海の図書館【9】
第三部 分類の外へ還る
~ウミネコの日記~
私は、人であり、人ではない。
そんな私だからこそ、書ける物語があるのではないか。
そんな思いから、少しずつ書き溜めている話がある。
いつか、この図書館に所蔵されることを夢見て。
9 海の神
真弓を最期まで見守っていたのはウミネコだった。藤堂は、逃げようとしないウミネコを、真弓がやっていたように腕に止まらせて、たった一人で海の上の図書館へ上陸した。だが、そのとき彼自身も、船内で蔓延していた不治の病にすでに侵されていたのだ。
――そして、やがて人は絶えた。
世界から人影が消え、海の上の図書館だけが、膨大な知識と情報を抱えたまま、静かに取り残された。そこを守るのは――ただ一羽のウミネコである。
ウミネコは、真弓を懐かしんでいた。真弓は司書であり、海の上の図書館で書物と人を結ぶ案内役になることを夢見ていた。しかしその夢は叶わずに途切れた。図書館に到着する寸前に、船内で病に倒れ、命を落としたのだ。
その日から、ウミネコの中には真弓がいた。
そして、いつしか――ウミネコ自身が、真弓となっていた。
もし生きていたら、彼女は来館者に最も相応しい一冊を導く役目を果たしただろう。再びその職務を果たせる日が来ると信じ、ウミネコになった真弓は、今も書架の整備を欠かさなかった
海の上の図書館では、人がいなくなった今も蔵書が増え続けていた。真弓は、毎朝書架を巡回している。すると新しい本が、少し背が飛び出した状態で差さっているのを見つけることがある。彼女は、それらの本がなぜ、どこから来るのかは知らなかった。ただ、いつも書架の正確な位置に現れる本に、正しく分類番号の札を貼って戻すことが、自分に与えられた責務だと心得ていた。
* * *
――海の神に、会いたい。
花音は、その思いに突き動かされていた。いつか自分が送り言葉を唱え、海の底の図書館から“向こう側”へ本を送る日が来る。そのためには、どうしても海の神の存在を知る必要があると感じていた。
「母さま、私は旅に出ます」意を決して、花音は月夜に告げた。
「……そうですか」
月夜は動揺しなかった。予感はしていたからだ。
「必ず帰ってきます」
――私は火喰のような漂う者ではない。行って、必ず戻る。この図書館の司書として。
花音が旅立ったあと、残された月夜は初めてこの図書館で一人になった。――一人でも何も困らない、むしろ清々する。
そう思っていた。しかしふとした拍子に、花音の真直ぐな瞳が思い出され、胸の奥が微かに疼いた。かつて流浪が幼かった自分を、自由に育ててくれていたことを思い出す。
月夜は、花音がいつもそこにいた分類不能の書架に、ふらふらと歩み寄った。
――私はずっと、この書架も、花音も認めようとはしなかった。本当は気がついていた。分類を超えていく知に……私を超えていくあなたに……
書架を背にして床に座り込み、月夜は瞼を閉じた。
花音は、かつて流浪のエチゼンクラゲが連れて行ってくれた海よりも、遥かに遠くへと旅して行った。行く先々で、火喰も見たであろう壮大な景色に遭遇した。
切り立つ海嶺は何万粁も連なり、マントルから溶岩が噴き上がる裂け目が地底の鼓動を響かせる。広大な海底平原、底知れぬ海溝。海底は絶えず動き、新たな地形を生み出していた。
熱水噴出孔では、太陽の光を知らずに生きる極限環境の生命と出会った。化学合成によって繁栄する小さな生態系、堆積物の中で営まれる冷水湧出帯の命。
悠久の時を経て循環し続ける海の水が、花音には呼吸のように感じられた。
微細なプランクトンの群れが漂流している。向かう先を意思で決めることもなく、儚げに見える彼らもまた、食物連鎖の一翼を担う命の一部だった。
マッコウクジラが深く潜水し、心拍数を極限まで落として狩りをする姿を見た。
微生物が太古の昔から繰り広げている化学戦争さえ、海は静かに抱いていた。
――まだ知らないことが、こんなにもある。
確かなのは、すべてが変化し、動き続けているということ。
この壮大な循環こそが、海の神に違いない――花音はそう確信した。花音自身もその循環の一部だった。海の神はどこにも見えないが、どこにでも存在する。花音の中にも存在するのだ。
「ただいま帰りました」
花音は海の底の図書館に戻って来た。返事はなかった。
「母さま?」――静寂が広がっていた。
授け台に、本が置かれたままになっている。傍らには籐の籠がぽつんと残されていた。
花音は悟った。
月夜は己の使命を果たし、花音にすべてを託して、元の場所へ還っていったのだと。
授け台の本を見ると、見覚えのある黒い表紙に『二頭の王の物語』と金の箔押しがされている。分類不能の書架にあった、花音がこれまでに何度も手に取った本だ。すっかり整って“向こう側”へ送られるのを待っている。
「これは、私が送ろう」
その本には、まだ分類番号の札が貼られていなかった。
“向こう側”の書架へ送るためには、仮の分類番号札を貼る必要がある。
「この本は9の文学? それとも1の哲学?」
迷った末、花音は新しく0の札を作り、それを貼った。
授け台に本を載せ、左手を重ねて、送り言葉を唱えた。
掛けまくも畏き海の大神よ
今ここに守人の身を以て
人の世に光をもたらす叡智を
潮の道より渡らせ運び給いて
弥栄の道を開かんと願い奉る
しかし、本は沈まず、何も起こらなかった。
「向こう側に『分類番号0』の書架がないんだわ」
どうしたら“向こう側”に新たな書架をつくれるのか。花音は思案し続け、そして一つの答えに辿り着いた。
花音は、図書館の一番端にある分類不能の書架に行き、そこに貼ってある月夜が0と手書きした紙を丁寧にはがした。そして授け台に戻ると、その紙の裏に送り言葉を書き記した。
「これでいい」
そして、その紙を授け台の上で、丁寧に折り始めた。
それは、幼い頃に、火喰から教わった折り紙だった。記憶を頼りに折っていくと、一枚の紙から小舟が出来上がった。
――父さまは、なぜ小舟を折っていたのかしら。海の上に憧れていたのかもしれないわ。
母の記した0。父が伝えた小舟。そして、花音の内なる海の神――
花音は、紙の小舟を両手で掲げ、唱えた。
我がもろ手より放つ先駆けの小舟よ
新たなる叡智の道を拓き彼方へ届け
花音は、小舟を授け台の上に放った。それはふわりと宙に浮かび、しばらく揺らいだ後、真直ぐに上昇し、視界から消えた。
