だからこそ、この季節は忘れられない【7】#創作大賞2025 #恋愛小説部門
第2話 梅雨のはじまり:女嫌いの男と雨嫌いの女③
***
(5年前・カイ視点)
「バリに何しに行ってたんだよ」
ほろ酔い気分で帰宅し、テーブルにリコにもらった鬼のお面を置く。
どこか遠くへ行ったっきり、もう帰ってこないんじゃないか――ルイのそんな予感が外れたことに俺はひそかに安堵していた。
あのバーへ行けば、いつもリコとルイがいる。そんな風に思っていたのに、リコはあっさりその均衡を崩して見せた。
ただの気まぐれか、それとも――。
いや、考えている場合じゃない。
明日までに提出しないといけない課題がある。単位は落とせない。
俺はパソコンを開き、電車の中でまとめていたスマホのメモを確認しながら、文章を打ち込んでいく。
あと少しで終わる。もうすぐ寝られる――そう思った、その時だった。
スマホが震えた。
【重要】レンカレ依頼・カイ様をご指名
名前:木下美雨さん
メールアドレス:○○○○@○○.com
本文:雨が好きになる方法を教えてください。
「なんだこれ…」
レンタル彼氏の仕事は、日程やプラン調整のため、指名後に客と直接やり取りする仕組みだ。
普通は、「〇日、映画館希望、カジュアルな雰囲気で」みたいな実務的な内容が送られてくる。それに加えて、「どんなテンションの方ですか?」とか、「無口な人は苦手なんです」みたいに、キャストの人柄や相性を探るやり取りが入ることも多い。
だが、今回はまるでポエムのようだ。
“雨が好きになる方法を教えてください”
それだけ…。
文章の印象とは裏腹に、送信者の名前には「雨」という文字がある。名前と気持ちのギャップに、ふと妙な引っ掛かりを覚えた。
俺はすぐに返信をする。
「日時はいつが希望ですか?場所の希望などありますか?」
すぐに返ってくる。
「午後からであれば、そちらの都合にお任せします。雨を好きになれるなら、どこへでも行きます。」
ずいぶん丁寧な文章だ。年齢は…多分30代ぐらいか。
だけど、切実な願いが伝わってくる。どこか、俺と似ている気がした。
「では、6月10日、14時に○○駅でいかがですか?」
「はい。当日、よろしくお願いいたします」
依頼は確定した。
なのに、心の中で妙なざわめきが消えなかった。
まるで――この依頼が何かを変える気がして。
課題を再開する前に「雨が好きになる方法」と検索をしてみる。
雨音に耳を澄ませる。雨の匂いを嗅ぐ、景色を眺める、素敵な傘を買う…。
俺にできることなんて、どこかに連れて行くくらいだ。
だったら都内で――雨音が聞こえるカフェ、紫陽花の名所、雨の日の映画…。
気が付けば、課題そっちのけでレポートの余白に“雨の楽しみ方”を走り書していた。
そして、気付けば朝になっていた…。
***
そして、当日。
俺は、約束の時間よりもだいぶ早い――13時半には○○駅に着いていた。
落ち着かない。
こんなに早く待ち合わせ場所に来るなんて、自分でも驚く。普段ならギリギリか、少し遅れるくらいが常なのに。
自分でデートプランを考えたのは今回が初めてだった。
いつもは相手の希望通りに動くだけ。だから、失敗も成功もない。
けれど今回は違う。
俺が考えたプランで、誰かの価値観を変えることなんてできるのか。“雨を好きになりたい”なんて、そんな切実な願いに、俺が応えられるのか――正直不安だった。
頭の中で何度もシミュレーションをする。うまくいくだろうか。楽しんでもらえるだろうか――なんて、まるで初デートみたいじゃないか。
自分でも可笑しくなるほど、緊張していた。
こんな気持ちになるのは、バイトとはいえ、初めてだった。
あと1分。
心臓がバクバクと暴れていた。
14時ちょうど。…、…来ない?
俺は周囲を見回す。人通りが少ない駅を選んだはずなのに、それでもそれらしい女性の姿は見えない。
改札の向こう側に目をやると、さっきまで閑散としていた中から、一斉に人が押し寄せてきた。
この中にいるのか?そんな予感と緊張で喉が渇く。
その時――肩を、ポンと叩かれた。
振り向くと、そこにいたのは。
「…、…、…。リコ?」
一瞬で、脳内が混線する。
偶然通りかかっただけ?それとも、誰かと待ち合わせか?
