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出版不況はほんとうか? ― 戦後出版システムの使命完了と知識流通の再設計

「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。

御覧いただき、ありがとうございます。

noteのできるだけ毎日更新を実践しています。普段の記事は曜日毎のテーマで書いていますが、今回は時事ネタを読み解く考察として、臨時投稿しています。

きっかけはこちらのニュースでした。

この記事の中で、日販の社長が「取次事業の撤退も検討しなければならない環境が迫っているという危機感を持っている」という発言をし、業界騒然となっています。

かつて私がオンライン書店の立ち上げ時の社内での掛詞は「返品を減らす」でした。出版業界で問題となっているのが返品率であることがわかりながら、何の手も打てていないことを批判していたのですが、では、オンライン書店がそれを改善できたのかと言えば、あまり成果は無かったように思います。

この問題の難しいところは、読者、書店、取次、出版社で見えている世界が違う、ということです。そうなると、これは社会学的な視点、もっと言えば、ドラッカーの社会生態学的な視点で見た方が良さそうだな、と思い、一気に原稿にまとめてみました。


出版不況はほんとうか? ― 戦後出版システムの使命完了と知識流通の再設計

出版業界の危機は本当に物流の問題なのか

先日、出版取次最大手の日販の決算に関連して、「取次事業の撤退も検討しなければならない環境が迫っている」という趣旨の社長発言が報じられ、出版業界がざわつきました。出版取次は戦後日本の出版流通システムの中核です。その最大手が「撤退」という言葉に言及したのですから、業界関係者に衝撃が走ったのも無理はありません。

報道では、その背景として物流費の高騰やトラック新法への対応が指摘されています。また、日販がコンビニ向け配送事業から撤退したことも大きな話題となりました。しかし、本当にそれだけなのでしょうか。

私はこのニュースをきっかけに、出版業界を取り巻く状況を改めて調べてみました。すると、どうも単なる物流問題とは思えなくなってきたのです。

確かに数字だけを見ると、出版業界は危機に見えます。1998年度に24,237店あった全国の書店は、2024年度末には9,993店まで減少しました。約四半世紀で6割近い書店が姿を消したことになります。紙の出版市場も50年ぶりに1兆円を下回りました。出版社の倒産件数も2024年度には31件となり、前年度比で約1.8倍に増加しています。ここだけを見るなら、「出版不況」という言葉は非常に説得力を持っています。

ところが、現実はそれほど単純ではありません。文学フリマは過去最高規模を更新し続けています。全国には139店舗ものシェア型書店が生まれています。小規模出版社は増加しています。著者はnoteを通じて読者と直接つながり始めています。ある作家の有料noteが大きな話題になったことも記憶に新しいところです。

もし本当に読者が消えたのであれば、こうした現象をどう説明すればよいのでしょうか。

むしろ私は逆ではないかと思うのです。出版業界の問題は「読者がいなくなったこと」ではない。戦後日本が構築した出版流通システムが、その歴史的使命を終えつつあることなのではないか。そう考えたとき、現在起きている様々な出来事が、一つの大きな構造変化として見えてきます。

なぜ日本の書店は24,237店まで増えたのか

現在の出版業界を理解するためには、まず逆の問いから考える必要があります。なぜ日本の書店は、かつて24,237店という数まで増えたのでしょうか。

出版業界の議論では、しばしば「書店が減った」という話ばかりが語られます。しかし、本当に不思議なのは減少ではなく、むしろ増加の方です。戦後日本は、世界でも稀なほど書店密度の高い国でした。

その背景には、1949年前後に整備された委託販売制度と再販制度があります。出版社は取次へ本を送り、取次は全国の書店へ配本する。売れ残った本は返品できる。さらに全国どこでも同じ価格で販売する。この仕組みは単なる商業制度ではありませんでした。戦後日本が目指した「全国民に均質な知識を届ける」という社会設計そのものだったのです。

1950年代から1960年代にかけて、雑誌は国民の情報源となりました。週刊誌、月刊誌、漫画雑誌、テレビ情報誌が次々と創刊されます。1970年代になると、高度経済成長によるニュータウン開発が進み、新しい住宅地にはスーパーマーケットと同じように書店が作られました。1980年代には『週刊少年ジャンプ』をはじめとする漫画雑誌が爆発的な成長を遂げます。そして1998年度、書店数は24,237店という史上最高値を記録しました。

