見出し画像

【怪異四連作|一話読み切り】土公神の童歌 ― 夏土用の章 ―

渡月楼とげつろうにも、夏は訪れていた。

格子窓から吹き込む風が遊女たちの簪を揺らし、薄物の小袖が歩くたびに涼やかな音を立てる。

夕刻になると、白粉を整えた女たちが静かに座敷へ向かい、提灯には新しい灯がともされた。

楼は、昼も夜も熱を抱いたままだった。
陽が落ちても石畳は温もりを失わず、湿り気を帯びた風だけが軒先の簾をかすかに揺らしている。

遠くでは蝉が鳴き、夕暮れの空は朱から群青へとゆっくり色を変えていった。

そんな季節になっても、土だけは静かだった。
人の欲も、悲しみも、幾度となく見送ってきた土は、今年も何事もないように夏を受け入れている。
その沈黙だけが、楼主のたえには気味悪く思えた。

花魁の白菊が姿を消えてから半年あまり。
渡月楼は一度、息を止めた。
客は遠のき、流行り病で倒れる女が続き、夜ごと賑わった座敷には、行灯だけが寂しく灯る日もあった。

「あの楼も終わりだ」

そんな噂は、吉原中を巡った。

だが、その噂を消したのは、妙だった。
女たちの身なりを改めさせ、客を選び、帳簿を見直し、無駄な支出を一つひとつ削っていく。
派手さではなく、堅実さを重視した。
渡月楼は少しずつ息を吹き返し、閉ざされていた座敷にも再び笑い声が戻り始めていた。
帳場に座る妙の指先は、今日も算盤を軽やかに弾く。

「米は先に押さえておきな。今のうちだよ」

「はい!」

女中たちは以前よりも機敏に動いた。

――ついに、この楼は自分だけのものになった。
妙はそう思っていた。

夫の与太郎が消え、続いて甥の千次も姿を消した。
あの二人は、この楼にとって膿だった。

「甥だなんて、よく言えたものさ」
妙は独りごちる。

与太郎は千次を亡き妹の子だと言い張っていた。
だが妙は、そんな話一度たりとも信じたことはない。

――あの男がどこかで産ませた子を、都合よく引き入れただけだ。

そう思っていた。

与太郎は、千次にだけは異様な執着を見せた。
財を譲るような素振り。
叱りながらも突き放さない眼差し。
甥というには、あまりにも深い情だった。
その二人が、相次いで姿を消した。

死んだとも、生きているとも分からない。
探す者も、今ではもういない。
妙は帳簿を閉じ、小さく息を吐いた。

「ようやく静かになった」

その声には安堵があった。
同時に、長い歳月を耐え抜いた者だけが持つ疲れも滲んでいた。

渡月楼は再び栄え始めている。
廻船問屋・宗助も病に伏し、仕事の多くは妙が引き受けるようになっていた。
商いは順調だった。

客は戻り、銭も戻る。
ようやく、自分の時代が始まったのだ。

だが――。

渡月楼の裏庭に立つ一本の古木だけが、風もないのに枝を揺らしていた。
その根元では、黒い蟻が列をなし、誰にも踏まれることなく、静かに土の中へと消えていく。
妙は、その光景に気づくことはなかった。

土は、変わらぬ沈黙の中で、これから訪れる夏を見つめていた。



妙には、ひとつだけ胸の奥に引っ掛かるものがあった。
町外れの畑である。
広くもなく、肥えた土地にも見えない。
作物がよく育つわけでもない、どこにでもありそうな土地だった。

それなのに、不思議とあの土地だけは、人の欲を引き寄せる。
与太郎もそうだった。
千次もそうだった。
そして、あの土地に執着した二人は戻らなかった。

――あの土地のことを他に知る者は……。

ある日の夕暮れ、妙は床に伏せる宗助を訪ねた。

夏風が障子を細く鳴らし、部屋には薬草の苦い香りが満ちている。
宗助は、以前よりひと回りも小さく見えた。

「ずいぶん痩せたねぇ」

妙が声を掛けると、宗助は力なく笑った。

「わしは、人より丈夫だったのにな」

その笑みは、どこか諦めにも似ていた。

妙は枕元へ腰を下ろし、何気なく尋ねた。

「宗助さん。ひとつ教えておくれ。どうして、町外れのあの畑を皆が欲しがるんだい」

宗助は、しばらく天井を見つめていた。

やがて、乾いた唇をゆっくり開く。

「……与太郎がな」

妙は黙って耳を傾けた。

「あの畑には黄金が眠っとる、と言うておったそうじゃ」

「黄金?」

妙は思わず吹き出した。

「死ぬ間際まで、馬鹿話かい」

しかし宗助は笑わなかった。

「わしは見ておらん。だが、与太郎も千次も、本気だった」

部屋に沈黙が落ちる。

障子の向こうで風鈴が鳴った。
その音だけが妙の胸に残った。

「与太郎は、その話を残したまま消えた。そして、千次も、あの土地へ近づいて消えた。そして、今はわしがあの土地を預かっておるが、それからというもの病がひどくなってな……」

