甲田烈さん対談「誰が地球を語れるのか」第3回 ラマナ・マハルシの思想/理性批判から知覚批判に/長屋のご隠居と哲学の復権/トランプ政権について/人類がもう少し幸せになるためには?/楽々樂考について
「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。
御覧いただき、ありがとうございます。現在、連載記事をアップしております。下記の対談イベントの文字起こししたものの、再編集版となります。
この対談は、note上のマガジン、「楽々樂考」の最初のコンテンツとして企画されたものです。
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前回の記事はこちら
ラマナ・マハルシの思想
甲田 烈「さっきの抽象論理に一見、聞こえる話に戻っちゃうんだけど、現象領域として起こっていることと、そもそもの立ち現れそれ自体が可能になっている場っていうのはそこに差異がある。でも差異があるからこそ、その現象領域が成り立っているとも言えるわけで、二つは切り離せないよね。
もうちょっとインド哲学に引きつけて言葉を継ぐと、確かレジュメにも出したんだけども、現代のインドの思想家で南インドにラマナ・マハルシって人がいて、スピリチュアル・精神世界系では結構有名な人なんですよね。彼自身はタミル語を喋っていたんだけど、英語とタミル語両方できるお弟子さんがいて、彼の言葉を英語に翻訳して世界に広まったので、名前は知られるようになった。
その人が、まあ三段論法としては完璧に破綻しているんだけど、面白い言い方をしていて、まず、1番目、前提としてブラフマン。さっき宇宙の本源とかって翻訳されているブラフマンが実在であるといいます。そして、2番目に世界が幻想である。あるように見えても、そんなものはないんだと。最後に3番目、ブラフマンが世界である。
三段論法としては完全におかしいんですよ。何言っているんですか、あなたは?っていうのを考えていくと、意識の位置の推移っていうのを言っていて、まず、自分自身を生かしている生命みたいなものと切り離されたところで世界というものを考えちゃったら、その世界は幻想ですよって言っているわけ。生命原理自体が成り立たつのはブラフマンだから、これを真実であると。もちろんブラフマンと切り離されない形で世界があるのであれば、あなたも含めて世界はリアルですよ。これを単なる破綻した三段論法だとか、謎のような言葉として読んでしまうと意味が不明になる。
─ なるほど。
甲田 烈「あの僕もここはずっと思っていたことが実はあって、まあ、今回EMSという場でご縁をいただいて、ここで話させていただいているんですけれども、EMSで発信をしてた段階では、書いてはいたけれども、インド哲学的なニュアンスというか色っていうのは、できるだけ、まあ、出さないようにしていた。それでも滲んじゃうんだけど。
─ 滲んじゃう、いいなぁ(笑)。
甲田 烈「隠しきれない移り香がいつかあなたに〜♫(石川さゆり「天城越え」)ってのが昔、あったような気がしてますが、まぁいいや。
結局、そういうことになっちゃうんだけど、できるだけコミットとしてたのは、やっぱり西洋哲学の言葉を巻いてロジカルに語ることができないと、このインド哲学的な言葉って非常に誤解を招くし、実際、これを修行者に無茶苦茶な形で言った場合、迷いますよね。じゃあ日々自分が生きていて、これが幻想だったら、例えば誰かが好きになったとか、誰かに対して腹が立ったとかなった時にどうするんだって話になるわけですよ。その人にとっては、そのときってリアルなわけだから。とか、あるいは瞑想で何かを気づいたとしても、そのたまさかの気づきと同一化して俺は悟った、みたいになった。そんなの履いて捨てるほどある、と言ったら失礼ですけれども、僕もインドとか行っていっぱいそういうのを見てきたんで。ここは問題かなって思ったんで、今のような語り方を僕は好むし、ウィルバーはだいたいそのロジカルな展開というのは非常に重要視するので。それは態度としてパクらせてもらっているっていうところがありますね。
─ 例えばブラフマンをXにするじゃないですか? いわゆる数式のX。で、この宇宙を地球と読み替えた時に、なんだかわからないけどXというものが実在であるとすると。何が実在しているのか、Xに何が入るかわかりませんが、今のところは、と。
でも、いわゆる地球とか宇宙とか言っているものは非実在である。よく社会という言葉についても言うんですけど、社会っていうのは実在しないんですよね。みんな社会を感じることはできるんだけど、社会さんを持ってきてくださいとか、社会の写真を撮ってきてくださいとか、社会の絵を描いてくださいって言われても、社会という絵を描くことはできないわけですよ。だから社会は実は非実在なんですよ。それは宇宙でも地球でも同じなんですけど。だけど、Xが実在という仮定を上に取っているわけじゃないですか。だから、最後にそこでその3番目まで行かないのか。 それでXで、えっとわけのわからない実在している以上、宇宙だとか地球はXであると言えるっていうことになるのか、ならないのかな? この三段論法ってのが、さっきの破綻している三段論法ってやつですよね?
