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「明治謹製」大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性(11-2)

【冒頭断わり】 「本稿(11-2)」は以下の(11-1)承前である。


 1 短歌(和歌)と天皇制問題


 1) 
明治期皇室事情

 a) ドナルド・キーン,角地幸男訳『明治天皇 上・下巻』新潮社,2001年(文庫版もあり)は,明治天皇が詠んだ短歌(和歌)を多数引照しながらも,「明治天皇」論を考究していた。

 キーンはもともと,日本文学・文学史の研究者である関係もあって,まず最初に『明治天皇紀』をひもといて,これを基本素材に使い「明治天皇の伝記」を執筆していた。

 註記)ドナルド・キーン,角地幸男訳『明治天皇 下巻』新潮社,2001年,〔あとがき〕541-542頁参照。

 というのも,「明治天皇は,間近に迫ろうとする伝記作者の試みを,ほとんど撥ねつけているかのようである。もし明治天皇のことを最も知る人々がその回想を書き留めるにあたって出し惜しみをしないでいてくれたなら,恐らく我々は天皇についてもっと違った印象を持つことになったのではないだろうか」註記)という疑問を抱いたキーンは,そのような明治天皇研究の接近方法を採るほかなかったのである。

 註記)同書,下巻,532頁。

 キーンはもっとも,正統派の明治天皇研究者に驥尾に付して,こう断わっている。

 明治天皇に関して語られてきた話は「他の無数の日本人と同じく天皇は酒を飲むのが好きだったという退屈な事実を提供するに止まる」し,「この種の逸話は,我々をそれ以上天皇に近づけることがない。女性関係についての噂話もまた同様に,天皇について何も教えてくれるものがない」註記)といって,キーンは「この種の話題」を,いとも簡単に片づけている(#)。

 註記)同書,下巻,532頁。

 しかし,明治天皇の問題に対してキーンがさきに,精神分析学的な考察をくわえたり,さらには,構造心理学・知覚心理学・社会心理学・認知心理学などの見地を照射させて,明治天皇の人格形成過程や日常生活の態様を抽出する学問作業をおこなったうえで,そのように判断したのではない。

 ともかく,「明治天皇の過飲」「女性関係」の話題を「退屈な事実」「逸話」「噂話」として単に片づけただけであるから,「社会科学としての明治政治史」研究の一環を形成する「明治天皇史の解明」が,まっとうに実行できたかについては, “それなりに” 重大な疑問が生じており残されていた,と受けとめてなにも不思議はない。

 b) その経緯でいえばキーンは,日本文学史研究者としての特定の失策を犯している。もっとも,文学史研究において考えてみればよく判るように,作者・作家の私的次元の各種話題〔大酒飲みだとか女好きだとかいうそれ〕が無関係どころか,非常に深い関係を有することは,贅言を要しない基本要件である。

 この,いわば画竜点睛の関心事に相当するはずだと推知してもよい文学史そのものではない,明治天皇史にまつわって,いわば「避けて通れない」はずの検討すべき課題を,それほど重要視することもなく放置も同然のあつかいにしたとなれば,これはいささかならず「非文学史」的な問題意識のもち方だったといわざるをえない。

 文学史=政治史でない点は申すまでもない理解となりうるが,前段の記述において文末に(#)を付した段落で指摘したように,酒好き(大酒飲み)で側室が5人いた事実は,「明治以来の皇室観念」であった「万世一系の血統観」が,いかにこころもとない実体であったかを教える。

 酒の話から女の話に移ろう。

         ◆ 明治天皇睦仁の子作り成果 ◆
 
睦仁の側室(妾)であった女性たちが生産した子どもたちを一覧しておく。

  葉室光子は1人。第一皇子・照彦尊を死産。

  橋本夏子は1人。第一皇女・依姫尊を産んだ。

  柳原愛子は3人。生後1年前後で早世した薫子・敬仁のほか,1879年に嘉仁親王(のちの大正天皇)を産んだ。

  千種住子は2人。いずれも女児。

  園 祥子は8人。男2人と女6人を産んだ。

 以上をまとめると,明治天皇睦仁は「正室(皇后)」の 昭憲皇太后(子どもはなし)と「側室5人」をもち,これら女性たちとのあいだで生産した
「子どもの人数」は 15人(男子5人,女子10人)であった。ただし,無事成人した子どもたちは少なく,とくに男子は嘉仁(大正天皇になる)だけであった。

女性の市民権などなかった時代における出来事のひとつ

 以上の具体的な情報についてはさらに,以下のリンク先住所を参照してほしいが,睦仁はなぜ,本妻〔正室〕一条美子(いちじょう・はるこ)との間には子どもを儲けず,これら5人の側室とのあいだにしか子どもがいなかったという事実(しかも圧倒的に女子が多かった)は,一条美子の側になんらか不妊の原因があったかどうかについて詮索したいと思っても,医学関連の情報がもともとなかった時代事情となるゆえ,その原因については,いまさらなんとも説明できない。

