千郷の歴史 いろはかるた 「か」

~神の前 大伴の墓と 語り継ぐ~
この句のモデルとなった古墳は、神ノ前という所にある古墳です。
昭和25年頃に最後の1基が発掘された記録が残っており、地域における古墳時代(または神明古墳等の別名・関連地)の遺跡として知られているようです。
勾玉、金冠、刀子、馬具 これらが出土し、地元の中学校で保管されています。
そして、
二つ塚:大伴氏の墳塚(石塚)
碑塚:大伴氏の墳塚
神ノ前には、大伴氏の墳塚があります。(『千郷村史』)
この大伴氏は元をたどると、大伴家持、大伴旅人、安麻呂、道臣命という名前が出てきます。
そして、大伴助高の子供の一人に「致弘」という人がいました。
彼がこの辺り一帯を治めた初代三河大伴氏です。
詳しく辿って書き残したいのですが、学芸員でもなく専門知識もありません。そこで今回は、史実として確認できたことと、そこから私が想像したことを分けて書き残します。
二つ塚も、碑塚も大伴氏の墳塚なら、勾玉の出土した古墳の主も、大伴氏だったのではないかと・・・・。

大伴氏は、古墳を残しただけの一族ではありませんでした。
村史によれば、寛治七年には机屋敷を開き、宗近・行時・道重・国友などの公家の名を借りて名田の開発に取り組み、寺社や貴族に供物を献上していたといいます。その後、この地域には徳定城が築かれ、そこにも大伴氏との関わりが見えてきます。
大伴氏は、致弘から数えて四代目になると、資隆という人物が「三河富永氏の祖」とされ、さらに六代ほど後には、資時が「塩瀬氏の祖」とされます。大伴氏から、富永氏、そして塩瀬氏へと、苗字が分かれ、広がっていったのでしょうか。
そう考えると、野田館の冨永直郷や、竹千代に従って田峯からやってきた菅沼氏の家臣・塩瀬甚兵衛も、大伴氏につながる人々ということになるのでしょうか。
そんなことを考えながら、神ノ前の古墳を目の前にすると、この土地で暮らし、土地を開き、後の千郷へとつながる歴史を築いていった大伴氏という一族が、とても尊く思えてきます。
神ノ前の古墳の主も、もしかしたら大伴氏だったのではないか――。
そんな想像から、この句が生まれました。
参考文献:千郷村史
続千郷物語(ちさと郷土研究会)
徳定城についての記事はこちら↓
千郷歴史いろはかるたを「い」から読んでみたい方はこちら↓
歩いて、見て、言葉にする。千郷の歴史をいろはかるたに。次回は「よ」です。
