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デヴィッド・グレーバー『負債論』を読む その7「第7章 名誉と不名誉 あるいは現代文明の基盤について」

「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。

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noteのできるだけ毎日更新を実践しています。現在の曜日ごとのテーマはこちら。水曜は「文化と遊びの日:『負債論』(連載)/麻雀の話、書籍の紹介」のテーマとなります。

現在は、こちらの書籍を読んでいます。

前回の記事はこちら。

前回は、支払いようのない負債の承認のしるしだった社会的通貨が支払い可能な負債に転化した、というお話で、暴力と奴隷化の話が展開されました。そして予告では、今回もその話の続きです。

冒頭に前章のまとめがコンパクトに書かれています。引用しておきましょう。

前章では、社会的通貨をともなった人間経済が、どのようにしてべつのものに変質しうるのか、素描してみた。 社会的通貨とは人間のあいだの関係を測定し、査定し、維持するために使用されるものであって、物質財の獲得のために使用されるとしても、おそらく付随的にのみである。わたしたちの発見は、純粋な物理的暴力の役割を考慮することなくそうした問題を考察することは不可能だ、というものだ。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.250

グレーバーはアフリカの奴隷貿易というのが、このことを象徴しているとしていますが、この章では、もっと緩やかな、歴史に隠れてしまうほどに目立たない痕跡を探そうとします。そこで目をつけたのが「名誉」の概念でした。

あたかも名誉の概念には、たとえ負債を負っているにしてもそこで一番大切なのは経済的な賃借ではないのだ、という挑戦的な主張が反響しているかのようなのである。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.250

そういえば、日本の江戸時代にも、「武士は食わねど高楊枝」ということわざがあったようで、この話と関係あるのかもしれません。

この後、誘拐されて奴隷になり、その後、転売された後に自由を買い取って商人になった男の例が紹介されます。この話でグレーバーが指摘しているのは、この話で男が最終的に「自由を得る」ということを認めるためには、部分的にでも奴隷制の有効性を肯定しなければならない、という構造になっている問題です。グレーバーはここに「名誉」という概念が絡んでいると見ています。

今日にいたるまで「名誉」は矛盾する二つの意味をはらむことになった。一方では、名誉を単純に誠実さ/高潔さ(integrity) とみなすことができる。「立派な人間は約束を守る (Decent people honor their commitment)」。イクイアーノにとって「名誉」が意味したものとは、まさしくこれであった。名誉ある男たることは、真実を語り、法にしたがい、約束を守り、商取引において公正かつ良心的であることである。彼の抱えた問題は、名誉が同時にべつのことを意味することであった。そしてそれは、最初に人間を商品に還元するために必要とされる暴力にまつわるすべてにかかわっているものなのである。
読者は疑問におもうかもしれない。それでは、こういったあれこれが貨幣の起源になんの関係があるのか? おどろくべきことに答えは、すべて、である。すべてに関係しているのだ。最古の貨幣形式のいくつかは、まさに名誉と不名誉の基準として使用されていたようだ。つまり貨幣の価値とは、究極的には、他者を貨幣に変換する力の価値であった。

デビッド・グレーバー『貨幣論』PP.258-259

「最古の貨幣形式のいくつかは、まさに名誉と不名誉の基準として使用されていたようだ」の文章と「貨幣の価値とは、究極的には、他者を貨幣に変換する力の価値であった」の文章とのつながりがわかりにくいですね。さきほどの男(イクイアーノ)の例で言えば、「名誉」の概念があるがゆえに、奴隷に甘んじていること、そしてそれがゆえに、ある条件に従い、奴隷から解放されることはイコールであり、それがゆえに、貨幣に変換できる人間存在としての奴隷制を認めてしまうことになる、というロジックかと思います。