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 c) 明治天皇「一家」をめぐる,そうした家庭内事情「妻が6人いた事実」に関しては,なんとも名状しがたい「現実の様相であった」と観るほかない。けれども,一条美子については明治神宮側が堂々と「実はこの美子は睦仁の母だ」と,その血縁を説明していたのだから,話の筋は尋常ではない窪地に嵌まりこむことになっていた。

 この種の特別な家庭内部事情をめぐっては,まともな観察力・判断力がある人たちであれば即座に,判断に苦しむほかない《なにか》が介在していると勘ぐられて当然である。

「明治天皇の・・・,昭憲皇太后には・・・」
という案内文がこのように当然・平然に記されている

ふつうはこのまま読み過ごしそうな文面であるがよく考えてみれば
ナゾナゾを投じていたごとき文言になっていると解釈するのもよい

 政治学史の研究対象である明治天皇史にあっても,「《睦仁》という人間としての天皇」を,人物論としてもあつかう必要があって当然であり,かつまた自然のなりゆきである。そうした前提条件がそもそも,しかと認知されてしかるべきであった。

 なぜ,明治天皇は生涯,「自信の伝記」を制作・記録させないような態度を採っていたのか。この点じたいについても,なんらかの問題意識を抱いていて,まずいことはない。

 明治天皇の女性関係は,正妻(昭憲皇太后)以外の女性を何人も正々堂々と側室に置いていた。この事実をとるに足らない話題=論点であるかのように切って捨てられる姿勢は,たいへん不適切であるだけでなく,当該の問題をめぐって現実に有機的に構成する一部分を,故意に断ち切る予断である。これは学問研究の立場にとっては非常に好ましくないやりかたであるどころか,採ってはいけない方法であった。

 前段の画像資料には,明治天皇夫婦は明治神宮の祭神として祀られているが,この夫婦の名がそのように表記されている点,すなわち,正式に認定されている事実は,実に奇妙で不可解である。

 d)「明治天皇の妻」が「昭憲皇太后」だと表記されている。要は,奇怪なのであるなどという以前に,不可解であるどころか,これは戦前風にいえば,「帝国臣民に向けてわざわざ謎かけ」を投じている説明であるとしか解釈のしようがない。

 夫の妻は「実は妻の(その前代の)母だ?」みたいにこの案内板に書かれているのだから,これを読み不思議に思わない「明治神宮への訪問者」はむろんのこと,明治神宮の宮司自身がもしかしたら「なんらの理解ではないどころか,一定・特定の諒解事項」を,もとより踏まえているとしたら,これほど理解に苦しむ案内の内容はない。

 キーンは,明治天皇が側室に産ませた子どもの「大正天皇が父天皇とのぎくしゃくした親子関係の原因を……」などと論じていた。

 そういったのであれば,これに関連してくるほかない話題=「明治天皇の女性関係」に関する「噂話」のたぐいではあっても,これを,けっして放置しておくわけにいかなかったはずである。明治天皇史の総合的な解明を意図したであれば,その種のゴシップ的な話であっても,極力とり入れ,検討の題材にしておくことは,あえて指摘するまでもなく,当然の配慮である。

 人物譚になるはずの議論ゆえ,そうした視点・立場がハナから否定されるべき理由は,なにもない。こちらからの研究こそがむしろ併せて実施されてこそ,「噂話」などの性格に近い素材(話題・史料)のなかからでも,なにかをより適切・的確に取捨選択するための判別力も付くのではないか。

 それでも,筆者が以上に説明したこの種になる研究姿勢の示唆じたいがまずいとする考えかたにこだわりたいのであれば,そのところは逆にしかるべき理由を明示しておく余地がある。

 e) キーン『明治天皇』はさらに,こういうふうにも記述していた。すなわち,同書の他所においてならば,「明治天皇との同時代的な対応関係」を保持する形でもって,キーンが適切に呼称していた「明治天皇の妻」すなわち「皇后:一条美子」のことを,なぜなのか「昭憲皇太后」と表現していた点は不自然であった。どう観ても,キーンの学問の世界のなかだけでも,話のつじつまがあわない〈すきま〉が生じていた。

 キーンが「天皇の寝室で自分(一条美子)の代わりを務めた権典侍たちのことをどう思っていたか」などと言及するのであれば,またそのさい「噂話」の次元でしか明治天皇夫婦の「性生活」に関する史料・資料が与えられていなかった条件のもとでの言及だったのであれば,

 正史的にはまともに与えられるはずもない「世継ぎ作りの作法や閨房環境の問題」に関する話題であったとはいえ,それでも,明治天皇史に無縁な論点として放逐しておくことができない,大事な要点になりえたはずである。

 大正天皇(1879~1926年)は,明治天皇と〈権典侍:柳原愛子〉とのあいだに第3子親王〔男子,明宮嘉仁〕と生まれ,第123代天皇となった。庶民の口さがない表現を借りれば,いわば「側室(おめかけさん)の親王(おとしだね)」であった。

