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30話 イエス・キリストの弟子とは何か?|愛された者が、愛する者へ。


神さまを求めていた私が、泣きながら「ラップがしたいです」と言った日から。


天の父を知り、私はイエスさまについて行く。


前回、

ソロモン王の知恵とAIについて書きました。

私たちは今、

分からないことがあれば、

すぐに答えを検索できる時代を生きています。

でも、

答えを知ることと、

その答えを生きることは、

同じではない。

そして私は、

29話の最後に、

一つの問いを書きました。

イエスさまは、

「わたしについて来なさい」

と言われた。

では、

イエス・キリストについて行くとは、

一体どういうことなのだろう。

イエス・キリストの弟子とは、

何なのだろう。

私は、

この問いについて書くなら、

まず、

自分がどうやってイエスさまの弟子として歩き始めたのか。

そこから書かなければいけないと思います。

私の弟子への道は、「ラップがしたいです」から始まった。


ある日、

私は神さまを求めて祈っていました。

当時の私は、

神さまについて、

ただ頭で理解したいと思っていたわけではありませんでした。

私は昔から、

かなりの体験型です。笑

人から、

「神さまはいるよ」

と言われただけでは、

なかなか信じられない。

だったら、

本当に神さまがおられるなら、

私は自分で体験したかった。

神さま。

本当にあなたがおられるなら、

私にも分かるようにしてください。

あなたを体験させてください。

そんな思いで、

私は祈っていました。

すると、

突然でした。

涙が溢れてきた。

悲しいことを思い出したわけでもない。

誰かに何かを言われたわけでもない。

でも、

涙が止まらなくなった。

そして、

自分でも思ってもいなかった言葉が、

心の奥底から出てきました。

「ラップがしたいです。」

……。

神体験を求めて祈っていた人間が、

泣きながら、

「ラップがしたいです」

です。笑

今思い返しても、

ちょっと面白い。

でも、

私にとっては、

人生を変えるほど大きな出来事でした。

天の父は、私よりも私を知っていた。


なぜ、

ラップだったのか。

私は今、

こう思っています。

天の父は、

私自身よりも、

私のことを知っておられたのではないか。

私が、

頭で説明されただけでは、

なかなか信じられない人間だということ。

自分で体験して、

自分で確かめたい人間だということ。

そして、

私自身が心の奥へ押し込めて、

もう諦めかけていたものまで、

神さまは知っておられた。

ラップがしたい。

音楽がしたい。

自分の声を使いたい。

その思いを、

私はずっと持っていました。

でも、

いつしか、

自分で蓋をしていたのです。

「求めなさい。」


聖書には、

イエスさまのこんな言葉があります。

「求めなさい。そうすれば与えられます。」

マタイの福音書7章7節。

私は、

最初から聖書を全部知っていたわけではありません。

むしろ、

神さまを求め、

神さまを体験した後で、

聖書を知っていきました。

すると、

驚くことがありました。

自分が体験したことと、

聖書に書かれていることが、

つながっていく。

求める。

祈る。

神さまが答えてくださる。

もちろん私は、

「不思議な体験をしたから何でも信じる」

という信仰になったわけではありません。

むしろ、

体験したことを、

聖書の御言葉を通して、

少しずつ確かめていった。

私は、

ここがとても大切だと思っています。

体験が聖書より上なのではない。

聖書の御言葉を土台に、

神さまを知っていく。

そして、

私が出会ったJTM(Jesus Tribe Ministries)も、

根っからの聖書信仰です。

人間が何と言っているかではなく、

聖書に何と書いてあるのか。

神さまは、

何と語っておられるのか。

御言葉に戻る。

私は、

その歩みの中で、

少しずつ育てられていきました。

でも、なぜ私はラップを諦めていたのか。


そもそも、

私は20歳頃、

ラップを始めました。

理由は、

今だから正直に言います。

モテたかったからです。笑

本当に、

最初はそんな動機でした。

そして、

実際にモテました。

とてもモテました。

私は若い頃、

100人を超える女性と関係を持つような生き方をしていました。

