【明治文豪、令和を歩く】第29回:ザ・クレイジー核兵器
現代の東京、とある落ち着いた喫茶店の奥まった席にて。路地裏の静けさを好む二人の文豪が、湯気の立つカップを前に向かい合っている。

核兵器、ですか。これはまた、いっそ即物的な『死』の匂いがしますね。かつて野々宮君が飛行機の話をしていた時、高く飛ぶにはそれだけの装置と頭が要る、さもなくば死ぬばかりだと言っていましたが……。この核というやつは、人間がその『頭』の限界を超えて、太陽の火を地上に引き摺り下ろしてしまったようなものです。科学という名の下に、あまりに高く飛びすぎた。

先生、私はこの現代の東京の空を見上げるたび、あの昭和二十年の、すべてが灰燼に帰した焼け跡の風景を思い出さずにはいられません。あの時、私たちは旧来の道徳も風俗も、すべてが煙となって消えるのを見ました。核兵器というのは、いわばその絶望を、一つの小さな金属の塊に凝縮したようなものでしょう。巴里のムーランルージュで裸体の女が踊るのを見るような、刹那的な快楽に耽る現代人にとって、その塊はあまりに不吉で、あまりに現実味がない。

そう、現実味がないのだ。現代の街を歩く人々を見たまえ。迷子の子供が泣いていても、あるいは道端で乞食が額を地に擦り付けていても、都会人種はそれを風景の一部としてやり過ごす。核兵器も同じだ。あまりに巨大で、あまりに非日常的であるがゆえに、人々はそれを『自分とは無関係な天災』のように処理して、平然とスマートフォンに目を落としている。自己に誠実であろうとすればするほど、その巨大な悪意に対しては無感覚にならざるを得ないのかもしれない。

左様でございます。西洋の習慣では、公衆の面前で口にしてはならない卑俗な話題があると言いますが、今の世の中では、核の話こそがその『口にしてはならない、しかし誰もが知っている醜聞』のようになっている。政治家はそれを外交の道具とし、学者は理屈をこねる。しかし、それが一度火を噴けば、銀座の柳も、私が愛した路地の面影も、一瞬で無に帰す。この危うい均衡の上で、皆が『平和』という名の厚化粧をして踊っているのは、滑稽を通り越して、一種の凄惨な美しささえ感じさせますよ。

美しさ、か。君らしい言い草だ。だが、僕に言わせれば、それは熱い薬湯に我慢して浸かっている男たちのようなものだ。背中から熱い奴がじりじり湧いてきているのに、『これがちょうどいい加減だ』と自慢し合っている。誰かが早く上がれと忠告しても、二銭五厘の湯銭を惜しんで、真っ赤になりながら茹であがっていく。核兵器という熱湯の中で、人類はいつまで我慢比べを続けるつもりなのかな。

(ふっと笑って)案外、その湯の中で垢肥りした男たちが、最後に『ああいい湯だ』と叫ぶ間もなく消えていくのが、この文明開化の成れの果てかもしれませんね。先生、私は核のない世界などという夢想よりも、この壊れやすい日常の、隅っこに残った古い情緒を、今のうちに書き留めておきたい。たとえ明日、すべてが光の中に消えるとしても。

……全くだ。拵えものの平和でも、それが活きている人間にとっての現実であるうちは、僕らは小説を書き続けるしかない。さて、荷風君。あまりに物騒な話をしたせいで、珈琲がすっかり冷めてしまったよ。これでは薬にもなりゃしない。
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