『マミの1980(イチキュッパ)団地狂騒曲』 #4
#4 : さよならのパチパチルンルン
同級生で、お隣の棟に住む奈々ちゃんは、私にとってちょっと「鼻につく」存在だった。
彼女はいつも、デパートの包み紙から出てきたようなフリフリの可愛い洋服を着ていて、テレビコマーシャルで流れる最新のおもちゃをいくつも持っていた。
「まみちゃーん、あそぼー」
団地の灰色いコンクリートの通路に、奈々ちゃんの高い声が響き渡る。
私はどちらかと言うと、2Kの我が家の物置き部屋(普段は誰も使わない、荷物だらけの薄暗い部屋)の隅っこで、1人で静かにリカちゃん人形の髪の毛をごしごしと触って遊ぶのが好きなタイプだった。だから、奈々ちゃんがやってくるのは、正直なところ「めんどくさいなぁ」なんて思いながら、いつも誘いに乗っていたのだ。
そんなある日、本当にちょっとしたことで奈々ちゃんと大喧嘩をしてしまった。
原因は、当時女の子たちの間で大人気だったアニメの変身ステッキを、どちらが先に持つか、という天下分け目の死闘だった。
「マミちゃんのお家、いっつも地味で貧乏くさいんだもん!」
奈々ちゃんが言い放ったその一言に、私のカチンとスイッチが入った。
「なんだって! 奈々ちゃんこそ、いっつも新しいおもちゃ自慢ばっかりして威張るな! もう奈々ちゃんなんか大嫌い!」
子どもの口喧嘩だ。明日になれば忘れるような、よくある小競り合い。
のはずだった。
だが、その日を境に、私たちは通路ですれ違ってもプイッと横を向くようになってしまった。
我が家とお隣は、同じ2Kの平屋団地。
玄関の距離なんて、お互いに手を伸ばせば届きそうなほど近い。
お母さんが夕飯にアジを焼く匂いも、お父さんがテレビを観て笑う声も、すべてが壁を抜けて筒抜けになるこの狭いスモールワールドで、この「冷戦状態」は想像以上に息が詰まった。
(明日、学校で目が合ったら「おはよう」って言おう)
そう思っても、いざ奈々ちゃんの可愛いおさげ髪が見えると、喉の奥がキュッと縮んで言葉が出ない。
仲直りするタイミングを完全に逃したまま、1週間が経ち、1ヶ月が経ち、3ヶ月が経ち……気がつけば、なんと丸1年という歳月が流れてしまっていた。
6歳児にとっての1年は、大人の10年くらい長い。私たちはすっかり「近くて一番遠い他人」になっていた。
そんなある日の夕方、我が家の玄関の開き戸が開いた。
隣のおばさんがやってきたのだ。
玄関先でお母さんと話している声が、薄いコンクリート壁を突き抜けて、私のいるリビングに丸聞こえになった。
「うちね、主人の急な転勤が決まって、来週の土曜日に引っ越すことになったのよ」
「えっ……!」
お兄ちゃんと漫画の奪い合いをしていた私の動きが、ピタッと止まった。
引越し!? 嘘でしょ。だって私、まだ奈々ちゃんと仲直りしてない。あのステッキのこと、ごめんねって言ってないのに……!
時間は私たちの事情なんてお構いなしに、残酷な速さで進んでいった。
何の進展もないまま、ついに引越し当日の朝を迎えてしまった。
隣の部屋から、ダンボールを運ぶバタバタという足音や、家具が擦れる音がコンクリート壁を伝って響いてくる。
この音が消えてトラックが行ってしまったら、奈々ちゃんは本当に、私の手の届かない遠い街へ行ってしまう。
(このままじゃ、絶対にダメだ……!)
