第51話 聖書って、結局なんなの?|この一冊で、私は「神の子」だと知った。
天の父からのラブレター。人生の説明書。
そして私に、「あなたは誰なのか」を教えてくれた本。
それが今の私にとっての、聖書です。
世界でずっと読まれているのに、私はほとんど知らなかった。
聖書。
名前を知らない人は、おそらくほとんどいないと思う。教会、十字架、イエス・キリスト、クリスマス。映画や漫画の中にも、聖書をモチーフにした表現はたくさん出てくる。
ホテルの部屋で聖書を見たことがある人もいるかもしれない。聖書は長い歴史の中で、国も言語も文化も超えて読み継がれてきた、世界で最も広く届けられてきた本の一つだ。
でも以前の私は、その中身をほとんど知らなかった。
名前は知っている。でも、ちゃんと読んだことはない。それなのに「キリスト教の本でしょ?」くらいに思っていた。
今考えると不思議だ。これだけ長い間、人々が読み続けてきた本なのに、私は中身をほとんど知らないまま判断していた。
そして今。
Buddhaの弟子として生きていた私が、イエス・キリストの弟子となり、毎日のように聖書を開いている。
人生って、本当に分からない。笑
聖書は、「一人の人が書いた一冊の本」ではない。
聖書をちゃんと知り始めた時、まず驚いたことがある。
聖書は一冊の本のように見えて、実際には旧約聖書と新約聖書に分かれ、長い時代を通して、さまざまな人の手によって書かれている。王もいれば、預言者もいる。漁師もいれば、医者もいる。生きた時代も立場も違う。
では、「結局、人間が書いた本なんじゃないの?」と思うかもしれない。
もちろん、人間の手は使われている。
しかし聖書自身は、こう語っている。
「聖書はすべて、神の霊感によるもの」
テモテへの手紙第二3章16節
また、人々が自分勝手な考えによって神のことばを作り出したのではなく、聖霊に動かされて神から語ったのだと記されている。
ペテロの手紙第二1章21節
だから私は今、聖書を「神の霊によって、人の手を用いて書かれた御言葉」として受け取っている。
ただの古典でも、昔の宗教書でもない。
今を生きる私に語りかけることばだ。
私にとって聖書は、天の父からのラブレターになった。
私は2歳の頃に両親が離婚し、父を知らずに育った。長い間、自分の中に何かポッカリと穴が空いているような感覚があった。
音楽、仲間、仕事、家族。いろいろなもので埋めようとした。でも、どうしても埋まらない場所があった。
イエス・キリストに出会い、聖書を知って、私は初めて神様を「父」と呼ぶ世界を知った。
そして、ある一つの言葉が私の中に深く入ってきた。
私は、神の子です。
何かを成し遂げたからではない。人より立派だからでも、宗教に詳しくなったからでもない。
聖書には、イエス・キリストを受け入れた者には、神の子どもとなる特権が与えられると書かれている。
ヨハネの福音書1章12節
さらに御霊によって、私たちは神様を「アバ、父よ」と呼ぶ。
ローマ人への手紙8章15〜16節
ガラテヤ人への手紙4章6節
※「アバ、父よ」という言葉は、新約聖書の中で神に対する最も親密な呼びかけとして使われています。アラム語の「アバ(父)」とギリシャ語の「パテール(父)」を組み合わせた表現で、当時の子供が父親に向ける「パパ」のような深い信頼と親しみを表しています。
遠くにいる神様へ、なんとか願いを届けるだけではなかった。
父と子だった。
このことは、私の人生を大きく変えた。
「お父さん。ラップがしたいです。」
天の父の愛を知った後、私はある日、スタジオで一人号泣した。
私は本当は、もう一度ラップがしたかった。でも年齢、仕事、家族、自信のなさ。いろいろな理由をつけて、自分の中にある願いを隠していた。
その時、私は天の父に子どものように叫んだ。
「お父さん。ラップがしたいです。」
それが、私がもう一度マイクを握る大きなきっかけになった。
でも実は、その少し前から音楽を通して私を導いてくれていた人がいた。
Speedy UJというラッパーだ。
私たち家族に真理を伝え、JTMへつないでくれた大切な存在でもある。
