【明治文豪、令和を歩く】第5回:おお!大谷翔平
現代の東京、とある落ち着いた喫茶店の奥まった席にて。路地裏の静けさを好む二人の文豪が、湯気の立つカップを前に向かい合っている。

先生、ここの冷房は少しばかり強すぎやしませんか。わたくしは帰朝以来、夏だろうが冬だろうが、冷たい水やアイスクリームの類は一切口にしないことにしているのです。珈琲も熱いものでなければ、本来の香気というものが失せてしまいますからね。……ふう、やっと熱いお茶が来ました。

君は相変わらずだねえ。現代に生まれ変わっても、その「江戸っ子の意地」みたいなものは変わらんのか。僕はむしろ、胃が痛くならなければ冷たいビールでも煽りたい気分だよ。……さて、君もニュースで見たろう? あの大谷翔平という男のことだ。

ええ、存じておりますとも。あの、背の高い、顔立ちの涼しい青年でしょう。わたくしは野球というものには疎いのですが、彼がアメリカの地で、それもあの紐育(ニューヨーク)の摩天楼にも負けないような輝きを放っていることは知っています。まるで不夜城の燈火のように、眩しい存在ですね。

「眩しい」か。君らしい表現だ。しかし僕はね、あそこまで行くと少しばかり空恐ろしくなるんだよ。投げては打ち、打っては走る。あれは人間の業じゃない。まるで精密機械か、あるいは神話の英雄だ。僕がかつて「現代日本の開化(※)」は外発的で上滑りだと言ったが、彼はそんな理屈を軽々と飛び越えて、自分一人で勝手に進化してしまっている。早すぎるよ、何もかもが。

先生はいつもそうやって、文明の進歩や人間の営みに神経をすり減らしておられる。……しかし先生、わたくしが思うに、あの青年の原動力は、かつてわたくしが『小説作法(※)』で申しました、「好きこそ物の上手」という、あの単純な真理ではないでしょうか。

好きこそ物の上手、か。

ええ。下手の横好きとは訳が違います。文芸の道もそうですが、天賦の才があって、その上で我武者羅に熱中する。彼は誰に強制されたわけでもなく、ただ野球という遊戯に、少年の頃のままの心で没頭しているように見えます。わたくしがかつて、先生が帝国大学の教授を辞してまで小説家になられたことを「志」だと感じたように、彼もまた、己の道を狂気じみた純粋さで歩んでいるのでしょう。

僕を引き合いに出すのはよしてくれ(苦笑)。……だが、なるほどね。彼を見ていると、悲壮感がない。そこが僕らの時代の「修養」とは違うところかもしれん。僕なんぞは、ロンドンで神経衰弱になって、胃に穴が開くほど悩みぬいたもんだが、彼はどうだ。あのプレッシャーの中で、白い歯を見せて笑っている。

そこが「現代」の良きところでありましょう。わたくしが見てきた戦後の浅草の、あの粗末な裸体画やストリップのような、ただ人目を引くだけの浅ましい見世物とは違います。彼には、洗練された「芸」がある。アメリカ人が好む、あの底抜けに明るい、しかし圧倒的な力。わたくしは彼の中に、西洋のダイナミズムと、日本の職人のような静かな執念とが、奇妙に、しかし美しく同居しているのを感じますよ。

君にかかると、大リーガーも歌舞伎役者か何かのようだね。……まあ、いい。彼が「好き」でやっているなら、それが一番だ。ただ、現代のメディアというやつは、彼を神輿に担ぎ上げすぎる。一人の人間に、国家だの民族だのの期待を全部背負わせて、潰してしまわないかと、僕はそれが心配なんだ。

おや、先生。それは少し「親心」が過ぎるのでは? 天才というものは、凡人の喧騒など意に介さず、ただ己の信じる美学の中に生きるものです。わたくしが世間の悪口雑言を避けて、偏奇館にこもっていたようにね。……もっとも、彼はわたくしのような隠居老人とは違って、スポットライトを浴びれば浴びるほど輝く質のようですが。

ふん、君と一緒に引きこもられても困るがね。……まあ、見守るとしようか。彼がこれからどんな「小説」よりも奇想天外な筋書きを書いていくのかを。ただし、僕はあまりハラハラさせられるのは御免だよ。胃に悪いからね。

ええ。では、この熱い珈琲を飲み干したら、少し散歩でもしましょうか。現代の銀座の裏通りに、まだ昔の面影が残っているか、確かめに参りましょう。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!