『マミの1980(イチキュッパ)団地狂騒曲』 #13
#13 : 迷い込んだ秘密の迷宮と、未来へ続く梨のトンネル
当時の私には、クラスの女子たちの誰にも言えない密かな「マイブーム」があった。
世間のおしゃれ女子たちが『リカちゃん人形』のドレスを着せ替えたり、『りぼん』や『なかよし』の付録に胸をときめかせたり、男子たちがインベーダーゲームやスーパーカー消しゴムに沸いている中、私の心を完全にハックしていたもの――それは『探検』である。
テレビを付ければ『川口浩探検隊』が未確認生物を追って洞窟に突き進んでいた時代、私もまた、近所のあちこちに眠る「未開の地」を求めて目を光らせる、一人の勇敢な(悪く言えばお転婆な)探検隊長だった。
ある日の土曜日の午後、私は同じく冒険心旺盛な友人(これまた気のいい巻き込み事故要員である)を誘い出し、町の外れにある「廃工場」へと足を踏み入れていた。
「ねぇ、マミちゃん……本当に中に入るの? 怒られない?」
「大丈夫だって。ちょっと見るだけ、見るだけだから!」
一歩中に入ると、そこは太陽が照りつける外の世界とは完全に遮断された別世界だった。
昼間だというのに、割れた窓から申し訳程度に差し込む薄暗い光がなければ、足元のおぼつかない暗がり。
ひんやりとした空気が肌を刺し、鼻を突くのは古い機械油と錆びた鉄の匂い。
そして何より、外を走る車の音も、遠くの犬の鳴き声もすべてがシャットアウトされた、耳が痛くなるほどの静寂――いわゆる「無の世界」が、そこには果てしなく広がっていた。
「……すご。映画の中に、うちらだけ入っちゃったみたい」
「ねえ、うちら以外に、もうこの地球には誰もいないんじゃない?」
不気味さよりも好奇心が大勝利を収めるのが、1980年代の小学生だ。
すっかりSF映画やディストピア映画の主人公になりきった私たちは、お互いの顔を見合わせ、その非日常的な空間にすっかり心を奪われていた。
すると、この贅沢な空間を遊び尽くすための、お決まりの提案がどちらからともなく飛び出した。
「ねぇ、こんなところでかくれんぼしない?」
「うん、いいよ! 絶対見つからない自信ある!」
ルールは簡単。2人きり、交代制のタイマンかくれんぼだ。
最初の鬼が10秒を数える間に、私は工場内を素早く見回した。現役時代には何を作っていたのかもわからない、ゴツゴツとした巨大な古い機械。その機械と、ザラザラしたコンクリート壁の間にできた僅か数十センチの隙間に、私は細い体をギュウギュウと捩じ込ませた。
衣服が擦れて黒い油がつくのも気にせず、膝を抱えてじっと息を殺す。
友達の足音が近づいてくるのを待つ、あの胸の鼓動が高鳴る瞬間……。
その時だった。
――ピー、ピー、ピー。
工場の静寂を破り、か細い、しかし妙に透き通った鳴き声が、どこからか聞こえてきたのだ。
(あれ……? 今の音、何? どこかで鳥が鳴いてる?)