最初の私は、彼と一緒にラップをしていたわけではなかった。レコーディングエンジニアとして録音をし、MVを撮り、裏方として彼の働きを助けていた。
そんなSpeedy UJから、ある時言われた。
「そろそろチャンティさんもラップしませんか?」
私は、やる。いや、やらない。やっぱりどうしよう。
そんな感じだった。笑
そしてその後、神様との体験を通して、私はもう一度ラップを始めることになる。
Pistissという名前。
God Spell Musicで活動する時、私は「Pistiss」という名前を使っている。
ちなみに、この名前にはちょっとした由来がある。
妻はシルバーアクセサリーを作っていて、その名前として「PISTIS」とつけた。
そして、その言葉を気に入っていた。
「PISTISっていいよね。」
※「信仰」や「忠誠」の意味があることば
そんな話を聞いて、私も「それ、かっこいい」と思った。そして私は「Pistiss」を名乗るようになった。
妻は、PISTIS。
私は、Pistiss。
よく見ると、私の方は最後のSが一つ多い。
そこには実は、まだ話していない意味もあるのだけれど……
それは、まだ内緒にしておこう。笑
Pistisという言葉には「信仰」という意味がある。
私は、信仰を持ちたかった。御言葉にとどまりたかった。神様を信頼する者でありたかった。
そして今の私は、信仰とは単に頭の中で「神様はいると思います」と言うことではないと感じている。
信頼すること。従うこと。
そして、愛すること。
神様は、愛だからだ。
最初に作った曲のタイトルは、『KAMINOKO』だった。
私がGod Spell Musicの流れの中で最初に作った曲。
そのタイトルが、『KAMINOKO』だった。
今振り返ると、ものすごいタイトルだと思う。
ただし、ここは正直に書いておきたい。
当時の私は、今ほど聖書を知らなかった。自分で聖書を何年も研究して、大量の聖句を選び抜き、深い理解から歌詞を書いたわけではない。
私がやっていたのは、もっと単純だった。
ロギオンから語られる御言葉に、とどまりたかった。
JTMのリーダーであり、私が霊的父として慕い、預言者として受け取っているロギオンが語ることば。その中から御言葉を拾い、聖書を開き、それを音楽にしていった。
Speedy UJも、そのようにGod Spell Musicをしていた。
God Spell Music youtubeリンク
御言葉を音楽に乗せる。語られたことばにとどまり、それを世界へ放っていく。
それが、私が見て学んだGod Spell Musicだった。
だから『KAMINOKO』には、
「我らJTM 神の子 御言葉のつるぎ」
「闇を打ち消す 光あれ」
「Jesus Christ あなたの弟子」
「生きたことばで完全勝利」
「涙なしじゃ語れない十字架」
そして、
「敬愛なるアバ、父よ」
といった言葉が入っている。
創世記1章3節。詩篇23篇4節。マタイの福音書7章7節。マルコの福音書14章36節。ガラテヤ人への手紙4章6節。ペテロの手紙第一2章2節。
たくさんの御言葉が、一曲の中に流れている。
でも今おもしろいと思うのは、あの時の私は、そのすべてを今ほど理解していなかったということだ。
全部分かっていたから歌った、というより、
まず、とどまった。
そして1年以上もかけて、あの時歌っていた御言葉の意味を、自分自身の人生で少しずつ知るようになった。
神の子。御言葉。弟子。十字架。アバ、父。見えない敵との戦い。生きたことば。
51話まで歩いてきて、ふと振り返る。
最初の一曲に、もう種が蒔かれていた。
それが私には、とてもおもしろい。
▶ 『KAMINOKO』Music Video
※YouTubeリンク(RAP_feat.長男)
息子を弟子訓練していると思っていた。
はじめは1人で歌っていたが、やがてこの『KAMINOKO』。を長男と一緒に歌うようになった。
親子でラップする。親子で賛美する。親子でステージに立つ。親子でGood Newsを伝える。
父親である私から、息子へ御言葉を伝えていく。
私は、息子を弟子訓練しているつもりだった。
でも、ある時ふと思った。