 いずれにせよ,嘉仁は明治以来の「万世一系」を継承するだいじな一粒種であった。ところで前述において,大正天皇は父明治天皇との親子関係に関して摩擦があった,ぎくしやくしていたと指摘されていた。

 明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王として誕生した大正天皇が,自身の出生事情をしらないわけはない。単なる推測話ではなくもしかすると,そうした「父-子」関係のなかに「47歳で死去した大正天皇が壮年期」において来した,体調不良の遠因が潜んでいたと推察できなくはない。

 f) もっとも大正天皇自身は「睦仁と一条美子の関係」は「天皇と皇太后」のままでよろしいと,生前「決めていた(語っていた)」というから,話は尋常ならざる性格を帯びていたことにもなる。

 戦前体制における旧民法の規定は,一般臣民の世界にあっては,嫡子と庶子のあいだに法律上画然とした差別を設けていた。ところが,皇統の連綿性を絶対要請として護らねばならなかった皇室一家にあっては,徳川時代とほとんど同じぐあいに,皇后〔正妻・本妻〕以外にも権典侍・権典などの名称を付した側室〔妾・第何夫人〕を,正々堂々置いていた。

 それでなんら憚ることも恥じることもなかったし,ましてや必要悪と感じることさえなかった。というよりは,「世継ぎ:皇統」を確保するためには必要不可欠の「皇族〔家族〕のための必要な正式な制度」とされていた。そういったしだいにあいなっていたからには,上様が上様ならば,下々に対しても同じような態度が垂範されたことになると解釈して,なんら不都合や無理は生じない。

 明治天皇と皇后は,伊藤〔博文〕の生前の勲功を深くほめ,嗣子博邦に公爵を受け継がせるのに先立って,〔行儀見習いとして預かった娘に伊藤が産ませた男子の〕文吉に男爵を授けた。

 註記)伊藤之雄『伊藤博文-近代日本を創った男-』講談社,2009年,574頁。〔 〕内補足は筆者。

 ということであれば,徳川時代の大奥ほどに陰湿・壮絶ではないにしても,これとほぼ同様に,皇后や権典侍・権典などとのあいだで「世継ぎ・次代天皇」の製作作業をめぐっては,実にあれこれ,それも陰に陽にでの画策や確執が発生していても当然であった。

 g) 実際,明治天皇のばあい,正妻である皇后の一条美子とは性生活がなかったと推察されて,なにもおかしい点はない。なぜ,そういう夫婦関係不在になっていたかは,明治天皇「研究」の題材として忌避できない。というよりも,むしろ格好の研究対象がそこに実在したはずである。この関心事については当然,昭憲皇太后という「妻の呼称」が核心の話題になる。

 なにせ,「皇統の連綿性」を維持するためにこそ,いいかえれば,天皇と彼をかこむ女性たちの〈男女間の営み〉があってこそ「お世継ぎ」の再生産も可能となる。この問題はとくに,戦前体制における皇室=天皇制問題の研究にさいしては,軽々にあつかいえない論点どころか,もっとも重大な関心を向けられるべきそれである。

 この話は軽々に茶化した論説などではけっしてない。また,生物学的な〈性〉の要素そのものが実質にからむ話題だからといって,学問研究の立場から回避する必要もない。

 おおよそ学問の対象になりえないものは,なにもないのである。平成天皇の世代になっても,その皇太子徳仁が妻:雅子との夫婦生活をとおして男子を授けられない成果=状況もあってか,一時期,時代の天皇に「女帝」を認めるかもしれないような方途で,「皇室典範」改正のための議論がおこなわれたこともあった。

 h) 2005年10月,当時の小泉純一郎政権は皇室典範改正をめざすための「皇位継承安定化のため女性・女系天皇を容認する有識者会議の報告書」をまとめていた。これにしたがい,翌年の通常国会で議論を開始する意向であった。だが,2006年9月6日,秋篠宮夫婦に男子(悠仁)が誕生したことで,この話題はいったん休止し,ともかく法案提出は見送られた。

 小泉純一郎政権が準備・作成したその報告書は,男女を問わない長子優先の皇位継承や女性皇族の継承資格拡大を提唱していた。ところが,2026年7月段階で日本初の女性首相高市早苗政権のもとで強行された「皇室典範改正(改悪)案」は,このオンナであるサナエが女性・女系天皇の可能性をみずから閉ざすいう,21世紀のいまどきにしては恐ろしく時代錯誤のその案を国会で成立させたのだから,これはお話しにならないほど愚劣な采配をおこなった。

 現代の「民主主義と平和」の時代にそぐわしくない話題が,皇室典範「改正」必要をめぐる議論のかたちを採り,皇室における男女差別の典型例となって世の中に露出された。20世紀末葉から21世紀初頭にもなって突出した皇族一族に固有の中世的な(?)問題状況は,この国における民主主義の発達度合を再認識するうえで注目すべき現象を,あらためてさらけ出した。