宗助は向き直って言った。

「だから、お前さんは近づくな」

宗助は細い息を吐き、しばらく目を閉じていた。

「嫌だと言ったら?」

長い沈黙が落ちた。

「……普段のわしなら止める。だが、わしが死ねば、証文だけが残る。何も知らぬ者の手へ渡れば、また誰かが土地を掘り返すだろう」

床の脇から、古びた包みを引き寄せる。

「欲しがる者に渡すのは間違いかもしれん。それでも、何も告げずに残すよりはましだ。――持っていけ」

宗助は床の脇から、古びた包みをゆっくり取り寄せた。
包みを開くと、そこには何度も折り畳まれた古い証文が入っていた。
墨はところどころ薄れ、それでも人の名だけは、今なおはっきりと残っている。

「これは……土地の」

妙は目を細めた。

「なんだ、宗助さんの土地じゃないのかい」

宗助は力なく首を振る。

「違う」

静かな声だった。

「わしが持っとったわけじゃない。預かっとっただけだ」

妙は黙ったまま証文を見つめる。

「持ち主に、土地を売ってほしいと持ち掛けたら、売ることは出来ぬ。この土地を預かってほしいと、頼まれてな」

宗助は遠い日を思い出すように目を閉じた。

「『自分が戻るまで、この土地を誰にも荒らさせるな』とな」

「それで、持ち主は戻ってきたのかい?」

「いや」

宗助は小さく笑った。

「とうとう、一度も戻らんかった」

しばらく沈黙が流れる。

障子の外では蝉が鳴き、夏風が静かに通り過ぎていった。

「だから、わしが代わりに見張ってきた」

宗助は自嘲するように笑う。

「番人というやつだ」

妙は証文へ視線を落とした。

「じゃあ、今は?」

宗助はゆっくり首を振る。

「もう、わしには守れん」

細くなった指が証文を押した。

「お前さんが土地を預かる気があるなら、お前さんに託した方がいい」

宗助は妙をまっすぐ見つめる。

「……ただ一つだけ覚えておけ」

妙は顔を上げる。

「この土地は、持つものじゃない」

宗助は息を整えながら続けた。

「守る土地だ」

妙は目を細めた。

書付を懐へしまい、ゆっくり立ち上がる。
外へ出ると、すっかり日が暮れていた。

遠くから、祭囃子の稽古だろうか――
笛の音がかすかに流れてくる。
夏は、人を浮かれさせる。

だからこそ、人は一歩踏み越える。
妙は書付を握りしめた。

「宗助はそう長くはないだろう。土を掘り返さなければ、神様も許してくれるだろう。土用だろうと構うものか」

書付を交わし、土地を手に入れるだけ。
それだけなら、罰など当たるはずがない。

そう言い聞かせるように歩き出した妙の足元を、一列の蟻が静かに横切った。

妙は気づかないまま、通り過ぎた。
黒い列は迷うことなく町外れへ続き、その先には、夕闇に沈むあの畑が、誰かを待つように静かに横たわっていた。



宗助が息を引き取ったのは、夏土用へ入って間もない頃だった。
妙は涙を見せなかった。
棺が運ばれるのを見届けると、その足で名主のもとへ向かった。
宗助から託された古い証文を示し、名主立会いのもと、今後は自分が土地を預かる旨の一札を入れた。