甲田 烈「ここ難しいところでXっていうものを語るときにどこから誰が語ってるの?って話になるんですよ。ララマナ・マハルシの提唱していた修行法って面白くて、あんまり瞑想とか禅の人のようには進まないんですね。で、何をやれって言っていたかっていうと、「私とは誰か」と、自分にそれを尋ねる。まあ私は大学の先生で男性ですとか、まあちょっとね。あのエロ漫画が好きですとか色々出てきますよね。でもそういうことを繰り返していくと、だんだん心が静かになっていくと。最終的には何が起こるかっていうと、問い自体が消滅する。問い自体が全く立ち上がらなくなった時に、あなたはそれであるだろう、というわけです。」
日本の禅とインド思想
─ ちょっと違う路線から言いますね。日本における禅っていうのがあると思うんですけど、日本における禅っていうのは何かっていうので、あれは簡単に言うと、中国禅の日本語版なんですね。簡単に言うと。
で、中国禅というのはほぼ消滅してるらしいんです、今、歴史的に。じゃあその中国禅はなんだかっていうと、インド思想を中国的に解釈したものが中国禅だった、という考え。それが日本に来て、つまりインド思想を中国語化したものを日本語化したものが、いわゆる禅の思想だっていう考え方ですね。
で、これが結局、何のために禅をやっているか。これ、実は禅が禅の思想がコーチングの成立にかなり深く関わっているんですけども、まあ、今回はそれを省略しますが、真理は何かと人が尋ねますと。師匠さんは、真理はこれです、とは絶対言わないわけです。なぜかというと、真理というものは、その本人が見つけ出すものでしかなくて。その人の外にあるものではないからなんですね、という考え方をとるわけですよね。だから禅問答があるし、坐禅があるし、本人がそう思わなければ、それは真理でもないし答えでもないっていう、そういう話となんかすごく繋がっている。
その「誰が」というところ、お前が私がというところが切り離されるのが西洋のなんか訳の分からなくなる世界、人から切り離されて真実がある事実があるっていう風に持ってきたがるんですよね。でもそれは、その人を幸せにするわけではないし、その人を変えるわけでもないっていうところがインドの考え方の面白いところだなって思っています。
甲田 烈「うん。もちろん、自分自身を問うという、真理とは何かって客観的に追求するのではなく、自分自身を問うっていうのは古いギリシャなんかにあったわけですよ。ソクラテスぐらいまでは。で、それ以降も間欠泉みたいに時々そういう人って出てくるんですよ。皆さんが知っている有名な例で言うと、これ意外なことにデカルトもそうですし、フッサールもそうですよね。フッサールが面白いのは、彼はね、自分が「人間」じゃないってことに気づいちゃったんですよ。」
─ あれ、我々(妖怪)の仲間ですか?
甲田 烈「なぜかっていうと、人間という概念自体だってどこが立ち現れているだろう。それを認識しているって事は、私は人間ではないだろう。そういう理由ですけれども。」
─ じゃあ我々(妖怪)と一緒じゃないですか?