 平成天皇や令和天皇の世代になってもなお,「お世継ぎの問題」が世間の耳目をそばだたせていたという状況は,現代のなかに「中世と近世が渾然一体」としてまぎれこんだ〈日本の皇室世相〉を,正直に体現させている。

 要は,天皇・天皇制問題にかかわるあらゆる論点を広いあげ,これを究明すべき視点や立場を採るのであれば,「皇室内における性と生命の再生産事業」のことを下世話な「噂話」だとか決めつけ排除したり,どこにでもある「退屈な事実」だとしてまじめに耳を貸さなかったり,単なる「あの夫婦間の話題」だから無視しておけばいい,などという具合に済ましておけるそれではない。「真理は細部に宿る」ともいうではないか。

 皇室一家やこれをかこむ関係者たちの「正式・公式の,表側だけの行動やしぐさ」を観察しただけでは,彼らの人間1人・ひとりとしての,さらにはまとまって家族集団をも形成する彼らの,皇族としての生活模様が総合的に把握・認識できるとは思えない。

 公私をとわず彼らの生活の微細にまで立ち入った解明がなされて当然であり,そうしなければ,皇族集団のまともな学術的研究はおぼつかないはずである。

 i) というような議論を,ここまでしてきたところで,話をドナルド・キーンの存在に戻そう。

 キーンは「我々は明治天皇を遥に身近な存在として知ることが出来たのではないか」といえるためには,本当に「公に認める側面以外に明治天皇の側面というものはなかったのかもしれない」註記)という推理を披露していたけれども,この理解はあらためて全面的に疑ってみる余地があった。

 註記)キーン『明治天皇』下巻,532頁。

 筆者が抱ける問題意識に即していうと,ここではキーンの表現を借りていえば,以下のような諸疑問が噴出してこざるをえない。

 なぜ,「明治天皇は怒りに身をまかせることがめったになかったし,勝手気儘や無責任と思われる振舞いに及んだこともなかった」のか。

 なぜ,「明治天皇は何か内なる精神力といったものが備わっていたようで,そのために自らが作りだした行動の規範にあまり逸脱することなく従うことが出来た」のか。

 なぜ,明治「天皇は,最後の最後までこの規範に従った」のか。

 なぜ,「天皇は伊藤〔博文〕たちを,その出自の低さゆえに見下すようなことはしなかった。伊藤の例が証明しているように,有能な人間はその出自がどうあれ新しい華族階級の中で立身出世することが出来た」というキーンの主張は,はたしてこれら文面どおりに受けとめてよいのか。

 註記)同書,下巻,533頁,534頁。

 キーンなどのひとまず正統派による明治政治史研究者たちが,けっして容認しようとしない,明治天皇に関する外史・野史・碑史的・裏史的な「研究成果」がある。それは,明治天皇の父である孝明天皇が「暗殺された」〔慶応2:1867年1月)のち,まもなくつづいて抹殺されていたのが,その子の「睦仁」〔もとの別の明治天皇〕であったという歴史認識である。

 j) 明治発足にともなって創設された「日本の貴族階級」=旧「華族制度」は,1869〔明治2〕年から1947〔昭和22〕年まで存在した。これは「公家華族・大名華族・新華族(勲功華族)・皇親華族(臣籍降下した元皇族)」などの諸集団で構成される階級であった。

 この家族制度そもそもの由来は,明治維新体制を出立させるに当たり,天皇・天皇制の周辺に巻きおこっていた激変現象を沈静・収拾させるためにこそ,そうした華族制度が創設されたところにあった。

 明治天皇の妻〔正妻:一条美子〕は前述のように,「孝明天皇の息子」と結婚した女性であったけれども,明治天皇となった〈その睦仁がのちには別人〉であった事実を承知のうえで,その皇后役を演じていたと説明されてもいる。そのためか,2人のあいだには子どもが出来たことがなく,さらにいえば,もとから夫婦の性的関係がなかったと推察されうる。

 明治天皇〔もとの孝明天皇の実子〕の生母である中山慶子は,その孝明天皇の側室であった。この中山家も,孝明天皇の子どもである睦仁を殺されており,これが別人にすり替えられていたとしても,この事実を,明治期日本社会の最上層部においては〈共通の秘密〉としておくことが,明治の国家体制の〈出発進行〉にとっては無難な措置でありえたから,中山家も自家のよりよき生存のためであれば,否応なしに協力していったと目される。

 それでこそ,明治維新の国家体制全体も無事に船出を済ませることができたのである。体制全体が大約,丸く治まればそれでよかったのであり,この円内に小さな棘のたくさん付いた破片・断片などが多く含まれていようとも,これらがその大円のなかに包容されているかぎり,なんら支障を発生させることにはならなかった。そうやって,利害状況の複雑に入りくんだ明治期貴族社会が,小異を捨てて大同につく一致団結の時代を創っていき,1945年「敗戦の時期」までつづいてきた。

