だからこそ、この季節は忘れられない【8】#創作大賞2025 #恋愛小説部門
第3話 梅雨の終わり:転落と契約①
(小説:すれ違う季節)抜粋
まるで梅雨そのものが終わりを拒んでいるかのように、雨は絶え間なく降り続いていた。その重さが私の体をじわじわと染み込み、心まで押しつぶしていくようだった。
――2年前の今日も、こんな雨だった。
暗い夜、降りしきる雨の中、濡れたアスファルトに横たわるユウタの体。彼の肌は雨に冷たく濡れ、生温かい液体が私の手に伝う。それは――ユウタの血だった。雨と混じり合いながら、彼の周りに赤い水たまりをつくり出していた。
「ユウタ…」
震える声で名前を呼んでも、彼はもう答えない。
今もあの日と同じ。強く雨が降っている。
泣いているわけではない。きっとユウタは私に怒っている…。
彼を殺した、この私に――。
***
現実もまた、あの日と同じように雨が降っていた。
私は黒い服に身を包み、仏花には似つかわしくない一輪のひまわりを手に、懐かしい場所へと足を運んでいた。
【坂口ユウタ】
墓石に刻まれた名前。幼馴染であり、唯一私が信じていた存在。
墓前には、左右対称に整えられた4色の仏花が供えられていた。きっと、ユウタの家族が三回忌の法要を終えたばかりなのだろう。
私はそっと、手に持っていたひまわりを墓石の前に置いた。そして、しゃがみ込んで手を合わせようとした――その瞬間。
バサッと、音を立てて、供えたばかりのひまわりが空を舞った。
驚いて顔をあげると、地面に落ちた花を、無造作に足で踏みつけている女性が目に入る。
「…、おばさん…」
ユウタの母だった。
その瞳に浮かぶのは、怒りと悲しみと、剥き出しの憎悪。無言のまま、私をまっすぐ睨みつけてくる。
私は咄嗟に、その場にひれ伏した。
顔を上げることができない。ただ地面に額をつけるようにして、目を閉じるしかなかった。
「…ユウタの前に」
絞り出すような声。
おばさんの声は、震えていた。
「…どの面下げて…来れたの」
一語一語に、感情が滲む。
息が詰まりそうなほどの空気。
「あんたのせいで…、…あんたのせいでユウタは…」
震える声が胸を刺す。それでも私は何一つ言い返せず、ただ地面を見つめ続けた。
「…もう、二度と…顔を見せないで」
最後の言葉は、低く絞り出すようだった。彼女の足音が、ずしずしと遠のいていく。
私はその背中を、見送ることすらできなかった。
地面に踏みつぶされ、形を失ったひまわりを震える手で拾い上げ、墓石をじっと見つめた。
――忘れてはいけない。私が彼の未来を奪った、その愚かさを。
***
(5年前・カイ視点)
急な雨に急かされるように足を速め、バーに向かっていた。信号待ちでふと視線をやると、横断歩道の前にひとり、地面にしゃがみ込んだ女性の姿が目に入った。
喪服?
傘もささず、髪も服もずぶ濡れのまま――動かない。
通りすがりの人々は彼女を避けるようにして、誰一人として声をかけようとしなかった。
だが、俺だけが足を止めていた。
なぜだろう。その横顔に、見覚えがある気がした。
「リコ?」
呟いた自分の声に、胸がざわついた。次の瞬間には、無意識のうちに駆け寄っていた。
「リコ!」
呼びかけても、彼女は反応しない。
肩をそっと掴んで揺らす。ようやくゆっくりと顔を上げたリコの表情に、息を飲んだ。
雨に濡れた頬、赤く腫れた目元。その瞳は、まるで光を失ったガラス玉のようで、何かを訴えることすら忘れたようにうつろだった。
その姿に、思わず彼女を抱きしめていた。
「…カイ?」
かすれた声で俺の名を呼ぶ。その瞬間、胸が痛んだ。
「風邪ひくぞ。…帰ろう」
彼女の前に手を差し出したが、リコは静かに首を振った。
「…大丈夫だから」
その言葉には、明らかに俺を遠ざけようとする響きがあった。
けれど――
どこかに消えてしまいそうな彼女を、このまま放っておくなんてできない。
「もういい。放っとかねえよ」
俺は無言でリコの腕を掴み、立ち上がらせようとした。
「やめて…、おねがい…」