甲田 烈「そうなんですよね。で、先ほどの話、ちょっとあの引き取って言うと、まあインド思想は中国に流れて行って、中国禅の形をとって日本に流れた。だから鎌倉時代の思想家とか道元とかって。まあ今のアメリカとかイギリスに留学するような形で、当時、最先端の思想の震源地でやった中国に留学するわけですよ。道元の話をすると面白いのが、例えば。小さい時にこういう疑問を持ったらしいんですよ。もともと人間は悟っていると中国の偉いお坊さんたちは言っていると、つまり真理を知っていると。だとしたら、なんで僕やあなたは修業しなきゃいけないんですか? たまにこういう歴史的な素晴らしいボケツッコミがあるんですけど。
─ わはは(笑)。いいですね。歴史的なボケツッコミ、面白いな。
甲田 烈「そういう問いを携えて道元が中国に行って、戻って来て開口一番、何を言ったかと言えば、禅を勉強してきたけれども、「目は横に鼻は縦にについている」(眼横鼻直)ことしかわからなかった。その心は何かって言ったら、要するに確かに悟っていない人間は真理の中にいない人間はいないんだけれども、ただ、そういう修業みたいなことをすることによってそれが表現されていく。」
─ 表現される。はいはい、アウトプットってことですかね。はい。
甲田 烈「表現されていくので、何もしなかったら。でもそのままだよねっていう。だから「修証一等」みたいな生き方をするわけです。 修っていうのは修行のこと、証は悟りのことで、元の悟りというものと修業のプロセスというのは一つのものだ、という答えを、まあ、たぶん過去の自分に送り返したわけですよね。なんで修行しなきゃあかんねんって思ってたころの。」
─ 道元とかあの辺って修業とは言いつつ、毎日ご飯を作るとか掃除をするとか、それも修業だっていうふうなね。だからその滝に打たれるとかそういう話ではなくっていう。
甲田 烈「道元によれば、中国に行ったとき、大勢のお坊さんのご飯を作っている人から自分は一番勉強できたっていうね。修行と日常生活は一つなんで。」
─ だから、なんか本当に修業という意識を普段の生活で持てるかどうかで結局変わってくるってことですもんね。結局、何が言いたいかというと、認知の問題ってすごく大事なんだけど、認知の問題を忘れ去る人が結構多い。特にSNSとかで多いみたいな。あなたがそう感じたんですね。という、「あなたが」が抜けてしまうっていうことが結構あるような。
理性批判から知覚批判に
甲田 烈「そうそう。「あなたが」が何度か抜けて、正しい/間違っているになっちゃうんで。これ振り返ると、まあ話が前後するんですけど、ドラッカーが『新しい現実』の末尾のところで、自分が試みているようなことを、昔のカントって哲学者であれば、まあ純粋知覚批判と呼んだであろうと。いうことで、本を締め括っているんですね。素晴らしい言葉で、僕もこれから使わせてもらうと思うんだけど。今のここでの話なんかも、結局、知覚批判をやっているわけですよ。カントの段階だと自然科学が生まれて、宗教と別れて個人の内面というものが立ち上がり、自然科学が発達し、じゃあ戦争も起こったりしているから、共同体の生き残りっていうのはどういうものかってなった時に理性批判ということが必要だったと。でもグレードが別の時代に入っていって、今度は知覚批判が必要になった。『断絶の時代』の前後以降であるって話になっているわけだから、僕はそれは大事な課題だなって思っていて、知覚批判をする以上、そこには先住民の考え方とかインド哲学とか全て入ってくる。まあドラッカー自体も日本画の分析とかして。日本は知覚的であるって言うわけですよね。
─ ドラッカーは日本画を見て初めて日本を知って、それで日本を好きになったって言うんだけど、その前のね、知覚できる知恵とか知識とか認知を持っていたっていうことがね。すごいなって思うんですけどね。
甲田 烈「そうそう。そういうものがないと成り立たないし。」
─ あれ見てすごいと普通、思わないんでね。
甲田 烈「そうそう。自伝にしては地味なタイトルだなって思うんだけど、原題は僕は忘れちゃったんですけど。半自伝のタイトルが『傍観者の時代』ですからね。見ているだけかい!って。でも、見ることが重要だっていう風に、若い時に先輩に教わって、自分はずっとそれをやってきて、社会生態学、あるいは本質行動学みたいなところに行き着いてるという話なんで。
─ まあまあまあね。本質行動学については、ちょっとあんまりここで言うと良くないかもしれませんけど、それはあのドラッカー本人は言っていませんので、後からそうだったって言っている人がいるだけで、ちょっとこれも認知の問題になってくちゃうんですけど。ドラッカー本人は社会生態学って言っていますね。
甲田 烈「そうですよね。面白いのが「生態学」なんですよ。だから地球の問題を語っていないにも関わらず、エコロジカルではあったっていう。」
─ そうなんですよ。そこが大事です。
甲田 烈 : 大事なとこだと思いますよね。そこはすごく。
─ だから環境にしても、地球にしても宇宙にしてもそうなんですけど、その個人の認知の問題をちゃんと含んだ状態で、しかも多様な認知を認めた上で語れるんであれば、私は語ってくださっても全然問題ないと思っているんですけど、偏狭な自分の思考の枠の中でだけで、さっきのインテグラルの発達段階だとどの辺なのかな? わかんないですけど、少なくともグリーンに達してない状態で語ると、誰かを否定するとか、過去を否定するとか、誰かの生活を否定するとか、そういう話に、否定的になっていくみたいな感じがあるのが、やっぱり、ちょっと問題なのかなっていうふうに、ちょっと今、甲田先生の話をずっと聞いていて思ったんですよね。
甲田 烈「うん、まあ、ウィルバーはわかりやすく頭のいいナチスって言い方をしていて。ナチスの指導者達はものすごいキレッキレで認知の段階は高かったかもしれないけれども。 いろいろな人間の能力がある中で、他人に共感するだとか、道徳的な部分はすごい幼かったんじゃないか。そういう人は多いよねっていう。企業人とかでも、そんな話もしてるんで。」
─ なるほどね。だから企業人が云々っていうのは多分それはまあティールで言うところのオレンジとか。つまり、組織がそういう思考を良しとするっていうメカニズムで動いているとそうなっちゃいますよね。そこで優秀になる人ってのは、そのメカニズムの思考で動いている人ですよね。
甲田 烈「うん、どうしても組織の軸で動くのでね。人はね。」
─ ちなみに、せっかくなので、『リジェネラルリーダーシップ』では、どういう組織体より良しとしているんですか?