その瞬間、私の中で「かくれんぼの鬼から完璧に隠れる」という最優先ミッションは、脳内ハードディスクから綺麗さっぱり消去された。
何を隠そう、私の中の『鳥レーダー』が、最大出力のバリ3(※当時はそんな言葉はなかったが)でビビビと反応してしまったのだ。
こうなるともう、誰にも止められない。探検隊長は一瞬にして鳥類学者に変貌する。
「あ! マミちゃんみっけ! ……って、何してんの?」
ガサゴソと隙間から勝手に這い出てきた私を見つけて、友達が呆れ半分、嬉しさ半分で駆け寄ってくる。
「マミちゃん、ルール違反! 次、マミちゃんが鬼ね!」
「ちょっと待って! 鬼とかそれどころじゃないの! 今、絶対に小鳥の鳴き声がした!」
「えぇ? 鳥? こんな暗い工場の中に?」
二人が口を閉ざした瞬間、再び頭上から音が降ってきた。
――ピー、ピー、ピピピ。
ほら! と私が激しく指差した先は、遥か頭上。工場内に据え付けられたスチール製の頑丈な棚の、さらに奥の壁際だった。
「あ! あそこだ! 間違いない!」
高さは、目測でおよそ1メートル60センチ。
当時の私の身長を遥かに超えるロケーションだったが、アドレナリン全開の私にとって、それはただの「ちょっとしたステップ」に過ぎなかった。棚の段差、サビの浮いたボルト、壁の僅かな突起に、野生児のごとく足を掛け、手のひらに力を込め、ズンズンとよじ登っていく。
「マミちゃん気をつけてよ! 落ちても知らないからね!」という友達の警告が遠く聞こえる。
最後の足場に踏ん張り、棚の最上段の奥をそっと覗き込んだ。
「あった……!」
埃にまみれた棚の隅に、細い枝や泥で編まれた小さな巣がひっそりと佇んでいた。
そしてその中には――思わず息を呑むような光景があった。
そこにいたのは、まだ羽が1本も生えていない、肌色が剥き出しになった文字通りの『まるハゲ』の小鳥。
そいつが、私の顔を見るなり「ご飯をくれるお母さんが帰ってきた!」と勘違いしたのか、ピンポン玉のように小さな体を震わせ、これ以上ないほど大きな黄色い口を開けてピーピーと猛アピールを始めたのだ。
「これは……すずめの子供かな?」
下でハラハラしながら首を長くして見上げている友達に、興奮を抑えきれない声で呼びかける。
「ねー! ここにすずめの赤ちゃんがいるよ! 早く来て!」
「え!? 本当!? 私も見たい!」
下を向くと、友達も見たそうに足をバタバタさせて地団駄を踏んでいる。
私は自慢げに「交代ね」と言ってヒラリと棚から降りた。
入れ替わりで、今度は友達が必死の形相で壁を登っていく。
お尻を突き合わせるようにして巣を覗き込んだ友達から、歓声が上がった。
「可愛い! なにこれ、本当にすずめなの!? 全然羽が生えてないじゃん!」
「そうなの、きっと生まれたてだよ! 卵からかえったばっかりなんだよ」
薄暗い廃工場の片隅で、私たちは宝物を見つけた海賊のように、大興奮で小鳥について語り合った。
しかし、一通り盛り上がったところで、避けては通れない現実的な問題が目の前に突きつけられる。
友達が棚の上から、ふと真面目な、どこか神妙な顔つきになって私を見下ろして言った。
「これ……どうする?」
「どうするって?」
「……持って帰る?」
ドキン。
心臓が、本日一番の大きさで跳ね上がった。
持って帰る? その一言がトリガーとなり、私の脳裏には、かつて我が家で愛し、そしてお別れした先代の愛鳥・アキナちゃんとピヨちゃんの思い出が、走馬灯のように高速でフラッシュバックした。
(また、鳥を飼いたい。あの温もりをもう一度味わいたい。この手で、私がこの子を一人前に育ててあげたい……!)
まさに「喉から手が出かかるとは、このことだ」というほどの強烈な欲求が、胸の奥からマグマのように湧き上がってくる。手のひらを伸ばせば、その小さな命をポケットに入れて連れ帰ることができるのだ。
しかし。じっと見つめる視線の先には、親を信じて健気に鳴き続ける、まるハゲの赤ちゃん。
もし私がエサのやり方を間違えたら? もし、お母さん鳥が今、口にイモムシをくわえてこの工場に向かっている途中だとしたら?
「……ねぇ、やっぱりやめよう。その子、まだ赤ちゃん出し、お母さんと離れ離れになったら、絶対に可哀想だよ」
胸を締め付けられるような葛藤の末に、ひねり出したのは、私の、ほんの少しだけ大人になった理性の声だった。
それを聞いた友達は、どこかホッとしたような表情を浮かべ、「そっか。そうだよね、やめよう」と潔く棚から降りてきた。
私たちは、地球を救う大仕事を終えたかのように、揃って「ふぅーっ」と大きなため息をつき、それからどちらからともなく顔を見合わせて「ふふっ、あはは!」と笑い合った。
「帰ろう!」
「うん、帰ろう。お腹空いたし!」
夕方のチャイム(夕焼け小焼け)が鳴る前の、ちょっとした大人の選択。
あの瞬間、私は間違いなく、精神的にワンランク上の人間に成長した――と、今でも大真面目に思っている。
友達と交差点で手を振って別れ、私は1人で家路を急いでいた。
すずめの件で頭がいっぱいだった私の目に、ふと、道路脇に広がる「梨畑」の風景が飛び込んできた。
「……ここ、通れるかな?」
ちょうど梨のシーズンへ向けて青々と葉が鬱蒼と茂る、梨畑と梨畑の隙間に、何やら細く狭い空間があるのを見つけてしまったのだ。
それは当時の私にとって、日常の道路を外れた、未知の世界へと続く「秘密のトンネル」にしか見えなかった。
普通にアスファルトの道を歩けばいいものを、案の定、私の探検隊長としての本能が「突撃せよ!」と激しくゴングを鳴らす。
このあたりの梨畑は、泥棒(あるいは鳥)の侵入を防ぐため、畑ごとに目の細かい頑丈な「青いネット」で周囲を厳重に覆われていた。
その、梨畑Aと梨畑Bのネットとネットが重なり合う、わずか数十センチの隙間へ、私は体を横にして「そーっ」とスライドするように侵入していった。
ザザザ、と衣服がネットに擦れる音が響く。
足元は踏み固められていない柔らかい土。
頭上からは梨の葉が覆いかぶさり、視界は一面の青と緑。
胸の高鳴りは、廃工場の時とはまた違うベクトルで最高潮に達していた。
(やばい……これ、このまま真っ直ぐ進んだら、タイムスリップして未来の世界に行っちゃうかも!)
