デヴィッド・グレーバー『負債論』を読む その1「第1章 モラルの混乱の経験をめぐって」
「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。
御覧いただき、ありがとうございます。
こちらの記事で書きました通り、11月より、noteの毎日更新を再開しています。水曜は「文化と遊びの日:麻雀の話、書籍の紹介」のテーマとなります。
前回の予告編の通り、今日から、こちらの書籍を読んでいきます。
今回は、「第1章 モラルの混乱の経験をめぐって」を読んでいきます。日本語本文が扉を含んで3~589ページのうち、この章は3~32ページ。このペースで毎週更新していくと2年半以上かかる計算になりますが、最初ちょろちょろ中ぱっぱ、で慣れてきましたらもう少し前倒しで読み進めていきたいと思いますが、まずはとにもかくにも最初ですから、今回はじっくり読んでみたいと思います。
冒頭、私がこの本を読もうというきっかけにもなり、前回の記事でも紹介しました、活動家タイプの女弁護士との会話が紹介されています。筆者はいかに第三世界にIMFなどの仕組みを使い、経済政策を理由に第三世界の国々に債務を背負わせ、苦しめてきたのか、ということを背景に話をしていたところ、彼女が「やっぱり借りたお金は返さないと」と発言して、オワタ、と思った、というエピソードです。
で、この発言で筆者は気づいたわけです。このモラルの表明であり自明の理であると思われる発言こそ、「醜悪なことを穏やかで平凡にみせかけるための文句」なのではないか、と。
彼がそこで思い出した事例は、ほとんどマラリアが絶滅した地域でマラリアが再発生した際に、既に免疫を失ってしまった人々を守るために、蚊の絶滅プログラムが多額の負債を受けて実行されたという事例です。ここまで読んで、原著の出版年を確認してしまいました。2011年だったので、あのワクチンの比喩ではなさそうです。この本は預言の書なのか、それとも人類はこの本から何も学べていないということなのでしょうか?
次の部分、言い回しも含めて重要そうですので、引用しておきます。
負債とはなにかについてわたしたちが理解していないという事実そのもの、あるいはこの概念の融通無碍であることそれ自体が、負債の力の基盤である。
「融通無碍」という言い回しが難しいですね。
とらわれることがなく自由、という意味ですが、重要な言葉であるはずなのに変な表現ですね。簡単に言えば、
「負債とはいい加減でよくわからん概念であり、それがパワーとなっている」
と言っているようです。どういうこと?
続きを引用してみましょう。
もし歴史の教えというものがあるとしたら、暴力に基盤を置く諸関係を正当化しそれらをモラルで粉飾するためには、負債の言語によってそれらを再構成する以外に有効な方法はないということだ。その理由は、とりもなおさずそうすることで、悪いことをしたのは被害者の方であるとみせかけることができるところにある。
とても皮肉な表現を使っているように見えて、実に本質を言い当てているな、と思いました。
最近、大学の授業の中で学生のレポートを読んでいたら、「なぜ海外の学生(韓国の学生)と比較して、日本の大学生は学業に集中できずアルバイトに追われているのか?」という問いかけが書かれていて、これは確かに、と思って仮説を立ててAIに調べさせてみたことがありました。
結論から言えば、別に日本人の学生だけがそうである、という明確な根拠は無かったのですが(最初はAIがこちらの結論に迎合してきたので、エビデンスを求めたら根拠がないと言い出した)、ただ、思ったことは、昔、自分が大学生だったときに、なぜ、そんなにお金を稼がなければ、と思っていなかったのか、ということです。
ということで、昔の時代との比較をさせてみました。その時に思いついたのが、「今は、学生が普通にクレジットカードを持っている」という事実です。昔は成人しても、定期収入がないと入れなかった印象でした。
最後の年代比較を引用しておきます。
時代 状況
1970年代 大学生はほぼ絶対持てない
1980年代 例外中の例外を除き持てない