友人からは、

「100人斬りのチャンティ」

なんて呼ばれたこともありました。

さらに、

私の周りに女性がたくさんいる様子を見た友人から、

「チャンティ牧場」

なんて言われたことまであります。

今書くと、

笑い話のように見えるかもしれません。

でも、

私は今、

その生き方を誇りたいとは思いません。

むしろ、

心から悔い改めています。

当時の私は、

人の心よりも、

見た目を見ていました。

自分がどう見られるか。

誰にモテるか。

どれだけ注目されるか。

自分に価値があると、

誰かに証明してもらいたかったのかもしれません。

ラップも、

自分を表現するGiftであると同時に、

自分を大きく見せるための道具にもなっていました。

痛みと、ラップに出会った頃の証


20歳の頃から始まったラップ。

自分を証明したかった私。

人から認められることで、

自分の価値を確かめようとしていた私。

音楽と私の痛みについては、

こちらの記事にも書いています。

3話 言葉にできなかった痛みが、音楽になった日。

人を見た目で見ていた私が、見た目で苦しむ側になった。


20代に入り、

私は、

自分の髪の毛が少しずつ薄くなっていくことに気づきました。

いわゆる、

若ハゲです。

それまでの私は、

外見の世界で生きていました。

若い。

モテる。

ちやほやされる。

見た目がいい。

そんなことに、

自分の価値を置いていた。

そして恥ずかしいことに、

髪の毛が薄い人を、

馬鹿にしたこともありました。

でも今度は、

自分の髪の毛がなくなっていった。

これは、

私にとって、

ものすごいショックでした。

それまで、

女性からちやほやされることで、

自分の価値を感じていた人間です。

だから、

髪がなくなっていくことが、

まるで、

自分の価値までなくなっていくように感じた。

本気で、

「もう生きている価値がないんじゃないか」

とまで思いました。

でも、

私はそこで、

初めて分かるようになったことがあります。

人に笑われる痛み。

コンプレックスを抱える苦しさ。

見た目で判断される辛さ。

自分がかつて馬鹿にしていた側ではなく、

自分が苦しむ側に立った時、

初めて見えるものがあったのです。

エリシャも、「はげ頭」と馬鹿にされた。


聖書を読むようになって、

私はある意味、

衝撃的な箇所にも出会いました。

列王記第二2章。

預言者エリシャが歩いていた時、

若者たちが、

彼を馬鹿にします。

「はげ頭よ、上って行け。」

そんなふうに、

彼の外見を嘲りました。

その後、

二頭の雌熊が森から出てきて、

彼らのうち42人を傷つけるという、

とても恐ろしい出来事が記されています。

もちろん私は、

これを単純に、

「ハゲを馬鹿にしたら熊に襲われるぞ」

という話として読みたいわけではありません。笑

でも、

私は自分自身の人生を振り返って思います。

人を馬鹿にすること。

誰かの弱さを笑うこと。

外見だけで人の価値を決めること。

それは、

決して小さなことではない。

私は、

自分が馬鹿にしていたものを、

自分自身が経験することになりました。

そして、

その痛みを知った。

今では、

これも、

私の心を変えるために神さまが用いてくださった経験だったのではないかと感じています。

【エリシャとエリヤの師弟関係に触れた記事も書いていますので興味がある方は是非】
28_STAR WARSとエリヤとエリシャ

私は、イエスさまを知る15年ほど前に、謝り歩いた。


30歳頃のことです。

中学校の同窓会がありました。

100人を超える同級生が集まる、

大きな会でした。

その時、

私は、

一席一席を回りました。

そして、

自分が過去に傷つけた人。

嫌な思いをさせた人。

馬鹿にした人。

そういう人たちに、

謝りました。

「ごめんなさい。」

一人ひとりに、

謝って回った。

これは、

私がイエス・キリストと出会う、

およそ15年も前のことです。

当時の私は、

聖書が語る「悔い改め」という言葉を、

今のようには知りませんでした。

でも、

自分の罪を抱えたまま生きることが、

とても苦しかった。

罪意識を持ち続けることが、

どれほど人を重くするのか。

私は、

自分の人生で感じていました。

だから、

謝りたかった。

やり直したかった。

できることなら、

過去を変えたかった。

私は、