しかし、ここで一つ重要な視点があります。私たちはこの数字を見て、「書籍文化が栄えた結果」と考えがちです。しかし本当にそうでしょうか。

実はこの24,237店という数字は、書籍流通の成功というよりも、雑誌流通システムの完成を意味していたのではないでしょうか。

考えてみれば当然です。毎週発売される週刊誌、毎月発売される月刊誌、そして社会現象となった漫画雑誌は、定期的に読者を店へ呼び込みます。駅前の小さな書店も、住宅街の書店も、雑誌という高回転商品によって経営を成り立たせていました。

つまり、1998年に24,237店まで増えた書店網は、「本屋の勝利」というより、「雑誌を中心とした戦後情報流通システムの完成形」と見るべきなのです。

そして、この視点に立った瞬間、現在起きている出版業界の様々な変化が、まったく違った姿で見え始めます。

雑誌型書店と書籍型書店

出版業界の議論で私が以前から違和感を持っていたのは、「書店」という言葉があまりにも雑に使われていることです。書店数が減った、書店を守らなければならない、書店文化が失われている。こうした言説はよく耳にします。しかし、よく考えてみると、「書店」と呼ばれているものの中には、まったく異なる機能を持つ店舗が混在しています。

私はこれを「雑誌型書店」と「書籍型書店」に分けて考えるべきだと思っています。

雑誌型書店とは、駅売店、コンビニ、商店街の小型書店などに代表されるものです。そこでは読者は最初から本を探しに来ているわけではありません。通勤途中に雑誌を買う。学校帰りに漫画雑誌を買う。テレビ情報誌を買う。つまり、「たまたま立ち寄った人」に情報を届ける場所です。一方、書籍型書店は違います。大型書店や専門書店、独立系書店などがこれにあたります。こちらの利用者は最初から何かを探しています。経営の本を探す。歴史の本を探す。哲学の本を探す。つまり知識探索そのものが目的になっています。

ところが、これまでの出版業界の議論では、この二つが一緒くたに扱われてきました。しかし実際に減少しているのは、主として雑誌型書店です。これはある意味で当然です。雑誌型書店が担っていた機能は、すでに別のものへ置き換わっているからです。

かつて人々は駅で雑誌を買っていました。次にコンビニで買うようになりました。そして現在ではスマートフォンを見るようになりました。情報との偶然の出会いという機能そのものは消えていません。しかし、その役割を担う媒体が変わったのです。つまり現在起きているのは「本離れ」ではなく、「雑誌型書店の役割の変化」と見るべきではないでしょうか。

そう考えると、書店減少の意味も変わってきます。1998年の24,237店という数字は、書籍型書店だけで成立していたわけではありません。むしろ大量の雑誌型書店によって支えられていた数字です。そして、その雑誌型書店を支えていた最大の商品こそが雑誌でした。

ここで再び日販の話へ戻ってみましょう。

ジャンプ+は何を壊したのか

日販のコンビニ配送売上が10年で約3分の1になったという数字を見たとき、私は最初、単純にコンビニで本を買う人が減ったのだろうと思いました。しかし考えてみると、それだけでは説明がつきません。そもそもコンビニで高額な専門書を買う人はほとんどいません。コンビニで売れていたのは雑誌です。そして雑誌の中でも特に大きな存在だったのが漫画雑誌でした。

例えば『週刊少年ジャンプ』です。かつて、ジャンプの発売日は特別な日でした。学校帰りに書店へ寄る。駅の売店で買う。コンビニで買う。全国で同じことが起きていました。出版流通の立場から見れば、これほど理想的な商品はありません。毎週必ず売れる。全国どこでも売れる。大量に動く。そして返品率が低い。取次にとっても書店にとっても、流通システム全体を支える屋台骨のような存在だったのです。

ところが現在、その読者のかなりの部分はオンラインへ移っています。ここで私は、あることに気づきました。日販の問題は物流ではなく、もしかすると「売れていた商品そのものが流通システムから消えた」という問題なのではないか、と。