 2 和歌(短歌)による明治天皇分析の方法


 a) キーン『明治天皇』は,明治天皇自身が詠んだ和歌(短歌)を随所に挿入する形式を整えてながら著述をすすめていた。『明治紀』以外に明治天皇の秘された行跡を析出するためだったのであれば,和歌を積極的に活用する手法が有効とみなしたキーンの研究姿勢は,それ相応に認められてよい。

 しかし,日本文学・文学史の研究者である彼が,明治政治経済史に関する統合的な分析視点が要求される状況のなかでは,その種の文学作品をとりあげた手法に関しては,なお疑問が残らないではない。

 内野光子『現代短歌と天皇制』(風媒社,2001年)は,同『短歌と天皇制』(風媒社,1988年)において,皇室の古式な伝統行事だといわれる歌会始が実は,明治2〔1868〕年に開始された事実を確定したうえで〔この論点は後段で論及する〕,天皇・天皇制研究において和歌を利用する場合の危険性を指摘している。

 内野光子はまずこう断わっていた。

 かつて,昭和天皇は,記者会見において,自身の戦争責任論をかわすのに「そういう言葉のアヤについては,私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので……」と発言したことがある。

 「ことばのアヤ」というすりかえに係わらせていえば,「短歌真情吐露論」を黙過している根源こそが,皇室報道の今日の在りようを規定しているのではないか。皇室報道の見えない部分を見極めながら,みずからのささやかな責任を果たしていきたい。

 註記)内野光子『現代短歌と天皇制』風媒社,2001年,113頁。

 昭和天皇の和歌と同じように,明治天皇の和歌も受けとめておく必要がある。和歌に仮託・代弁させるかたちを借りて,おのれにかかわる出来事を物語らせる手法は,和歌を道具:緩衝材に上手に使っているとみなされる。

 いいかえれば,正面より〈ことば〉を駆使して,自分自身の気持ちを明示的に披瀝するのではなく,その表現の核心をわざと和歌という別譜の「オブラート」に巧みに包みこみ,隠しこんでいる。それも,自分自身の真意や本音をぼかす方向でもって,昭和天皇の場合でいえば,「戦争責任」問題を受け流す意図でその和歌が併用されている。

 b) 内野光子は「和歌と天皇制」の付きあいぶりを,つぎのように批判する。天皇・天皇制に和歌の世界が引きこまれ,歪められ,結局利用されているというのである。

 文芸の一ジャンルである短歌が,その伝統を背景に,皇室との密接なかかわりをもっていること自体,いま否定はできまい。

 歌会始にしても,新年恒例の皇室行事として,天皇家の私的行事として,催されればよいことで,日常的にも続けられている皇室内での月次歌会のようにつつましく,京都冷泉家の歌会始のようにひそやかに開催されるならば,それも可としよう。

 しかし,実際には,選者として,実力ある著名歌人をひきずり込み,全国の多数の短歌愛好者を巻きこむことによって,天皇および天皇制支持層の拡充をはかろうと意図は露骨である。

 同時に文化政策の一環として,たとえば,他の,各県を巡回する国民文化祭の企画は芸術選奨,文化勲章にいたる各種の選考基準の曖昧な褒賞制度をたくみに操作することによって,歌人団体や短歌ジャーナリズム,短歌そのものをも管理しはじめているともいえる。

 一般に短歌にかかわる者が,権力への警戒心が乏しく,権威に脆いのは,太平洋戦争下の歌人の動向を教訓とするまでもなく,現代にあっても,その例をいくつか思い起こすことができよう。

 こうした状況のなかで,私的な要素の強い歌会始に,国民の文化的行事の役割を担わせること自体に矛盾のあることを露呈するにいたったわけである。

 註記)内野『現代短歌と天皇制』174-175頁。

引用は適宜に改行を増やしている


 内野光子は,平成天皇と歌会始の関係について,さらにつぎのように論及している。

 現在の天皇は,象徴天皇制下での皇太子時代が長かったので,その短歌には,新憲法体現の使命感が強く,昭和天皇の負債を清算しようとする,いわば,贖罪の意識を垣間見ることができる。……時代の潮流への目配り,政治の積み残しや切り捨て部分を補完する意図の見えるものが多い。皇室から国民への数少ないメッセージとして,天皇自身はおそらく本気で短歌を大切にし,いまの政治権力は,その政治的機能に着目しているにちがいない。

 家族,戦争,福祉,環境,阪神大震災,ペルー日本大使館人質事件などにかかわる,素朴ではあるが,類型的な感慨を出ない作品である。が,その平和願望や家族観を共有し,障害者や被災者へのまなざしに共感を覚える人々はいる。戦前の教育を受け,天皇の呪縛を解き切れずにいる高齢者は,これら天皇の短歌が,まだ,十分に政治的機能を果たしうる。

