、引き上げる……!」
ゆっくりと、慎重に上がってくる物干し竿。
家族5人が息を呑む。薄いコンクリートの壁に、お父さんの荒い息遣いと、妹の不規則な太鼓の音だけが響く。まさに笑いと涙、生と死の境界線がこの穴の中にあった。
スポンッ。
「とれたぞーーーっ!!」お父さんが雄叫びをあげた。
針金の先にかかっていたのは、青色で、プラスチックの物体だった。
「……それ、こないだ私が落とした『ウルトラマン水筒の蓋』じゃん」
私が極めて冷静にツッコむと、お父さんは「あ、これか。懐かしいな」と一瞬でガッカリした顔になった。お兄ちゃんはズコッと廊下にひっくり返った。
「もう! 何やってんのよアホらしい! パートの時間がないって言ってるでしょ!」
お母さんの怒りが頂点に達し、包丁をまな板にドスンと突き立てたその時、お父さんが「おおっ、今度こそ本物の手応えだ! ギザギザしたタイヤの感触が竿に伝わってくる!」と、再び竿を猛烈に突き入れた。
そして——
見事に針金のフックに引っかかって、暗闇からヌッと上がってきたのは、紛れもない、お兄ちゃんのあのエメラルドグリーンのランボルギーニ・カウンタックだった。
「キタァァァァァァ!!!!!」
お兄ちゃんと私は歓喜の声をあげて廊下で抱き合った。妹もテンションが最高潮に達し、太鼓を「ドンドコドンドコドンドコショ!」と激しく乱れ打ちする。
お父さんは職人としての仕事を成し遂げたドヤ顔で、高くVサインを掲げた。薄いコンクリート壁がビリビリと振動するほどの、大歓声。狭い2Kが、一つの奇跡に沸いた瞬間だった。
が。
「……で、それどうすんの?」
お母さんの冷徹極まりない一言で、全員の動きがピキッと凍りついた。
上がってきたカウンタックは、当然ながら、お供えされていた場所の芳醇な「あの香りの水滴」を全身にたっぷりとまとっていた。エメラルドグリーンが、なんだか別の有機的な輝きを放っているように見える。
「お、お兄ちゃん、ほら……とったぞ。はい……」
お父さんが、引き引けに困った顔で、竿の先についたカウンタックをそのままお兄ちゃんの目の前に差し出した。
「……い、いらない。やっぱり、マミにあげる」
お兄ちゃんは恐怖のあまり、サッと3歩後ろに飛び退いた。
「何言ってるのよ! あんたが諦めないって大泣きしたんでしょうが! 受け取りなさいよ!」とお母さん。
「マミが洗ってよ! マミが落としたんだから責任とってよ!」とお兄ちゃん。
「いやだ! 私の手がウンチになっちゃうもん!」
廊下でカウンタックを先端につけた竿を持つお父さんを先頭に、全員が「汚い」「いらない」と押し付け合いながら、狭い2Kの部屋の中をグルグルと逃げ回るハメになった。狭いからすぐに誰かとぶつかる。
結局、そのカウンタックは、お母さんがパートに出かける直前、激怒しながら「薄めた台所用のハイター(塩素系漂白剤)」がなみなみと注がれた空の豆腐の容器の中に割り箸で放り込み、一晩漬け込まれることになった。
その日の夜。
事件が無事に(?)解決し、我が家はいつものように、リビングに5人の布団をテトリスのように隙間なく敷き詰めた。川の字どころか、もはや全員がすき間無く組み合わさった肉の塊状態になって寝転んだ。
「お兄ちゃん、お供えしてごめんね」
私が消灯された暗闇の中で小さく囁くと、隣でお布団からはみ出しかけていたお兄ちゃんが、クスクス笑いながら言った。
「いいよ。さっきハイターから出してみたらさ、色が出し殻みたいに全部抜けて、真っ白な『謎の近未来スーパーカー』になってた。これはこれで、クラスの誰も持ってないから自慢できるや」
足元からは、今日一番の大仕事を終えたお父さんの爆音のいびき。横からは、パートでクタクタになったお母さんの規則正しい寝息。
「ふん……明日のパート、キャベツの特売だから遅れられないわ……」とお母さんが不穏な寝言を呟く。
コンクリートブロックの壁は、昼間に太陽の熱をたっぷり吸い込んでいるせいで、夜になると放射熱で部屋をじんわりとサウナのように温めてくる。
夏は最悪だけど、春の夜にはちょうどいい。
ぼっとん便所は相変わらず死ぬほど怖いけれど、この狭くて、プライバシーがなくて、うるさくて、ちょっとだけ臭う我が家が、私はなんだかんだ大好きなのだった。
(第1話・了)
この小説はフィクションです。
