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「やらなきゃいけないこと」になると途端にやりたくなくなる

「『勉強しなさい』と言われると途端にやりたくなくなる」みたいな話がある。まあ僕は、勉強はかなり好きだったから、親とか先生にそんなこと一度も言われたことないし勝手にやってたんだけど。で、大体の場合これって、「『本当にはやりたいわけではないこと(=勉強)』に対する言い訳」みたいに受け取られるだろう。

ただ僕には、「自分がやりたいと思っていること」であっても、それが「やらなきゃいけないこと」になると途端にやりたくなくなるという性質がある。

例えば僕がよく例に出すのは「恋人へのプレゼント」。僕は、「プレゼントを選ぶこと」は全然得意じゃないけど、別にしたくないわけではない。のだけど、「誕生日とか記念日には当然プレゼントをするよね」みたいな感じになると、全然やりたくなくなるのだ。「やらされてる感」が強くなって「嫌だなぁ」という感覚が強くなってしまう。例えばそれは正直SEXなんかも同じで、「当然することになっているもの」みたいな扱いになってしまうと、途端にしたくなくなってしまうのだ。そういうこともあって僕は「恋愛的な関係」が結構苦手だったりする。

あるいは、仕事でもよくそう感じる。まあ仕事の場合は、そもそも「やりたいこと」ではないわけだが、ただ僕はよく「放っておいてくれたらちゃんと仕事するんだけどな」と感じる。けど会社では、「目標の設定」とか「その達成度の自己評価」とかやらされるし、そういうのがあると僕の中では「目標の達成のために仕事をやらされている」みたいな感覚が強くなって、メチャクチャ嫌になる。

昔盛岡のさわや書店で働いていた時には、上司から「報告・連絡・相談はするな」と言われていて、だから凄く良かった。実際、ある1回を除いてマジで報告・連絡・相談をしなかったぐらいだ(その1回はさすがにヤバいかなと思って先に話を通したのだけど、たぶんしなくても大丈夫だった)。またさわや書店時代は「トリッキーなアイデアを考える」みたいな立ち位置にいたのだけど、ただこれも別に「誰かから求められていた」わけではない(上司らから直接そうするように言われたことはほぼない)。面白いから僕が勝手にやっていただけだ。そんなわけで、僕がさわや書店の後、別の書店で働く選択をしなかったのは、「トリッキーなアイデアを考えること」が「やらなきゃいけないこと」になることが分かっていたからだったりもする。そういう環境では、「アイデアを考える」みたいなことも全然やりたくなくなってしまうのだ。

まあ、さわや書店時代もすべてが良かったわけではなくて、ここでは「本を読むこと」が「やらなきゃいけないこと」になってしまった。だから、時々読める「自分の趣味の本」以外の読書は辛かったなぁ(基本的に、仕事のために読みたくない本を読んでいたので)。まあそれでも、全体的には面白い環境だったし、良かったのだけど。

また、こうやって日々文章を書いていると、「文章を書く仕事をしたらいいのに」とか言われるのだけど、絶対にしない。「文章を書くこと」は僕にとってほぼ唯一「趣味」と言っていいようなもので、「やりたいこと」である。それを「やらなきゃいけないこと」にしてしまったら、人生が全然楽しくなくなってしまう。こんな風に僕は、「『やりたいこと』をなるべく『やらなきゃいけないこと』にしないようにする」という意識を持っているのだ。

恐らく僕は「自分で選択している」という実感を常に欲しているのだろうなと思う。「これは明確に自由意志に基づいた行動だ」という大大大前提の元で自分の行動を決めたいのだろう。だから僕は常に、「目の前にある状況に対して『NO』と言っていい選択肢がある(ように思えるか)」を重視している。「NO」と言えるということは、選択の余地があるということで、つまりそこには「自由意志」が介在し得ると言える。しかし「NO」と言えない(言いにくいと感じる)場合は、そこに「自由意志」は存在し得ない。プレゼントやSEXにはなんとなく「当然するよね」みたいな前提が感じられるし、そう感じられてしまう時点で「自由意志」が剥奪されている気がして、だから「あー、やりたくねー」みたいになってしまうのだと思う。

昔何かの本で「自由主義」と「幸福主義」の話を知った。「幸福主義」というのはその名の通り「幸福であることを目指す」わけで、だからそれと対比される形で「自由主義」を語る場合には、「不幸になったとしても自由を目指す」という捉え方になる。そして僕はその「不幸になったとしても自由を目指す」という意味での自由主義者だと思う。「自分で選んだ」と思い込めているのであれば、それが不幸をもたらすのだとしても別にいい。逆に、それが幸福をもたらすのだとしても、自由意志で選んだのでなければ許容できない。僕の中にはかなり、こういう感覚が強くある。

僕は結局のところ、「他人の期待に応えたくない」んだと思う。これは、「どうせなら、相手の期待を超えることをしたい」みたいな感覚の裏返しだと自分では認識している。だから、「期待されている」と感じられると、途端に嫌になるのだろう。「その『期待』に応えること」がまず大前提になるように思えてしまうからだ。期待されていても別にいいのだけど、その「期待」はなるべく見えないに越したことはない。いや、「期待」が見えたとしても「NO」と言っても大丈夫な雰囲気が感じられれば別に大丈夫なんだけど。

こういう性格は大分めんどくさいし、ない(あるいは「薄い」)方が社会では上手くやっていけそうだなと思うのだけど、まあしゃーない。なんとか上手いことやっていくしかないよね。

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