いや、まさか――。
「どうも、木下美雨です」
「…は?」
「へへ」
「はーーーーっ?」
「え、あ…ゴメン。驚きを通り過ぎて、もしかして怒らせた?」
「怒ってるっていうか…、驚きすぎて言葉がでないっていうか、その、なんで?」
「だって。レンタル彼氏のホームページに“願いを叶える素敵な時間を”って書いてあったでしょ?試してみたくなっちゃって」
ああ、もう…。落ち着け俺…。
こいつのことだ。軽いノリか、あるいは深く考えていないだけか。そう、ただの好奇心。
ふう…。深呼吸。ひとまず、冷静になろう。
「手をつなぐ、ハグまでは可能だけど。どうする?」
「え?」
「手、つなぐ?」
「い、いやいやいや。そういう意味じゃないから!彼氏として依頼したわけじゃないし!」
リコの全面否定に、なぜか胸の奥がチクリとした。
その感情に突き動かされるように、俺は思わぬ行動に出た。
「今日は“リコ”じゃなくて、“木下美雨さん”なんだろ?」
「…まあ、うん」
俺はそのままリコの手を取り、軽く引っ張る。
「じゃあ、行くぞ」
「え、ちょっと…、…え、って、どこ行くの?」
「紫陽花祭り」
***
(小説:すれ違う季節)抜粋
カイと手を繋いで歩いている…。
レンタル彼氏の“仕事”として、きちんと向き合おうとしているのが伝わってきて、胸が痛くなった。こんな風に真面目に応えてもらえるなんて思っていなかったから。
申し訳ないことをしてしまったのかもしれない――なんて、今更思う。
だって、カイはちゃんと考えてくれていた。
「雨が好きな紫陽花。見たら少しは悪くないって思えるかもだろ?その神社には6000本もの紫陽花が咲いててさ、雨の日の方がキレイに見えるんだって」
紫陽花の話をするカイの声が、ムワっとした湿った空気の中に溶けていく。
バーでのカイは、しっかりして見せようとどこか幼さの残る10歳年下の大学生。でも今は違う。
明るい時間にこうして並んで歩くのは初めてで、その背の高さや体格のしっかりした様子に、なんだか少しだけ目が覚めるような気がした。
“かわいい弟分”――そんなラベルは、今はもう似合わない。
…と、空からぽつり、ぼつりと水音が落ちてきた。
「…雨」
降り始めた、あの音。
やだ、どうしよう…やだ。やだ――。
反射的に、カイとつないでいた手を振りほどいた。
耳を両手でふさぐ。けれど、雨音は容赦なく鼓膜に押し寄せてきて、雨粒はじかに肌に叩く。
足が止まって、そのまましゃがみ込む。
深呼吸をしても呼吸は浅いまま。
視界がぼ焼けていく。胸の奥が締め付けられる。
どうして、レンタル彼氏なんて依頼したんだろう。
“願いを叶える素敵な時間を”――そんなキャッチコピー、信じたわけじゃなかった。
でも、どこかで思ってた。
ほんの少しでも、好きになれるたらなって。
でも――。
あの時と同じ音が、私を過去へと引き戻す。
私の腕の中で、ユウタが静かに息絶えていく瞬間。
ずぶ濡れになった私たちに降り注いでいたあの雨…。
あの音、あの空が、すべてを思い出させる。
「ユウタ…」
声にならない声が漏れた、その時だった。
ばさっ――と音がして、頭上から何かがふわりと広がった。肩に感じるやわらかい温もり。そして、耳もとで落ち着いた声が聞こえた。
「大丈夫、大丈夫だから。目を開けて、上見てみ?」
ゆっくりと顔を上げると、そこには――。
「…晴れてる?」
カイが差し出した傘の裏側には、澄んだ青空が描かれていた。雨粒の音が、遠くなった気がした。
「行こう。近くに良いカフェがある」
***
カフェに入ると、目の前に広がるのは美しい庭園だった。大きなガラスの向こうに咲く紫陽花が、雨に濡れてしっとりと輝いている。
私は、思わずカイを見た。
カイは少し照れたように、「どう?」と目で問いかける。
私は、何も言わず、大きな窓辺に歩み寄り、静かに外を眺めた。
店内には音楽が流れていない。
窓をたたく雨粒の音、地面を叩く雨音――。
その音だけが、空間を支配していた。客たちも、その雨音に耳を澄ませている。
雨に打たれる葉が揺れ、大きな木の枝がしなやかにしなる。紫陽花たちは、その雨を歓迎しているかのように咲き誇っている。
そんな景色を見つめいると、隣にカイが座った。
コーヒーの香りがふわっと漂ってくる。私も隣に腰を下ろし雨の降る紫陽花を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「こんな雨なら…いいかもしれない」
カイがこちらを見る気配がしたけれど、私は窓の外を見たまま続けた。
「私ね、にんじん嫌いなの。でも最近知ったんだ。焼いたり、煮たりしたにんじんは嫌いだけど、生のやつだけは、わりと好きだって」
少し笑って、カイを見た。
「雨も、こうやって静かに見てると、なんか、悪くない」
カイは静かにうなずいてぽつりと言った。
「…なるほどな。にんじん理論、わかりやすいかも」
私はふっと吹き出した。
「あ!あーーー!」
「なんだよ急に?」
「私、雨が大っ嫌いでしょ?カイは、女が嫌い。理由も背景も違うだろうけど、なんか似てるなって。意外な共通点、でもって、親近感が湧く」
その言葉の後、脳内で何かがパチンとつながった。
これだ―――!