救いを求めていたのだと思います。

でも、人間には、自分で消せない過去がある。


謝ることは、

とても大切だと思います。

悔い改めることも。

自分が傷つけた人に、

誠実に向き合うことも。

でも、

私は後に知りました。

人間には、

どれだけ後悔しても、

自分では完全に消すことのできないものがある。

過去。

罪。

傷。

自分が誰かにしてしまったこと。

そして、

自分がされたこと。言われたこと。

どれだけ頭で整理しても、

どれだけ謝っても、

自分自身では完全に救えない領域がある。

だから、

イエスさまが来られた。

私は、

そう知るようになりました。

イエス・キリストは、

私に、

「もっと良い人間になってから来なさい」

とは言われなかった。

私の罪を背負い、

十字架へ行かれた。

罪のないお方が、

私たちのために死なれた。

そして、

三日目によみがえられた。

罪と死に、

勝利された。

これが、

Good News。

福音です。

私は、

自分で自分を救う道ではなく、

イエスさまに救っていただく道を知りました。

イエス・キリストと十字架について、もっと知りたい方へ。


なぜ神の子イエスさまが十字架へ向かわれたのか。

その意味については、

こちらの特別編に書いています。

特別編 イエス・キリストと十字架。|なぜ神の子は、苦しみを知りながら従われたのか。

福音、Good news(良い知らせ)についても記事にしております。
26話 お母さんへのラブレター

私の心の奥には、もっと古い痛みもあった。


私は、

父を知らずに育ちました。

幼い頃、

私たち親子は、

本当に苦しい時期を経験しました。

母と共に、

踏切まで行ったことがあります。

命を終わらせることまで考えるほど、

追い詰められていた時がありました。

幼い私には、

世界の仕組みなんて分からなかった。

なぜ自分には父がいないのか。

なぜこんなに苦しいのか。

どうして生きなければいけないのか。

分からなかった。

今、私は父親になりました。

そして、

世の中を見ていると、

あの頃の私のような子どもたちが、

今もたくさんいるのではないかと思います。

お父さんがいない。

お母さんがいない。

家庭が壊れている。

誰にも愛されていないと感じている。

学校へ行けない。

自分に価値がないと思っている。

生きる意味が分からない。

消えてしまいたいと思っている。

私は、

そんな子どもたちを、

もう見過ごしたくありません。

なぜなら、

私も、

そこにいたからです。

幼少期――父を知らずに育った私の証


父を知らずに育ったこと。

家庭の痛み。

幼い頃に感じていた孤独。

その原点については、

こちらの記事に詳しく書いています。

1話 幼少期の始まり。|父を知らずに育った少年

そんな私が、「天の父」を知った。


私は、

地上の父を知らずに育ちました。

でも、

神さまを求めた先で、

私は、

天の父を知るようになりました。

私を造られた方。

私が生まれる前から、

私を知っておられる方。

私自身が忘れていた、

「ラップがしたい」

という思いまで、

知っておられた方。

私は、

ただ宇宙のどこかにいる、

大きな力を知ったのではありません。

父を知った。

そして、

聖書にはこう書かれています。

「神は愛です。」

第一ヨハネ4章。

神さまから離れるということは、

ただルールから離れることではない。

愛の源から離れていくこと。

逆に、

神さまへ帰るということは、

愛の源へ帰ること。

私は、

天の父を知り、

その愛を知るようになりました。

地上の父を知らなかった私が、天の父を知った証


父親になる前に、

私はまず、

「子として愛されている」

ことを知る必要があったのだと思います。

その証については、

こちらの記事に詳しく書いています。

5話 心のポッカリを満たした父の愛。|地上の父を知らず、天の父に出会った日

Buddhaの弟子だった私が、イエス・キリストを知った。


私は以前、

Buddhaの弟子として歩んでいました。

なぜ人は苦しむのか。

どうすれば、

苦しみから自由になれるのか。

私は、

ずっと答えを探していました。

だから、

「弟子」という言葉は、

私にとって、

もともと遠いものではありませんでした。

でも、

天の父を知り、

聖書を読み、

私は、

イエス・キリストというお方を知るようになりました。

そこで、

