革命の扉が開く2025-2026土星海王星コンジャンクション③*1882年のエジプト戦争&コメ不足が引き金になった壬午事変
エジプトのイメージといえば、ピラミッド、スフィンクス。
神話に詳しい方は、オシリスとイシスの伝説を思い浮かべられるのではないかと思います。
いちおう星読みの私は、シリウスというエジプトの占星術にとって重要な星を思い浮かべますが、フリーメイソンもシリウスを特別視しています。

フリーメイソンの話は置いといて、古代エジプト国家が形成されたのは紀元前3000年頃だそうです。
最初に交易をした外国人はギリシャ人で、本格的に両国の交流が開始されたのは紀元前7世紀頃からだったと最近読んだ古代エジプトの本には書かれていました。
有名なクフ王のピラミッドが建設されたのが、紀元前2500年頃と言われています。ギリシャといえば、ヘラクレスの神話でも知られるように石文化、ピラミッドの建設にもギリシャの影響があったかも知れないと、本にもどこにも書いていないけど、私は妄想を楽しんでいます。

今回の記事は、近世のエジプトに土星海王星コンジャンクションが与えた影響をメインに、最後のほうに同じ年に朝鮮で起きたクーデターについて書いていきます。
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①は1989年の山羊座で起きたコンジャンクション。
ベルリンの壁崩壊について書いています。
②は1917年、獅子座で起きたコンジャンクション。
ロシア革命をメインに書いています。
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ムハンマド・アリー朝時代
19世紀から20世紀半ばにかけて、エジプトとスーダンはムハンマド・アリーが始めたムハンマド・アリー朝に支配されていました。
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【ナポレオンのエジプト・シリア遠征】
1798年、ナポレオン・ボナパルトはエジプト・シリアに遠征しました。
ナポレオンがエジプト遠征(1798-1801年)を行なったのは、イギリスを牽制するためだったと言われています。
イギリスはインド植民地と連絡を取るに当たりエジプトを経由していたため、ナポレオンはエジプトを奪うことであわよくばインドも奪取できる可能性を考えていたそうです。

エジプトはオスマン帝国の統治下にありましたが、長い統治の間にオスマン帝国の支配力は衰えを見せており、エジプトはマムルーク(奴隷身分出身の軍人)の有力者(パシャ)によって実質上牛耳られるようになりました。
フランスはマムルークの支配からエジプトの民衆を解放し、オスマン帝国の正統な支配を助けるという名目を盾に、エジプトに侵攻しました。

フランスはわずか3週間でエジプト征服をほぼ完了しましたが、エジプトを掠め取られた格好のオスマン帝国はフランスに対して宣戦布告し、第二次対仏大同盟に参加しました。
またエジプト南部では、マムルークたちが抵抗を続けていました。
※第二次対仏大同盟(1798年12月24日 - 1801年)の目的は、フランス共和国の拡大を阻止し、フランスに君主制を取り戻す事でしたが、同盟はフランスの革命体制を覆すことに失敗し、1805年に第三次対仏大同盟(1805年4月11日 - 1806年)が結成されました。
フランス軍は、住民に向けて自らが「解放者」であることを広く宣伝しましたが、10月にカイロ暴動が起き、フランス兵300名が殺害され、エジプト人も2,500人以上が殺されました。(負傷者を合わせると5000人以上)
住民が避難していたアズハル・モスクにフランス軍が砲撃したことも、エジプト人の反感を高め、フランスは「解放者」とはみなされませんでした。
ヤッファ攻囲戦(1799年3月3日 - 3月7日)

1799年、ナポレオンはシリアに進軍しましたが、(現在のイスラエルの)アッコ包囲(1799年)に失敗し、ナポレオンはエジプトから撤退しました。
(ナポレオンがエジプトにいる間、スイスで戦争が勃発していた)
もしもナポレオンがアッコで勝利していたら・・・1799年12月のブリュメール18日のクーデターは起きなかった可能性があります。
フランス軍は、最終的に1801年にイギリス・オスマン帝国軍に降伏しました。アレクサンドリアの降伏
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この頃のエジプトの混乱期に、オスマン帝国軍アルバニア人傭兵隊長だったムハンマド・アリーが頭角を現し、1805年にオスマン帝国のエジプト総督に正式に任命されました。

