世界史名将ランキング100 5〜1位
前回はこちらから。
みなさま、ごきげんよう。
いよいよ、本ランキングも最終回となる。感無量だ。ぜひ見届けていっていただきたい。では本編へ。
5位 ハーリド・イブン・アル=ワリード(AD592〜642)

【戦略】SS【戦術】SSS【政治】B【天運】SS
【魅力】S⁺【成長】S【影響力】SS⁺【総合】SS⁺
初期イスラーム最強の名将。「神の剣」の異名を取り、困難な戦の全てにおいて勝利した怪物。
恐らく戦術レベルならtop3に勝るとも劣らない。日本において、彼の英名は知られていないが、恐らく単純な戦術指揮官としてなら人類史上最強とまで言って良いだろう。それほどまでに、彼は強い。
彼は、多くの強敵、難敵を打ち破っているし生涯不敗である。特にあのムハンマドに生涯唯一の黒星を与えているのは特筆できる。
彼の戦術能力を逐一上げていくとキリがないが、いくつか特筆している事例を上げると、ワラジャの戦いにおける芸術的な包囲殲滅戦術やウライスの戦いでの伝説的逆転劇、なによりヤルムークでの活躍は人類の歴史に多大な影響を与えたと言って良いだろう。また、総指揮官としてのデビュー戦たるムウタでの危機における機転は、まさしく戦争芸術の寵児といえる。
また、大戦略の策定に関わりはしないが、彼は常に遠征先で極めて大きく作戦行動を企画しているように見える。例えば、ヤルムークの決戦前のダマスカス放棄の決断は、彼の卓越した戦略能力の証左である。また、危険を顧みない戦略行軍も彼の特徴の一つだ。シリア砂漠横断作戦などはまさにその一例で、ハンニバルのアルプス越えに匹敵する軍事的偉業と言えるだろう。
彼は生涯で、常に大軍で攻撃してくるサーサーン朝ペルシア帝国、東ローマ帝国(+ガッサーン朝)を相手取り、歴史的大勝を繰り返した。
常に争いを繰り返す二大国は言うまでもなく精鋭を山盛り揃えた軍事大国であり、先進国家であったはずだ。初期イスラームは、彼らの飽くなき帝国主義的戦争状態への反動という面も指摘できると思うが、その成功には間違いなくこの男の活躍があった。
メソポタミア征服も、シリア征服も、彼の功績が極めて多大である。特にメソポタミア方面のサーサーン朝は、まさか毎度2〜3倍の兵を揃えながら、初期の戦闘で10万近い将兵がそっくりそのまま冥府へ送られるとは想像だにしていなかっただろう。もちろん、これは東ローマにも言える。賢帝ヘラクレイオスといえども、この男の将才のみは予測できなかった。
4位 ナポレオン(AD1769~1821)

【戦略】SS【戦術】SS【政治】S⁺【天運】S
【魅力】SS⁺【成長】S【影響力】SSS【総合】SS⁺
言わずと知れた近代ヨーロッパ最大の英雄。物質主義の近代にありながら伝説的活躍を繰り返し、その生涯を神話の域にまで到達させた。
ナポレオンという男の魅力を余さず伝えられるほど、人類の言葉というものは習熟していない。たった200年前に生きたナポレオンは、古代の英雄に憧れる片田舎の一青年から、ヨーロッパの覇者として君臨したのである。これが、古代であっても偉業であるのに、彼はこれを近代に至って成し遂げた。
彼の非凡さはもはや説明するまでもないだろうが、一応、私なりの解釈と共に述べておきたい。若き日のナポレオンは、野心にあふれ、少年のような心を持つ軍人であった。それも指揮に現れてきている。そして、歳を重ねるにつれ段々と、精錬された芸術家のような雰囲気を纏って行ったように見える。
第一次イタリア遠征〜エジプト遠征の彼は、まさしく餓狼だ。絶え間なく進軍と攻撃を繰り返し、オーストリア軍をたちまち窮地に追い込んでいる。また、彼お得意の内戦作戦もデゴやリヴォリ等で見られ、もうこの時点で老将のごとき胆力を見せつけている。エジプトでの諸戦役も、その苛烈さが見て取れる。並の人間は、ナイルの彼方まで追撃を繰り返しも、その後にシリアに転進もできない。そもそもエジプトに乗り込みはしないだろうが。