「土を掘るわけじゃない。ただ、見張る者が変わるだけさ」

そう言いながらも、妙の胸には、あの土地をついに手中へ収めたような喜びが湧いていた。
 
そう言って土地の預かり主になった妙は、胸の内で小さく笑った。
土用の禁忌など、所詮は昔話。
商いとは、機を逃さぬ者が勝つ。
それだけのことだった。

翌日。
妙は、用心棒を連れて地図に記された場所へ向かった。

宗助の言った通り、畑には黄金は無さそうだった。

奥屋敷の門は厳重に閉められていた。

「開かないなら、壊しておしまい」

妙の命を受けた用心棒たちは、閉ざされた門へ斧を振り下ろした。

鈍い音とともに門は崩れ落ちる。

その先には、与太郎も千次も見つけることのできなかった黄金の壺が、まるで待っていたかのように静かに眠っていた。

――ほら、ごらん。神様だって怒っちゃいない。

妙は、壺を抱えて笑った。
その声は森にこだまし、子どもの声と重なった。

――夕暮れ四つの鐘が鳴る。

春の森
夏の火轟々
秋には銭が尽き果てて
冬には水に流される
足もと見たら
蟻地獄

もはや、その童謡は、妙の耳には届いていなかった。

渡月楼はすっかり活気を取り戻していた。
妙は、その勢いを決定的なものにしようと考えた。

「今年だけの船遊びを開こう」

吉原でも指折りの上客だけを招き、廻船問屋の宗助が遺した屋形船を仕立てる。
花魁たちは新調した打掛をまとい、三味線や鼓の音が川風に溶けていく。

「これで渡月楼も、江戸一だ!」

妙は久しぶりに心から笑った。
 
夕暮れ時――屋形船は静かに川面を滑り出す。

水面は夕焼けを映し、幾筋もの朱を揺らしていた。
客たちは盃を重ね、花魁たちは優雅に酌をする。
その中で、浮橋だけは欄干にもたれ、黒く染まり始めた水面を見つめていた。

「どうした、浮橋」

馴染みの客が声を掛ける。

「今日は浮かない顔じゃないか」

浮橋は微笑んだ。

「水面に映る過去を覗いていました」

その答えに客は笑ったが、浮橋だけは笑っていなかった。
 
やがて夜の帳が下りる。
遠くで小さな花火が上がった。
船の上では歓声が広がる。
一発。
二発。
三発。
夏の夜空を火花が彩る。

妙は静かに盃を置いた。

「やっと……できた」

その呟きは、誰にも届かなかった。

次の瞬間だった。
夜空へ菊のような火花が一瞬だけ咲いた。

眩い光に照らされ、妙は何気なく渡月楼のある方角を振り返る。
そのとき、花火とは別の赤い火が見えた。

最初は、夕焼けの名残かと思った。
しかし違う。
赤は瞬く間に大きくなり、黒い煙が夜空へ立ち昇る。

「あれは……」

誰かが叫ぶ。

「渡月楼が火事だ!」

妙は立ち上がった。

胸の奥が、冷たく沈んでいく。
屋形船へ乗り込んだため、楼には留守番の女中と禿が残るばかりだった。
助けを呼ぶ声は風に消え、炎だけが勢いを増していく。
川面に映る花火の光と、渡月楼を包む炎の赤が、ひとつに重なった。
その夜、夏の空は、美しいほど赤く燃えていた。