私は胸の奥が痛くてたまらなくなり、お母さんの静止を振り切ってお母さんの大きなつっかけで飛び出した。
そして、お隣の青いペンキが剥げかけた鉄のドアを、思いっきり激しく叩いた。
ガリと言うドアの錆が擦れる音がしてドアが開く。
「あら、マミちゃん!」
荷造りで埃まみれになった隣のおばさんが、驚いた顔で出てきた。
「あの……、な、奈々ちゃん、いますか……?」
自分の声が、情けないくらいブルブルと震えていた。
おばさんは一瞬優しい目をすると、家の中に向かって声を張り上げてくれた。
「ちょっと待ってね。奈々、マミちゃんが来てくれたよ!」
おどおどしながら玄関先で待っている間、心臓が耳の奥でドクドクと暴れていた。
すると、ガタゴトと荷物の隙間をすり抜けるようにして、奥の部屋から奈々ちゃんが姿を現した。
普段着慣れたフリフリの服ではなく、動きやすそうなズボンを穿いている。
1年ぶりに、お互いの目が真っ直ぐに合った。
「あの……、奈々ちゃん……」
私は溢れそうになる涙を必死に堪えながら、喉の奥から言葉を絞り出した。
「私……こないだは、変に変なこと言って、ごめんね……」
1年前のことを「こないだ」と言ってしまうくらい、私の心はあの喧嘩の日のままで止まっていたのだ。
我慢していた涙が、堰を切ったようにボロボロと頬を伝って落ちていく。
すると、奈々ちゃんの大きな目からも、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「私こそ、ずっと喋らなくてごめんね……! 私、今日、引っ越しちゃうの。だから、マミちゃんにずっと、ずっと謝りたかった……!」
私たちはどちらからともなく駆け寄り、狭い玄関先でワァワァと声を上げて泣きながら抱き合った。
1年間、お互いに張り合っていた意地っぱりが、体温の中で一瞬にして溶けていくのが分かった。
「そうだ! マミちゃん、これ、マミちゃんにあげる。ずっと渡したかったの」
奈々ちゃんは袖でゴシゴシと涙を拭くと、足元にあった小さなダンボールの中から、大切そうに両手で一つの箱を抱えて持ってきた。
それは、ポピーの『パチパチルンルン』だった。

箱の中に黄色いショートカットの髪をした可愛いお人形が1体。さらに、プラスチック製の色鮮やかな赤や白、ピンクのドレス、お揃いのブーツや指輪、そして貼って遊ぶための小さなシールやミニレターセットが、まるでお菓子の詰め合わせみたいにきれいに並んでいた。
お人形の体に、カチッと衣服を「パチパチ」とはめ込んで着せ替えができる、奈々ちゃんが何より大切にしていた最新のおもちゃだ。
「えっ……。これ、奈々ちゃんが一番大事にしてるやつじゃん。お誕生日に買ってもらったって、すっごく嬉しそうに見せてくれたやつ……。私、もらえないよ」
「良いの! マミちゃんに持っててほしいの。私、向こうに行っても、マミちゃんに私の代わりにたくさんパチパチしてほしいんだもん」
奈々ちゃんは、泣き出しそうな、でも最高に優しい笑顔で『パチパチルンルン』を私の小さな手にギュッと握らせた。
「ありがとう……! 大事にする、毎日お洋服着替えさせて、絶対にお人形で遊ぶからね……!」
私はそのずっしりとした宝物を胸に強く抱きしめ、また子供みたいに声を上げて泣いた。
すると奈々ちゃんは、私の涙を小さな指先で拭いながら、ちょっと悪戯っぽくクスッと笑った。
「マミちゃん、泣き虫。……あ、そうだ。ルンルンはね、お洋服だけじゃなくて、カツラもパチパチって外せるんだよ。ほら、見てて」
奈々ちゃんは手本を見せるように、手元にあったルンルン人形の黄色い髪の毛を指でつまみ、「パチッ」と小気味いい音を立てて外してみせた。
中から、ツルツルとした坊主頭のお人形が現れる。
「あはは! ナニこれ、ハゲちゃった!」
あまりに劇的でシュールなルンルンの姿に、私は涙を流した顔のまま、思わず吹き出してしまった。
「でしょう? だから、泣いてるマミちゃんには、この白のお洋服と、このカールした可愛いカツラをパチパチしてあげる!」
奈々ちゃんは器用な手つきで、坊主頭のお人形に新しい白いドレスをパチッとはめ、その上にクルンとした黄色の髪の毛のパーツをパチッとはめ込んだ。一瞬で、とびきりお洒落で元気な女の子に変身する。
「すごい……本当に可愛い……!」
「うん! 離れて遠くに行っちゃっても、マミちゃんがこのルンルンをパチパチするときは、隣の部屋に私がいると思って、私のこと思い出してね」
別れの寂しさが、パチパチルンルンのカラフルな世界の中で、あたたかい笑顔に変わっていく。コンクリート壁の冷たさなんて、もうどこにも感じなかった。
夕方、奈々ちゃん一家を乗せたトラックが団地を出発した。私はルンルンを抱きしめたまま、庭から見送った。
奈々ちゃんは助手席の窓から身を乗り出すようにして、満面の笑顔でちぎれるほどに手を振って、引っ越していった。
私の手元には、さっそく私がパチパチとはめ換えた、赤いスーツ姿のキリッとしたルンルン人形が佇んでいる。
付属の小さなミニレターには、まだ習いたての拙い文字で「マミちゃんへ、ずっとともだちだよ」と書かれていた。
どんなに遠くへ離れても、このお人形の服をパチパチと付け替えるたびに、私の心はお隣の部屋にいた奈々ちゃんと繋がっている。
私は、初めてできた最高の親友・奈々ちゃんと、この世界一愛おしいおもちゃを、何年経っても、大人になっても、絶対に忘れない。
(#4・了)
この小説はノンフィクションです。
