海の図書館【7】
7 希望の遺跡
「俺は、絶対に燃えない図書館を造る」
流浪は、そう誓った。
――思想にも、戦争にも焼かれない図書館を造り、未来永劫守り抜く。人の叡智を。
彼の中に刻まれた、燃え落ちた記憶の断片が、流浪を突き動かしていた。
流浪は長老評議会の壇上で、声を張った。
「人の遺伝子には、争いが刻まれています。だからこそ、世界の財産である知識と知恵を、愚かな火から守らねばならないのです。さもなくば、惨禍は必ず繰り返されるでしょう」
人は文字を生み、記録を残した。
言葉は口伝よりも遠く広く、未来まで届く。だが貴重なものほど独占され、争いの火種となり、敵の知を消し去ろうとする者が現れる。書物は生まれたその時から、火に焼かれる宿命を背負っていた。
紙も羊皮紙も、木版も燃えた。だからこそ、火に強い粘土板が時代を超えて残された。考古学者たちは遺跡から数千枚にものぼる粘土板の束を発見し、そこに人類の息遣いを見いだした。
最初期の粘土板に記されていたのは、家畜の数や穀物の計算――簿記こそが書物の原型だった。請求額や在庫目録、婚姻や離縁、裁判の判決。そうした記録は時代の証人として未来に渡されていった。
束ねることができない粘土板の中から必要な一枚を探し出すことは困難であった。そこで目録が編まれ、やがて奥付が誕生した。粘土板の整理を助けるその仕組みは、記録を読む者に不可欠の道標となった。
やがて書物は粘土から紙へ、写本から印刷へと進化し、知は一気に広がった。
しかし、長い間それは王族や教会、富裕層の支配のもとにあった。
――知識は、特権階級に囲い込まれるべきではない。広く民の手に渡り、分かち合われるべきものだ。そして、戦禍や思想弾圧、天災の脅威からも守らねばならない。そのために――
「海の上の図書館を建設します」
流浪は宣言した。
それは全世界が協力して取り組む、前代未聞の大事業であった。どの国からも遠く離れた海洋の中心に、世界中の言語で記された幾億という書物を集め、永久に守るための図書館を建設する。侵略も弾圧も届かない、自由で安全で公正な、叡智の殿堂を築くのだ。
流浪は、世界を駆け回った。
設計には各国の建築家が集結し、海上・海中の苛烈な環境に耐えるための工法が考案された。特に耐震構造には最も注力された。
外観は海の神に捧げる神殿様式で、館内には各国の工芸美術が惜しみなく施された。歩廊には紋様入りの煉瓦、壁面には精緻な浮彫、天井には世界中の詩が刻まれ、東の光を受ける彩色ガラス窓には叙事詩が描かれた。それは、知識と美術の融合がもたらした、比類なき建築だった。
書架には最大のこだわりが注がれた。耐久性に優れ、書物と調和する温もりを持つ木材を厳選し、耐塩処理を施し、職人の手による彫刻がその佇まいをさらに際立たせた。
外観も内装も、書物への最大限の敬意を払って設計された。
蔵書はすべて世界中の国々からの寄贈であり、その運搬だけで何年も費やされた。それは知の大移動であり、言語の大巡礼であった。
到着後は分類に従って、整然と配架された。
1哲学、2歴史――
分類――それは渾沌を秩序へと変える魔法だった。最上位に置かれた哲学の「1」は、この図書館の心臓とも言える象徴だった。
こうして幾多の年月と人々の夢を注ぎ込み、海の上の図書館は完成を迎えた。
* * *
エチゼンクラゲの上で、流浪は横たわっていた。胸の上で手を重ね、双眸に陰が宿る。
月夜と花音が、寄り添っていた。
流浪はかつて自分が人の世界にいたこと、そして海の上の図書館を築いたことを、断片のように語り始めた。
「世界中から船が集まってきた……あの場所は、世界で最も平和で、最も心躍る場所だった。もう、燃えることのない叡智が、永遠にそこにあった……」
流浪は、懐かしい過去の栄光を掴むように、弱々しく片手を宙に伸ばした。
花音は、その力の入らない手を両手で包んだ。
「今もあるのですよね? いつもここから向こう側に本を送っているもの」
「そうだ……だがな、皮肉なことに――叡智だけが残って、人は消えてしまった」
「そんな……どうして?」花音が重ねて問い掛ける。
月夜は、花音の肩にそっと触れて言った。
「父さま、もうお休みください」
流浪は、もう片方の手を微かに持ち上げて言った。
「月夜……花音を、頼む」
月夜は息を呑み、そして確かな口調で応えた。
「わかりました」
流浪の双眸が、徐々に焦点を失い、光を失い、静かにこの世界との境を閉じた。
エチゼンクラゲは流浪を乗せたまま、何処ともなく去っていった。
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