私の人生は、

大きく変わっていきます。

私は、

新しい教えを知っただけではなかった。

一人のお方と出会った。

そして、

イエスさまは、

人々に言われました。

「わたしについて来なさい。」

私は、

その言葉を知った。

天の父を知り、

イエス・キリストを知り、

私は、

このお方について行きたいと思った。

Buddhaの弟子から、

キリストの弟子へ。

私は、

イエス・キリストに弟子入りしたのです。

弟子になるとは、自分のGiftを捨てることではなかった。


私は、

ある時期、

ラップをやめていました。

正確には、

心の中へしまい込んでいました。

理由は、

現実的でした。

仕事をしなければならない。

家族を守らなければならない。

お金を稼がなければならない。

ラップをしても、

すぐにお金になるわけではない。

私は、

売れっ子のアーティストでもない。

年齢も重ねた。

見た目も若い頃とは違う。

今さら私がラップをして、

誰が聴くんだ。

そんなふうに、

私は勝手に決めつけていました。

だから、

私は思った。

自分は、

レコーディングエンジニアとして、

若いアーティストたちを輝かせる側に回ればいい。

自分が表へ出る時代は、

もう終わった。

ラップは、

趣味。

今は、

趣味なんてやっている場合ではない。

家族を守るために、

仕事を優先しなければいけない。

私は、

そう思っていました。

でも、

神さまを求めて祈ったその日に、

私の心から出てきた言葉は、

「ラップがしたいです」

だった。

私は今思います。

神さまは、

私が自分で埋めたGiftを、

掘り起こしてくださったのだと。

「お父さん。ラップがしたいです。」


自分自身で封じ込めていたGiftを、

天の父がもう一度呼び起こしてくださった。

その神体験と、

私が再びマイクを握るまでの証は、

こちらに詳しく書いています。

6話 お父さん、ラップがしたいです。|自分を証明するためではなく、福音を届けるために。

昔は、自分を満たすためのラップだった。


20歳の私は、

モテたくてラップを始めました。

注目されたかった。

認められたかった。

自分には価値があると、

誰かに証明してほしかった。

でも今、

同じラップが、

まったく違う目的で用いられています。

私の声は、

同じです。

でも、

向かっている方向が違う。

昔は、

自分を見てほしかった。

今は、

聖書の中の、生きたことばを伝えたい。

昔は、

自分の価値を証明するために、

マイクを握っていた。

今は、

誰かに、

「あなたは愛されている」

と伝えるために、

マイクを握っている。

Giftそのものが悪かったのではない。

私が、

何のために使っているのか。

誰のために使っているのか。

そこが、

変えられたのです。

神さまが呼び起こしたGiftは、私一人で終わらなかった。


私が、

もう一度ラップをするようになりました。

すると、

長男Davyも、

ラップをするようになった。

妻Euniceも、

歌うようになった。

家族で、

音楽をするようになった。

教会の働きの中でも、

私たちの音楽Giftが、

用いられるようになりました。

今では、

小さな子どもたちまで、

私たちの音楽を聴いて、

楽しそうに踊ってくれる。

一歳くらいの子どもが、

音楽に合わせて踊っている姿を見る。

私の曲を口ずさむ若者がいる。

私は、

それらを見ると、

本当に嬉しくなります。

ライブが終われば、

JTMの神の家族から、

声をかけてもらいます。

「今日のライブ、良かったよ。」

「励まされたよ。」

「勇気をもらった。」

そんな言葉をいただくことがあります。

私たちの音楽は、

家族を励ますために用いられている。

そして時には、

伝道の入口にもなっています。

「なんか分からないけど、かっこいい。」


街の中で、

若者たちが音楽を聴いている。

そんな時、

JTMの仲間が、

私たちの音楽を紹介してくれることがあります。

「この曲、聴いてみて。」

すると、

最初は、

聖書の話なんて聞くつもりもなかった人が、

音楽を聴いて、

「え、なんかかっこいい。」

「なんか分からないけど、いいね。」

そこから、

心が開かれていく。

そして、

神さまの話へつながっていく。

イエスさまを信じるきっかけになることさえある。

私は、

そんな話を聞くたびに思います。

もし、