しかし、第二次イタリア戦役以降の彼は、苛烈さはなりを潜めだし、恐るべき大戦略を繰り出す国家元首となった。そんな彼の伝説が、まさにアウステルリッツの戦いなのだ。クラウゼヴィッツの「戦争芸術の域」という言葉は言い得て妙で、この戦いにて、ナポレオンは永久不滅の軍事的栄光を得た。
彼について述べるなら、その栄華の終わりにも目を向けなければならない。ロシア遠征以降のナポレオンは能力に翳りが出たと表現されることも多い。しかし、私はこれに大いなる疑問を呈する。確かに、ロシアにおいてのナポレオンは致命的ミスも見られる。しかし、危機が迫ったライプツィヒ以降の六日間戦役等々では、彼は若き日の苛烈さと皇帝としての緻密さを合わせたような極めて優れた機動戦を展開している。
ただ、戦術能力に関しては、生涯にわたる成長が見えても、戦略、政治能力は確かに衰えていたろう、と思う。人は守るべきものができたときに、逃げることが容易でなくなる。王として、皇帝として、歴史上多くの者が苦しんだように、彼には少し抱えるべきものが増えすぎていた。結果的に、それが彼の破滅の第一要因なのだと思う。だが、ともかくとして、彼は伝説になることはできた。近代に生まれながら、はるか神話の英雄たちと肩を並べるに至った彼の生涯には万雷の拍手を送るべきだ。

小括とお断り
4,5位の二人はそれぞれ欠点を持ちつつ、卓越していた。ただ、6位以下とは一線を画すと言えるだろうからこの順位にしてある。そして、栄えあるtop3だが、一応お断りをしておく。便宜上、これから紹介する三人には順位をつけてはいるが、ほとんど差はないものと考えている。ここまでのランキングは明確に数字の差が実力の差を表していたが、ここからはそうではないということだけ、ご理解いただきたい。では、あらためてどうぞ!
3位 チンギス・ハン(AD1162~1227)

【戦略】SS⁺【戦術】SS⁺【政治】SS【天運】SS
【魅力】SSS【成長】SSS【影響力】SSS【総合】SSS
世界最大となる遊牧帝国を成立させた伝説的帝王。ユーラシア各地に兵を出し、その名を災厄のごとく広め、たいそう畏怖された。
彼の名を知らぬ者は日本はもちろんのこと、世界でも少ないだろう。テムジンとしてモンゴル族に生まれた彼は、苦労を重ねて頭角を表し、草原の遊牧民たちを糾合していくことになる。彼の強さは、基本に忠実であることである。兵の連携を強め、指揮権を統一し、画一的な軍団を安定して運営した。しかし、これをできた者などほとんどいない。なぜなら、彼らの母体はあくまでも部族単位の連合で、それも常に同盟と敵対を繰り返してきた歴史があるのだ。そんな中で、チンギスは対立や摩擦をなるべく減らし、信賞必罰を徹底することで、世界を震撼させる>モンゴル軍<を作り上げて行ったのである。
人間的な魅力こそ、彼の強さの本質だ。戦術的な敗北など、彼の軍歴に豊さを与えるのみで、決して恥にはなっていない。十三翼の戦いでの敗北は、まさしく彼の本質そのものだ。真に強い者は危機において輝く。この時のチンギスは負けたにも関わらず、褒賞を皆に配り信義を得たのに対し、敵将ジャムカは残虐な刑罰を捕虜に課し、人心を失っている。
若き日のこの敗北以降、さらに人が彼の元に集まる。以前紹介したスブタイなどが代表例だ。彼は、敗北を経験し更なる勇躍を遂げ、ナイマン部族を滅ぼし、ジャムカの率いるメルキト、ワンハンの率いるケレイトなども次々打ち破り、草原を統一、モンゴル帝国を打ち立てることになる。