1990年代 一部の学生カードが登場(親同意必須)
2000年代 大学生のカード保有が一般化
2010年代 クレカ必需品化、未成年でも多数が保有(親同意)
2022年〜 18歳成人化で大学1年生から“親不要”に
1990年代にクレジットカード会社が新規顧客獲得に動き、学生カードを生んだこと、2010年代にスマホ普及でクレカの必要性が急上昇したこと、そして、2022年から18歳成人化で親の同意が不要になったこと。
つまりはいつの間にか、どんどん「負債を背負うのが当たり前の生活」になってしまっている、というのが、デヴィッド・グレーバーの言うように「暴力に基盤を置く諸関係を正当化しそれらをモラルで粉飾するためには、負債の言語によってそれらを再構成する」ことが平気で行われていることに驚愕してしまったのです。
そういえば、ある日本在住の女性の中国人YouTuberが、日本に高校時代に交換留学して初来日にして驚いたのは、高校生大学生くらいの子がみんな可愛かったこと、と言っていました。中国では大学生でやっと化粧を始めるか始めないか当たり前で、自分もずっとすっぴんだったけれども、日本の女の子たちがみんなメイクをしていて、その後、自分も日本に来てメイクするようになった、と語っていました。
もちろん、日本はそれこそ100均でもドラックストアでも、それこそプチブラと呼ばれるように、お小遣いで買えるような値段でいろいろコスメを売っていて、それはそれで豊かなことなんだろうなぁ、とは思うのですが、実際、ドンキなどに行くと、カラコンのモデルに、これはどう考えても中高生をターゲットにしているようなぁ、というモデルが使われていたりして、未成年だろうが子どもだろうがガッチリマーケティングの対象として搾取しようという姿勢がモリモリ見えます。
こうして、「今、あるお金で買えるものを買う」という生活から「とりあえずお金を借りて買って、後で働いて支払う」という入出金サイクルの逆転化を起こし、無駄に生活水準を上げていく、ということに、もしかしたら日本の国内需要を狙うほとんどの会社が向かっているのではないのかな、と思ってしまったのです。
ここまで読んだ方は、それでも「でも、クレジットカードを使ったってことはその商品を欲しくて買ったんでしょ。だったらそれは後からでも支払わなきゃいけないよね。」と思うのではないかな、と思います。
グレーバーが言っているのは、ここに「暴力」が潜んでいる、ということです。
と、ここまで書いてみて、最近、やらかした経験があって、昨日起きたある事件についておもいだしました。
うちの会社では、ある有名な事務用品の通販会社から様々なものを買っているのですが、この通販は直接、通販会社とモノのやりとりはするのですが、お金に関しては、代理店が設定されていて、そこが確実に回収するようなビジネスモデルになっています。そしてめんどくさいことに、この通販会社のメインの支払い方法が請求書支払い、つまりは後払いなのです。うちの会社の本店所在地と、私の生活圏があまりにも離れてしまっているために、請求書を事務所から送ってもらって、その紙を使って支払うということを長年、やってきていたのですが、ここ数ヶ月、個人的にものすごく忙しかったこともあり、事務処理もままならず、2ヶ月くらい滞納してしまっていました。ここ最近、やっと落ち着いてきたので書類を整理しているときに発見して、こりゃまずいということで即支払ったのですが、入れ違いのようにその代理店(自分が知らない間に知らない会社に変わっていました)から督促の手紙が来ました。内容を確認し、支払い済だったので、その手紙は破棄しました。
その上で昨日、注文しようとしたらブロックされていて注文できない。つながらない通販会社のコールセンターに10分以上待たされ、やっとつながってその旨を話すと、折り返しの電話が来て、支払いの確認ができましたので注文できます、とのことでしたので、注文。
その後、数時間して今度は、代理店から男性の声で電話があり、今後の注文は代引きしかお届けできないとお伝えしたはずです、と。知らんがな、と思ったのですが、クレカなら問題ないというので、一旦、キャンセルして再注文をしたのですが、その時の男性の態度があまりに悪かったのでムカついていたのですが、このグレーバーの文章を読んで、待てよ、と。