震える声が耳に触れる。それでも、俺は手を緩めないかった。
「ムリ。絶対、離さない」
俺の目をまっすぐ見返したリコは、一瞬息を呑んだような顔をした。その瞳に、一瞬だけ迷いの色が浮かび、やがて諦めたように小さく頷いた。
俺たちは何も言わず、そのまま歩き出した。
***
ずぶ濡れのままリコの家に入ると、部屋の空気がじっとりと冷えていた。リコは濡れた髪を手で払いながら口を開く。
「カイ、お風呂はいって」
俺はすぐには応えなかった。
彼女の強がりとその奥に隠れた弱さが、痛いほど伝わってくる。
「リコが先だ」
「私は平気だから。カイの服、乾燥機かけとく」
「リコが先」
一歩も引かない俺に、リコは少しだけ笑ってみせた。軽い調子で冗談を言う。
「じゃあ一緒に入る?」
その一言に、一瞬、沈黙が降りる。
俺も言葉を失っていたが、冗談を冗談で返してみる。
「…、じゃあ、そうするか?」
「こら、早く入ってきて」
彼女は困ったように笑いながらも、その場を取り繕う。それでも俺は引き下がらない。
「じゃあ、約束だ。部屋から出るな」
リコは黙り込んだ。
「泣きたいなら、俺の前で泣け、一人で泣くな」
その言葉に、リコの目がわずかに潤むのが見えた。
彼女は涙をこぼさないように、必死にこらえている。
俺が一歩近づこうとすると、リコはか細い声で制した。
「やめて、お願い、近づかないで」
彼女の言葉を無視して、俺はその小さな体を抱きしめる。
「リコ…。俺を見ろ。俺がいるから」
リコの目から涙が零れ落ちる。それでも彼女は俺を拒むように手で胸を押し返してくる。
「お願いだから、これ以上、優しくしないで」
その震える声が、俺の心に深く刺さる。それでも俺は、彼女の手をそっと押さえ、さらに強く抱き寄せた。
最初は全力で俺を遠ざけようとしていたリコの手に、次第に力がなくなっていく。
そして、ついに俺の胸に顔を埋め、小さなすすり泣きが漏れ始めた。
「やめてって言ってるのに…」
真っ暗の部屋の中で響くのは、リコのすすり泣き声と、窓の外で振り続ける雨音だけだった。
どれだけ抱きしめていただろう。
リコがゆっくりと顔を上げた。涙に濡れ、震える瞳が俺を見つめていた。
「…もっと強く抱いて」
か細くも確かな声に、胸の奥が熱く締めつけられた。
迷いなく、俺はリコの身体を腕の中にさらに引き寄せる。
彼女のすべてを、そっと受け止めてやりたいと思った。
涙と雨で濡れた喪服が、彼女の体にぴたりと張りついている。その冷たさごと、温めてやりたい。
ゆっくりと、ボタンに手をかけると、リコは抵抗しなかった。
ただ、じっと俺を見つめていた。
その瞳の奥には、痛みと渇き、そしてどうしようもない孤独が滲んでいた。
「リコ…」
呼吸が重なり合う距離で、唇が触れる。
冷たくも、涙よりも熱い彼女の唇に、身体中が火花のように疼いた。
一度、二度、三度――
俺たちは何度もキスを重ねた。
まるで溺れるように、触れなければ崩れてしまいそうな切迫感で。
身体が触れ合うたび、理性が溶けていくのがわかった。
「リコ…」
名前を呼ぶたびに胸が締めつけられ、何度も唇を重ねては、互いの熱を確かめ合った。
「カイ…もっと。欲しい」
震える声に込められたのは、何かを埋めるように、忘れるように、壊すような切実さだった。
「リコ…」
唇の重なりと体温が絡み合い、深まる熱に飲み込まれていく。
雨音は遠のき、部屋には俺たちの吐息と濡れた肌が触れ合う音だけが満ちていた。
リコの手が首に絡みつき、身体を密着させながら、また繰り返す。
「カイ……もっと、強く…」
その言葉に応えるように、俺は彼女を深く抱きしめ、求め続けた。
痛みも寂しさも、すべてをぶつけ合うように、夢中で求め合う。
優しさも理性も、この夜だけは邪魔だった。
抱き合い、乱れ、何度もキスを交わしながら。
どれだけ時間が過ぎただろう。
覚えているのは、雨音と彼女の吐息、そして――
この夜、俺たちの感情がむき出しになった。
制御も遠慮もなく、ただ求め合い、溺れていった。
