短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(73) おセンチ・ルサンチマン
前回のエモ山
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「入り時間は、ほぼ確定。待ったなし」
廊下を進みながら、沼田が言う。
「逆算できるのよ。逆算」
俺たちは、プール室へと向かっていた。
リノリウムの廊下に、
俺たちの足音が響く。
ニックのスニーカー、
俺の革靴。
沼田のパンプスの靴音が、
ばらばらでまじりあう。
「奇妙よね」
歩きながら、沼田が俺を見上げる。
「なぜ決まってるのかしら? 誰が決めたの? なぜみんな、同じなの?」
沼田はまだスプーンを握っている。
「そう思わない?」
にっちゃにっちゃにっちゃにっちゃと、
スニーカーの足音が、
俺たちの前を歩く。
ニックはたいてい俺たちの前を歩く。
ニックが俺の後ろを歩くことは、ほぼない。
平気で背中を向けられるのは、
信じてるから?
相手の姿が視界にないときの不安を、
知らないから?
「すでに始まっている。
いつの間にか始まっていた。
入り時間は、決まってる」
スニーカーの足音は、にっちゃにっちゃしている。
俺の革靴の底は、すり減ってる。
パンプスの踵は、
小さくて固い。
沼田は、鼻先を上げ、廊下の先を見る。
『利害関係調査委員会』ガリラヤ倉庫の廊下は、
センサーライトで明るくなる。
だから廊下の先は、いつも真っ暗。
沼田のスプーンが、
ライトを反射して、
ちかりと光る。
昼休みは終わる。
午後の仕事が、いつもどおり始まる。
終わり時間は、決まってる。
直線の廊下。
角を曲がればプール室。
「エモ山」
歩きながらニックが言った。
「おまえ、電気消し忘れてっぞ」
プール室のドアが開いてて、
中の灯りが漏れていた。
「いや」
俺はこたえた。
「消しました」
「嘘はいかんよ、エモ山ちゃん」
ニックが言い、
「別にいいじゃないの、そのくらい」
沼田が言う。
いや、俺は消したんだけどね、
って思いつつ、
俺はその程度の誤解なら、ゆるしてもいいから、
黙っててもいいかな、と、
それは嘘ではないわけだし、と思ったけど、
「消しました」
と、こたえていた。
俺の声で、
ひたりと立ち止まったのは、
パンプス。
すり減った俺の靴底は、急に立ち止まると、
少し滑る。
スニーカーは、
あいかわらず、にっちゃにっちゃにっちゃにっちゃと、
にっちゃにっちゃにっちゃにっちゃと、
止まらず遠のいていったわけだが、
振り返ると、
沼田のいる場所は、
センサーライトが消えていた。
まだ照らされてるところから、
暗いとこにいる沼田を見たら、
スプーンと、
メガネの奥の沼田の白目が、
暗いところでも、
なぜだか光って見えた。
まるで、
すき間の暗がりから、
外をのぞき見てるような目だった。
プール室に誰がいるかなんて、
俺たちなら、
考えなくたって、わかる。
俺たち以外でそこにいるのなら、
それはひとりしかいない。
沼田だってそんなことわかってるはずだし、
だから立ち止まったんだろうし。
といったことを俺は、
自分の革靴の底が、
少し滑ったのと同じくらいの感触で、
後追いで推測したわけなんだけども。
それは、ちょっと滑るくらいの感触。
俺にはそのくらいの感じでしか、
わからなかったんだけども。
「おおげさにしたく、ないのよねえ」
沼田が言った。
「嘘もつきたく、ないのよねえ」
ひとごとみたいな言いかただった。
「あたしのこれ、説明してくれるもの、まだこの世の中に、ないのよねえ」
言いながら、暗いとこで、
沼田はスプーンを、くるくる回して見せた。
「まだスプーン、なのよねえ」
沼田が動かしたスプーンに反応して、
センサーライトが灯った。
「出てくるまでに、わかる?
出てきたら、わかる?
出てきても、わからなかったら、どうする?」
沼田は、
俺にじゃなく、スプーンに尋ねていた。
あたりまえだけど、
スプーンはこたえない。
ただただぎらっとしてるだけ。
俺が訊かれてるわけでもないから、
なにも言う権利はないけど、
沼田大丈夫なのかな、って、俺はちょっと思った。
思ってはみたものの、
大丈夫って、どういう意味?
ガチャっと音がして、
プール室に入ったニックが扉をしめた。
「入り時間は、ほぼ確定。待ったなし」
扉のほうを見ず、沼田がつぶやいた。
「嘘がない。ここには嘘がない」
「ねえ、エモ山君」
沼田の白目が、
きろっと俺のほうに向いた。
「あたしって、無責任?」
プール室の扉が開いて、
ニックの影が顔を出した。
「ういーっす、エモ山~、仕事だぞ~」
俺はそれを無視して、
沼田にこたえようと大きく息を吸うと、
その瞬間沼田は、
魔法使いの杖みたく、スプーンをふるって、
それで俺はぱかっと口を開けたまま、
固められてしまった。
俺の頭の上で、
センサーライトが消えた。
沼田の姿は、俺の視界からふと消えて、
目が慣れると、
その姿がにじみ出るようにあらわれた。
「嘘のないものが、出てくる」
口を開けたままの俺に、沼田が言った。
「まだ嘘を知らないものが、出てくる」
スプーンで俺をホールドアップさせ、
沼田が首を傾げ、どこか遠くを見た。
「それはもしかすると、もう『聞いている』。だから、エモ山君」
沼田の反対の手が、腹にそっと触れた。
「余計なことは、聞かさないで」
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