 メディア多様化の時代に,新聞を読まない,歌会始をしらない,皇室などには無関心な世代にとってどういう意味をもたせるかは,政治を担う者の悩ましい課題となろう。しかし,文学としての短歌を全うしようとする歌人であれば,皇室や政治権力に無縁であるという矜持こそ,重要ではなかったのか。最近の歌壇をみると選者就任や叙勲を歓迎する傾向が顕著になってきている事実を見のがせない。

 註記)同書,212-213頁。

 c) 内野光子が強調するのは「和歌(短歌)は皇室のものではない」という一点であった。象徴天皇制のもと歌会始があたかも皇室の専有物であるかのように,日本社会に投影されている現状に疑問を投じていた。

 平成天皇が短歌=歌会始という皇室行事を手段に使い,国事行為では表現できない文学界を,特権階級である皇室一族の配下であるかのように対しているといっても,いい過ぎにはならない。

 内野光子の言及する問題領域は,「歌会始」を手がかりに,つぎの全方面にも拡大されている。

 オリンピックのメダリストたちは皇后のお茶会に招かれ,肉声が聞こえない交歓風景の映像が流される。若いアスリートたちは,マイクを向けられると,慣れない敬語を使って,その模様をコメントする。

 「文化勲章」の伝達が天皇から直接手渡される親授式となった。ノーベル賞の後追いではないかといった批判もされるなかで,そもそも文化勲章は,誰が何を基準に,どのように選定するかなどが不透明なまま,受賞者の「名誉」やエピソードなどがメディアを駆け抜ける。

 教育やマス・メディアを通じて,さまざまな場面で刷りこまれてゆく「天皇」とは何なのか。天皇家の人々は,国家的行事や災害に臨んでは短歌を読み,年に1,2度は公表される。大きな皇室イベントには必ず歌人たちがマス・メディアに顔を出す。

 「非常時」ならずとも続く,この短歌と天皇・国家との甘くも危うい関係は,他の文芸にはみられないものであろう。短歌というジャンルに身を置く者の今後の課題といえよう。

 註記)同書,230頁。

内野光子の皇室による日本文化支配・批判

 d) 内野光子が,和歌(短歌)の皇室への「かかわり方を批判した意味」は,天皇および天皇家の戦争責任の追及にもなっている。すなわち,昭和天皇の戦争責任問題の曖昧化と「和歌(短歌)と皇室とのかかわりかた」とには,確実に共通する問題点があった。しかも,短歌のばあいは,その問題をもっと深刻にさせる要因が働いていた。

 天皇とその一族の詠む短歌は,戦争の時代と平和の時代を通貫させられたかたちを採っていた。くわえて敗戦後になってからは,いかにも日本の文学界において不可欠で重要であったかのようにも,彼ら・彼女らの短歌が特別扱いされながら謳いあげられてきた。

 そうして,和歌の世界ではなぜか,皇室:天皇一族が,わがもの顔に屹立している。短歌の世界においては,戦争責任の問題などまったく埒外でありえかのような「彼らの振舞い」がまかり通っている。

 戦争責任をまっこうから問われた経験のなかった「和歌(短歌)をになう文学界」は,この世界の基盤=根底に堆積させてきた「戦争の時代」の沈殿物にまみれている自身の姿を,鏡に映してみたことがない。いまになり「そのように振る舞っていて」も,自分たちの不自然を感じていない振りができた,いわば鈍感の集団であった。

 しかも,その先頭の立って得意気に歌を詠む「天皇とその係累たち」の様子は,この外側に立つ者たちが観るとなれば,自己満足に酔いしれた「異様な文学的な自慰集団」として映るほかない。

 e) 以上の記述は2025年の12月27日の時点になされていたが,来年(いまは今年:2026年)の1月14日にはまた,天皇家主催の「歌会始の儀」が,皇居内の宮殿「松の間」で開催されていた。「お題(兼題)」は「明(あかり)」とかで,天皇・皇后夫婦をはじめ,皇族たちや全国から選ばれた一般入選者10人の歌が披露された。

すべての歌に英訳が準備されていたがこれを歌会などで
和歌(短歌)を詠む人の一般的な正式名称は
歌人(かじん)または歌詠み(うたよみ)という

ところでまさか英語では歌わないと思うが
それでも勝手に想像しながら上に出ている天皇の歌を
英語訳にして詠むとしたらどうなるか?

ともかく日本語流に詠んだとするとつぎのように聞えるか……

 「うぉちんぐーーーーーーーーー ー ー,ざ・もーーー ー ーにんぐーーー ー ー,すたーーー ー ー,しゃいにんぐーーーー ー ー,はいーーー ー ー,いん・ざ・すかいーーー ー ー,あいーーー ー ー」
(以下,略)

こうなるか?


