第4回世界平和音楽祭
かつて6年間歩いた道
指揮者の根本昌明さんによる「第4回世界平和音楽祭」に伺った。場所は海老名市文化会館。コンサートの感想の前に、個人的なことを書かせていただく。お許しいただきたい。
僕は現在東京の小平市に住んでいるが、海老名市はかつて6年間住んでいた場所だった。引っ越す前は、その場所に自分を取り巻くエネルギーが弱まっていると感じていた。 あと、住んでいた団地の契約更新や、当時は闘病中だったため心機一転を求めていた。結果的に自己中心的な想いで、そこにあったものを強引に引き剥がして離れていった。住んでいた団地、周りにいた音楽仲間、前妻の仕事など、それらを引き剥がして。
コンサートの前に早めに移動して、当時住んでいた場所を2年振りに訪れた。


何だか異様な光景。。。

見晴らしがよく天気が良い時は大山が見えた。梅雨時の夜になると蛙の大合唱も聴こえていた。
これにはショックが大きかった。

どんどん見晴らしが悪くなる。。。
もし、今もこの地に住んでいたら、心が狭苦しい想いをしていたのかもしれない。自分の直感は、このような変化を前もって捉えていたのだろう。
かつてよく歩いていた道を歩く。様々な思い出が巡る。ボロボロの身体になって、これからどうすれば良いのだろうと思いながらも歩いた道。「もう病院に行きたくない、薬を止めようかな」何もかもが虚しくなり、世界が遠のいていくのを感じた景色。前妻と一緒に歩いた道。ここに行くのが怖かった。できれば素通りしたかった。今まで行くのを避けていた。 コンサートのプログラムに書かれていた第九の歓喜の歌の訳に「ひとりの優しい女性を得たものよ」という言葉を読んだ時に涙が溢れた。それらの道を歩いて浮かんできたのは「感謝」の気持ちだった。
東京に、繋がりなおす。どういうことなのかなとこの数ヶ月前から、ね、考えている。ぼうやり。繋ぐというのははたして、どういうことなのかなと考えて。
過去を変えることはできず。あくまでも生きられるのはいつだって現在。現在するものをだけでない今。今というのはその意味では過ぎ去る時間だけでもない。うん。そこには未来に渡る芽もあればかつてとも言われる時間や記憶、情感情念さまざまに含み込まれる今があり。その今すなわちこの私なのだ。だから今には多数の時間たちがいる。私たちがそれぞれに時間なのだ。その私たちのあらゆる時間がそこでひとつながらにありながらの今をする。今でありながら過去を未来をそこに含めもつ。
東京の地を離れることになり離れていくそのその時の現在が立ち上がる時、その時のさなかにおけるその僕には、それがまさに今であり。その今はその時における今だから過ぎ去ることもない。今たちは、過ぎない。過ぎるのはつねに外的時空間における出来事性質である。僕たちはいる。つねに今にだ。
家族と呼ばれる大地を切り離され岐阜に行った。そこで断ち切られた根がひとつある。家族だけじゃない。この居場所やこの土地。このマンション。学校にいる友達。あらゆるの回路の結び目において僕はその今を成す。成しながらいる。
失われたものそのものが現在する現象としての今にふたたびこの現在にて繋ぎ直されるのではない。それはやはり過去なのだからだ。けれど過去をもういちど含めもつ今のこの僕らで今に新たに根を、回路を、音楽を成することをする。そのことならば可能になる。可能である。
かつて好きだった女の子。友達。街のなかの場所。僕は確かにこの土地にて11歳までいる。いたのだ。その確かさを具に感得する。それはけれどもう同じようにではない。マンションの階段は手すりが今の僕にはこれほどに低いのだなと確かめる。
どんなことがなかったとしても今の僕を成するうたじゃない。うたは生きる。うただ。僕は。
最近、吉祥寺の井の頭公園で百瀬さんと再会した時に、「過去に引き裂かれたものと繋がりなおしたい」と仰っていたのが印象的だった。僕のこの行為も、今回のこのコンサートの地がたまたま海老名だということで、向き合うべきタイミングが来たのだった。百瀬さんに倣い、今現在の自分によって、もう一度過去と新しく繋がり直す行為だった。
林晶彦:弦楽オーケストラの為の「道~La Strada」
ここまで長いプレリュードでした。ここからコンサートについて感じたことを書いていきたい。
作曲家・ピアニストの林晶彦さんによる曲。副題に東山魁夷画伯の「道」から受けた霊感、とある。
現実の道のある風景でなく、象徴の世界の道が描きたかった。
(中略)
道は、歩いて来た方を振り返ってみる時と、これから進んで行こうとする方向に立ち向う場合がある。私はこれから歩いて行く方向の道を描きたいと思った。
(中略)
人生の旅の中には、いくつかの岐路があり、私自身の意志よりも、もっと大きな他力に動かされていると、私はこの本のはじめの章に書いている。その考え方はいまも変らないが、私の心の中に、このひとすじの道を歩こうという意志的なものが育ってきて、この作品になったのではないだろうか。いわば私の心の捉え方、その方向というものが、かなり、はっきりと定まってきた気がする。しかし、やはりその道は、明るい烈しい陽に照らされた道でも、陰惨な暗い影に包まれた道でもなく、早朝の薄明の中に静かに息づき、坦々として、在るがままに在る、ひとすじの道であった。
VisionⅠ~Ⅴの5つの楽章によって構成されている。聖書やウンベルト・サバの言葉、リルケの詩などがインスピレーションになっている。