今、我々の社会では、勤務時間を拘束されて、その代償として給料をもらう、ということが当たり前のように行われていますが、もし、時間=命と考えると、かけがえのない命の一部を換金しているとも言えるわけで、これも文明レベルの俯瞰で見ると、一種の奴隷制なのかな、と思います。有名な会社に勤める、大企業や上場企業で勤める、というのはまさに「名誉」に関わる概念かな、とも思います。給料が高いのは良いのですが、その代償としてブラックな環境にも耐えたり、上司のパワハラにも耐えたりしているのは、この「奴隷制」と「名誉」の話に近しい構造のようにも見えます。どうなんでしょうか。

この後、話題は「少女奴隷」「買春」「娼婦」の話に移ります。アイルランドからメソポタミア、アッシリア法典、古代ギリシア、古代ローマと話は移っていきます。ここで印象的なのは離婚禁止についての話。婚姻したら離婚ができないという制度は逆に男が負債を背負ってしまったら妻を差し出さなければならないとい状況を生み出してしまう、というのです。ここでは触れられていませんが、カトリックも離婚禁止かと思いますが、なぜ離婚禁止になっているのでしょうか? 気になります。

しばらく歴史を遡った後、話は「自由」とは何か?という話に展開します。その結論部分を引用して紹介します。

法学者たちが千年もついやしてローマの所有概念につじつまを合わせようとしたように、哲学者たちは何世紀もかけて、いかにしてわたしたちがじぶん自身に対する支配関係をもつことが可能になったのか、理解しようと努めてきた。最も浸透した解決策―― 「精神」と呼ばれるものを有しており、それは「身体」と呼びうるものから完全に分離しており、精神は身体に対して自然な支配権をもっていると主張すること――は、現代の認知科学からえられる知見とまっこうから対立している。したがって、これが虚偽であることはあきらかである。ところが、それでもわたしたちはそれにしがみつづけているのである。それなくしては、所有、法律、自由についての日常的観念がどれひとつしてつじつまが合わなくなってしまう、という単純な理由のためである。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.312

グレーバーはついに経済学者だけではなく、哲学者にもケンカを売り始めました。問いは「いかにしてわたしたちがじぶん自身に対する支配関係をもつことが可能になったのか」ですが、「そんなものはない」とグレーバーは言いたいようです。

続けて、グレーバーはここまでの7章のまとめを「いくつかの結論」という形で示します。

ここでようやく、じぶん自身を主人であると同時に奴隷として定義するわたしたちの奇妙な習慣について、みずからの自由の主人(masters of our freedoms)としての自己とか、じぶん自身の所有者として自己とか、そのような概念でもって古代の世帯の最も野蛮な側面を複製しているわたしたちの奇妙な習慣について、つまるところいったいなにが問われているのかがみえてくる。これこそが、わたしたち自身を完全に孤立した存在として想像しうる唯一の方法なのである。ローマ人の新しい自由概念——他者との相互関係を形成する能力ではなく、富裕なローマ人男性の世帯の大部分を構成していた征服された動産 [奴隷]を「使用かつ濫用」する絶対的権能——から、ホッ ブズやロック、スミスといった自由主義哲学者による人間社会の起源についての奇妙な幻想——完成した大地から生まれ、ついでたがいに殺し合うかビーバーの毛皮を交換するか決断を余儀なくされる三〇代から四〇代の男性の集団からなる人間社会—まで、一直線につながっている。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.316

「他者との相互関係を形成する能力」という言葉が出てきます。グレーバーが定義した「人間経済」時代の人類は、これによって「自由」を得ていたとグレーバーは言っています。まず、その部分を引用しておきましょう。

人間経済において人間について真に重要であると考えられているのは、人間は各人が他者との関係の固有の結節体であるということである。それゆえ、 だれかがなにかべつの事物やべつの人間と等価であると考えられることは決してない。人間経済にあって貨幣は、人間を買ったり取引したりする手段ではなく、むしろ、そのような売買や取引がいかに不可能であるかを表現する方法なのである。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.313