ひとり楼に戻った妙は、火を目の前に、しばらく立ち尽くしていた。
泣くことも、叫ぶこともなかった。
焼け落ちる梁を見つめながら、ただ静かに呟く。 

「……そうかい」 

その声には悔しさも怒りもなく、長い夢から覚めた者のような静けさだけがあった。

栄え続ける楼などない。

自分は知っていたはずだった。
それでも、出来ると思ってしまった。
妙はゆっくりと中に入る。

――炎に包まれても、自分の城はここだ。

その背を、誰も呼び止める者はいなかった。
 
夜明け前には、炎はようやく鎮まっていた。
焦げた柱は黒く崩れ、瓦は熱を失い、灰だけが風に舞っていた。

あれほど華やかだった渡月楼は、まるで最初から存在しなかったかのように、その姿を消した。

 
数日後。
焼け跡の片隅では、焼け残った夏草が風に揺れていた。
人の営みは終わっても、土だけは変わることなく季節を受け入れている。

浮橋は、その小さな夏草が踏まれぬよう、静かに瓦礫をどかした。

豪華な着物も、艶やかな簪も、すべては煤となって消えた。

それでも、小さな命だけは、何事もなかったかのように風に揺れ、力強く生きていた。

そのとき。
一本道の向こうから、二人の人間が歩いてきた。
穏やかな足取りだった。

その傍らには、小さな包みを抱えた女が寄り添っている。
白い布で目元を覆ったその女を見て、浮橋は自然と微笑んだ。

「白菊……」

男は静かに頷く。

「ああ。目はまだ戻らないがな、毎日、土の匂いを楽しそうに話している。なぁ、お雪、浮橋だよ」

浮橋が白菊に近寄る。

白菊が、微笑んで浮橋の頬をそっと撫でた。

浮橋はその手を取り、涙を流した。

白菊の手の温かさは、今浮橋が生きていることを証明してくれるようだった。

男は静かに聞いた。

「浮橋。あの土地に、何が見えた」

「私には、祈る場所でした」

男は懐から一枚の証書を取り出す。
土地の証文だった。

「妙殿が、最後まで守ろうとした土地だ。今後は、君に託したい」

浮橋は驚いたように目を見開く。

「あの土地は、誰のものでもなかった」

浮橋は黙って聞いていた。

「神様から預かっていただけの土地だ。人は、何もない土地にさえ、自分の欲するものを見てしまう」

「なら、私も……土地を預かります」

「そうか。あの土地を守ってくれるか」

「はい」

男は、その言葉を聞いて、安心したようだった。
白菊の手を引き、静かに去っていった。
 
浮橋はひとり、町外れの畑に立つ。
夏草が風に揺れ、土は雨を待つように静かだった。
そこには、何もない。 

黄金もない。
宝もない。
祠もない。
ただ、長い歳月を受け止めてきた土だけが広がっている。

――それでいい。
地獄のような日々も。
これからの穏やかな日々も。
土から生まれ、土に還っていく。
 
浮橋はゆっくり膝をついた。
指先が土に触れる。
ひんやりとした感触が、掌へ静かに伝わってきた。 

「ここを耕そう」 

浮橋は、小さく呟く。

「行き場を失った子らを迎えよう。花ではなく、祈りが育つ場所にしよう」

遠くで風が渡った。
その音に混じって、幼い子どもの声が聞こえた気がした。
 
――夕暮れ四つの鐘が鳴る。
 
浮橋は顔を上げる。
だが、歌の続きを聞こうとはしなかった。
静かに目を閉じる。
そして、もう一度だけ土に触れた。
 
夏は終わる。
風はやがて秋を運び、人も町も姿を変えていく。
それでも土は、何も語らない。
奪われたものも。
守られたものも。
祈られたものも。
すべてを抱いたまま、静かに季節を送り出していた。

遠くで、子どもたちの笑い声が響く。

その歌だけが、小さく、小さく風に溶けていった。

◇◇◇—◇◇◇—◇◇◇
土公神の童歌 (終)

作者のあとがき🖋

『土用』というと、「土用の丑の日」や鰻を思い浮かべる方が多いかもしれません。

しかし、本来の土用とは、季節の変わり目に訪れる期間であり、春・夏・秋・冬、それぞれに存在します。

この「土公神どこうしん」と呼ばれる神様は、遊行神ゆぎょうしんとされ、季節によって居場所を変えられ、一か所にとどまることはないそうです。
春夏秋冬の四季に応じて、春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭にいらっしゃると伝えられています。

また、土公神がその場所にいらっしゃる「土用」の期間には、その場所を掘り返すような、土を動かす作業は慎むべきとされています。
そこには、人と自然が共に暮らしてきた時代の知恵が、今も静かに息づいています。

『土公神の童歌』は、その土公神が守り続けてきた土地を、人間の欲が荒らそうとする物語です。
もっとも、本作では土公神がどこにいらっしゃるのかという民俗的な側面よりも、土地を踏み荒らそうとする者たちに呪いの童歌が発動する――そんな怪奇譚としての要素が強い作品になりました。

私が「土用」という言葉に興味を持ったのは、学生時代のことでした。

上代文学の演習でレポートをまとめていたある日、廊下で教授が業者の方に「今は土用の期間だから、大きな買い物は控えておきますよ」と話しているのを偶然耳にしました。

「土用だから買い物を控える?」

その一言が心に残り、それ以来、土用という存在について少しずつ調べるようになりました。

その後、占いを学び、一時期占い師をしていた時がありました。
多くの相談者様のお話を伺う中で、

「土用だと分かっていたのに、大喧嘩をしてしまいました」
「契約を決めてしまいました」

そんな声を耳にする機会が何度もありました。

そこにあったのは、現代にも影響している土用そのものの不思議さ。そして、人がこの期間に、自分の感情や欲と向き合うことの難しさでした。

土用とは、「何か悪いことが起こる期間」ではなく、「少し立ち止まって、自分を見つめ直すための時間」なのではないか。

今では、そんなふうに思っています。

この物語に描いたのも、人の欲と祈り、そして土が静かに受け止め続けてきた時間でした。

ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

この物語が気に入っていただけましたら、秋土用から始まる他の『土公神の童歌』シリーズにも、ぜひ遊びにいらしてください。