だからこそ、この季節は忘れられない【9】#創作大賞2025 #恋愛小説部門
第3話 梅雨の終わり:転落と契約②
***
(5年前・カイ視点)
夜が明ける頃、リコは俺の隣で静かに寝息を立てていた。
泣きはらしたまぶたは、ほんのり赤く腫れ、頬には涙を拭った跡がかすかに残っている。その寝顔を見つめながら、胸の奥に重いものが沈んでいくのを感じた。
――最低だ。
リコを傷つけてしまったのかもしれない。
何かを忘れたい、誰かにすがりたい――そんな気持ちは俺にも痛いほどわかる。けれど、そんな状態の彼女に俺は…。
ただ彼女に流されたわけじゃない。
リコの孤独に触れて、そこに自分の寂しさを重ねた。だが、俺は本当に彼女に寄り添えたのか?それとも、ただ自分の弱さを押し付けただけなのか…?
どうするべきだったのか――答えはいまだに見えない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
――この温もりを手放すことなんか、できない。
ふと、リコが身じろぎした。
俺は目を閉じたまま、耳を澄ませると、俺の頭を優しくなでるリコの手の感触が伝わってくる。
「カイ…。ごめんね」
リコの囁きに、胸が締め付けられた。
しばらくすると、彼女はソファから抜け出す気配。リビングを歩く足音に続き、キッチンからはコーヒー豆を挽く音が聞こえてきた。香ばしい香りが部屋に広がり、お湯が沸く音に混じって、心が少しだけ緩んでいく。
やがて、リコがソファに向かってくる足音が聞こえ、俺はゆっくりと目を開けた。
両手にカップを2つ持ち、俺に微笑みかけた。
「おはよう、カイ」
「…おはよう」
カップを受け取り、一口すすると、苦みの奥に、どこかほっとする味がした。
「うまい」
「でしょ?料理はしないけどコーヒーだけね」
そう言って小さく微笑んでくれたが、その笑顔はどこかぎこちない。それでも、リコが“いつもの彼女”でいてくれることに安心する。だが、ふとした違和感に、俺はその顔をじっとを見つめた。
「…。それ、禁止」
「なにが?」
「すっぴんの女の顔をジーっと見るのは、マナー違反だから」
「そう言われると、余計に見たくなるな」
「こらっ!」
リコがキッチンへ逃げようとするのを、俺は腕を掴んで引き寄せた。彼女は一瞬止まり、そして抵抗しかけたが、俺の手を感じたのか、俺の体を委ねるように力を抜いた。
俺は彼女の手をしっかりと掴み直した。
ただ、それだけのことだった。離したくない。ただ、それだけの気持ちだった。
すると、リコが小さく声を上げる。
「ねえ、カイ?」
「ん?」
「…条件」
「条件?」
「1.何も聞かないこと。
2.あの部屋には入らないこと。
3.口にキスはしないこと」
「…なにそれ?」
「セフレの条件」
「セフレ…?」
リコは目を逸らしながら、ぽつりと続けた。
「…友達だったけど、ほら…昨日…しちゃったし…。もちろん、“なかったこと”にしてもいいし、いつも通りに戻っても、私を嫌いになっても…全部受け入れるよ」
あまりにもさらりと、軽い口調で言われたその言葉に、逆に重さを感じた。
――「付き合う」という選択肢なんて、最初から存在していないのか。
友達のままか、セフレか、あるいは……終わるか。
その三択しか与えられていないことに、俺は何を思えばいいのかわからなかった。
「……なんで、何も聞いちゃいけないんだ?」
「昨日のことも、これからのことも…、あまり踏み込まないで欲しい。ちょうどいい距離感でいたい」
「…昨日、あんなにキスしたのに。口は、だめなんだ?」
俺の言葉に反応して顔を見上げたが、咄嗟に目を逸らす。
「口はだめ…。気持ちが入っちゃうから…。口は、特別なんだよ」
その瞬間、リコの瞳がほんの少し揺れたように見えた。
だから俺は、ゆっくりと言った。
「嫌いにはならないよ」
その一言にリコは目を見開き、静かに俺を見つめた。
その視線を受けて、俺の胸が少しだけ軽くなるのを感じた。
――リコもまた、心のどこかで「嫌いにならないで」と思っていたのかもしれない。
「それに…」
俺は彼女の目をまっすぐ見つめながら続けた。
「俺がしたくて、した。後悔してない」
その言葉に、リコはいつものように茶化し始める。
「エッチ」
「言うな」
俺はもう一度リコに抱き着く。するとリコは笑って言う。
「…、じゃあ、進化するってこと?」
「進化?」
「友達から、セフレに」
「…進化、…なのか?」
「うん、どうする?」
「決まり。俺たちはセフレの関係に進化ってことで」
こうして、俺たちの曖昧で、歪んだ関係が始まったのだ。
***
(小説:すれ違う季節)抜粋
―最低だ。
カイの嫌いな女になった。
朝、目を開けると、隣にはカイが眠っていた。その寝顔を見つめているうちに、胸に深い後悔の念が押し寄せた。
昨夜の私は、本当に酷かった。あんな状態だったとはいえ、女嫌いな彼を求めてしまった自分が信じられない。
最低だ――今更、心の底から思う。
それなのに…。
彼の髪にそっと触れながら、昨夜のぬくもりを思い出す自分がいる。昨日のぬくもりを忘れられる自信がなかった…。彼の優しさにどんどん自分の嫌さが露見する。
「ねえ、あんたたち、なんか距離が近くな~い?」
バーカウンターで隣り合うカイと私を、男装バージョンのルイがじろりと睨む。
体の関係を持ったセフレという関係は、外から見て、こんなにもすぐにバレるものなのだろうか?