電子コミックは取次を必要としません。書店を必要としません。配送を必要としません。つまり、かつて出版流通システム全体を支えていた収益源が、そのシステムの外側へ移動したのです。もしそうだとすれば、返品率50%という数字も違った意味を持ってきます。物流の効率が悪くなったのではない。むしろ、物流を支えていた優良商品が抜け落ちた結果として、相対的に返品率の高い商品ばかりが残る構造になったのではないでしょうか。

ここで初めて、私は日販の問題を物流問題としてではなく、出版流通システムそのものの変化として見るようになりました。そして同じような変化は、実は漫画だけではなく、古書や専門書の世界でも起きているように見えるのです。

知識流通システムはすでに変わり始めている

ジャンプ+の話を書きながら、私は別のことも思い出していました。現在、山梨で専門的な本を探そうと思ったとき、私が最初に思い浮かべるのは大型書店ではありません。むしろブックオフです。特に、品切になった本や少し前の専門書を探そうとすると、意外なことにブックオフの方が見つかることがあります。しかもブックオフもオンラインで検索し、地元のお店に無料で取り寄せ、受け取ることができます。

昔の私なら、これは出版業界の衰退だと思っていたかもしれません。しかし今は少し違う見方をしています。考えてみれば、ブックオフは知識の再流通システムです。ある地域で読まれた本が売却され、別の読者へ渡る。さらにブックオフオンラインによって、その流通範囲は全国へ広がりました。取次が全国へ新品を流していた時代とは異なる形ですが、知識そのものは流れ続けています。

同じことはメルカリにも言えます。ヤフオクの時代には、個人が本を売るという文化はそれほど一般的ではありませんでした。しかし現在では、読み終わった本を個人同士で売買することはごく当たり前になっています。出版業界から見れば、新刊販売の機会を失っているようにも見えるでしょう。しかし別の角度から見ると、本は以前よりも長い寿命を持つようになったとも言えます。

私はここで、取次が担ってきた役割そのものが変化しているのではないかと思うようになりました。戦後の取次は、新刊を全国へ届ける仕組みでした。しかし現在では、新刊だけが知識流通ではありません。中古本も流通する。電子書籍も流通する。図書館も流通する。noteも流通する。つまり知識の流れそのものが多層化しているのです。そのことを強く感じたのが文学フリマでした。

文学フリマの会場へ行くと、出版不況という言葉がどこか遠い世界の話のように感じられます。多くの人が自ら本を書き、多くの人がそれを求めて集まっています。そこには出版社も取次も存在しません。しかし確かに知識は流通しています。

知識流通の多層化という視点で見たとき、私はトーハンの戦略にも別の意味が見えてきました。私がトーハンの戦略を見ていて興味深いと思ったのは、危機そのものよりも、その対応です。日販が物流コストや取次事業の持続可能性に強い危機感を示している一方で、トーハンはHONYALやミニ書店といった取り組みを進めています。

最初は不思議でした。書店が減っている時代に、なぜ「書店を増やす」方向へ向かうのだろう、と。しかし、シェア型書店や文学フリマについて考えているうちに、少し見え方が変わってきました。

私はこれまで、雑誌型書店は減少していると書いてきました。しかし、もし本当に起きていることが「減少」ではなく「進化」だとしたらどうでしょうか。かつて雑誌型書店は、人々と知識を偶然出会わせる装置でした。駅の売店、商店街の本屋、コンビニ。そこでは本を探しに来たわけではない人が、雑誌と出会っていました。

ところが現在、人々が集まる場所は変化しています。カフェ、ミュージアム、地域イベント、ワイナリー、コワーキングスペース。そうした場所に小さな本棚が置かれ、本との出会いが生まれています。シェア型書店もその一つです。そう考えると、トーハンのミニ書店構想も単なる書店政策ではなく、「知識との偶然の出会い」を再設計しようとする試みとして見ることができます。

