常識を超えるスピード、驚くべき速さ4(社会人の武装の仕方㊻)
過程を時短しないように
「常識を超えるスピード、驚くべき速さ1」では、時短しようとして失うものについて書いた。
ゴールするために時短をしたら、過程が損なわれてしまう。
佐々木俊尚さんのVoicyを聴いていて、フラット登山の話題があった。
この話があった回は失念してしまったのだが、
「山頂は山登りにおいてゴールだが、フラット登山はゴールすることを目的として歩かない」
というような話だ。
※フラット登山というのは、高低が激しくなく、ふらっと歩ける登山、というものらしい。
ゴールすることを楽しむのではなく、歩くことそのものを楽しむ。
ゴールすることが目的じゃなく、歩くことそのものが目的かもしれない。
佐々木俊尚さんは、このことを著作『広く弱くつながって生きる』にも書いている。
ある種の理想型に向かってプロセスを楽しんでいることそのものがゴールであり、どこかに到達するのが目的ではないと考えています。(…)大切なのは、そのプロセスをいかに臨機応変に、柔軟なものにできるか。自分でコントロールできるものにするかということだと思います。
井上慎平さんの『弱さ考』でも、こう書いてあった。
未来に成功することを目的とするのではなく、成功を目指して悪戦苦闘するそのプロセス自体を目的とするのです。僕はゴールではなくいいプロセスを続けるために仕事をすることにしました(でも、いいプロセスを続けるには、ゴールが必要なのです)。
過程を楽しむためにはある程度の知識量が必要である
同じく佐々木俊尚さんのVoicyで、「歩くことの楽しさは「情報量の抽出」と関係している」という回がある。
こちらでは、「山登りは同じような景色ばかりで楽しくない」という人は、知識量が少ないからではないか、という話。
何かを見た時に、知識量が足りないと、何を見ても何も感じない。
自然を見た時に、建築物を見た時に、解像度を上げていかないと、何を見ても何も感じない。
つまり、知識量が足りていないと、過程を楽しもうにも、楽しめない、ということ。
過程を楽しむために、インプットを大事にしたい。
また、インプットを消化したり、整理整頓したりするために、こうしてnoteを書くこと(アウトプット)は有効であろう。
その労働がブルシットジョブなら時短するが、それで生まれた余暇を退廃的に過ごすなら、余暇はいらない、それなら労働を楽しみたい長時間労働者
「常識を超えるスピード、驚くべき速さ2」では、そうして時短して作り出した時間で何をするのか、本当に有意義に使えるのか、それなら余暇などいらぬ、仕事してたほうがいい、という話を書いた。
「常識を超えるスピード、驚くべき速さ3」では、娯楽産業で暇を潰してしまうことについて書いた。
國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』では、そのような暇を資本主義が埋めて行くこと、退屈な暇の過ごし方について、書かれてあった。
暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。(…)そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。(…)人は暇を得たが、暇を何に使えば良よいのか分からない。このままでは暇のなかで退屈してしまう。
それならば暇などはいらない、仕事に邁進しよう!
暇をもてあますのならば、暇などはいらない、労働を楽しみたい長時間労働者になろう!