あの日、

私が心の奥にある

「ラップがしたい」

という思いを、

そのまま封印していたら。

もし、

「もう遅い」

「自分には価値がない」

「今さら無理だ」

と諦めていたら。

この音楽を通して、

Good Newsに出会う人も、

いなかったかもしれない。

神さまは、

一人ひとりにGiftを与えておられる。

私は、

そう信じています。

私から、息子へ。Giftは次の世代へ。


神さまが私の中で呼び起こしてくださった音楽のGiftは、

私一人では終わりませんでした。

次にマイクを握ったのは、

長男Davyでした。

父を知らずに育った私が、

今では息子と一緒にマイクを握り、

御言葉とGood Newsをラップしている。

私にとって、

これも神さまの回復の証です。

7話 小さなダビデが、マイクを握った日。|みことばの剣とランドセル。

証は、歌になり、家族へ広がっていった。


私のラップから始まり、

Davyへ。

そして、

妻Euniceの歌へ。

夫婦の賛美へ。

家族で届けるGood Newsへ。

神さまが私の中で再び灯してくださった小さな火は、

少しずつ家族へと広がっていきました。

6話から10話までの歩みをまとめた記事はこちらです。

10.5話 証は、歌になり、家族へ広がっていった。|6話〜10話の証とみことば

あなたの中にも、隠しているGiftがないだろうか。


昔、

やりたかったこと。

でも、

諦めたこと。

自分には無理だと思ったこと。

生活のために、

心の奥へしまったこと。

年齢を理由にしたこと。

見た目を理由にしたこと。

周りの評価を理由にしたこと。

あなたの中にも、

もしかすると、

神さまから与えられたGiftが、

眠っているかもしれません。

私は、

自分自身で、

自分の可能性に蓋をしていました。

でも、

天の父は、

私が自分を諦めても、

私を諦めていなかった。

私は、

そう感じています。

JTMという、神の家族。


イエスさまの弟子として歩き始めた私に、

神さまは、

JTM、

Jesus Tribe Ministriesという、

愛の家族を与えてくださいました。

JTMは、

根っからの聖書信仰です。

聖書に何と書かれているのか。

御言葉に戻る。

御言葉を信じる。

そして、

その御言葉を、

実際に生きる。

私は、

その中で育てられてきました。

一人で聖書を読んで、

一人で全部できるようになる。

それが弟子の歩みではありませんでした。

祈ってくれる人がいる。

共に歩く人がいる。

間違った時には、

愛をもって向き合ってくれる人がいる。

苦しい時に、

一緒に祈ってくれる人がいる。

私たち夫婦が、

壊れかけた時にも、

神の家族は、

私たちを諦めませんでした。

祈ってくれた。

向き合ってくれた。

愛してくれた。

そして、

私たちは、

少しずつ回復へ導かれていきました。

Jesus Tribe Ministries

私には、メンター、霊的な父母がいる。


私には、

霊的な父母と呼べる存在がいます。

JTMのリーダーである

ロギオン、岡野義喜牧師。

そして、

エリカ牧師。

ただ、

聖書を教えてくれる人ではありません。

共に歩み、

祈り、

育て、

時には向き合い、

イエスさまの弟子として生きることを、

人生を通して見せてくれる存在です。

そして、

ロギオンとエリカ牧師にも、

霊的父母として歩んでいる方々がいます。

RAAH。

Prophet Uebert Angel。

そして、

BB。

Prophetess Beverly Angel。

でも、

この霊的な継承の中心は、

人間ではありません。

中心におられるのは、

イエス・キリストです。

本当に大切な霊的な父母は、

自分を指して終わらない。

イエスさまを指し示す。

聖書を指し示す。

御言葉へ戻す。

そして、

弟子がまた、

イエスさまの弟子として歩くことを助ける。

私は、

その恵みの中で、

育ててもらっています。

弟子とは、完璧な人ではない。


私は、

今でも失敗します。

腹が立つこともある。

自分勝手になることもある。

妻を傷つけることもある。

子どもに対して、

もっと優しくできたはずだと、

後悔することもある。

だから、

「私はイエスさまの弟子です」

と言うことは、

「私は完成しました」

という意味ではありません。

私は、

今も、

学んでいる途中です。