彼のもとでエジプトの国力は急速に増強され、1820年からはスーダン北部をエジプト領に併合しました。
ギリシャ独立戦争(1821-1829)では、オスマン帝国エジプト軍は大敗を喫し(ナヴァリノの海戦)、ムハンマド・アリーは出兵の代償としてオスマン帝国にシリア地方の行政権を要求したが、これが果たされなかったため1831年、1839年と二度に渡ってエジプト・トルコ戦争(エジプト事件)を起こしてオスマン帝国に反旗を翻した。
【東方問題*エジプト・トルコ戦争】
この頃、ロシア・ロマノフ朝のニコライ1世が南下政策(ロシア南下政策の最大の目的は、年間を通して凍結することのない「不凍港」の獲得だった)によってバルカン半島に進出し、ギリシャ独立戦争に介入しました。
するとギリシャがロシアの従属国とならないように、イギリス、フランスがすぐに介入しました。
ギリシャ独立戦争中は協力していたエジプトとオスマン帝国でしたが、戦争終結の頃にムハンマド・アリーとオスマン帝国との間で紛争(エジプト・オスマン戦争 (1831年-1833年)が発生しました。
ロシアとオスマン帝国が同盟を結んでいたため、イギリスとフランスはロシアの台頭を抑えようとしました。
しかしイギリスはオスマン帝国の保全を望んでいたのに対し、フランスはムハンマド・アリーがオスマン帝国を統治することを望んでいました。
1839年 、エジプト・オスマン戦争 (1839年-1841年)に発展しました。
同年、オスマン帝国のマフムト2世が死去したため、若いアブデュルメジト1世が即位しましたが、エジプト軍はオスマン帝国軍を圧倒し、それを見たイギリス・フランス・ロシアは一斉に介入しました。
ムハンマド・アリーは武力でシリアの支配権を奪取することに成功しましたが、エジプトの強大化を警戒するイギリスの介入を受けることになり、1840年の条約によってムハンマド・アリーの子孫によるエジプト総督の世襲権を認める代償としてシリアを放棄しました。

【イギリスの介入と確執】
1840年のロンドン条約は、ムハンマド・アリーを支援したフランスの影響力を削ぎ、ロシアも二つの海峡の通航(ウンキャル・スケレッシ条約)を阻止されたことにより、ロシアの南下政策に歯止めがかけられた。
このことは、フランス・ロシア両国による東地中海・中近東への進出を同時に阻止することを意味した。
当時のイギリスは清国と戦争状態(アヘン戦争)にあり、アメリカともカナダの国境問題をめぐって鋭く対立していた。そのような状況下でイギリスが二大ライバルのロシアとフランスを封じ込めたのは、イギリスにとっての政治上の頂点をもたらした。
イギリスは、1839年1月にイエメンのアデンを占領しました。
これによりム、エジプトはコーヒー貿易の利権をイギリスに奪われた上、紅海およびインド洋に対する政治的経済的影響力を失いました。
さらにイギリスは、中東地域を綿製品の有力な市場とみなしていたことから、繊維産業の国有化と製品の専売制を敷いたムハンマド・アリーの存在を「国益に対する明らかな脅威」とみなすようになっていました。