 3 昭和天皇とは大違いの明治天皇


 a) キーン『明治天皇』は「終章」で興味深い記述を与えている。明治天皇は「たまたま奈良にいることを利用して神武天皇陵への参拝を進められ,これを拒否した時」がある。

 明治「天皇は,なにも神武天皇陵に参拝することに異を唱えたわけではなかった。することなすこと他人の指図に従って動くことを,天皇は嫌ったのだ。しかし大体において,天皇は最終には説得に従った。従わなかった時は,後で謝った」という。

 註記)キーン,明治天皇 下巻,538頁。

 住井すゑの話によれば「神武天皇陵」は,もともと被差別部落のあった地域,それも住井の家族などを追い出した場所に建造されていた。明治天皇こと大室寅之祐も(本当は),南朝の血筋を引く人間であって,伊藤博文らにみいだされて「明治天皇」にすり替わる以前は,長州において被差別部落された地域出身の人間の1人であった。

 この説明に及んだところとなれば,「なぜ,明治天皇が神武天皇陵」の参拝を嫌がったかが,無理なく理解できる。神武天皇陵は,奈良県橿原市大久保町71-1に立地しているが,あるホームページは,神武天皇陵を,つぎのように解説している。

 近鉄畝傍御陵前駅から北西へ徒歩5分,橿原神宮の北側にある。大和三山のひとつの北東麓,玉砂利の参道を進み石橋を渡ると素木の大鳥居が立つ御陵に出る。周囲100m,高さ5.5mの八稜円形の御陵。

 古事記には「御陵は畝火山の北の方の白檮の尾の上にあり」とあるが,ここを神武天皇の御陵と定めたのは幕末の文久3年(1863)のこと。付近には綏靖,安寧,懿徳,孝元の各天皇陵が散在する。

 このHPのタイトル「巨大古墳見て歩る記」からすると,このあたりの御陵を取り上げるのは問題。巨大でないのは良いとしても元々古墳ではないから。

 神武天皇陵に比定される前は田んぼのあぜ道に盛り上げられた土饅頭程度だったようだ。それを,幕末から明治の大修築を経て,さらに,大正年間に立派な円墳に造りかえられたという

 註記)http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4760/tennou/01_jinmu/jinmu.html 2009年12月1日検索した結果で表記。現在このホームページは削除され参照不可。

実在しなかった天皇の陵墓を造ったのだからこれは
まさにデッチ上げというか偽造の古墳

 そもそも,明治期に入ってから日本政府は,神武天皇の宮〔畝傍橿原宮〕があったとされる畝傍山の麓に橿原神宮を興し,それまで多武峰で奉祭してきた神武天皇の「御霊」を移したとされる 註記)。それゆえ,前段の引用のように,神武天皇という架空の天皇を新しく建造したのである。

 註記) http://ja.wikipedia.org/wiki/畝傍山 これは現在も検索できる。

 b) 明治天皇が神武天皇陵に参拝にいったとしたら,架空に創られた「本当のニセモノの古墳」に想定(治定)されたその「神武天皇陵」を拝みにいったことになる。「被差別部落民」をその土地から追放して造られたのが,まさかこの「神武天皇陵」であった事実を,明治天皇がしっていたかどうかわからぬが,いずれにせよ奇妙ななりゆき・・・。

 それにしても,彼がこの陵にいかなかったのは正解であった。このように,明治天皇といえども「玉(ギョク)」としての役割を強制的に遂行させられる「玉(タマ)」の立場に置かれたとしても,ときにはそのように嫌がって抵抗する場面もあったという史実をしかと記憶しておきたい。

 他方,昭和天皇は天照大神の存在を自分の祖先と本気で信じ,皇祖皇宗の誇るべき万世一系の連綿たる伝統も揺るぎないものと思いこんでいた。明治天皇の孫の代にもなると,日本建国の神話もこれが空虚な作り話:おとぎ話的な創説ではあっても,「信じることによって具象化(物神化)できるような大いなる自信」も湧いてくるのかもしれない。

 もっとも,昭和天皇が信じこんでいた天照大神は,なにも裕仁1人だけのための先祖ではなく,日本人全員のそれになりうる「想像上の〈神〉」であることを忘れてはならない。

 c) さて,内野光子『短歌と天皇制』(風媒社,1988年)は,「歌会始戦前史-御歌所を中心に-」という項目を立てて,こう解説している。

 歌会始が,宮中の行事として定例化したのは,京都御所における1869年(明治2年)1月24日のそれが最初であって,この伝統的と思われる年中行事の沿革は,意外にも日本の近代化の歴史に重なるのである。1945年依然の,敗戦前の歌会始の歴史については,恒川平一による『御歌所の研究』がもっとも詳細である。

 註記)内野光子『短歌と天皇制』風媒社,1988年,174頁。

歌会始由来

 内野『短歌と天皇制』末尾にかかげられた「歌会始関係年表(1868-1945)」は,「明治二・一・二四「歌会始京都御所にて再開,同御用掛飛鳥井雅典」と記入されている。

