家康が築いた駿府城の発掘現場で400年前に想いを馳せる
東京六本木の国立新美術館で
リビングモダニティ展を鑑賞し
湯河原のペンションに泊まり
2日目は静岡市内へ大移動💨
欲望のままに行先を決めたら
移動の長い旅になってしまった🤣
ここまでの旅については
目次の関連記事に添付します
興味あればそちらもどうぞ🙌
念願の駿府城
宿のある湯河原から電車乗継ぎ
約2時間かけて降り立った静岡駅
そこまでして行きたかった理由…
実はよく分からないのが本音💦
もともと城郭好きやけど
駿府城は現存天守でもなく
復元された建物もごくわずか…
市街地の城跡の中では地味な存在
しかも静岡にありながら駿府?
現在の地名と異なってるので
城名だけやと場所も分かりにくい
歴史に疎かったら知らない人いそう…
というか僕自身が歴史に疎いので
数年前まで存在を知らなかった🤣
けどだからこそ知った時は衝撃的で
地理好きとして…聞き馴染みのない
駿府という名称にも興味が湧いて
いつか行きたい場所になった🙌
その後、知った経緯を忘れるくらい
放置してたけど昨年11月旅先宿のTVで
駿府城が紹介されてて気持ちが再燃🤩
その時の内容で家康との関係も知り
歴史的な角度からも興味が湧いた♪
昨年11月は駿府城と共に興味あり
家康の遺言により遺体が眠るとされる
久能山東照宮を訪問しました🍃

この時、久能山東照宮を見学後に
あわよくば駿府城も…と思ったけど
次の機会に持ち越しにしてた💨
一時は忘れてたけど
念願の駿府城にようやく行けた🙌
今回は現地で見て知ったことと
気になり調べた内容を書いてみます😆
駿府と静岡の由来
本題に入る前に…
個人的に一番気になったのは
城名になっている駿府という名称
現在の静岡市葵区(静岡中心市街地)には古代律令時代に駿河国の国司の政務を執る施設(国府、国庁、府中)が置かれた。駿府は駿河府中の略である。
律令時代以降も近世まで
駿府、府中、駿河府中と呼ばれ
江戸時代には単に府中といえば
駿府のことを指したそう
明治時代、駿府が徳川宗家のゆかりの地で、府中は不忠(国家に反する)に通ずるとして新政府に恭順の意を示すため改名、駿府に政庁を置いていた藩は静岡藩と命名された。
静岡の名称は駿府の北西に位置する
賎機山にちなみ賎ヶ丘となったが
藩学校頭取の向山黄村先生により
時世を思い土地柄を考え提案された
静ヶ丘即ち静岡が明治政府に採用された
駿府と静岡という2つの地名は
一見関連性が無さそうに感じたけど
時代と想いによるものやと分かった😄
前置きでしかないけど良い収穫♪
駿府城と徳川家康
1337年頃
今川館が築かれ今川氏の領国となる1549年(今川義元の時代)
徳川家康(幼名 竹千代)が人質として
19歳までの12年間を駿府で過ごす1560年
桶狭間の戦いで義元が討死したのを機に
今川氏から独立し家康に改諱する1568年
武田信玄が家康と共同で駿河侵攻を開始
薩垂峠の戦いで今川軍を破り今川館を占拠
のちに信玄は家康と遠江(静岡県西部)の
領有を巡り対立し家康は駿河侵攻から離脱

久能山東照宮は駿河侵攻で
駿河を制した武田信玄が築いた
久能城跡に造営され石垣が特徴的✨
家康は駿府に在城当時「久能山は駿府城の本丸と思う」と久能山の重要性を説いたと言われ、遺言により遺体は久能山に埋葬された。
対立した武田氏が築城した場所が
重要だと説き、埋葬場所にも指示…
一度は組んだ間柄でもあるので
戦いつつも尊敬はあったのかもな🙄
1582年
織田・徳川勢力により武田氏が滅亡し
駿河は徳川家康の支配下になった1585年(天正13年)天正期天守
家康により初めて天守が築造され
1589年完成(現在の二ノ丸以内の部分)1590年
豊臣秀吉の命により関東に入封(国替え)
豊臣系の中村一氏が城主となる1600年 関ヶ原の戦いに勝利
1603年 江戸幕府を開く1605年
将軍職を2代秀忠に譲った家康は翌年
大御所政治の拠点と定めた駿府に戻る1607年(慶長12年)慶長期天守
全国の大名に工事を負担させる天下普請で
大修築され1610年、3重の堀を持つ城郭が完成