イギリスは1838年にオスマン帝国との間に通商協定を結んでおり、以前にもましてオスマン帝国擁護の姿勢をとっていました。
オスマン帝国領内への侵攻はもちろん、オスマン帝国を脅かす規模の軍隊を保持することにも警告を発せられるようになりました。
1839年4月、オスマン帝国軍8万がシリアに侵攻したため、シリア総督だったイブラーヒーム・パシャ(ムハンマド・アリーの長男)はこれに応戦して、現在のトルコ共和国ガズィアンテプ付近でエジプト軍はオスマン帝国軍を撃破しました。第2次シリア戦役
オスマン帝国の閣僚たちは、シリアの支配をムハンマド・アリーに譲ることを提案して危機を解決しようと動いたが、イギリス、オーストリア、ロシアの大使は、この申し出を撤回し、彼に対して断固として立ち向かうよう彼らに強いた。フランスとの戦争の可能性さえあり、フランスはモハメド・アリの成功を期待して近東での勢力圏を拡大しました。
しかし9月11日、連合艦隊(イギリス、オーストリア、オスマン帝国、ロシア)がベイルートに現れ、第二次エジプト・オスマン戦争が勃発しました。
イギリスは、ベイルートとアッコを占領しました。

1840年11月27日、アレクサンドリア会議が開催され、エジプト政府がシリアを放棄しする代わりに、オスマン帝国はムハンマド・アリーとその息子たちをエジプトの唯一の正当な支配者として認めるとしました。
これによりエジプトは、オスマン帝国からの事実上の独立を達成しました。

後継者のイブラーヒーム・パシャは、大変優秀な政治家だったと言われています。しかし、イブラーヒームは、即位後4カ月足らず(1848年7月20日 - 1848年11月10日)で亡くなり、甥のアッバースが引き継ぎました。
スエズ運河建設に反対していたアッパースは1854年に暗殺され、そのあとにイブラヒームの異母弟サイード・パシャが即位し、サイード時代にスエズ運河が建設されました。
サイードの1863年に死去してしまうのですが、死亡原因はよくわかっていません。

サイード・パシャとスエズ運河については以下の記事に書きました。
1882年の土星海王星コンジャンション*英エジプト戦争
1882年の土星海王星コンジャンクションで、イギリスはエジプトを占領しました。きっかけはウラビーの反乱でした。
ウラビー革命は、1879年から1882年にかけて、エジプトで起こった革命運動。革命を指導したアフマド・ウラビー陸軍大佐にちなんで、この名前がつけられた。ムハンマド・アリー朝のヘディーヴ (副王) とヨーロッパ列強に対抗した。
【ウラビーの反乱の背景】
エジプトの近代化を進めるイスマーイール・パシャ(ムハンマド・アリー朝の第5代君主)は、スエズ運河の建設のほか首都カイロにパリに倣った新市街を建設し、カイロ・アレクサンドリア間の鉄道敷設など近代化を推し進めた結果、エジプトは多額の負債を抱えていました。

1874年から1876年にかけてエジプト・エチオピア戦争が起こりました。
この紛争には、アメリカ南北戦争に従軍した元南軍将校と北軍将校が数名参加していました。
イスマーイールは、1868年にアメリカ人の冒険家で元北軍砲兵将校のタデウス・P・モットから、エジプト軍の近代化を監督するためにアメリカ人退役軍人を雇うよう説得され、イスマーイールもその考えを採用しました。
タデウス・P・モットは17歳の時にアメリカを離れ、イタリア統一運動のリーダーとなるジュゼッペ・ガリバルディ(1807年- 1882年)の下で働きました。
1856年から1857年まで、モットは「三年戦争」とも呼ばれるメキシコ内戦でメキシコ軍に所属しました。
メキシコ内戦は、スペインから独立したメキシコ独立戦争(1810年 - 1821年)後、1821年から1857年にわたり50もの異なる政権がメキシコを統治した結果に起きましたが、そもそも独立戦争自体がスペイン本国で起きた立憲革命の余波でした。

モットは南北戦争の直前に北軍に入隊し、戦後も数年間アメリカに留まりました。彼はフリーメイソンのオランダ支部第8号とエルサレム支部第8号の会員でした。1868年にオスマン帝国軍に入隊し、バルカン半島で任務に就いているとき、イスマーイール・パシャと出会ったそうです。
イスマーイールは、米国政府に直接援助を要請したかったが公式の外交代表を持っていなかったため、代理人としてモットを頼っていました。
モットは傭兵としての経歴とオスマン帝国との家族の繋がりから理想的な候補者であった。彼の父バレンタイン・モット博士は、スルタン・アブデュルメジド1世の専属医師であり、姉の一人はオスマン帝国の駐米大使と結婚していた。