いや。私も、弟子訓練されている。
私が息子に祈ることを教える。その横で、私は天の父から祈ることを教えられている。
私が息子に御言葉にとどまることを教える。そして私は、ロギオンや神の家族を通して、御言葉にとどまることを教えられている。
私が息子へ愛することを教える。でも私自身が、天の父から愛することを学び続けている。
父から、子へ。
そして、その子から次の世代へ。
そこには知識だけではなく、愛、信仰、希望、御言葉、生き方が流れている。
私は、「一人で聖書を読めば全部分かる」とは思っていない。
ここで一つ、正直に書いておきたい。
私は長い間教会にいた人間ではない。キリスト教界全体を知っているわけでもなければ、他の教会について詳しく語れるほどの経験もない。
だから「あの教会はこうだ」「この牧師はこうだ」と評価するつもりはない。
ここから書くのは、あくまで私が実際にJTMという神の家族の中で受け取ってきた証だ。
私たち夫婦にとって、ロギオンとエリカ牧師は、とても大切な霊的父母だ。
私は二人の話している内容だけではなく、夫婦の姿を見ている。どう愛しているのか。どう家族に仕えているのか。人から見えないところで、どう生きているのか。
さらにその上の世代にはロギオンこと岡野義喜のご両親である、岡野俊之牧師、めぐみ牧師たちがいる。
私は「ただ愛する」という生き方を、言葉だけではなく、夫婦、親子、家庭、日常の中で御言葉を生きる姿として見てきた。
聖書を教えるだけではない。
その御言葉を、どう生きるのか。
その実を、私は見ている。
水のバプテスマでもらった、一冊の聖書。
さらにその上の世代に、尾山令仁牧師がいる。
ロギオンのおじいちゃんにあたる牧師だ。
私は水のバプテスマを受けた時、Speedy UJから一冊の聖書をプレゼントしてもらった。
『現代訳聖書』。
今でも私は、この聖書をよく開いている。
後になって、『現代訳聖書』が尾山令仁牧師によって長い年月をかけて訳されたものだと知った。
日本人、特に聖書に馴染みのない人にも、少しでも意味が伝わるように。読んで分かるように。
長い年月を注いで、旧約・新約66巻を日本語にしていった。
私はそれを知った時、正直驚いた。
「え……これ、本当に一人でやったの?」
何十年という時間だ。
ことばを調べる。背景を調べる。祈る。考える。そして、日本人へ届く言葉にする。
私はそこに、ただ翻訳技術のすごさだけではなく、愛を感じた。
一人でも多くの人に、この御言葉を届けたい。聖書を知らない日本人にも、神様のことばを読んでもらいたい。
一人の人が、そこへ人生の時間を注いだ。
私はそれを知った時、胸が熱くなった。
御言葉にとどまることは、愛にとどまること。
JTMで、私は何度も聞いてきた。
「御言葉にとどまりましょう。」
最初は、「聖書をたくさん読めばいいということかな?」くらいに思っていたかもしれない。
でも今は、もう少し違う感覚がある。
聖書には、
「神は愛です。」
ヨハネの手紙第一4章8節
と書かれている。
さらに、愛のうちにとどまる者は神のうちにとどまる、と語られている。
ヨハネの手紙第一4章16節
だから私にとって、御言葉にとどまることは、愛にとどまることでもある。
自分の感情だけで判断しない。世の中で流行っている価値観だけで自分を決めない。人から何と言われたかだけで、自分の価値を決めない。
父が、私をどう呼んでいるのか。
そこへ戻る。
「私は役に立たない」ではなく、「私は愛されている」。
「私は一人だ」ではなく、「私は父に知られている」。
「私はこの世界の評価だけで決まる」ではない。
聖書は、私たちの国籍は天にあると語っている。
ピリピ人への手紙3章20節
これは、現実から逃げろという話ではないと私は受け取っている。
むしろ、自分がどこに属しているのかを知った上で、この地を生きる。
神の子として、この家庭を愛する。働く。赦す。祈る。仕える。Good Newsを届ける。
そのために、御言葉へ戻る。
祈りも、変わった。
以前の私にとって祈りは、何かをお願いするものだった。
でも今は違う。
祈りは、父との会話になった。