もしかしたら、この通販会社は代金回収のリスクを代理店に背負わせていて、回収できない相手ではないか、という恐怖が、彼をそういう態度にさせていたのではないか、と思い当たったのです。
この話、どこにも「暴力」要素はないように見えます。しかし、「恐怖」は発生している。通販会社「注文と配達はこちらが担当しますので、お客様からの回収は代理店さんが責任もって担当してくださいね。」回収できなかったら商品代金は代理店の負担になる。ここに「恐怖」が生まれる。
実際、自分がオンライン書店の運営側として働いていた時、なぜかその会社もよくわからずコンビニ後払いを入れていたのですが、明らかに取り込み詐欺と思われるようなお客さんが居ました。そういう人に限って山奥の「ここまで回収に来たら赤字になるっしょ」みたいな住所で、もうブロックするしか方法がなかったのを思い出しました。
なるほど、それで代理店がコロコロ変わるのかなーと妙に納得しました。
話が大きく逸れました。グレーバーの本に戻ります。
私の妄想が広がったように、グレーバーのイメージもここからぐぐっとひろがります。ただし、グレーバーのイメージは国家間の話や歴史的な話。ドイツの賠償金の話は出てきますが、ここで出てこないのが残念だな、と思ったのは、日本の日露戦争時の借金の話。イギリスくんだりまで行ってユダヤ系金融機関から多額の借金をしつつも戦後、たいして賠償金を得られずに借金漬けになった日本がどのように意思決定を誤ったのか、というところも、この本で出てこないのかなぁ、とちょっと期待してしまいました。
ということで、この本の後半で語られるだろう「負債の人類史」の予告編のようなイメージカットが入り、ページが進んでいきます。
富者と貧者のあいだの闘争は、何千年にもわたり、おおよそ債権者と債務者のあいだの紛争というかたちをとってきた。(中略)偉大な古典学者モーゼス・フィンリーが好んで述べたように、古代世界におけるあらゆる革命的運動は単一のプログラムを共有している。「負債を帳消しにし、土地を再配分せよ!」というものだ。
こうして負債の歴史をながめてみるならば、最初に眼につくのが、なによりもまず根深いモラル上の混乱である。ほとんどの場所ではほとんどの人間が、(1)借りた金を返すことは純粋にモラルの問題であるという考えと、(2)習慣的に金を貸す人間はだれであろうと邪悪であるという考えを共存させていることが、それを最もよく示している。
(1)はともかく、(2)にすっと納得できない人も居るかもしれませんが、補助金目当てで弱者を依存させている邪悪なNPOや、魚を与えて釣り方を教えない救済サービスなどをイメ―ジできれば、やや納得感があるのではないでしょうか。グレーバーはここでは例として、インドのバラモンが金貸しで、最底辺カーストの人々が娘の結婚のために借金すると、利子代わりにその娘を愛人にし、飽きたら売春させて父親の借金を回収するも、そこに何の不公平感も感じていない例を出しています。しかも、バラモンって僧侶ですので、モラルで言えば最高峰の存在。めちゃめちゃですね。
こんなひどい例をもちださなくても、世界文学を見れば、とグレーバーは言います。ベニスの商人の例も出てきますが、なぜか金貸しは高利貸しであったり悪人という話はごろごろしていますが善人の金貸しの話はありません。(ちなみに、さすがに「ナニワ金融道」の話は出てきません。)
負債とは一定の額の貨幣を支払う義務のことである。それゆえに負債は、それ以外の義務とは異なり厳密に数量化することができる。このことは負債に単純で冷酷で非人格的なものと化す余地を与えてしまうのであるし、ひろがえって負債を譲渡可能なものにするのである。
負債を返す、というのがモラルに基づく行為であるとして、では、負債を取り戻すにはモラルに反していてもいいのか、というところに「非人間性」あるいは「暴力」が生まれる、というのがグレーバーの指摘です。
