【文章の話】哲学からみた、ライターズハイ。【シリーズ4/4】
はじめに
「ライターズハイ」を考える本シリーズ。今回で最後です:
第1回:ライターズハイとは何か(定義と例)
第2回:ライターズハイの重要性
第3回:ライターズハイになる方法
第4回:ライターズハイを捉える哲学(おまけ)
前回までの記事では、ライターズハイの定義・重要性・方法についてお伝えしてきました。
今回は、これまでの記事の裏にあった「場所の哲学」について簡単にお伝えし、その視点から改めて全体を振り返ってみます。
簡単に自己紹介しておきます。私はこんな人(↓)

では本文にどうぞ。

7場所の哲学からみたライターズハイ
7-1意識的自己と行為的自己

普段私たちは、自己をどのように捉えているでしょうか?
おそらく、「私の心」や「彼の心」などが実体としてあると考えていると思います。つまり、心や自己が、それ自体で単独で存在すると考えている。
「あの人がそんな人だとは思わなかった」とかショックを受けたりするのは、このように、ある程度独立して持続するものとして心や人をイメージし、予測を立てているからです。
こうした予測なしには、繰り返しの日常生活が成り立ちません。
このような日常の自己観は、意識(心)によって自己を捉える立場、意識的自己の立場といえます。自己の側(主観)と世界の側(客観)を切り離し、それぞれが独立して存在していると考える立場です。
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一方で。ここまで考えてきたライターズハイの場合のように、行為に没入している際には、自己と世界の境界線が曖昧になります。
例えば文章の場合であれば。「私が書き始めたものでありながら、逆に私のほうが、書かれたものに唆されて書く」のです。
このように現実に熱を帯びて働く自己は、単に見るものではなく作るもの、すなわち行為的自己といえます。この行為的自己は、行為(=制作)を通じて世界に働きかけますが、そのことによって、逆に世界の側から働きかけられ、行為するのです。
このとき主観(=私の側)と客観(=世界の側)は一つになっていて、ただ経験ないし場所が自己展開するのみです。
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以上のように。ライターズハイという現象は、日常的に私たちが捉えている意識的自己とは別の、行為的自己の立場から捉えられるものなのです。このように自己を捉える立場は、次の章でみるように、「場所の哲学」です。
7-2場所の哲学

意識的自己の立場(心を実体的なものとして捉える立場)は、西洋の伝統的な哲学に起源があります。有名どころは「心身二元論」(デカルト)で、心と物という2つの実体がそれぞれ独立して存在していると捉えます。
それに対して行為的自己の立場(作り作られる立場)は、それ自体単独で存在するもの(実体的自己同一)という考えを認めず、心や物は相互に作り作られて変化していくもの(矛盾的自己同一)であると考えます。
この立場の有名どころは、後期西田幾多郎の哲学です。「物を見ることによって働き、働くことによって物を見る」という「行為的直観」の立場です。
ここでのポイントは、「抽象的に考えられた永続的なものを見るのではなくて、現実で行為することを通じてはじめて、新たな世界が顕わになると考える」ところです。
つまり、神やら宇宙意識やらといった実体をまず措定するのではなく、それらは行為することを通して、はじめて開かれてくるものと考えます。
また自己の側も、独立した意識というものが単独で行為するのではなく、世界の側からの限定作用を受けながら、自己や世界を創っていくのです。
要するに。人は自らの自由のもとで行為をはじめますが、次第にそれが熱を帯びてくると、自ずからの場の力が行為を導くのです。これが、場所の哲学の基本的な考え方です。
7-3あらためて、ライターズハイをみる

上記の場所の哲学の観点から、改めてライターズハイ(文章の自走性)について、考え直してみます。
〇定義
書き始めて熱が入ると、文章それ自体が自己展開する。
ライターズハイはまさに、場所の力を言い表した言葉だったのです。「私を超えたものの力を借りる」とか「身体で書く」という表現が出てくるのも、主体が世界と一つになって制作するからです。
〇重要性(特徴)
書き手も読み手も見知らぬ世界に連れていかれ、驚きや喜びを感じさせる。
文章が自走するときは、熱の入った書き手の行為を通して世界自体が新たな姿を垣間見せます。だからこそ、書いた本人にとっても未知の世界の開けが訪れるのです。
〇方法
文章を自走させるには、十分な準備と現在の出来事への徹底が必要である。
この点に関しては、場所の哲学の中でも、とりわけ、アメリカの哲学者デューイの芸術論を参照して考えました。
少しだけ紹介しますと。
「それ自体に名前がつくような、いい経験だった」と印象に残る「一つの経験」が成立するには、
①出来事から湧く現在の感情への徹底と
②それによる過去から沈殿していたものの昇華
という2つの要素が必要であるとされます。
そこで文章を自走させ「いい文章」を生み出すためにも、
①頭で事前に考えていたものを表現するのではなく、「筆が乗る」中で自ずから朧げに見えてきたものに徹底的に耳を傾けること
②そうした行為に触発されて、日常の中で忘れていたことが浮かび上がる
という2つの要素が必要なのでした。
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日常生活において行動するとき、それは何か外部からの必要性(目的)に駆動されて、そのための手段として行動します。掃除のように、「つまらんけど、やらんとなあ」と思って行動をはじめることも多いのです。
しかし行為に熱が入ってくると、「なんかやる気が湧いてきた」となることがあります。そのときの行為は、行為それ自体によって駆動されています。つまり手段であったはずの行為それ自体が目的となり、その行為自体が充足感を感じさせるのです。
繰り返しになりますが、ライターズハイも、こうした自己駆動の力に乗ることなのです。だからこそそれは、目的と手段が乖離しつまらなくなる日常生活を刷新し、実は私の行為は世界の行為でもあったのだと思い出させ、切り離されていた世界との連続性を回復させてくれるのです。
その結果、書いても読んでも、「いい経験をしたなあ」という印象を残す。
「いい文章」は、芸術作品なのです。
おわりに
とても長いシリーズをここまで読んでくださり、心から感謝いたします。
第一回にも書いたのですが、ライターズハイというテーマは、私が最も強い思い入れを持っていることの一つです。
今回でいったんシリーズは終わりますが、今後も継続して考えたいと思っています。
せっかく読んでくださったあなたもぜひ、この勢いに乗って、コメントを書いていただければと思います。感想でも意見でも思いつきでも、なんでもかまいません。何か刺さることがあったのであれば、私は満足です。
それでは改めて、お疲れさまでした。
また別の記事でお会いできれば幸いです。
ごきげんよう~