最終的にこの紛争はエチオピアの明白な勝利に終わり、エジプトは戦費が国の財政負債をさらに増大させ、1875年までに国は事実上破産しました。
1875年、イスマーイールはスエズ運河会社の株式を売却し、ベンジャミン・ディズレーリ政権下のイギリスがスエズ運河会社の株式を買収しました。
これが1882年のイギリスのスエズ運河軍事占領、1919年のエジプトの保護国化のきっかけとなりました。
フランスとイギリスによってエジプトの財政が管理される状況になり(Caisse de la Dette Publique)、1879年イスマーイールは退位させられ、同時にイスマーイールの長男タウフィーク・パシャが副王に据えられました。
タウフィーク自身は、自分の即位が寝耳に水だったようです(彼は温厚な性格だったが、統治者になる厳格さに欠けていた)。
イギリスとフランスによる二重統治が2年以上行われ、官僚、軍、実業界の上層部は高給のヨーロッパ人によって占められるようになりました。
エジプトの国家収入の半分が債務返済に充てられたため、税負担が増大し、公務員の給与は不十分となり、数万人の軍人が解雇されました。

ヨーロッパ式の法理体系が導入されたことで、高等教育を受けたエジプト人の公務員や軍人は憤慨すると共に自らの出世の道が閉ざされることを懸念し、農民は重税に対して不平を募らせました。
1870年代から1880年代のエジプトは国民意識が高まり、識字率も向上していました。新聞や雑誌が数多く発行され、とくにエジプト・アラビア語で書かれた風刺や政治記事は、知識階級だけでなく大衆にも広く読まれたそうです。これが反王政の世論形成に貢献したとも見られています。
非ヨーロッパ人で農民階級出身のアフメド・ウラビー大佐が、多くの人々からエジプト国民の真の代弁者とみなされるようになったのもこのころでした。ウラビーは農民だけでなく、エジプト軍の大部分からも尊敬と支持を得ていました。
【ウラビーの反乱(1879年から1882年)】

ウラビーは、フェラヒン(農民階級)から立ち上がったエジプトの最初の政治的および軍事的指導者。
エジプトの軍政と民政の改革を開始したが、1882年にアレクサンドリアで起きたデモをきっかけに捕らえられ、死刑を宣告されたが終身追放に減刑となり、イギリス領セイロンに亡命した。
セイロン滞在中、ウラビーは国内のイスラム教徒の教育向上に努め、スリランカ初のイスラム教徒向け学校を設立している。
1901年にヴアッバース2世によって帰国を許され、1911年に亡くなるまでエジプトに留まった。
ウラビーの反乱は、タウフィークを退位させ、エジプトに対する イギリス帝国とフランス帝国の影響を終わらせることを目的としていました。
1881年の夏、タウフィークは、ウラビーにカイロを立ち去ることを命令しましたが、ウラビーは内閣の総辞職と選挙によって代表された人による政権の樹立を要求しました。タウフィークは、ウラビーの要求を斥けることができず、ウラビーと彼の支持者による政権が成立しました。