「うーん、まあ」
私が曖昧に答えると、カイが私を一瞥し、次にルイを見て言った。
「セフレに進化したから、俺たち」
ルイはその言葉に驚きつつも、もう一度聞き返す。
「セフレ?」
「うん」
今度は私が返事をする。
「セフレって、セックスフレンドのこと?」
「そう」
そして、カイと私の声が、ぴたりと重なった。
「…、…また突拍子もないことを。リコちゃん!?さすがに10個下の子をたぶらかすのは、良くないわ」
図星を突かれた気がして、胸がチクリと痛む。私はそれを悟られないように笑ってみせる。
「…だよね、やっぱり…やめとく?」
自分でも軽く言い過ぎたと思ったが、帰ってきた言葉は想定外だった。
「やめない」
強い口調に、思わず目を見開く。
私が「やめる?」って言えば、「そうだな」って返してくると、どこかで思ってたのに。
「俺はやめない」
再び繰り返されたその声に、少しだけ息を呑んだ。
「じゃあ、カイちゃん、私ともセフレしましょ」
ルイは茶化すように口を挟むと、カイは一瞬こちらを見てから言う間もなく、私はあっさり返す。
「どうぞ?お好きに~」
「どうぞじゃねえだろ。そこは止めろよ」
「セフレは束縛しません」
カイは不機嫌そうに眉をひそめ、不貞腐れたような表情を浮かべる。その子どもっぽさに、改めて、罪悪感がジワリと広がった。その罪悪感を少しでも軽減しようと、もう一つの条件を提示する。
「あっ、そうだ!条件、4つ目を追加ね」
「条件?」
「好きな人が出来たら、この関係は終わり」
それを聞いたルイが首をかしげる。
「好きな人がいてもいいでしょ。付き合う人が出来たら契約解消、ってことでいいじゃないの?」
「だめでしょ。心も体も、清潔な状態じゃなきゃ。それにね、10個も年上と不純な関係なんてバレたら、カイがかわいそうでしょ?」
「それなら、普通に付き合っちゃえばいいんじゃないの~。逆に謎だわー。セフレなんて」
ルイは首をかしげて少し意地悪そうに私に言う。
「子どもはいらないし、そしたら結婚する意味もない。それに、心穏やかでいたいから彼氏もいらない。でも、性欲だけはどうしようもないじゃん。だったら、セフレって一番いいと思わない?傷付けないし、傷つかないし」
「ふーーん。カイちゃんはそれでいいわけー?さっきからプンプンしてな~い?」
「別に…俺は。そもそも、女嫌いなわけだし」
「へえ~、でも体の相性は良かったてことかしら~?うーん?どうなのよー?」
「………、あのねー、もう!意地悪言わないでよ」
まだ、カイは不機嫌そうだった。その様子がどこか子どもっぽく、ふっと肩の力が抜けた。
――あんなに泣いて、あんなに苦しくて、最低な夜だったのに。
それでも、昨日の夜のことを思い出すと、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
彼の手のぬくもりも、唇も、あの時の声も、簡単に忘れられそうにない。
きっと私は、彼をまた傷つけてしまうだろう。
それでも――また、触れてしまいたいと思ってしまう自分がいる。
最低で、どうしようもないけれど。
この関係が続くことを、ほんの少しだけ願っている。