モンゴルの恐るべき強さの根幹をなすチンギスの将才は、その征服活動にて完全証明されることになる。金帝国を打ちのめし、カラ・キタイ(西遼)を滅ぼし、ホラズム・シャー朝を崩壊させた。そして、彼の生涯で最も素晴らしい戦いもこの時期に起こる。
ホラズムの王子ジャラールッディーンは、早期に崩壊した帝国の中にあって、実に巧みに抵抗運動を繰り返した。彼への対応は困難を極め、なんと、パルワーンの戦いにおいてはモンゴル軍に勝利を収めるほどであった。このような手強い相手に、チンギスは自ら本隊を従えてジャラールッディーンを追い詰めていく。
この二人が相対した名将同士の決戦とも言えるインダス河畔の戦いは、チンギスは完全勝利を収める。欺瞞作戦と機動戦術を最大限に活かしたモンゴルは、徹底的に敵軍を打ち破り、ジャラールッディーン軍はほぼ消滅した。完璧な両翼包囲を、騎兵の大軍で行ってしまえば、流浪民も抱えて戦う鈍重な歩兵軍などひとたまりもない。ジャラールッディーンは一手たりともチンギスの思惑から出られることなく、這々の体でインダスを渡り逃げ去った。彼ほどの将ですら、チンギスの相手にすらならなかったのである。
この後、拡大した帝国の統治権を検めると、西夏への懲罰遠征を行なったのち、彼は穏やかに生涯を終えることになる。彼は、恐るべき破壊者として語られることが多く、確かにその一面もないではないが、全くそれは本質ではない。彼は統治者としてはtop3の中で最高だろう。
『集史』には、ジュチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイの四王子を集めて、誰を後継者とするかチンギスが決めようとした逸話が残る。
チンギスが問うて曰く「最も男として満たされる時はいつか」と。
ジュチ答えて曰く「狩の時だ。獲物へ弓を引き絞るときにそれを思う。」
チャガタイ答えて曰く「法の時だ。法が行き届き厳正な時にそれを思う。」
オゴデイ答えて曰く「和の時だ。放牧が滞りなく、人々が和やかなときにそれを思う。」
トルイ答えて曰く「戦の時だ。剣をとり鬨の声を響かせる時にそれを思う。」
チンギスは性質の違うこれら四王子のそれぞれを褒め、性質に合う王子について行けと部下に諭しながら、人々の幸せを己の栄光として挙げたオゴデイを後継者とすることにした。
ジュチの死期の問題もあり、この逸話自体には疑問もあるが、確かに、しっかりと次世代に己の帝国を継承できたのは、top3では彼が唯一である。
2位 帝王ティムール(AD1336~1405)

【戦略】SSS【戦術】SS⁺【政治】SS【天運】SS
【魅力】SS【成長】SSS【影響力】SS⁺【総合】SSS
チャガタイ・ウルスから名乗りをあげ、中央アジアで覇を唱えた帝王。恐るべき戦略性を持ちつつ、周辺国を蹂躙した。細かいことを言えば、彼は王ではなく、あくまでもアミール(将軍)である。
ティムールの知名度は、残念ながら我が国では高くはない。しかし、これほどまでに完成された戦略家は、前近代においては奇跡のような存在である。テュルク系の没落モンゴル貴族として生まれた彼は、盗賊から身を起こし、大征服者となっていく。
彼は若き頃にかなり危険な目に遭っており、死ぬほど苦労している。彼は指を半数失っているし、膝に矢を受け生涯足が不自由であった。周辺にはトゥグルク・ティムールなどの強敵も蠢いており、敗北も3,4度味わっている。
しかし、彼はそんな地獄を生き抜き、さらにその中で、軍事能力をどんどんと開花させていく。そもそもとして、60名の手勢で1000人の敵の包囲を突破するだけの力量を元から持っていた男である。若き日の屈辱は、彼を地上最強の戦略家へ至らしめた。
彼の恐るべき力量は段々と明らかになっていった。サマルカンドを手に入れた頃には、もはや、彼と並ぶ者は周辺国から消え去っていたのだ。ここからの数十年、彼はサマルカンドを再生させながら幾度となく外征を行い、その全てで勝利する。