もちろん成功するかどうかは分かりません。しかし少なくとも、「どう運ぶか」だけを議論するよりも、「どこで読者と出会うか」を考える取り組みとしては興味深く見えます。なぜなら、そこには読者がいるからです。そして、その発想は本稿で見てきた「雑誌型書店からコミュニティ型書店へ」という流れとも重なっているように思えるのです。もしそうだとすれば、トーハンが作ろうとしているのは新しい書店ではありません。雑誌型書店の後継となる、新しい知識との出会いの場なのかもしれません。

取次は物流会社なのか、知識流通会社なのか

ここまで考えてきたとき、私は取次という存在そのものを見直すようになりました。日販の社長発言が話題になったとき、私はそれが、取次とは本を運ぶ会社だというアイデンティティをどうするのか、という問題だと思いました。だから物流費が上がれば苦しくなる。トラック新法の影響を受ければ苦しくなる。それは当然の話です。しかし、ここまで見てきた変化を振り返ると、どうもそれだけでは説明がつきません。

そもそも取次の本当の価値とは何だったのでしょうか。もちろん物流は重要です。しかし、極端なことを言えば、もし物流だけが価値なのであれば、これだけオンラインでの流通が一般的になれば、取次は存在意義を失っていたはずです。実際にはそうなりませんでした。なぜか。それは取次が運んでいたのは単なる本ではなく、知識だったからです。戦後日本の取次は、全国津々浦々へ本を届けました。北海道の読者も沖縄の読者も、東京とほぼ同じタイミングで同じ本を手に取ることができました。これは当たり前のように見えますが、実は極めて高度な社会システムです。

私は以前、書店員として働いていました。その頃から不思議に思っていたことがあります。なぜ取次は、どう考えても売れそうにない本を大量に送り込んでくるのだろうか、ということです。当時は単純に配本が下手なのだと思っていました。しかし今振り返ると、それは戦後出版システムが抱えていた構造そのものだったように思います。取次は全国へ知識を届けることに成功しました。しかしその成功の裏側では、「とりあえず配本する」という発想もまた強化されていったのです。

雑誌が売れていた時代には、それでも成立しました。ジャンプが売れる。テレビ雑誌が売れる。週刊誌が売れる。その利益がシステム全体を支えていたからです。ところが、その優良商品が次々とデジタルへ移行してしまった。すると残されたのは、大量配本と大量返品の構造でした。私はここで、取次の危機を物流の危機ではなく、「成功モデルの危機」と考えるようになりました。

ドラッカーは、組織が衰退するときの典型例として、過去の成功体験への固執を挙げています。取次を含む日本の出版業界もまた、戦後日本であまりにも成功してしまったのかもしれません。全国へ同じ知識を届ける。大量に配本する。大量に流通させる。このモデルは1990年代までは極めて合理的でした。しかし現在はどうでしょうか。読者はスマートフォンを持っています。Amazonがあります。図書館があります。ブックオフオンラインがあります。メルカリがあります。そしてAIまで登場しました。知識へのアクセス手段が無数に存在する時代において、取次が今までと同じ役割のままで生き残れるとは、私には思えません。

むしろ取次が持っている最大の資産は、物流網ではなく情報なのではないでしょうか。どの本が存在しているのか。どんな本が売れているのか。これからどんな本が出るのか。どんな本がどのジャンルに属するのか。どのような読者がどのような本を求めているのか。実は取次は、日本最大級の書籍データベースを持っている存在でもあります。そして、ここで私はさらに別の可能性に気づきました。もしかすると、取次の未来は物流の中にはないのかもしれない、と。

取次の未来は「知識流通業」にあるのではないか

取次の未来は物流の中にはないのかもしれない。そう考え始めたとき、私は書店と取次がそれぞれ持っている資産について考えるようになりました。書店には顧客がいます。どんな本を買うのか。どんな分野に興味を持っているのか。どのような年代の人が来店するのか。地域ごとにどのような特徴があるのか。こうした情報は、本来書店が最もよく知っているはずです。一方で、取次には書籍データがあります。どんな本が存在するのか。どんな本が売れているのか。どんなテーマの本があるのか。どの本とどの本が近い内容なのか。日本中の書籍情報が集まっています。