 註記)同書,243頁。

 内野光子はそこで,こう指摘する。

 歌会始という皇室行事にまつわる戦後史「の事実はいったい何を意味する」のかといえば,「宮内庁は,都合のいい前例だけを持ち出して,伝統や由来に徹したという事大主義的な姿勢を示したに過ぎない。しかし,その内実は『文化的行事定着論』に落着し,歌会始の効用論,さらには天皇=天皇制の実質的に果たす役割を重視する論理へと傾いたことになる」

 たとえば「1988年1月12日の『歌会始』は,新憲法でははじめて〔昭和〕天皇欠席のまま開催された。昨〔1987〕年12月にいたっても宮内庁は迷っていたようで,一時は中止の公算も大きかった。その理由は,あくまでも天皇が主催するという歌会始の由来によるものであった」

 「歌会始はあくまで宮中の,天皇家の伝統ある行事の一つで,選ばれた特定の少数の人間にしか直接参加の機会が与えられない権威ある行事であるという事大主義を簡単に崩そうとしなかった」経緯が現わす意図はなにか?

 それは「現代における歌会始については,『皇室行事のなかでもっとも国民との関連が深い行事』」「であるとする認識のもとに,宮内庁をはじめとする政府や歌会始選者らが一体となって促進して来た戦後史」に観察できる,「まさに『文化的行事として定着』することを目標とした努力の歴史であった」

 註記)同書,〔序にかえて』4頁・3頁・4頁。

 内野光子は,『短歌と天皇制』の「Ⅱ 歌人の戦争責任の行方」註記)において「現代文学史において,文学者の戦争責任一般にについては必ず触れても,歌人のそれに及ぶものは極端に少ない」註記),日本文学史の研究状況に言及してもいる。

 註記1)同書,「Ⅱ 歌人の戦争責任の行方」91-146頁。

 註記2)同書,121頁。

 d) 内野光子がとくに強調するのは,思想の科学研究会『共同研究・転向 上・中・下巻』(平凡社,1959~1962年。改定増補版,1978年)が「歌人を1人も取り上げられていない」ということで,「『とりあげることのできなかった,しかも重要な問題をもつ人びとについて』80人近い人物の略伝が付されているが,歌人としては斎藤茂吉のみが対象となっている」ことである。

 註記)同書,122-123頁。

 「日中戦争下の自由主義から民族主義・超国家主義への転向」を典型的に描いた歌人「斎藤茂吉の思想史的な研究のスタートは」,「戦時下に指導的役割を果たした他の歌人研究にもいえることであり,現代歌人研究においても,決して見落としてならない視点ではないか」註記)と,内野は指摘する。

 註記)同書,124頁。 

 以下に,内野光子『短歌と天皇制』「Ⅱ 歌人の戦争責任の行方」の目次細目を紹介しておく。

 1 ある歌人のたどった道-逗子八郎は1人か

   (1)なぜ逗子八郎なのか
    (2)新短歌運動の旗手
   (3)情報局任官の背景
   (4)短歌弾圧・短歌報国の推進
   (5)戦争責任の行方-近年の逗子の発言から
   (6)短歌史・文学史における戦争責任
   (7)おわりに-現代歌人の転向問題

短歌による戦争体験の継承は可能か-『昭和萬葉集第六』を中心に-

    (1)はじめに
    (2)短歌における信憑性の問題
    (3)戦意昂揚短歌の行方
  (4)著名専門歌人の戦争責任
  (5)『昭和萬葉集』の意義と今後


   短歌史・文学史における戦争責任

 昭和天皇の戦責問題は免訴されてきたけれども,戦時体制下において皇室がこのように,〈戦争的な状況〉を短歌界にまでもたらした責任を逃れうる事由はない。とはいっても,歌人側においてだけ戦争責任が話題となるのではない。「両陣営の共同作業の〈負の成果〉」が,戦争の時代においては確実に蓄積されていったからである。

 なかんずく,「短歌と天皇制」という文学的な小宇宙世界は,「戦争事態」によってこそ,より密接しえる時代を画していた。われわれがこうした歴史的事実を忘却するならば再び,同様な「戦争と皇族および一般臣民・国民との不埒な関係」を構築することになりかねない。

 天皇一家=私家における芸術方面の一端を支持・宣伝させられる役目を果たすことに,大きな喜びと意義を感じる歌人たちがいる。

 彼らは,皇室・皇族内における〈短歌の世界〉に一般大衆を誘導・整理しながら,そのあいだに社会階層的な上下の秩序関係を構築することを,なんとも思っていない。

 歌人たちのその種の精神構造に表出される選良意識が存在するかぎり,「天子様と赤子たちとの封建的階級関係」は,未来永劫に発生しつづけ,消滅させることがむずかしくなる。

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【付 記】「本稿(11-2)」の続編(12)は以下である。

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【参考文献】


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