ここで根本さんの指揮を初めて拝見した。動きが「やわらかい」というのが第一印象。コンサートマスターである平澤仁さんの冒頭のヴァイオリンソロが美しい。弦楽器による静かな響き、コントラバスの余韻のあるロングトーンが印象的。
途中でヴァイオリンとチェロによる対話のような無伴奏ソロが入る。そこから段々と弦楽器が加わっていき、美しいコラールを奏でる。ここでの根本さんの指揮が凄まじかった。根本さんが「こんなもんじゃない、もっともっと!」と腕をぶんぶん回し続け「うたえ!」と全身で演奏者達に訴えかけているようだった。弦楽器が一瞬人の声のようにも聴こえ、その響きの美しさに涙が溢れた。まるで、楽器の素材となった太古の樹の霊までもが一緒に歌っているような霊的な響き。楽器達が母なる森に還っていくような音。音の森だった。
最後はヴァイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスの各弦楽器がアルペジオをゆっくりと繰り返し奏でていく。それぞれが何層もの円を描き、ポリフォニックに重なっていく。音の曼荼羅を描くように、空間にいくつもの音の輪が浮かんでくるかのようだ。ミニマル・ミュージック的なアプローチだと感じた。
帰りの電車で、林さんが、
「パリに留学した時、周りに友達もいなく病気にもなって絶望的だった。でも、それがあったからこそ、闇を転換するような光を感じることができて書けた曲なんだ」
と仰っていた。 さらに阪神大震災の被災体験も重なっている。
東山魁夷画伯が
道は、歩いて来た方を振り返ってみる時と、これから進んで行こうとする方向に立ち向う場合がある。私はこれから歩いて行く方向の道を描きたいと思った。
しかし、やはりその道は、明るい烈しい陽に照らされた道でも、陰惨な暗い影に包まれた道でもなく、早朝の薄明の中に静かに息づき、坦々として、在るがままに在る、ひとすじの道であった。
と書いたように、林さんの楽曲も、後ろを振り返るのではなく、静かにゆっくりと前へ進んでいく方向性を感じた。そして、大地の内に光を灯しながら、薄明の中に静かに息づいている道を感じさせた。
ベートーヴェン 第九
コンサートの始めには、医師であり作家の長堀優先生による第九についての講演。日本で第九が広がっていく歴史的な背景から、鳴門など土地の成り立ちや陰陽の話まで。歓喜の歌の歌詞の説明もあったので、実際の演奏が始まる前の心の準備ができた。
第九は、苦悩や葛藤を感じさせる1,2楽章があるからこそ、その後の歓喜につながる3,4楽章に進むことができると感じた。飛ばし読みはできない。
エル・グレコの「受胎告知」が浮かぶ。ここでは何と天使の翼が黒いのだ。マリアの背景には黒い雲のようなものが立ち上がっている。その間からわずかに光が見える。
おんみ 暗闇よ わたしのみなもとよ
わたしは焔より おまえを愛する
焔は 燃ゆることで
ひとところを 明るく照らし
世界に限りを つくりだす
その輪の外では 何者たりとも焔を知らず
だが暗黒は すべてを抱く
物の象(かたち)を 焔を 獣を そしてわたしを
どれほどに 摑んでいるだろう
人間を あらゆる力を ー
どうやら ある偉大なるはたらきが
わたしの隣で うごめいているようだ
わたしは夜を信ずる
ここでは闇と光が一体となっていて、長堀先生の陰陽のお話にも通じる。1,2楽章は時には光が一瞬見えるが、リルケの詩のように暗闇に包まれていて、ベースは闇の世界だと感じる。まるで、天使の黒い翼がなびかせる風を受けながら、眼をギラギラと輝かせて暗闇に包まれた森の中を疾走するベートーヴェンの姿が浮かぶ。
3,4楽章から段々と光の度合いが強くなっていく。根本さんはまさに全身全霊で指揮を振っている。腕を地面すれすれから天に向かって振り上げ、時にはジャンプし、唸り、なんと感情豊かなんだろう。 4楽章のバリトンのソロ「おお、友よ、この調べではない!もっと快い、喜びに満ちた調べを歌え!」のように、「もっともっと!」と皆を煽りながら何速もギアを上げていく。この勢いと波動はどこまでいくんだろう。そんな根本さんの指揮に応えオケも合唱も全身全霊で一体となって歌っていく。まるでたくさんの音の羽が集まって、エネルギーが有機的に絡まり一羽の大きな鷹になるように。
CDを聴いただけでは気づけなかった部分、それはベートーヴェンの巧みな展開技法だった。特に4楽章は何度も音の場面が切り替わる。コントラストが凄まじい。低く急降下したかと思えば、パッと音が消えて一気に上昇したりする。鷹のように鋭いスピードと線で、直線ではなく濃厚で分厚い「曲線」を描き飛んでいく。なんて濃密な時間なんだろう。
全員で音を引き延ばすFのフェルマータ。圧巻。合唱とオケの音なのに、バッハのようなパイプオルガンの荘厳な響きを感じた。画家の榊さんが語っていた、「バッハが持つ音楽の魂を最も引き継いでいるのがベートーヴェンなのではないか」という意味を体感できた。
歓喜の歌の歌詞の通り、合唱やソリストを含めたオケがひとつの「兄弟」となっていた。 楽器はそれぞれ違うのに、有機的に合わさり「ひとつの音」になっていた。僕の全身も「感謝」と「喜び」に満たされた。コンサート前に歩いた道を含め、過去の傷や思い出に「感謝」し、根本さんの音楽によって昇華することができたと思う。
終演後、オケの方達が握手をしてお互いの健闘を称え合っているのがとても良かった。全身全霊の演奏会、ほんとうにありがとうございました。これからも前を見て、未来に向かって己の「道」を進んでいこう。