ところが、これまでの出版流通システムでは、この二つが十分に結び付いていたようには見えません。だから私は書店員時代に、「なぜこんな本が送られてくるのだろう」と不思議に思っていたのです。もちろん、全国へ均等に知識を届けるという戦後の使命を考えれば、それは合理的でした。しかし現在は状況が違います。知識は不足していません。むしろ溢れています。問題は、必要な人に必要な知識が届かないことです。

そう考えると、取次の未来は「本を運ぶこと」ではなく、「本を見つけること」にあるのではないでしょうか。例えば、ある読者がドラッカーに興味を持っているとします。その人に対して、書店の購買履歴や関心データと、取次が持つ書籍データを組み合わせれば、新刊だけではなく、絶版書や中古本、電子書籍、図書館蔵書まで含めた提案ができるかもしれません。それはもはや物流会社ではありません。知識流通会社です。

私は、取次が個人向けの有料情報サービスを展開する未来すらあり得ると思っています。今週出版された重要な本。自分の関心分野で話題になっている本。近隣の書店で購入できる本。中古市場で流通している本。こうした情報を統合して提供できる組織は、実は現在の日本では取次以外にほとんど存在しません。

もちろん、これは簡単な話ではありません。しかし少なくとも、返品率50%の世界で「どう運ぶか」だけを議論するよりは、はるかに未来があります。ここで私は、経済産業省の議論に対しても違和感を持つようになりました。経済産業省はRFIDなどを活用した物流効率化を提唱しています。その投資を誰が負担するのかという議論は置いておいたとしても、確かに、それによって棚卸しや在庫管理は効率化されるでしょう。しかし、それは本当に出版業界が直面している問題の中心なのでしょうか。

私には、どうしても違うように見えるのです。返品率50%という数字を見たとき、本来問うべきなのは「返品をどう効率よく処理するか」ではありません。なぜ返品が発生しているのか。なぜ大量配本が必要になっているのか。なぜ取次が苦しくなっているのか。そこを考えることの方が先ではないでしょうか。RFIDは「どう運ぶか」の技術です。しかし、現在の出版業界に必要なのは、「何を運ぶのか」を問い直すことなのではないか。私はそう思うのです。

出版社、書店、取次、読者はどう変わるのか

ここまで考えてきたとき、私は出版業界の未来を以前ほど悲観的には見なくなりました。

もちろん、戦後型の出版システムは苦しいでしょう。1998年に24,237店あった書店は2024年度末には9,993店になりました。雑誌市場は縮小し、取次は危機感を募らせています。しかし、それは出版そのものの終わりを意味するわけではありません。むしろ、役割の再編が始まっているように見えるのです。

出版社はどうでしょうか。

これまでは大量印刷、大量流通、大量販売というモデルの中で成長してきました。しかし今後は、一冊一冊の価値を高める方向へ向かうのではないかと思います。実際、文学フリマでは少部数であっても熱心な読者を獲得する本が数多く存在しています。作家によるnoteもそうです。かつては出版社が担っていた読者との関係づくりを、著者自身が行う時代が始まっています。そう考えると、出版社の価値は流通量ではなく編集力に戻っていくのかもしれません。私はこれを「クラフト化(工芸化)」と呼びたいと思います。もちろん、現在のシステムから新しいシステムに移行するためにはキャッシュの問題が発生するでしょう。政府がもし援助するとしたら、その事業再構築への補助金の方が、電子タグをばらまくよりは成果につながりそうです。

書店も変わるでしょう。ただし、ここで重要なのは、すべての書店が同じ方向へ向かうわけではないということです。私がここまで区別してきた雑誌型書店と書籍型書店は、おそらく異なる進化を遂げます。雑誌型書店は、コミュニティ型書店へ変わっていくでしょう。シェア型書店やミニ書店は、その先駆けです。そこでは本そのものよりも、人と人とのつながりが中心になります。一方で書籍型書店は、知識探索の拠点としての価値を高めていくはずです。AIが普及し、情報が溢れる時代だからこそ、「何を読むべきか」を提案できる場の価値はむしろ高まるように思えます。