結果的に、ペルシア、インド、メソポタミア、シリア、南ロシアという広大な領域全てにおいて勝利し、かつてのモンゴル帝国の西半分をほぼ手中にした。その軍勢の強さはあらゆる状況に対応する手数の多さだ。騎兵は言うに及ばず、濃密な歩兵陣、大火力の火薬兵器や攻城兵器、また砂漠や峻険な山々すら行軍可能にする工兵など、まさに諸兵科連合のお手本の様相である。
そして、その生涯における二人の難敵も紹介しなければいけない。どちらもこのランキングに登場する怪物だ。一人はジュチ・ウルスの俊英トクタミシュ、一人はオスマン帝国の稲妻王バヤズィト1世だ。
南ロシアへの遠征は、懲罰遠征と言える。トクタミシュはティムールの力を借りて王位を奪還したのにも関わらず、彼へ敵対し、遠征の最中にサマルカンド、中央アジアを脅かす動きを見せた。すぐさまティムールはとって返し、テレク河畔にて敵を捕捉するも、川を挟んでの対峙により膠着状態となる。モンゴル騎兵同士の決戦はティムールの見事な欺瞞作戦による渡河の成功から、一気に決着がついた。彼は、ジュチ・ウルスの主要都市をすべて焼き払い、徹底的に破壊した。これにより、この巨大な遊牧帝国は二度と再集結できず、バラバラになることになる。
そして、彼の生涯最後にして最大の軍事功績は小アジア遠征、オスマン帝国のバヤズィトとの戦いである。ペルシア周辺の白羊朝、黒羊朝を巡って対立した二国であったが、ティムールは極めてバヤズィトに敬意を払って接触しようとしたようである。しかし、血気盛んなバヤズィトはそれを無下にし極めて無礼な返事を返したと言われる。結果的に、これが彼の身を破滅へ導いた。
十五万前後とも言われる大軍勢を率いたティムールは、その軍勢に見合わないほど素早く動くかに見えたが、その動きは緩慢だった。オスマン軍はティムール軍の動きを予測しており、アンカラに先回りして布陣しつつも訝しむ。そんな中で、ティムール軍はついに急速に足を早めアンカラ近郊に軍を進め、陣営を築き攻城を始めたのである。別動隊に気を取られたバヤズィトは、自軍の後方に回り込もうとするティムール軍を察知し、急ぎアンカラの救護に向かうことになる。ティムール軍にも誤算はあった。想像以上にオスマン軍の規律は行き届いており、とても追いつけないはずの距離を強行軍にて追い縋ってくるその速さは、予想の外のことであった。バヤズィトの判断は正しく見える。ティムールは数日のうちにアンカラを攻略しなければ、城壁とオスマン野戦軍に挟み撃ちされる羽目になるのだ。そして、通常3日はかかる行程を、オスマン軍は半分程度で駆け抜けてきたのである。これには流石の帝王も驚きを隠せなかった。ティムールは守備隊を殲滅する前に、彼はアンカラの目の前でオスマン軍と戦わざるを得なくなる。
しかし、ティムールはじっくりと着実に勝利をその手に引き寄せる。彼は何故か一部城壁を破壊し、陥落寸前まで持ち込んでいた攻城戦を取りやめアンカラ北方に陣取った。強行軍にて迫ったオスマン軍も即時決戦には踏み切れない。決戦の時は、翌日となることがわかり安堵するのも束の間、オスマン軍には不穏な空気が流れる。アンカラは礫砂漠の都市である。飲み水は死活問題だが、唯一の河川はティムールの手の中にあった。そして、都市や周辺の井戸には用意周到に、ティムール軍工兵によって毒が仕込まれていたのだ。
翌日の決戦は、一進一退の大攻防となる。しかし、ティムールの仕掛けた罠は全て、適切に機能した。戦象の突撃も強烈だったが、オスマン側にとっては味方の大規模離反が致命的だった。かつてオスマン帝国と争っていた小アジアのテュルク系諸侯国の君主を味方に率いれていたティムールが彼らを放つと、オスマンの旧諸侯軍は一斉に寝返り前線は混乱、さらにダメおしに投入されたティムール軍の最精鋭によってオスマン軍は崩壊し始める。