甲田 烈「えーとね、僕もざっと読んだ段階なので、ここで細かく解説することはしないんですけれども、要するに生命っていうのはサイクルというものがあって、例えばそれまでだったら、廃棄物だったらゴミとしては捨てちゃえとなっていたんだけれども、それがちゃんと循環していくようなシステムというものにコミットしていきましょう、と。
それをしていくためには、メンバーシップの中で、そういう文化が醸成されないといけなくて、その文化のために発達志向的な考え方とか重要ですよね、と。じゃあ。リーダー爺さんが今度はどういうあり方をするかというと、そういう自然の循環というものに開かれていくような在り方を取るために、それこそ一人森に出て瞑想するとか、ジャーナリングだとか、見つめて自分を変えていくことも必要だよ。この三本柱です。」
─ なるほどなるほど、ちょっと危険な匂いがしますね。確かに。最後の森に実際に行って云々がなかったら、非常にオレンジな匂いがプンプンする。システムや仕組みの話をずっとしてるから。
循環も、今の日本でやっている循環って、一方通行の一種類しかない循環なんですよね。つまり簡単に言ったらゴミで分別で出しなさいみたいなのが循環だって言っているけど、そうじゃない循環は本当はいっぱいあるのが自然ですよね。
あの皆さん、『ロマンチック金銭感覚』の映画の話も、ちょっとどこかnoteで書かせていただきましたけど、あれで面白かったのが、映画の中で、大きな自然災害っていうのは昔から起こってきて、いろんな自然が破壊されるっていうのも、まさに自然に起こっていることで、それによって昆虫たちが絶滅せずに生き残ってきたという話をしていたんですよ。同じあまり環境でずっと居続けると、結局、その生物って適応しすぎちゃって、そこだけしかガラパゴス化して生存できなくなってそこで死滅するんだけど、環境が破壊されることによってそこから逃れていろんなところに昆虫が伝播していって、そうすると、他のそれぞれのところでまた適応するから、結果として種としての昆虫が生き残るっていうのは自然のそういう破壊による効果、人間がする破壊じゃないですよ。いわゆる雷が落ちる山火事があるとか、そういうことが起こるからこそ、そういう生存の種が生存されるんだみたいな話をしていて。しかも、それを石ラジオ、石が勝手にラジオになって。人間じゃないんですよ、どっかの電波を捕まえて石がラジオを話すって、そういう話が映画の中で書かれていて、めちゃくちゃ面白かったんで、『ロマンチック金銭感覚』ってね。楽々テラスでも上映会をやっていましたけど、これがすごく面白かったって話なんですけどね。
甲田 烈「僕はまだそれは見てないんですけれども、ちょっと面白そうですね。」
─ はい。 面白いですよ。ちょっとあの甲田先生が見ると結構いろんなところでビンビンくる映画じゃないかなという気がします。
参考記事)
甲田 烈「そうそう、意識の進化、成熟、発達っていうと、良いことを皆さん言いたがるんだけど。発達進化っていうと、淘汰みたいなのが働くって考えた方が良くって、つまりこの環境のままで行くと、お前死ぬぞって。極端に言うと、じゃあそこでどうするかって言ったら、ちょっと新しいところにグレードアップしていかないと。 ダメだよね。それがまぁ先ほど言った昆虫の話とか、まさにそうで。適応しすぎちゃうと、そこでもう死滅していくしか道がないから。」
─ そうそう。だから、さっき質問があった。そのいわゆるあのいろんなことが起こってみたいなところも、それはもう進化のチャンスであると。よかった、私、あのまま行っていたら過剰適応して弱って死んでたわ、みたいなそういうふうに思うっていうこと思えるっていうことかな。そのポジティブさっていうのは、実は本当は循環とか多様性とか自然って言葉には存在するんだけど、なんか「こうであることが正しい」みたいな画一された循環性になってくるとオレンジの匂いがプンプンしてナチスの軍靴が聞こえるっていう感じになってきますよね。
甲田 烈「だから綺麗事じゃないところで循環をどのように語れるかっていうのはすごい大事だな。エコロジーに関して言ってもね。」
長屋のご隠居と哲学の復権
─ そうそう、循環と言えば、個人的に一番好きな話が、あの江戸時代の長屋の話が好きで、結構いろんなとこでしているんです。
江戸時代の長屋って家賃がすごい安かったんですよね。家賃が安い代わりにそこで出てくる糞尿は大家のものだったんです。その糞尿を農家に売って、それをその利益と家賃とでその長屋を賄っていたって話なんですよね。めちゃくちゃ面白いんですよね。