あなたが自宅を手放し異郷を流浪することになっても、あなたの娘が鉱山で売春することになっても、それはたしかに不運かもしれないが債権者にとってはささいなエピソードにすぎない。カネはカネであり、取引は取引なのだ。
この観点からすると、決定的な要素、つまりは以下で詳細に探求されるであろう主題とは、モラルを非人道的な算術に変換し、それによって、さもなくば非道にもあさましくもみえるだろう物事を正当化する貨幣の機能である。
モラルの話だったものが純粋に貨幣の話になり、非人道的な行為も正当化してしまう。この貨幣の機能ってなんなん?というお話。
ここまで読んできて、あれ、別に連載しているこちらの記事にも絡んでくる話だなぁ、と思ったのです。
上の記事は、「人的資本経営」が「企業にとって人は財産」という意味なのかと思いきや、実はその中身は「必要な人的資本は金で買える」と言う意味だったのはヤバすぎるだろう、という話を読み解いています。グレーバーの論に従うと、人を貨幣に換算し始めたら非人道に落ちる、という話になりそうですね。
「負債」と純粋なモラル上の義務のあいだの差異は、返済の義務を強いるために、債務者の所有物を押収したり痛めつけられたいかと脅す武器を携えた男たちがいるかいないかの違いではない。たんに、債務者がどれだけ負っているのかを数字で特定する手段を有しているということに[その差異は]あるのだ[というわけである]。(中略)暴力あるいは暴力による脅迫がどのように人間関係を数字に変えてしまうのか、本書はその仕組みが繰り返しとりあげられるだろう。
まさか一橋の伊藤教授も、その「暴力あるいは暴力による脅迫」の一端を担わされているとは夢にも思っていないことと思います。
グレーバーの話はここでサブプライムの金融危機前後の話に移ります。とてもローンが支払えないような貧しい家庭に住宅ローンを組ませて、返済リスクが高いのでリターンも高い金融商品にして薄く売りさばいた、という金融工学とリスク工学の高度な専門知識を駆使して論理展開した広範囲攻撃型時限爆弾の話。範囲が広すぎたのでそこに公金が注入されたという話。そういえば、結局、加害者側って罰せられようがない話だったんだなぁ、と読んで改めて実感しました。ということは、懲りていないってことですね。
そろそろこの章の最後のところになります。この章は最初の章なので、第2章からの展開が予告されますが、その前に、グレーバーがこの本を著した狙い、あるいは野心について宣言していますので、ここを最後の引用としましょう。
本書が取り扱うのは負債の歴史である。だが本書は同時にその歴史を利用して、人間とはなにか、人間社会とはなにか、またはどのようなものでありうるのかーわたしたちは実際のところたがいになにを負っているのか、あるいは、このように問うことはいったいなにを意味するのかーについて根本的に問いを投げかける。
つまり、この本はグレーバー版「人間の歴史」あるいは「人間社会の歴史」の本になるんだな、ということがわかります。次回以降、2章以降を読み進めていきたいと思います。次回のテーマは「物々交換」です。
ちなみに、上で少し書きました、日露戦争時の日本の借金ですが、麻生太郎さんがこんな発言をされていて、ネットで話題になっていました。
日本は1905年に日露戦争に勝利して戦争を終えました。でも多額の借入を背負いました。次の年の1906年からイギリス銀行団とユダヤ人銀行家ジェイコブシフに戦費の借金返済をし始めました。そしてなんと返済をし終えたのが1986年だったんですよ!
一方で東京江戸博物館のサイトでは、「日露戦争費調達のために発行された債券の元利償還が終了した時期については、確認できる資料が見つかりませんでした。」となっています。
麻生さんの話も特にエビデンスが示されていないのですが、何らかの独自ソースをお持ちだったんでしょうかね。
次回はこちら。
現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローも大歓迎です。
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