乱戦になり、なお奮戦する親衛隊イェニチェリだったが、ここで水分補給の不足が効いてくる。じわじわと体力を奪われ続ける砂漠の戦いにとって、水分不足は、ましてや服毒状態は致命的であった。最後の近衛兵が倒れると、バヤズィトは逃走を試みたが、二人の王子とともに捕虜となる。ここに、アンカラの戦いにおいてティムールは完全勝利を収めたのである。翌日、アンカラも降伏し、ティムールは数年がかりになってもおかしくない戦役を、敵野戦軍の殲滅と、君主の捕縛という手段によって数ヶ月で片付けた。
このように、恐ろしいほどの用意周到さがティムールの強さである。ただでさえ強いやつが、ありとあらゆる搦め手、謀略を振るい襲いかかってくるのだ。彼は冗談を好まず、また阿諛追従を非常に嫌ったという。冷酷な君主である彼だが、しかし、彼は兵への配慮を絶対に欠かさなかったという。
ティムール軍はサマルカンド等の都市から出陣する際、一人一個の石を城門の脇に積み、帰ってきたらそれを同じように一人一個ずつ拾うという習慣があった。すなわち、遠征が終わっても、城門の脇に残る石の山が生きて帰れなかった兵の数というわけだ。ティムールは遠征から帰還するたび、その無念さを漂わせる石積みの前で涙を流したと言われる。元が盗賊の頭領から成り上がり、指も落とすほど最前線で戦う親分肌の男である。統治者としての彼は、あくまでも一側面に過ぎない。兵は己のために身を捨てられる指揮官にこそ、命をかけて仕えるのだ。
1位 アレクサンドロス大王(BC356~323)

【戦略】SS⁺【戦術】SSS【政治】S⁺【天運】SS
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マケドニア王国を引き継ぎ、ギリシアを再征服、さらにペルシアを平らげインドにまで出兵した古代地中海世界最大の英雄。
アレキサンダー大王の名前を聞いたことがない人間は世界でも希少だろう。凄まじい数の戦いを、世界各地で行いながら常勝無敗。もちろん、野戦でも圧倒的な戦術能力を発揮するが、ティルス攻略やペルシス攻略など、じっくりと腰を据えた包囲戦も見事にやってのける。また、近年では、かつて疑問を呈されていた政治能力についても高く評価する機運が高まっている。
彼のキャリアは、若き日から輝き過ぎている。初陣では見事に反乱を鎮圧し、カイロネイアでは勝利のきっかけとなる騎兵突撃を見事に敢行している。弱冠にて王位を継いだのちもドナウ川方面にて見事にトラキア人を撃破、また反乱を起こしたテーバイを灰燼に帰している。
だが、やはり彼といえば東方遠征での伝説的活躍だ。グラニコス、イッソス、ガウガメラ…これらの戦いは常に数倍の敵と戦いながらも、毎度ものの見事な勝利を遂げている。特にイッソスでは敵に後ろを突かれるという戦略的不利を、空恐ろしい戦術的機転で跳ね除けたという戦史上でも稀有な戦いである。だが、イッソス、ガウガメラの素晴らしい勝利はもはや多くを語るまでもなく周知の事実だろうから、この辺で説明を省く。
その戦略性が光るのは、イッソスの後に、シリア、エジプトを確保してからメソポタミアへ向かったことだろう。この豊かな土地の確保により、補給の不安を抱える遠征はかなり楽なものになる。
アケメネス朝がダレイオスの死により消滅すると、その王位を継承し、さらに中央アジアへ兵を進める。アフガニスタンや中央アジアは、その気候の激しさや地理的条件の厳しさから多くの軍隊が地獄を見る土地である。しかし、アレクサンドロスはヒンドゥークシュ山脈(ちなみに平均標高で見るとアルプスの約4~5倍である)を軍隊とともに越えるという偉業を果たしつつも、見事に占領統治を施した。