恋愛コミックの執筆で悩んでいた「承」の部分、このリアルな空気感と感情の動きこそがヒントだったんだ。意外な共通点→親近感→急接近!
「ん?どうした?」
「んーー?まあね。また、カイのおかげで仕事が捗りますよ。感謝ってこと」
「はあ?」
私はまた雨の音に耳を傾けその景色を見続けた。
さっきまで嫌だったはずのその音が、今はどこか、心地よくさえ思える。
***
(5年前・カイ視点)
リコは、雨に打たれる紫陽花をじっと見つめていた。
さっきまで笑っていたのに、急に遠くを見るような目をしていた。
――ユウタ。
雨に濡れ、過呼吸になりかけた時、リコが口にした名前。その一言が、ずっと胸に残っている。
紫陽花の向こうに、彼女は誰の面影を重ねていたのだろう。触れたいのに、触れられない。どうすることもできない自分が情けなくて、もどかしかった。それでも俺は、ただ黙って隣にいた。それが、今できる俺のすべてだった。
結局、雨は止まなかった。
ようやく雨が上がったのは、閉店時間間際。店を出ると、もう空はすっかり夜に変わっていた。
数歩先を歩くリコが、振り返って言った。
「ありがとう。さすがだね、レンタル彼氏!」
その言葉に背中を押された気がした。
「…俺、これでレンタル彼氏、辞める」
リコは少し目を丸くした後、少し笑って言った。
「えっじゃあ、私が最後の客ってこと?」
「だな」
「わーー、じゃあ、記念に宝くじ買いに行こう!」
「はあ?なんで宝くじなんだよ」
――結局、コンビニで買うことになった。
マルチコピー機で印刷された紙を持ったリコが、店の外で俺にそれを差し出した。
「はい!改めまして、今日はありがとうございました、ささやかながら、記念品として宝くじを贈呈いたします」
「って…。記念品が宝くじ?」
俺が呆れていると、リコは「わかってないな~」と言う顔をした。
「夢があるでしょ?当選したら3億円だよ!?」
「外れたらただの紙くずだろ」
「仕方ないなー、もう!」
リコは俺から紙をひったくり、リュックからマジックペンを取り出した。さらさらと何かを書き加え、再び俺に手渡す。
――『なんでも券』
「外れたら、これ持ってきなさい!これで当っても、外れても、どちらにせよ夢があるでしょ?」
「絶対なんでもしてくれよな?」
「おうー受けて立つ!」
***
(現在・カイ視点)
「…春も、悪くないな」
店内の窓から見える庭園には、梅雨とは違う、色とりどりの春の花が咲き誇っている。淡いピンク、優しい黄色、軽やかな春風に揺れる草花たち。
ふと見上げた空は、あの日とはまるで違う、雲一つない青。
カップから立ち上る湯気を目で追いながら、ホットカフェオレを一口。
読みかけの本に挟んでい、少し色褪せた紙を取り出す。
――宝くじ。それとも、なんでも券。
リコの筆跡が、そのままの時間を閉じ込めていた。
「リコに会ったら…、何してもらおうか」
思わず漏れた独り言が、春の光に溶けていく。