・・・となってしまう。
井上慎平さんの『弱さ考』を注意深く読み直しながら、考えなければならない・・・。
上手に、三宅香帆さんの言うような、「半身社会」を実現していきたいのだ。
仕事におけるステップアップ。
わかりやすくレベル分けされた階段を昇っていくことは、
わかりやすく階層分けされたダンジョンを降りていくことは、
楽しいことである。
さまざまなランクのアイテムをゲットしていくことは、
ところどころ空っぽの図鑑を埋めていくことは、
楽しいことである。
このシリーズ投稿「社会人の武装の仕方」には、
・心をなくして社会の歯車になる方法(非文学的になる方法)
・いろいろなツールで仕事を面白くして、労働を楽しむ長時間労働者になる方法
みたいなことを書いてきた、と思う。
それが立ち上がらないことには、心をなくさない方法も、半身で労働を楽しむ方法も、見つからないと思ったから。
速くやろうとすること、効率化
より多くの仕事をこなそうと思えば、ひとつひとつにかかる時間を短縮しなければならない。
効率的にこなさなければならない。
仕事を少しでも速くやろうとすること。効率化。
その工夫に、人類のこれまでの夢の、延長線がある。
より速い飛行機。
より遠くへ行きたい。
よりたくさんの人と知り合いたい。
よりたくさんの人に伝えたい。
AIを活用して、より多くの知識を得たい。
検索をAIに任せたら爆速だ。
ここの思考をAIに任せて、その向こうへ。
小説執筆をAIに任せて・・・
画像生成をAIに任せて・・・
自分の足で歩かなくなった。
AIに尋ねて、実際に人と話すことが少なくなった。
でも人間には感情があるからね。
ねたみや怒り、
そういうのがあるからね。
わずらわしいよ。
人とコミュニケーションをとると、心が擦り切れて丸くなっていく感じがする。
時代と共に、社会は複雑化している。
求められることも変化している。
社会の変化が激しくて、ついていけない。
個人で、スローダウンしても、個人でプロセスを愛しても、そんな個人を社会が駆逐していくようではいけない。
あいしーてーである。
ICT。
「愛・しー・てー」、なんの叫びだ。
この前、退職後再雇用の先輩と話をした。
「ICTは一年たったら環境が変わっていてたまらん。変化についていけない。覚えられないし、覚える気もなくすよな。」
私「なら、AIに聞いたらいいですよ。覚える必要なんてないですよ。」
先輩「人間がバカになっていく気がするなあ。」
記憶を外部に置くことは、死をその生の中にプログラムされた、人間の宿命である。
世代交代しても、社会や文明が残っていくために、人間は、伝承や文字に残して、次の世代にたくしてきた。
AIが保有する、巨大なデータセンター。これは、外部記憶に頼らざるを得ない、死をその生の中にプログラムされた人間の必然である・・・。
その作業を、わざとに、自分がする、自分が経験するのは、エゴである。
どうせ100年後には消えている個体が、その経験を保有するのは、贅沢でしかない。
また、「私が記憶する」というのもまた、贅沢である。
同上、どうせ100年後には消えている個体が、その記憶を保有するのは、贅沢でしかない。
・・・のか?
固有の体験。記憶すること。
これらは、文学が得意とする領域である。
文学が贅沢だと言われればそれまでだが、果たして・・・。
環境問題においては、「人類は害悪である」という言説を目にする。
人類がいなくなれば、環境破壊はなくなる、という、身もふたもないハナシ。
だから、「人類が害悪でなくなる環境問題の扱い方」ということに、この頃注目している。
AIにとっては、人間は非効率的で、不必要なものに写るだろう。CROSS DIGの【ULTRA SCIENCE】 - YouTube で、竹下隆一郎さんが、茂木さんと、『超知能AIを作れば、人類は滅亡する』のネイト・ソアレスさんにインタビューしている。
その途中で、馬と人間の話があった。
馬は昔、移動に必要不可欠だった。
しかし自動車が発明され、馬は今は接着剤や肉になった。
馬は保護されないと絶滅してしまう。
今後は、人間が馬になるかもしれない。(6:00あたり。)
この動画も、この本も、示唆に富んでいる。
読み解いていきたい。
何を書いているのか分からなくなってきた。
整理してみよう。
・プロセスを楽しもう
・プロセスを楽しむために必要な努力をしよう(暇と退屈を楽しもう)
・半身社会を生きよう
・文学的であろう
今後は、
プロセスを楽しむために必要な努力とは?
プロセスをAIに任せてもいい作業と、そうでない作業の違いは?
半身社会で、暇と退屈を生きる我々の作法は?(文学的でありたい、というのは、その作法とどのくらい近いのか?)
みたいなことを考えていきたい。