彼の凄まじいキャリアの中でもさらに特筆すべき戦いが、この中央アジアで起きている。彼は、マラカンダ(サマルカンド)に到着し、シル川近辺に住むスキタイを統制しようとしたが、彼らはアレクサンドロスを挑発、ここにヤクサルテス川の戦いが起きる。二倍以上のスキタイ騎兵は川の向こうで渡河を誘い込むために、アレクサンドロスを侮辱する。怒ったアレクサンドロスは、なんと攻城兵器を野戦に持ち出し、川向こうを攻撃した。
驚いたスキタイは、少し川から離れるとアレクサンドロスはすぐさま工兵と重装歩兵を繰り出し、橋頭堡を確保してから渡河、そのまま重装歩兵に陣を敷かせると、軽装騎兵とともにスキタイに突撃する。これを待ってましたとばかりにスキタイは縦列を切り裂き円状にアレクサンドロスの騎兵隊を取り囲み、次々とアウトレンジで騎乗射撃を浴びせかけた。
しかし、これはアレクサンドロスの罠であった。円状包囲のなかのアレクサンドロスは突破を図るふりをしつつ巧みに部隊を拡散、そして折りを見て合図をすると、スキタイの包囲の外からマケドニアの重装騎兵が軽装歩兵と連携しながら突撃する。すでに包囲内で分散していたアレクサンドロスの騎兵隊は一気に混乱する敵に突撃し、包囲環を崩壊させ、スキタイ軍は指揮官を討ち取られた。これ以後、スキタイはアレクサンドロスに平伏し、望むもの全てを捧げると誓いを立て、これに満足したアレクサンドロスはスキタイを寛大に許した。
この戦いは、全く未知の土地かつ、敵のホームグラウンドで、しかも農耕民の渡来軍が遊牧民の軍勢を完璧に打ち破ったという点で、極めて稀有な事例である。また、渡河に際しての攻城兵器の利用は、史上初の上陸支援攻撃とされている。
しかし、その後の中央アジアは混乱を極めた。ソグド人やそれに連合する遊牧民勢力は、執拗な抵抗を繰り返し、結局この土地の平定にアレクサンドロスは数年を費やすことになる。だが、結局スキタイの協力や地元勢力の懐柔、徹底した反乱鎮圧の苛烈さも相まって反乱の盟主スピタメネスは打ち取られることになる。
中央アジアを制圧したアレクサンドロスはなおも遠征を続ける。次なる目標は、ペルシアの東方辺境、インドの地であった。再びヒンドゥークシュを越えインダス川流域に到達、地域勢力を吸収あるいは殲滅し、南部方面に進軍した。
そのころのパンジャーブ地方で有力であったのはタクシレース、アビサレース、そしてポロスという三人の王であった。最も北部のタキシラ王タクシレースは真っ先にアレクサンドロスと結んだために、常に争い合っていたほかの2王は同盟し、アレクサンドロスとの決戦を望む。ここに、アレクサンドロス生涯最後の会戦にして、最も芸術的なヒュダスペス河畔の戦いが始まる。
ヒュダスペス川(インダスの支流)にて相対した両者はお決まり通り川を挟んで膠着した。アレクサンドロスは正面からの渡河は危険と判断、毎日演習をあえて敵に見えるように行い油断するのを待った。そして、ある嵐の夜に上流から渡河を行い敵の側面を突くべく陣形を組んで行軍した。
嵐の最中、いつも通り演習を行なっているように見える対岸の様子にポロス王が気づいたのはさすが歴戦の指揮官と言わざるを得ない。代理指揮官に率いさせた軍はほんの僅かだが、アレクサンドロス本人とは違う雰囲気を持っていたのだろう。ポロスは渡河を図ったと思われる上流部に用心のため息子を派遣した。
決断したアレクサンドロスは速かった。ポロスの息子は次々と上陸するマケドニア軍に挑みかかったが敗死した。しかし、敗走兵がポロス王に情報を伝えると、ポロスは対岸の兵への備えとして僅かに陣営に残し、残りの全軍を率いて迎撃に向かった。当初の予定であった側面への奇襲はもはや果たせない。歩兵数で勝り、騎兵の数も多く、また、馬の天敵である多くの戦象を携えて押し寄せるポロス軍に対して、アレクサンドロスは会戦することを余儀なくされた。
