【明治文豪、令和を歩く】第3回:早すぎるクリスマス
現代の東京、クリスマスのイルミネーションが早くも輝き始めた街角のカフェで、夏目漱石と、其処にいる永井荷風が珈琲を飲みながらぼやいている

おい荷風君、表を見たかね。まだ11月に入ったばかりだというのに、あのデパートの飾り付けはどうだ。赤や緑の電飾がチカチカと、まるで癇癪持ちの私の神経を逆撫でするように光っておる。現代の「文明」というやつは、どうしてこうも生き急ぐのかね。

全く、仰る通りですな、先生。僕もここへ来る道すがら、あの騒々しい装飾を目にして、いささか閉口していたところですよ。西洋人ならば、あの白い鳩や星の飾りに宗教的な意義を見出すのでしょうが、今の東京の人間ときたら、その中身などお構いなしだ。ただ流行だから、商売になるからといって、季節の情緒もへったくれもなく飾り立てる。これぞまさに、僕がかつて嘆いた「実用する人間が社会的共同生活の意義を知らない」という醜態そのものではありませんか。

手厳しいな。しかし君の言う通りだ。中身が伴わず、ただ外形だけを真似て満足している。昔、私がロンドンで見たクリスマスは、もっとこう、陰鬱な冬の空の下で、人々の生活に根ざした厳かさがあったものだがね。今の日本のは、言わば「上滑りの開化」の極みだよ。ハロウィンが終わった瞬間にクリスマスだ。余韻というものがない。これではまるで、読み終わらぬうちに次のページを無理やりめくられる三流小説のようだ。

ハハハ、三流小説とは言い得て妙だ。僕はね、先生。日本の冬というのは、もっと枯淡で、寂寥としたものだと思うのですよ。木造の家の奥で、寒さに震えながら障子越しの陽の光を愛でる……あるいは、深夜に鼠が天井を走る音を聞いて、ふと孤独と恐怖を感じる。そういうものの中にこそ、我々の風土固有の美しさがあったはずです。それをこうも安っぽい電気の光で塗りつぶされては、宗達や光琳が描いたような、あの凛とした冬の色彩も台無しだ。

君は相変わらず江戸の趣味人だねえ。だが、その「寂寥」を楽しむ余裕が、現代人にはないのかもしれんよ。皆、何かに追われているようだ。資本主義という巨大な機械が、消費しろ、楽しめと急き立てる。私はね、このあまりに早すぎるクリスマスソングを聞いていると、胃のあたりがキリキリと痛んでくるよ。もう少し、秋の終わりをゆっくりと噛み締めさせてくれんものかな。銀杏(いちょう)の葉が落ちる音を聞く暇もありゃしない。

ええ。僕のような偏屈な「新帰朝者」の目から見れば、この光景は一種の喜劇であり、同時に悲劇です。キリスト教の洗礼も受けていない人々が、意味もわからず贈り物を交換し合う。それはそれで結構な平和な光景かもしれませんが、そこに「信仰」もなければ「哲学」もない。あるのはただの「習慣」という名の惰性です。……まあ、そうやって世の中を斜に構えて見ているから、僕はいつまで経っても世間と折り合いがつかないのでしょうがね。反抗こそが僕の幸福の破壊者だと、昔誰かに言った覚えがありますよ。

ふん、反抗結構、偏屈結構じゃないか。皆が皆、右へ倣えで赤鼻のトナカイを歌う必要はないさ。私は教師を辞めて小説家になった男だ。世間のレールから外れることの気楽さと、それゆえの苦悩は知っているつもりだよ。
……しかし荷風君、こうして文句を言いながらも、あの店の限定クリスマスケーキとやら、君はさっきじっと見ていたじゃないか?

おや、見られていましたか。……いや、あれは単に、洋菓子としての色彩の配合を観察していただけですよ。決して、甘いものに目が眩んだわけではありません。……ですがまあ、先生。せっかく現代に蘇ったのです。あの騒がしいイルミネーションを肴に、熱い紅茶とケーキで一服するのも、また一興かもしれませんね。これもまた、現代の「浮世」の姿だと思えば。

やれやれ、君には敵わんな。仕方がない、その「浮世」の味とやらを試してみるとしようか。ただし、ジングルベルの音量をもう少し下げてくれと、店員に頼んでからだがね。
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