で、さらに面白かったのが正月明けの人糞は値段が高かったんですって。養分がいっぱい入っているから。そういう文化が江戸時代の裏にはあって、今日本だとそれを切り離しちゃうんですよね。そういうものは見えないところで見えない風に処理をして、なかったことにする。あの、それはいわゆる食肉とかも全部そうなんですけど、それをやりながら循環だつながりだとかいうことを言っている人が、なんか矛盾というか、なんかちょっとなーって思ってて。
甲田 烈「うん。 長屋繋がりでね。全然話飛ぶかもしれないけれども、僕は哲学者のイメージって。西洋だと真理を探求して問いかける人みたいな感じなんだけど、日本で行ったら何かな?って思った時に一番しっくりきたのが、個人的に、長屋のご隠居なんですよ。」
─ あはは(笑)。
甲田 烈「ご隠居っていろんな人が相談来た時に、「するっていうとなにかい?」って風なことをやるんじゃないですか?で、それって本当にその人が感じていること、考えていること。そこで問題になっていることっていうのを問いかけているわけですね。「するっていうと」というのは、まあ、だからといって全否定してるとかそういうことではなくて。」
─ 確かに面白い。で、落語とかだいたいだったら誰々に相談したらいいんじゃないか?みたいな人も紹介しますよ。あれね。
甲田 烈「だから、認知が広いんですよ。だから、あんまり哲学って高級感がなくなって具合いいんですよ。この感じの方が。」
─ 私、やっぱり哲学の復権っていうんですかね? 何のために生きるんだとか。一番私が今大事だと思っている問いが、まさかの「そこに愛はあるのかっ?」というのが今一番大事な問いだと思っていて、あなたの喋っていること、あなたの考え、あなたの言ってることをあなたの行動に、そこに愛はありますか?っていうのってあんまり最近問われなくなってきていて、それで儲かるんかい?とかね。それって合理的ですか?とかね。それってコンプラ違反じゃないですか?とかそういう問いは多いんですけど、そこに愛はあるか?っていう問いって本当されなくなってきていて、これはやっぱりちょっといわゆる統一とかワンネスってことを考える上では、結局、最終的に愛なんじゃないの?ってね。ちょっと思ってるところがあるんですよね。
甲田 烈「僕は、愛って言葉はちょっと危険な感じがして、個人的にあんま使いたくはない。どっちかっていうと、認識や思考という言葉を使いたい方かなっていうふうに思うんだけれども、つまり正しくというよりは、よく考えられれば、それは愛なんですよ。よくよく考えられれば、それは愛なんですよ。つまり、そこに関心を注げ、ちゃんと問題を特定し、自問しコミットし。ここで表現することは、人と関わることは、まあ、できてくるから。 そこでの行為自体っていう。」
─ ありがとうございます。だから、よく考えるというのは本当に大事なことだと思っていて、さっき質問があって言った、利己的であることを追求していくと、絶対、他者利益を考えるようになっていくっていうのは、これ、よく考えるとそうなんだけど、よく考えないで利己的なことをすると、本当に利己的なんで、自分にとって損なことばっかりやってしまうっていうね。よく考えるというのは、本当に大事なことだなって聞きながら今、思いました。
甲田 烈「うんうん。たまーにこれあるんですけどね。ちょっと軽い話をすると、昭和の時代、まあ平成版もあったかな。『天才バカボン』ってあったでしょ。作者の赤塚不二夫ってものすごい頭いい人だなって思うんだけど、バカボンのパパね。ぐるぐるほっぺじゃない方のパパ。彼は物語を見ていると、どうやら常識はないんですよ、はっきり言って。だから無茶苦茶なことはやるんだけど、良識はあるんですよ。」
─ 常識はないけど良識はある。
甲田 烈「良識があるんです。だから、例えば泥棒とか入ったら、散々、おちょっくった挙句に、やっぱりちゃんと退治したりとかするんですよ。追い出したりというか。でも、やっていること自体は無茶苦茶で、警官をおちょくったりとか、普段から非常識なことをやってんだけど、一応植木屋さんで生計を立てているとかね。その辺の感覚って今とかってどうなのかなって僕は思うんだけど、だけど、あんまりないなっていう。だから、バカポンパパのバカの振る舞い自体は、僕は愛があるなってすごい実は思ってしまう。
トランプ政権について