ポロス王はこれを絶好の機会と考えたろうが、しかし、それはアレクサンドロスも同じだった。会戦に応じた時点で、アレクサンドロスには勝利のビジョンが見えていたのだ。彼の想定する戦場において最も重要なのは、常に一つの真理である。それ即ち、自らの意図で起こす勢力均衡の崩壊である。それは表面張力で揺らぐ水面に一滴の滴が落とされる如く、僅かな作用によって戦線が崩壊することを意味している。今回の滴をもたらす策は、アレクサンドロス自身の率いる自軍右翼騎兵に対応して敵騎兵の集中が行われたとき、一部の騎兵が反対側に移動して敵騎兵の薄い方面へ迂回し、敵戦列を突破、包囲せよと言うものだった。ただし、さしもの大軍にさすがのアレクサンドロスも余裕綽々とはいかなかったようである。
開戦すると、徹頭徹尾アレクサンドロスの予想通りにことは進んだ。戦象、戦車に関しては軽装歩兵が見事に無力化、敵歩兵戦列はマケドニアのファランクスの圧力に耐えられず、両翼の騎兵の拮抗も、アレクサンドロスの放った「一滴」によってじきに崩壊した。ポロスの軍はその殆どが戦死し、包囲の中で殲滅された。
ポロス王はその巨躯に見合う豪胆さと誇り高さを備えていた。彼は最後まで戦象に跨り戦い続け、ついに力つき捕虜となる。アレクサンドロスは「あなたをどうするのが相応しいか」と問いかけると、ポロスは「ただ王として遇せ」と返答した。この堂々たる態度に王たる者のあるべき姿を見たアレクサンドロスは彼を同盟者とし、友として接するようになった。
アレクサンドロスはさらに軍を東に進めナンダ朝マガダ王国を滅さんと臨んだようであるが、さすがに疲労困憊の兵たちを無視はできなかった。彼はゲドロシア砂漠を横断すると言う無駄な冒険的な試みのもとペルシアからメソポタミアへ帰還し、その長大な帝国をバビロンを中心として統治しようと計画していた最中、原因不明の熱病によって短い生涯を終えることになる。最期の言葉は「最強の者が帝国を継承せよ」であった。
ただ、戦って勝つと言う一点を着目するなら、おそらく彼は人類史最高の指揮官だ。彼は卓越した者である。たった12年の統治期間の中で、彼は西はイリュリアから東はインドまで広がる大帝国を打ち立てたばかりか、その覇業の全てにおいて勝利したのである。軍事的功績で言えば破格のものだ。チンギスもティムールも、その統治期間は数十年に及んでの偉業であり、そう考えるとアレクサンドロスのスピードは信じがたい。
だからこそ、彼には最期まで若さを感じる。生き急いでいると言っても良いかもしれない。彼は多くの誤解を受けて、今の時代に語られてある。彼はあくまでも、父にコンプレックスを抱き、母を恐れ、友を愛し、人に慕われようと願う、等身大の青年王であった。悲しいのは、彼の優秀さが、そのような純粋さを覆い隠してしまったことにある。チンギスやティムールのような泰然とした軍事行動を身につけるには、あと10年ほどの年月が必要だったろう。だが、そんな若さが、彼の少年のような心持ちが、兵たちから深く愛されていたのは間違いない。
まとめ
最後まで到達することができて大変嬉しい。諸々の感想や、top3が凄いと言う話は、また次回の参考資料回ででもまとめたいと思う。一応、少し述べておくと、top3はどれも、最後の会戦が極めて集大成的な、芸術性すらうかがわせる。ヒュダスペス、アンカラ、インダスは本当に素晴らしい戦いだ。つまり、彼らは天性の才を備えながら、生涯にわたり成長していたと言うことである。学べる者は尚のこと良し、羨ましい限りだ。
ともかく終わってよかった。諸々の反応もいただけて恐縮の限りである。まだまだ、色んな投稿をするのでよろしく。
では、ごきげんよう。