そして取次です。私は取次こそ最も大きく変わる可能性を持っていると思っています。取次は長らく物流会社として語られてきました。しかし本当の資産は物流網ではなく、膨大な書籍データなのではないでしょうか。書店には顧客データがあり、取次には書籍データがあります。この二つが結び付いたとき、初めて「必要な人に必要な本を届ける」仕組みが実現します。戦後の取次は全国へ同じ知識を届けました。これからの取次は、一人ひとりに異なる知識を届ける存在になるのかもしれません。

そして最後に、読者です。

実は最も変わったのは読者なのかもしれません。かつて読者は出版社が作った本を買う存在でした。しかし現在では、自ら本を書き、レビューを書き、SNSで紹介し、メルカリで流通させ、シェア型書店の棚主になることすらできます。読者は消えたのではありません。むしろ知識流通の参加者になったのです。

そう考えると、現在起きている変化は衰退ではなく再編なのかもしれません。問題は、私たちがまだ古い地図で新しい世界を見ようとしていることです。日販の危機も、トーハンの模索も、文学フリマの隆盛も、シェア型書店の増加も、本当は同じ物語の一部なのではないでしょうか。

読者は居る

ここまで私は、日販の危機から始まり、書店数の減少、雑誌の衰退、ジャンプ+の登場、メルカリやブックオフオンライン、文学フリマ、シェア型書店について見てきました。最初は物流の問題だと思っていました。しかし調べれば調べるほど、そうではないことが分かってきました。

確かに物流費は上がっています。トラック新法の影響もあります。返品率も高まっています。しかし、それらは問題の本質ではありません。本質は、戦後日本が構築した知識流通システムと、現代社会の現実との間に生じたズレなのではないでしょうか。

戦後日本は、「全国民に同じ知識を届ける」という壮大な社会実験に成功しました。1949年に制度が整備され、1998年には24,237店という世界でも類を見ない書店網を実現しました。その意味で、戦後出版システムは失敗したのではありません。むしろ大成功したのです。そして、おそらく成功したからこそ、その前提を変えることが難しくなったのでしょう。

私が経済産業省のRFID議論に違和感を覚えたのも、そのためです。RFIDは優れた技術です。物流効率化も必要です。しかし、それは「どう運ぶか」の議論です。私たちが本当に考えるべきなのは、「何を運ぶのか」ではないでしょうか。さらに言えば、「誰に届けるのか」ではないでしょうか。

実は、この問いに対する答えは、すでに現実の中に現れています。文学フリマに集まる人々。シェア型書店の棚主たち。noteで著者を支援する読者たち。小出版社を立ち上げる人々。そして私たち自身です。彼らは知識を求めています。学びを求めています。問いを求めています。

私は、この論考を書きながら、あるドラッカーの言葉を思い出していました。1989年、『新しい現実』の中で、ドラッカーは当時の学者たちを批判しながら、こう書いています。

「読者は居る。彼らは知識に飢えて待っている。」

私は、この一文こそ現在の出版業界を理解する鍵なのではないかと思います。読者は消えていません。本への関心が失われたわけでもありません。知識への欲求が無くなったわけでもありません。失われたのは、それらを前提として設計された戦後型の流通システムです。

だから私は、この状況を「出版不況」とは呼びたくありません。もちろん苦しい時代です。しかし、それは需要が消えたからではない。知識流通の形が変わったからです。日販の危機も、トーハンの模索も、文学フリマの隆盛も、シェア型書店の増加も、本当は同じ物語の中にあります。それは、「全国民に同じ知識を届ける時代」の終わりと、「一人ひとりに必要な知識を届ける時代」の始まりです。

問われているのは、どうやって古い仕組みを守るかではありません。現実をどう観察し、新しい知識流通の生態系をどう設計するかです。もしドラッカーが現在の出版業界を見たなら、おそらく取次を守る方法ではなく、読者がどこにいるのかを探したでしょう。そして、その答えは案外簡単なのかもしれません。

読者は居る。

彼らは知識に飢えて待っている。


参考にした記事(冒頭のニュース以外のもの)

出版産業における返品削減研究会https://www.meti.go.jp/shingikai/mono_info_service/reduced_returns/index.html

現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローも記事の引用・紹介も大歓迎です。

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