今日も弟子。

明日も弟子。

一生、

イエスさまから学び、

ついて行く者でありたい。

弟子とは、

完璧な人ではない。

でも、

間違ったら、

戻る人。

転んだら、

またイエスさまを見る人。

自分が間違っていたと分かったら、

悔い改める人。

私は、

そういう人でありたいと思っています。

弟子のしるしは、「愛」。


イエスさまは、

弟子たちに言われました。

互いに愛し合うなら、

それによって、

あなたがたがわたしの弟子であることを、

人々が知る。

私は、

この言葉に、

弟子というものの核心があるように思います。

どれだけ聖書を知っているか。

どれだけ奇跡を体験したか。

どれだけ多くの人に知られているか。

それだけではない。

聖書にもあります、「神は愛です。」

だから、

神さまに近づけば、

愛へ近づいていく。

神さまから離れれば、

愛の源から離れていく。

もちろん、

弟子になった瞬間、

完璧に愛せるようになるわけではありません。

私も、

まだまだです。

でも、

イエスさまについて行く中で、

少しずつ、

愛された者が、

愛する者へ変えられていく。

私は、

それが弟子の成長なのだと思います。

私が子どもたちへ渡したいもの。


私は、

長男Davyに、

私と同じ人間になってほしいわけではありません。

私と同じラッパーに、

ならなければならないとも思っていない。

Davyには、

DavyにしかないGiftがあります。

次男にも、

次男にしかないGiftがある。

妻Euniceにも、

Euniceにしかない声がある。

弟子づくりとは、

自分のコピーを増やすことではない。

私が、

子どもたちへ渡したいのは、

私のスタイルではありません。

私が渡したいのは、

イエスさまです。

あなたは、

神さまに愛されている。

あなたには、

神さまから与えられたGiftがある。

あなたの人生には、

使命がある。

だから、

イエスさまについて行ってほしい。

そして、

あなた自身に与えられたGiftで、

誰かを愛してほしい。

誰かを励ましてほしい。

誰かを生かしてほしい。

Good Newsを、

次の人へ届けてほしい。

私が救われたのは、私一人のためではなかった。


あの日。

神さまを求めて、

祈っていた。

涙が溢れた。

そして、

「ラップがしたいです」

という言葉が、

心の奥から出てきた。

あの時、

私は、

自分の夢が戻ってきただけだと思っていたのかもしれません。

でも今、

振り返ってみると、

もっと大きなものが見えます。

そのラップを、

妻が支えている。

妻も歌っている。

息子もマイクを握っている。

小さな子どもたちが、

私たちの音楽で踊っている。

神の家族が、

その音楽に励まされている。

街の若者が、

音楽を入口に、

Good Newsへ心を開くことがある。

私は、

あの日、

自分一人のGiftだけを

取り戻したのではなかったのかもしれない。

神さまは、

その先にいる家族を見ていた。

その先にいる子どもたちを見ていた。

その先にいる、

まだ私が会ったこともない誰かを、

見ていたのかもしれない。

だから私は、苦しんでいる子どもを見過ごしたくない。


私は、

幼い頃、

父を知らず、

家庭の痛みの中で生きました。

母と共に、

命を終わらせることまで考えるほど、

追い詰められたこともありました。

だから今、

苦しんでいる子どもを見たら、

他人事だと思えません。

「どうせ自分なんて。」

「生きていても意味がない。」

「誰も自分を愛してくれない。」

そんなふうに思っている子どもがいるなら、

私は伝えたい。

あなたは、

偶然生まれたのではない。

あなたは、

神さまに愛されている。

あなたには、

Giftがある。

あなたの人生には、

まだ続きがある。

あなたが今、

闇の中にいるように感じても、

光はある。

私は、

そこから救い上げられた一人だから、

それを伝えたい。

闇から、光へ。


私の人生には、

たくさんの闇がありました。

父を知らない痛み。

家庭の苦しみ。

自分の価値を、

女性や見た目に求めたこと。

人を傷つけたこと。

人を馬鹿にしたこと。

罪悪感。

コンプレックス。

自分のGiftを諦めたこと。

でも、

神さまは、

その一つ一つを、

今、

証に変えてくださっています。

痛みがあったから、

痛んでいる人が見える。