─ だから、もう、いろんな人と喋りにくくなっているっていうか、これもね、異論があるんで、そのあまり今日は言わないですけど、あのね、あのトランプさんのその自伝を読んでいたら、あのトランプさんが「成功のためにはユングを勉強しろ」って書いてて。で、そのユングの伝記から読み始めろって書いてて。一体なんていうのかな?なんかこう。かなりちょっと前の本なんですけど、だけど、トランプさんって、結局そういう集合無意識とか、ああいうのを勉強した上で、発言したりしてるっていうのがすごく面白いなと思って見てるんですけどね。
甲田 烈「トランプについて別の場で喋っていたんで、ここで全然、喋ってもいいんだけれども。まあ政治学者でも何でもないので、発達理論とかに絡めて考えると、おそらくアメリカの抱えている問題って、日本も僕は大なり小なり近いかなって思うんだけども、アンバーとオレンジ間の問題なんですよ。アンバーとそれ以前のあのレッドとかそういうところがグズグズになりかけているところをトランプはオレンジに一歩足を踏み入れているから、なんとかしたいと。オレンジ的なところに思考を置きつつ、アンバー的なところにも響く語り方をしているから、自国第一主義になるし、あんまり環境のこと考えないで離脱しちゃうし、とやるわけですよね。国内的にはウケがいいはずです、あれは。という判断を、僕はしています。
─ 日本でトランプのことを否定的に語っている人について、非常に不思議だなぁと思うのは、自国の政治家のことよりも他国の政治家のことを一生懸命語りたがる人たちって、一体これ何なんなんだろう?っていうか、あなたはアメリカの投票権ないんですよっていうね。もうちょっと語ること他にあるんじゃないですか?っていうこと思ったりもしているわけですよ。逆に。
甲田 烈「かつての前トランプ政権の前後のところのQアノンとかね。そういうのも含めて、トランプが全世界に放送してですね。経済の問題を解決してくれるんじゃないかなみたいな。なんかあったじゃないですか。あれは本当に極端な出方なんだけれども。それに近いところってありますよね。確かにね。」
─ だから、何らかしら人の琴線に触れるところがある。ところが今のそのアンバー〜オレンジのその辺の話なんですかね?
甲田 烈「うんうん。そう思います。で。今あの日本。 僕はまあ山本七平ファンでもあるので、さっき語ったように。こういう見方しますけど。まあアンバーって切り離されかかっているんで、いろんなところで悲鳴を上げているんですよ。で、レッドも乗っかってくるからアメリカほどじゃないけど社会不安。まあ、薄くはあるみたいなところがある中でアンバー的なところって琴線にやっぱり触れるんじゃないですかね? みんなでやっていこうぜ、みたいな。俺が引っ張るから、というのがつくんだけど、みんなでやっていこうぜ。みたいなところ。まあジャイアンみたいな感じですよ。」
─ 映画のジャイアンかな?
甲田 烈「そう、映画のジャイアン。映画のジャイアン、めっちゃいいやつじゃないですか。」
─ お前のものは俺のものだと、レッドになっちゃうからね。
甲田 烈 : 友達が転げそうになったら助けるんですよ、ちゃんと。普段はバットで殴っているくせに。
─ わはは(笑)。なるほど。
人類がもう少し幸せになるためには?
─ 最後に、甲田さんから見たときのソリューションっていうのかな、もし、あればですけど、人類が、そこに行けるかどうかわからないけど、こうすればもうちょっと救われるというか、幸せになれるんじゃないか、っていう、なんかソリューションのアイデアってあるんですか? その理論からいくと。
甲田 烈「えーと、あの、これもいくつか複層的な答えができちゃって。まず、ないです。なぜないかっていうと、もうゴールにはいるから。」
─ なるほど。
甲田 烈 : だからこれ以上良くも悪くもならない。ただ、先ほど言った、それは現象を立ち現われさせている場の話であって、現象の間では長屋のようにいろんなことが起こってくるので、それは各個別的な適応の仕方っていうのは、やっぱりあるだろうと。その中での良し悪しっていうのはやっぱりあるだろうと思います。 総論的な答えをするとこういう形になります。だから両方大事だよって思います。
─ なるほど。じゃあその個別的なものに対して、まあ個別の話なんでね、あれなんですけど最適化を出すために、やっぱり持っておきたいフレームワークっていうか。まあ認識の枠組みみたいなものを言うとすると何になりそうですか? やっぱりインテグラルなんですか?