天守台は石垣上端で約55m×48mという
城郭市場最大級の規模であったとされ
7階の天守が中央に建つ天守台の外周を
墨櫓や多聞櫓などが囲む特異な構造
1616年|家康が駿府城で死去
遺体は遺言により久能山に埋葬される1635年|城下火災で城の大半が焼失
御殿、櫓、城門等は再建されたが
城主がいないため天守は再建されず…明治以降
城郭施設は全て取り壊され
天守台が面する内堀は埋められた
天守台跡の発掘現場を見学
平成以降、一部の櫓や御門が復元され
2016年に天守台発掘調査が開始された🍃

発掘調査は2022年まで6年間行われ
様々な遺構が見つかったようです🤩
こういう発掘現場って
基本的には関係者以外入れなくて
限定的に見学会してるイメージやけど
ここでは見学ルートや案内が設置され
調査後の生々しい現場が見学できた


天守台発掘調査現場の概要(2025年7月現在)
・開館時間:9:00~16:30
・休場日:年末年始
・入場料:無料
発掘現場の見学は9月末で公開終了し
2027年度に屋外展示として再公開予定
整備後の方が見学しやすいと思うけど
生々しさは今の方があったかもな♪

天守台跡の発掘現場は広大で
石垣跡はほぼ地面と同じ高さのため
目視で全容を把握するのは難しい…
(欲を言えば見下ろしたい😄)

石垣の形状が分かり辛いのは
天正期と慶長期、2つの天守台が
重なるように配置されてるから…
天正期:1580年代後半
将軍になる前の家康が築城した時期
慶長期:1600年代初期
将軍を退いた家康が大改修した時期
時代ごとに色分し配置された
カラーコーンを目印に探ってみた♪
■慶長期天守台

2016~18年度の調査で慶長期(大御所家康)天守台の全容と石垣の残存状況を確認し、大きさが東西約61m×南北68mの日本一大きな天守台だと分かりました。

江戸時代に描かれた絵図によると
慶長期の天守台高さは12mだったが
上部は取り壊され発掘されたのは
堀の水面から地表までの約7m✨

慶長期の石垣は、加工した石を積む打込接という工法を使用。裏込め栗石の幅が広くなっている。

南西墨には周囲と石垣の積み方が異なる場所があります。これは宝永地震などにより崩れた石垣を積み直したものだと考えられます。
■天正期天守台

2018年度の発掘調査で、慶長期天守台の内側からそれとは異なる石垣が発見された。調査の結果、確認できた範囲で東西約33m×南北約37mの天守台だとわかった。この天守台は天正期のものだと考えられ、この時期の城の天守台としては最大級の規模です。

石垣は1~3m程度の石材が用いられ豊臣秀吉の大坂城にも匹敵するほど大きな石もあった。このことから巨石を選んで運び、高い石垣を積むという最新技術が用いられ、それを可能にする体制の存在が考えられる。また天守台の近くからこの時期の一部の豊臣方の城のみに使われる金箔瓦が大量に出土しました。

天正期の石垣は自然石を積む野面積みと言う工法を使用。石垣の勾配は比較的緩やかで裏込め栗石の幅が狭くなっている。

異なる時期の天守台が
重なるように発掘されてるので
一方の形状把握は難しかったけど
時期で石垣の積み方が違ってたり
2つの天守台を比較できたので
2倍楽しめたような気がします🤩
失敗したんは暑すぎてバテてしまい
隣接する資料館を見忘れたこと😨

9月末までに行く機会あれば…と思うが
無理なら2年後の公開時に再訪かな🙄
今回は天守台跡が目的だったので
他の遺構をほぼスルーしたのも心残り


内部は資料館になっていて
見学できるみたいなので
再訪時はこちらも併せて…😆

今後も何度か訪問すると思われる
駿府城公園散策を終えてて帰阪🚅

静岡駅から駿府城跡まで約500m
そして静岡の由来とされる
賎機山も近くに立地してました🍃
暑くなければ徒歩散策も楽やろな♪
2025.08.05追記
駿府城の詳細絵図が発見されたらしい✨
興味深い内容だったのでメモついでに添付
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