デヴィッド・グレーバー『負債論』を読む その2「第2章 物々交換の神話」
「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。
御覧いただき、ありがとうございます。
こちらの記事で書きました通り、11月より、noteの毎日更新を再開しています。水曜は「文化と遊びの日:麻雀の話、書籍の紹介」のテーマとなります。
現在は、こちらの書籍を読んでいます。
前回の記事はこちら。
前回の記事では、「負債は返すべき」というモラル上の観念が暴力を肯定する、という話を読みました。日露戦争の負債の話を持ち出しましたが、考えてみれば、ナチスドイツの台頭を招いたのも第一次世界大戦の負債ですし、高すぎるという日本の税制+社会保障費も、さんざん赤字国債がヤバいと言われて肯定されてきたことに起因しています。この負債の問題は誰にとっても他人事ではないなぁ、という印象です。
ナチスドイツがお金に関する不安や恐怖をベースに国民を支配した、というのはドラッカーの『経済人の終わり』の主張でもあり、この本を読み終わってから振り返ってみたくもあります。
さて、前置きが長くなりましたが、今回は、「第2章 物々交換の神話」を読んでいきます。ここで取り上げられるのは「貨幣」すなわち「お金」の問題です。
冒頭を引用してみます。
ただの義務、すなわち、あるやり方でふるまわなければならないという感覚、あるいはだれかになにかを負っている〔借りがある〕という感覚、それと負債との違いは、正確にいえば、なんであろうか? 答えは単純だ。貨幣である。負債と義務の違いは、負債が厳密に数量化できることである。
続く部分でこういうことも言っています。
したがって負債の歴史とは必然的に貨幣の歴史なのである。
「ただの義務」は完全にモラルの問題ですが、それが貨幣によって数値化されることにより、負債になる。従って、貨幣無くしては負債はない。
数値化の問題は、+だけではなく-の領域を広げてしまうことになること、と言ってもいいかもしれません。
では、なぜ貨幣が人間の歴史に入り込んできたのか、ということが、この章のテーマであることがわかります。
このあと、人類学者と経済学者の貨幣の歴史についての見方の違いについて語られます。人類学者にとっては、負債は副次的なものとして扱われる、とグレーバーは言っています。ここで、「貨幣経済」と対比的に登場するのは、この章のタイトルでもある「物々交換の経済」です。「物々交換の経済」が成立するためには「欲求の二重の一致」が必要だ、と言っています。これはとても大変なことなので、だから貨幣が生まれたのだ、というファンタジーです。
物々交換が大変なので金属類が媒体として使われるようになり、その重量などが測られ貨幣になっていった、というストーリーについて、グレーバーはこれを作られた物語だ、と言います。
意義深いことだが、経済学という学問領域を基礎づけるのみならず、「経済」と呼ばれる事象が存在するという発想そのものうちでこの物語は重要な役割を果たした。
つまり、この物語が、経済学をひとつの学問分野として独立させることに成功させた、と言うのです。あまりに浸透してしまった物語ではあるが、事実ではない、と。
しかし、悩ましいのはそのようなことが実際に起こったという証拠がないことであり、むしろそんなことが起こっていないことの方を膨大な量の証拠は示していることである。
数世紀にもわたって研究者たちは、この物々交換のおとぎの国を発見しようと努力してきたが、だれひとりとして成功しなかった。
ここでグレーバーが言っているのは、実際に行われていたのはシェア経済である、という主張です。特に同じコミュニティ内では、物々交換は行われず、シェアされていた、と言っています。
物財のほとんどが貯蔵されては女性たちの評議会がそれらを分配している、ということをあきらかにしていた。要するに、だれも矢じりを肉の塊と交換することなどしていなかったのである。
ただし、物々交換はコミュニティの外とであったならありえた、とも言っています。
潜在的には敵どうしである一歩まちがえば戦争状態に転じるような人間のあいだで、物々交換はおこなわれる。そしてこの人類学者を信じるならば、どちらかの側が相手にごまかされたとおもい込んだとき、この関係は現実の戦闘に転化するのである。
なにやら物騒な話になってきました。彼はさらにいくつかの事例を紹介した後、このように論を進めます。
これらの事例から、なぜ物々交換を基盤にした社会が存在しないか、はっきりしはじめる。そのような社会があるとしたら、それは、たがいに一触即発だが寸止めの状態にある、つまりいまにも襲いかかるかまえをみせつつも実際に実行に移すことはない、といった具合に、永遠に宙づり状態である社会でしかありえない。
個人的には、ここで「あれ?」と思いました。グレーバーがちょっとここで伏線張ってない?と思ったのです。というのは、今、我々が生きている世界そのものが、「いまにも襲いかかるかまえをみせつつも実際に実行に移すことはない、といった具合に、永遠に宙づり状態である社会」だよな、と思ったのです。「物々交換経済」が「貨幣経済」の対象概念として持ち出されていましたが、この「想像上の物々交換経済」はすなわち「貨幣経済」そのもののであり、負債によって支えられる、という話に転換していくのかな、と思いました。
物々交換経済は、実は、貨幣経済を前提としている。このことについて、グレーバーはこう書いています。
物々交換がことさら古い現象ではないこと、真に普及したのは近代においてはじめてであること、実のところ、そう考えるには正当な理由がある。知られているほとんどの事例において物々交換の起きるのは、貨幣の使用に親しんでいるが、なんらかの理由でそれをふんだんにもちあわせていない人たちのあいだでおいてなのだ。手の込んだ物々交換のシステムの出現するのは、しばしば国民経済が崩壊するときである。
ここにきて、この章のタイトルが「物々交換の神話」であったことに気づかされます。物々交換が元々あった、という物語は神話であって、現実ではなかったのです。これを経済学で最初に言い出したのはアダム・スミスのようですが、これは事実に基づいたものではなく、物語を成り立たせるためのおとぎ話だったようです。
そろそろこの章の結論部分です。
実のところ、貨幣史についての標準的見解はここからまったく後退している。物々交換からはじまって、貨幣が発見され、そのあとで次第に信用システムが発展したわけではない。事態の進行はまったく逆方向だったのである。わたしたちが仮想貨幣と呼んでいるものこそ、最初にあらわれたのだ。硬貨の出現はそれよりはるかにあとであって、その使用は不均等にしか拡大せず、信用システムに完全にとってかわるにはいたらなかった。それに対して物々交換は、硬貨あるいは紙幣の使用にともなう偶然の派生物としてあらわれたようにみえる。歴史的にみれば物々交換は、現金取引に慣れた人びとがなんらかの理由で通貨不足に直面したときに実践したものなのだ。
第2章はこちらで終わりです。まずは貨幣の歴史に関する思い込み、ファンタジーについて破壊する、という内容でした。次の第3章では「原初的負債」というタイトルで、まず負債があった、という歴史が語られます。
現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローも大歓迎です。
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