一方、ヨーロッパ諸国は副王の権力再建について協議し、1882年5月20日、英仏連合艦隊と5隻の砲艦がアレクサンドリアに派遣されました。
外国艦隊の存在は、国民主義勢力と多数の外国人およびキリスト教徒との間の緊張を悪化させ、6月11日と12日に猛烈な暴動が勃発し虐殺が起こりました。約50人のヨーロッパ人と250人のエジプト人が殺害されたと言われています。
現代の私から見るとイギリスの偽旗テロに見えますが、暴動の理由は副王によってウラビーの信用を失わせるために起こされたとか、ウラビー軍による外国人攻撃だったなどと報道されたそうです。
ヨーロッパ各国の反応はすばやく、26隻以上の艦船が港内に集結しました。7月6日までにエジプト人以外はほぼアレクサンドリアから撤退し、ウラビー派の守備隊は「作業をやめなければ砲撃する」との最後通牒を発するまで要塞や塔の強化を続けました。
イギリスは、ウラビーがエジプトの巨額債務を不履行にし、スエズ運河の支配権を握ろうとするのではないかと特に懸念していた。そのため、イギリスとフランスはそうした事態を防ぐためエジプトに軍艦を派遣した。
7月11日の夜明けからイギリス艦隊による激しい砲撃が始まり、翌日の午後には強風と砲撃による火災が拡大して、アレクサンドリアで最も裕福な地区を焼き尽くしました。火はその後2日間燃え続けたそうです。

この被害はパニック、略奪、放火によってさらに悪化し、砲撃によって危険な状態になった多くの建物は、その後イギリス軍の占領下で破壊された。
1882年9月13日、テル・エル・ケビールの戦いで、ウラビーのエジプト軍はイギリスに敗北し、英エジプト戦争は終結しました。
その後イギリスは、 1888年のスエズ運河の自由航行に関する条約でスエズ運河を保護する権利を獲得し、この結果エジプトは名目上はオスマン帝国の臣下であったが、実質的にイギリスの保護領となりました。
イギリス軍は、1922年のエジプト独立宣言と1936年の英エジプト条約までエジプトを占領し、1956年に最後の軍隊が撤退しました。
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【フランスのチュニジア侵攻】
1878年に開催されたベルリン会議で、オスマン帝国領内の君侯国(ベイリク)の一つだったチュニジアをフランスに編入することが認められ、1881年にフランスはチュニジアに侵攻しました。
1878年ベルリン会議は、露土戦争の結果起こった国際紛争解決のために、ドイツの宰相ビスマルクが主催し、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、ロシア、イタリア、オスマン帝国の7か国が参加した。
フランスは、1830年にチュニジアの隣国にあったオスマン帝国領アルジェリアを支配下に収めており(アルジェリア侵略)、その延長としてチュニジア侵攻が行われました。

チュニジアとエジプトで起きたことは、侵攻したのがフランスかイギリスかの違うだけでよく似ています。
ナポレオン戦争後、ヨーロッパから商人や労働者が移住して来、大規模な近代的改革が行われ、それによって国家財政がひっ迫して破産すると、ヨーロッパの債権者による組織が財政を引き継ぎ、最終的に列強が保護領として占領し、ヨーロッパ人の入植者を呼び込みます。
同じようなことが東アジア(朝鮮)でほぼ同時に起きていたことを、次に解説します。
1884年のベルリン会議では、列強のコンゴ植民地化をめぐる対立の収拾が図られるとともに、列強による「アフリカ分割」の原則が確認された。
1900年頃までには、エチオピアとリベリアを除いてアフリカは列強により分割された。
1882年の星配置
この年に誕生したのが、『くまのプーさん』 の作者 A・A・ミルン、イギリスの小説家ヴァージニア・ウルフ、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領、日本のアンデルセンと呼ばれた作家小川未明、東急の創始者五島慶太、歌人で精神科医の斎藤茂吉、『赤い靴』の作詞家野口雨情、俳人の種田山頭火などがいます。
文学関係の著名人が多く誕生している感じですね。