馬鹿にした過去があるから、

人を馬鹿にしてはいけないと、

子どもたちに実体験として伝えられる。

罪を抱えて苦しんだから、

悔い改めの大切さを伝えられる。

Giftを隠したから、

自分のGiftを諦めている人に、

「まだ遅くない」

と伝えられる。

私は、

これが、

神さまの贖いなのだと思っています。

イエス・キリストの弟子とは何か。


私は、

まだ、

その答えを、

人生を通して学んでいる途中です。

でも、

今の私に言えることがあります。

弟子とは、

イエスさまについて知っているだけの人ではない。

イエスさまを愛し、

イエスさまについて行き、

その御言葉を、

自分の人生で生きようとする人。

そして、

イエスさまから受け取った愛を、

次の誰かへ渡していく人。

私は、

そんな弟子として生きたい。

弟子は、一人で終わらない。


私が愛された。

だから、

今度は誰かを愛する。

私が祈ってもらった。

だから、

今度は誰かのために祈る。

私の家庭が、

回復へ導かれた。

だから、

今度は他の家庭の回復を願う。

私にGiftがあると知った。

だから、

今度は子どもたちへ伝える。

あなたにも、

Giftがある。

あなたにも、

使命がある。

弟子が、

また次の弟子を育てていく。

愛された者が、

また次の人を愛する。

私は、

そこから、

国さえ変わっていくのではないかと思っています。

国づくりプロジェクト。


一人の人が、

イエスさまの愛を知る。

その人が、

家へ帰る。

妻を愛する。

夫を愛する。

子どもを愛する。

赦す。

祈る。

仕える。

一つの家庭が、

少しずつ変わっていく。

その家庭が、

また誰かを愛する。

孤独だった人に、

家族ができる。

傷ついた人が、

回復していく。

自分には何の価値もないと思っていた人が、

自分のGiftを知る。

自分のGiftを、

誰かを生かすために使い始める。

そして、

その人がまた、

次の誰かへGood Newsを届ける。

私は、

国づくりとは、

もしかすると、

ここから始まるのではないかと思っています。

一人の弟子。

一つの家庭。

一つの神の家族。

そこから、

街へ。

地域へ。

日本へ。

私たちが願っているのは、

ただ大きなイベントをすることではありません。

ただ、

人を集めることでもない。

一人ひとりが、

神さまに愛されていることを知る。

家庭が回復する。

父が、

子どもを愛する。

母が、

希望を持つ。

子どもたちが、

自分に与えられたGiftを知る。

孤独だった人が、

神の家族に出会う。

そして、

イエス・キリストの弟子として歩む人が、

また次の人を愛していく。

私は、

そんな国を見たい。

愛の源である神さまから離れるのではなく、

もう一度、

愛へ帰っていく。

自分だけが勝てばいい国ではなく、

隣にいる人を愛する国。

見た目や、

肩書きや、

お金だけで、

人の価値を決めない国。

「もう生きる意味がない」

と思っている子どもに、

「あなたは愛されている」

と伝えられる国。

Giftを持った一人ひとりが、

そのGiftを、

誰かを生かすために使う国。

Good Newsが、

この日本に届けられていく国。

私は、

一人でそんな国を作れるとは思っていません。

でも、

私にもできることがあります。

今日、

妻を愛すること。

今日、

子どもを愛すること。

今日、

誰かを馬鹿にするのではなく、

その人の痛みを見ること。

今日、

誰かのために祈ること。

今日、

自分に与えられたGiftを、

神さまのために使うこと。

今日、

イエスさまについて行くこと。

あの日。

神さまを求めながら、

涙を流し、

「ラップがしたいです」

と言った私の人生は、

今、

妻へ。

子どもたちへ。

神の家族へ。

街へ。

そして、

まだ見ぬ誰かへと、

つながり始めています。

一人の弟子から、

一つの家庭へ。

一つの家庭から、

この国へ。

神は、

愛である。

だから私は、

愛の中を歩みたい。

イエスさまについて、今日も歩く。

Buddhaの弟子から、キリストの弟子へ。

痛みは証に。

光は闇に勝つ。

スーパーヒーローはYOU。

Blessings to you

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