聖書を読むほど、私は「目に見えるものだけが、すべてではない」という世界を知るようになった。
聖書は、私たちの戦いが単なる血肉に対するものだけではないと語っている。
エペソ人への手紙6章12節
そして、見えるものが目に見えるものからできたのではないことも語っている。
ヘブル人への手紙11章3節
昔の私は、量子力学やスピリチュアルな世界にも、「見えない世界の答え」があるのではないかと探していた。
でも今、私が見ている方向は違う。
見えない世界そのものを追いかけたいのではない。
見えるものも、見えないものも造られた神様を知りたい。
そして、その父に祈る。
祈りは、私が自分の力で世界を操作するためのテクニックではない。父を信頼すること。御言葉に同意すること。自分ではどうにもできないことさえ、神様へ委ねること。
私は祈りによって、家庭が変えられていくことも、自分自身の心が変えられていくことも、実際に経験してきた。
聖書は、昔話ではなかった。
そして私がJTMにいて衝撃を受け続けているのは、聖書に書かれている「愛」が、本の中だけにないことだ。
子ども食堂に携わり、家庭に居場所がない子どもたちへ、食事だけではなく愛を届けている人たちがいる。
愛し方が分からなかった親。愛されていることを知らなかった子ども。孤独だった人。
そこへ、普通の主婦が出ていく。普通のお父さん、お母さんが出ていく。
ご飯を作る。話を聞く。祈る。福音を伝える。
そこで、一日に何人もの人がイエスさまを信じ、救いを受け取っていくことさえある。
私は思う。
聖書って、昔話じゃないんだ。
二千年前に終わった話ではない。
御言葉を受け取った人が、今日誰かを愛する。愛された人が、次の誰かを愛する。
父から子へ。子から、また次の世代へ。
御言葉が、人の中で生きている。
だから今、私は聖書を“推している”。
ここまでかなり真面目に書いてきたけれど、ものすごく簡単に言えば、
今の私は、聖書を推している。笑
まさか自分が、聖書の推し活をするようになるとは思わなかった。
昔の私が聞いたら、たぶん驚く。
でも私は、まだ全部分かったわけではない。分からないところなんて、いくらでもある。
私なんて、まだ入口だと思う。
それでも一つだけ、はっきり言える。
この本を開く前と、開いた後で、私の人生は変わった。
私は、自分が誰なのかを探していた。
音楽の中で。人からの評価の中で。Buddhaの教えの中で。スピリチュアルの世界で。自分自身の内側で。
でも、私を造られた方のことばを読むようになって、少しずつ分かってきた。
私は、偶然ここにいるのではない。
私は、知られている。
私は、愛されている。
そしてイエス・キリストを通して、
神の子として生きる道が与えられている。
まとめ|聖書とは、私にとって何なのか。
聖書は、神の霊によって、人の手を通して書かれた御言葉。
天の父からのラブレター。
人生の説明書。
そして、愛されるために何を達成すればいいかを教える本ではなく、すでに愛してくださっている父を知っていく本。
私にとって聖書は、
「あなたは神の子だ」
という、自分の本当のアイデンティティーを教えてくれた本になった。
『KAMINOKO』を書いた頃、私はまだ、その意味を今ほど知らなかった。
でも、まず御言葉にとどまった。そして少しずつ、その意味を人生の中で知っていった。
もしかしたら信仰とは、全部理解してから歩き出すことではないのかもしれない。
父を信頼して、今日与えられた御言葉にとどまり、一歩ずつついていく。
私にとって、それが弟子としての歩みなのだと思う。
そして次に知りたい。
「神の子として生きる」って、いったいどういうことなのか。
ただ「神様に愛されているよ」というだけではない。
聖書が語る、神の子の身分。天の国籍。父と子。御言葉。権威。祈り。
ここから私は、もう少し奥へ入ってみたい。
聖書の奥義へ。
そして、その中心におられる、
イエス・キリストへ。
Buddhaの弟子から、キリストの弟子へ。
痛みは証に。光は闇に勝つ。
Blessings to you.
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