参考までに1882年5月17日の日食図を出しました。
同年5月9日頃に牡牛座16度で海王星と土星がコンジャンクションしていました。サビアンシンボルは「剣とたいまつの戦い」。なんとも象徴的です。
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日本は明治15年で、3月に伊藤博文がヨーロッパ視察に出かけています。
10月に日本銀行が開業。12月に自由民権運動: 福島事件が起き、処罰された中に原胤昭(はら たねあき)という知る人ぞ知るキリスト教徒がおりました。
原胤昭の父は江戸南町奉行所吟味方与力・佐久間健三郎、母は南町奉行所年番与力・原胤輝の娘とき。兄に鬼佐久間と呼ばれた佐久間長敬がいる。
元和の大殉教で処刑され、列福されたヨハネ(ジョアン)原胤信(主水)の大叔父の子孫にあたる。
原胤昭については、以下の記事に少し書きました。
【ナショナリズムと近代化】
5月6日にアメリカで中国人排斥法(Chinese Exclusion Act)が成立(1943年に廃止)されたほか、朝鮮で壬午事変が起こり日本公使館員らが多数殺傷されたそうです。
壬午事変について読んでみると、開国前の幕末の日本のように感じました。
下記のリンク記事は大変わかりやすいです。
日本大使館が攻撃された理由は「コメ不足」(最近よく聞く)。
「朝鮮人に日本人が殺された」衝撃は、日本国民にナショナリズムの反応を引き起こしただけでなく、山縣有朋らを中心に軍拡が強く唱えられることとなりました。
1882年は近代日本における軍備拡張の起点といわれており、この年の11月24日、明治天皇は宮中謁見所に地方長官を召集して軍備拡張と租税増徴の勅諭を述べた。
以後、大蔵卿松方正義による緊縮財政・デフレ政策にもかかわらず、あえて増税が進められ、1883年は前年比軍事費を大幅に増加させた。
増税については、政府は国民とくに民権派が動いて「騒然たる景況」となることを強く警戒したものの、民権派の大半は必ずしも軍拡に反対しなかった。

1884年、ベトナム領有を巡ってフランスと清との間で清仏戦争が起きた隙をついて、再び朝鮮で甲申政変が起きました。
(当初、日本がクーデターに協力していたことは伏せられていた)
面白いほどわかる甲申事変!簡単にわかりやすく徹底解説!【金玉均and日本による閔妃政権へのクーデターです】 | まなれきドットコム
甲申事変後の朝鮮半島には、日本の商人や企業が多く入り込み朝鮮の経済を荒らしました。壬午軍乱のきっかけにもなった日本人による米の買占めは続けられ、漁業でも日本の船が勝手に漁を始めるため、朝鮮の手元に残る魚が減少しました。

日本と清国の関係はさらに悪化していきましたが、天津条約(1885年)を締結し、同時に両国は出兵の際の相互通告を約束。10年後の東学の乱でいずれも出兵し、日清戦争につながりました。
天津条約が結ばれた背景には、フランスとの清仏戦争がなおも続いていたことや、交渉が長引くことによって日本がフランスに接近することを防ぎたいイギリス側からの働きかけがあったといわれています。
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またまた長くなってしまいました。
まとめますと、1882年の土星海王星コンジャンクションでは、フランスとイギリスの干渉を受けたエジプトが占領され、朝鮮ではコメ不足で兵士の反乱が起き、それによって日本が軍需拡大していくということが起きました。
エジプトと朝鮮に共通するのは「外国資本に搾取された」ということですが、2025年の土星海王星コンジャンクションで再び「コメ不足」が出て来るとは(苦笑)
そして、もっと巧妙に手を変え品を変え、SNSを駆使してナショナリズムを刺激し分断を煽る事柄が同時多発的にいろいろ起きているようです。
お隣の国が領空海侵犯してくるのも、日本が軍拡する口実になりますね。
(頼まれてやっていたりしてね)
【判明】中国政府、日本大使館幹部を呼び出し抗議「日本側が先に中国の領空に侵入した」https://t.co/MV1etw3PNs
— ライブドアニュース (@livedoornews) May 4, 2025
これに対して、在中国日本大使館の次席は「中国側に領空侵犯があった」と反論し、再発防止を求めた。日本政府関係者は「今後の日中関係に深刻な影響を与えかねない」と指摘している。 pic.twitter.com/NmOZqACyC5
最後までお読みくださりありがとうございました。
次回は1953年のコンジャンクションで起きたことをUPする予定です。
ではまた近いうちに。