そんな、当時のSFアニメさながらの妄想を脳内で爆発させながら、横歩きでズンズンとネットの迷宮を進む。
行く手を阻む枝をかき分け、蜘蛛の巣を払い、ようやく前方に眩しい光が見えた。
ネットの出口だ!
「よいしょ、ふぅ。やっと脱出したぞ……!」
衣服についた葉っぱや泥を手で払いながら、勝利の笑みを浮かべて顔を上げた。
しかし、次の瞬間、私の笑顔は完全に凍りついた。
「……あれ? ここ、どこ?」
そこは高層ビルが建ち並ぶ未来都市でもなければ、恐竜が歩く過去の世界でもなかった。
完全なる「見知らぬ民家の裏庭」だったのである。
不法侵入、という物騒な四文字が脳裏をよぎり、一瞬、元来たネットの隙間に引き返そうかと思った。
しかし、ここまで来て敵前逃亡するのも探検隊長の名が廃る(ただの迷子である)。
私は抜き足差し足、時代劇の忍びの者のように気配を消し、ゆっくりと奥へ進んでみた。
すると、建物の陰を抜けた瞬間、視界がパッと開け、とんでもなく広大な中庭が姿を現したのだ。
「うわぁ……すご……」
思わず声が漏れそうになった。
手入れの行き届いた見事な枝ぶりの松の木、子供の背丈ほどもある巨大で立派な庭石。それは素人目に見ても「超高級」だとわかる、京都の寺院かと思うような日本庭園だった。そしてその奥には、どっしりと威厳を放つ大きな日本家屋が2軒、いや3軒も建ち並んでいる。
(やばい、とんでもないお屋敷に迷い込んじゃった……!)
心臓がバクバクと太鼓のように鐘を打つ。
もしここで家の人に見つかって「コラァー! 何しとるかー!」と怒鳴られたら、一生のトラウマになることは確実だ。
私は庭石の影から影へと素早く移動しながら、泥棒ばりの緊迫感で、敷地の外へ繋がっているであろう立派な正門らしき方向へと全速力で、かつ足音を殺してにじり寄った。
最後の直線。
息を止め、お屋敷の立派な門をくぐり抜けて、一気に外の世界へと飛び出す。
「はぁ、はぁ、はぁ……え?」
眩しい光の中で息を整えながら、周囲を見回した私はガクッと脱力した。
目の前に広がっていたのは、私がいつも泥団子を作ったり鬼ごっこをしたりしている、勝手知ったる「いつもの公園」だったのだ。
「なーんだ。ただの梨畑の裏道だと思ったら、よその家のお庭を大胆にショートカットしちゃっただけじゃん」
あまりの結末のあっけなさに、私はズッコケそうになりながら一人で笑った。
未来へのタイムトラベルではなかったけれど、誰も知らないスリル満点の秘密の裏道を見つけた満足感で、私は誇らしげに胸を張って、今度こそ自分の家へと帰った。
泥だらけの靴を脱ぎながら、今日の「廃工場のすずめ」と「梨畑の大豪邸」の大冒険を思い返し、やっぱり探検はやめられないな、なんてお気楽に考えていた。
しかし。
この時、私がコソコソと通り抜けた大豪邸が、後に成長した私と「とんでもなく深くて、切っても切れない大きな関わり」を持つことになるなんて。
この時の脳天気なマミちゃんは、夢にも思っていなかったのである――。
(#13 了)
この小説はノンフィクションです。
