やさしさで縛らないで
母と次女と3人でランチをした日のこと。
母に長女が同棲のために家を出ることを話した。
昔気質の母がどう反応するかは、だいたい予想していた。
「今時の若い子の考えることはわからないし、それを許した親の顔が見たいわ」。
「きっとこう思うだろうな。その親は私なんだけど」と思いながら聞いていた。
会話が進むうちに、母の言葉が次女に向かった。
「あなたは優しいから、お母さんのことを面倒見てあげるよね」
ゾッとした。
私はすぐに返した。
「それは次女が決めることだし、そんな言葉を聞いたらそうしなあかんと思うでしょ。私は次女の人生を束縛したくない。」
その場はそれで終わった。
でも私の中で、しこりとして残った。
なぜここまでくすぶるのか、自分でもすぐにはわからなかった。
直視するまでに、ある程度の消化が必要だった。
やがて気づいた。
その言葉は、私がずっと言われてきたことそのものだったから。
直接的な言葉だったり、暗にだったり。
「あなたは優しいから私から離れないよね」。
そう言われているような人生だった。そしてそう思わないといけないと、ずっと信じていた。
「誰かの犠牲になることで、そして与える側に回ることで自分も幸せになれる」
そんな言葉を当たり前に受け取って生きてきた。
その一面は確かにある。
でも「誰に与えるか」で、人生は全然違うものになると気づいた。
「欲しい欲しい」と言い続ける人に与え続けたらどうなるか。
与える側はとことん削られて、もらう側はそれが当たり前になる。そういう関係を、たくさん見てきた。
では「欲しい」と言う人が悪いのか。私はそうは思わない。
与える側にも、実は都合がある。
「これだけやったんだから」という満足感。
「いい人でいたい」という見栄。
受け取る側はそこにうまくはまり込む。どちらも相手を本当には見ていない。問題は、その関係の構造にある。
母はひたすら与える人だ。
「見返りなんて求めない」と言う。
でも本当にそうかというと?——私は知っている。
母の愚痴や本心を聞くのは私の役目だったから。
神様でもない限り、そんな境地には立てない。
それが人間だと思う。
だとしたら、大切なのはこういうことじゃないか。
「自分が納得できる範囲で動く」
見返りがなくても後悔しないライン。
自分が壊れないライン。
そこを守って生きることが、自分を大事にするということなんだと、今の私は思っている。
与えることが全て良いこととは限らない。
境界線を持っている人だけが、本当の意味で誰かの支えになれる。
自分を保ちながらでないと、人を助けることなんてできない。
母があの日、次女にかけた言葉。
善意から出たものだったかもしれない。
でもやさしさを理由に、誰かの人生を縛ることはできない。
たとえ介護が始まっても、私は私の人生を歩く。
そして次女にも、自分の人生を歩いてほしい。
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