もう少しわかりやすく述べている部分もありますので、そちらも引用します。

事実、ほとんどの人間経済において、人間の最も重要な所有物は絶対に売買 できないのであって、それは人間を売買できないのとまったくおなじ理由にもとづいている。それらは、人間との関係の網の目に捕らえられている唯一無二の対象物だからである。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.314

つまり「人間経済」の時代では、人間は自分が「売買できない」存在としての自由を得ていたが、逆に「人間関係の網の目に捕らえられていた」とも言えます。これは下記の記事で紹介した橘玲さんの「社会資本」がMAXの状態、すなわち、「プア充」の状態に近しいかと思います。

この話の後、グレーバーは「王と奴隷の奇妙な一致」について語ります。これは先ほどの「人間関係の網の目」あるいは「社会資本」の観点での一致です。

王と奴隷はたがいに映し合う鏡像なのである。ふつうの人間が他者への義務によって規定されているのとは異なって、彼らはともに力関係によってのみ規定されている。人間のありようとして想像しうるかぎり、ほとんど完璧なまでに孤立し疎外された状態にあるのが、まさに彼らなのだ。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.316

極端なことを言えば、王というのは莫大な金融資産を持っている存在であり、奴隷というのは労働によってのみ認められる存在。そう考えると、橘玲さんが『幸福の「資本」論』で言っている話とつながってくる話になってきます。究極的に言えば、莫大な金融資産を持っている王は「退職者」ですし、労働によってのみ認められる存在は「ソロ充」ということになります。

橘玲『幸福の「資本」論』より筆者作成

これを歴史的に見れば、誰も社会資本しかない状態から、貨幣や負債が発生することにより、金融資産と人的資本が膨らみ、現在のような社会になったということで、そこには「自由」や「自己」という概念が広くいきわたったことと関係があった、というお話です。

続いてグレーバーは、アメリカ独立宣言を記したトマス・ジェファーソンは、自身が多数の奴隷の所有者でありながら、「自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与されている…ことを信ずる」と言い切っているという事実を指摘して、こう言っています。

わたしたちにとって、最も大切な権利と自由のほとんどは、モラルおよび法の枠組み総体にとっての一連の例外である。そして、本来そのような権利や自由など存在するはずもないのだ、と、その枠組みはささやいているのである。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.317

我々に施された教育は、自由や平等といったものの大事さと、社会を支えるために労働と納税の義務があると教えます。これらの概念は本当に矛盾なく説明できるのか、ということをグレーバーは問うているように思えます。考えてみれば教育の義務も、このシステムを維持させるために存在しているのかもしれません。

公式の奴隷制は撤廃されたが、(九時から五時まで労働に就いている者ならだれもが証言できるように)少な くとも一時的にあなたの自由を譲渡 [疎外]することは可能である、という観念は持続している。実際のところ、 週末をのぞき眠っていないあいだなにをすべきであるか、わたしたちの大半は、この観念によって規定されている。暴力についてならば、その大部分は視界の外に追いやられた。だがその原因は、なによりもまず、テーザー銃[スタンガンの一種]や監視カメラが恒常的に脅威を与えていなくてもすむ世界が存在すること、そのような仕組み/取り決めに基盤をおく世界がどのようなものなのか、わたしたちが想像すらできなくなっているところにある。

デビッド・グレーバー『貨幣論』P.317

「テーザー銃[スタンガンの一種]や監視カメラ」は前章での「正規の身分証明書なしに大学図書館に入る権利を主張すると」の例を思い起こさせます。大学図書館というのは開かれた場などではなく、そこに課金したもの、できたものが特権的に入館できる場所です。そういう意味では市場経済=貨幣に取り込まれた世界の一部です。この世界は「政治的・法的な諸理念が奴隷制の論理に基礎づけられている」世界だとグレーバーは言っています。

では、なぜ、今の世界に形として奴隷制が残っていないのか、その疑問については、次章で語られます。

現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローもコメントも大歓迎です。

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