甲田 烈「インテグラルはone of themの一つでもあるし、要するに、できるだけ他者側の立場に立てる上で、自分自身も大切にするということを言っているフレームワークであれば、それは人類学であれインテグラル理論であれ、文学であれ、僕はアニメであれ、いろいろあり得るなって思っています。」
─ そうなんですよね。ちょっと難しくなったらごめんなさい、なんですけど。他者の視点を持ちながら自身の視点を持つっていうことは「同じだね」じゃないんですよね。
甲田 烈「うんうん、違います。」
─ だから、そこが分けてでも、なおかつ自分が不安にならないでちょっといられるようなメンタリティをちゃんと持てるように持つっていうね。だから他者の視点も違う。他者っていうのは、本当に自分以外の人間はみんな他者なので、それぞれの他者というものをちゃんと持ちながら、自身もしっかり持って。
でも逆の言い方をするとね。本当は他者のことがわからなければ自分は分からない。区別できないはずなので。他者がわからないと自分と他人が区別できないはずなので。だから、他者を知ることによって自分を知る。自分を知ることによって他者を知るみたいな、そういうところが追求されていった中での安定的なコミュニケーションっていうんですかね? あの表現というか、アウトプットっていうんですかね?それができるように人類がなってくると。 まあみんな幸せになるんじゃないの?っていうのは感覚的には、今、聞いて思いましたけど。
甲田 烈「うんうん、あのレジュメの中で上げているんで、ここで簡単に触れますけど、世阿弥の言葉を挙げているんですよ。「離見の見」というのが有名ですね。「離れてみるの見」で、世阿弥は能の、舞を待っている人でもあるし、演者でもあるし、脚本家でもあったので、両方の視点で舞台の装置っていうのが見れた人。だから、他者側から自分がどう見えるかっていうのはすごくセンシティブだったし。ただそれだけではなくて、他者側の見方も取りつつ、自分のところにもう一回戻って演じるっていうのを「離見の見」って言い方をしていて。 単なる自分の身から離れるってだけだと、想像上の他者だけなんですよ。もう一回戻ろうぜ。それが「離見」と「見」の違いですよね。だから自分の視点でしかものが見れないという状態を「我見」って言うんだけど、我の視点で。これは仏教の言葉だと自分の視線に執着して囚われていて、「我見」を一旦離れて舞台の側、観客の場から自分を見るのが「離見」。離れるわけですよね。で、一旦離れて、でも反転して戻ってくるわけですよね、自分に。それは「離見の見」って言っていて、これ実はね、色々翻訳で調べたら、うまく翻訳しているのは非常に少ない。あの観客側から見たものだけが「離見の見」だよって言っちゃっていると、そこの往復のダイナミズムが消されちゃうんで。
─ なるほどねー。 うんうんうん。いや、今聞いて思ったのは麻雀をやっているとですね。自分の手配の手作りに一生懸命になる、どんどんね。なんかいい手が来た。これなんか高い手作ってあげるんじゃないかって思うんですけど。周りの捨て牌を見ると自分の欲しい牌全部捨てられているとか、もう上がりそうな人が他にいるとか。客観的に見たら、これ全然良くない。客観的に見たらよくない。だけど、自分の手だけ見ていると、これすごくいいみたいな。だから。それで麻雀っていうのは四人でやって一人しか上がれないゲームなので、だから「離見の見」を持たないと多分勝てないなって思って聞いていたっていう。
甲田 烈 : 勝てないですよね。それで考えたら。で「離見の見」ってのがもう一個面白いこと言ってるのはまあ、今日は時間の関係もあってあんまり強調しないんですけれど、どうしたら育てられるかって言ったら、目を前に見て、心を後ろに置けと。後ろ側、僕は後ろ後ろってよく言うんだけれども、後ろに意識を置いて、でも前は認識しているわけだから、その状態で前を回る。だから、後ろが大事だよっていうことを言っていて、面白かった。
─ ちょっと違うかもしれないですけど、コーチングでよく言われている傾聴に3段階あるって言われているんですよ。1段階目の傾聴が。まぁ相手の話を聴く。相手は話して、自分は聴き手。これがレベル1なんですよね。だけど。えっと。2番目は、相手になりきって聞く。我を殺して相手の言っていることを全て受け取る。これがレベル2と言われているわけですよ。でもコーチングとしてそれだけじゃダメで、なぜなら、それは相手の言っていることを聴いているだけだから何にも意味がないと。だからレベル3の傾聴っていうのは相手がいて聴いている自分、この全体を聴くって言うんですよ。
甲田 烈「カウンセリングでも言いますよね。面接室の中で飛んでいる虫のような眼差しを持つとか。確かフロイトだったかな? 「平等に漂える注意」とかね。そういう言い方をしますけれども。」
─ そうですね。うんうん。だから、その心があると、自分の後頭部が見えるんだろうなと思ったんですね。
甲田 烈「ただ、その後頭部が想像上の、他人から見た後ろだけだと。それは想像の問題でしかないから、もっと奥の後ろっていうことを僕はちょっと考えていますね、うん.。それが、まぁ今回のレジュメの内容。」
─ それは深いなぁ。なるほど。
楽々樂考について
甲田 烈「最後に、楽々樂考の。」
─ はい。最後に今後の話をお伝えしてこの場を終わりにしたいと思っています。この今喋っている内容を記事にして、それをもとにその甲田さんnoteのキックオフにしていただこうと思っています。今回、甲田さんには、投げ銭で、という形で登壇いただいたんで、甲田さんのnoteにチップで投げ銭いただきたいと思っています。あるいは甲田さんに直接、投げてもいいかもしれないですが、是非、面白かった、と思われましたら、よろしくお願いします。
それはともかく、今回のアイデアなんですが、結論から言いますと、甲田さんに樂長になっていただきまして「楽々樂考」というnote上のマガジンを作りたいと思っています。
noteのマガジンの仕組みは皆さん、どこまでご存知か分かりませんけども、自分が自分のところで挙げた記事を単に「楽々樂考」というカテゴリーに入れるだけの話なので、別に何かを取られるわけでも何もありませんので、是非、やっていただいて参加いただけると嬉しいなとこちらでは思ってます。
私は、息吸って吐くようにテキストとか作れてしまう人間なので、これが将来的に、なんか出版物的なものになっていくといいなと思ってます。最終的に「楽々樂考」という冊子ができたり、こういうリアルのこの人が喋ってる内容ちょっと面白いんで、こういう集まって話をする会にしたいとかいう感じで、そういうのも増えていって、そこで学んでいった人が最終的に単位を取れるような感じを考えています。
「楽々樂考」のnoteの方に記事を書いた人は研究員みたいな感じで、今回の甲田さんみたいに、ここへ来て話していただいたたのは、楽々樂考講師ってことで。最終的に論文を書きたいということであれば、私は論文指導もできますので、えー、どっかに学会に出すみたいな感じまで持っていくと、この人あの「楽々樂考教授」という肩書きがつく。
もう一回いきますよ。楽々のノートに書いた人は「楽々樂考研究員」になります。で、えー、ここで話をした人は「楽々樂考講師」になります。 そしてレポートが一本できた人は「楽々樂考教授」になりますんでね、その時は「ナントカ学」というのを勝手に決めていただいてですね。私は「楽々麻雀学」というのを考えてますけど、まだ今文章が全くできてないのでまだ「ナントカ学」にはなっていませんので「楽々樂考研究員」ですかね。
という感じで「楽々樂考」がですね。なんかこう、今までの学校とは違う、 楽しい学びの場として続くといいな、と個人的に妄想しております。
そんな話をしたら甲田さんが樂長を引き受けてくださるという話をいただいて、学長が甲田さんで、私が編集長かな? で、ミエルンさん(注:楽々テラス主宰者)が管理人さんということで、進めていきたいと思います。
他にも肩書きいろいろ作りたい人は、言ってくれれば何でも肩書き作りますので、よろしくお願いします。鼓笛隊でも演劇部でも演劇部長でも何でも大丈夫ですので、ぜひ皆さん積極的に、頑張らずに、参加いただける嬉しいなと思っています。ということで説明はよろしいでしょうか? また次回、どこかで甲田さんに来ていただける機会をもう一回作れると嬉しいなと思っています。
甲田 烈「あ、それは是非。はい。 ありがとうございました。」
─ ありがとうございました。
甲田さんにもnoteのアカウントを作っていただきました。是非フォローよろしくお願いします。
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