だからこそ、この季節は忘れられない【13】#創作大賞2025 #恋愛小説部門
第5話 残暑:歪な愛のカタチ
(小説:すれ違う季節)抜粋
バッシャンッ!
冷たい水が顔面に叩きつけられた。反射的に目を閉じる。
氷のような液体が髪を濡らし、背筋をつたって背中へと流れていく。その冷たさに、思考も感情も一瞬で凍り付く。
ゆっくりと目を開ける――
目の前には、怒りに満ちた女の顔。
鬼の形相、と言う言葉が、これほど似合う人を初めて見た。今にも飛び掛かってきそうな勢いで私を睨みつけていた。
それでも、なお美しいと思ってしまうのは、私の性なのか。おそらく50歳前後のはず。なのに、30代後半と言われても信じてしまいそうな艶やかさ。
まるで――ドラマのワンシーンに迷い込んだようだった。
カフェの空気は一瞬で凍りつく。
客たちの視線が、一斉に私たちへと注がれるのを感じた。髪先から滴る水が、テーブルの上に小さな水たまりを作り、濡れた服が冷たく肌に張り付いていた…。
「あんたいくつよ?知ってるわよね?カイは、まだ大学生よ!なんであなたみたいな…!」
――はい、その通りです。
ええ、私は30歳。カイより10も年上…あ、今は9歳年上だった。
びしょ濡れ…でもよかった。すっぴんで…。
心の中で、乾いた皮肉が次々と浮かんでは消えていく。
彼女の怒りを真正面から受け止めるべきなのに、どこか他人事のように俯瞰している自分がいる。
視線を落とすと、空になったグラスを握りしめた女性の手が、わずかに震えていた。
――ああ、痛い…
心の奥が、ヒリヒリする。いろんな意味で痛い。見た瞬間に分かった…。
――この人が、カイの“女性嫌い”の根っこだ。
***
(数十分前――午後4時頃)
「リコちゃん、大変、大変、大変よ!」
ドタドタドタッ――階段を駆け上がる音が響く。
驚いて部屋から飛び出すと、血相を変えたルイがリビングに駆け込んできた。
「あの…ストーカー女が!!!」
「え?」
「今バーに来てて!それでね…『カイちゃんの母親』って名乗ったのよー」
「…そっか」
頭の中が真っ白になる。ストーカー女――ルイが前に話していた不審な女性が…。カイの母親?
「ってえええええ?“カイのお母さん”?な、なんで開店前に?」
「それがね…、リコちゃんと話したいって…」
「私と…?」
そういえば、カイから家族の話なんて、一度も聞いたことがなかった。一緒に住んでるのかどうかも、何も知らない。
でも、その母親は、何度かバーに見に来ていた。そして私と「話がしたい」と言って現れるなんて…。
恐らく、私は歓迎されていないことは明白だ。
「…わかった。行ってくる。ルイは、通常通り。お店の開店準備の時間でしょ?」
私がそう言うと、ルイは心配そうに私を見る。
「…、大丈夫だって。殺されたりしないから。それと…、わかってるとは思うけど、カイには、絶対に言わないで」
ルイは不安そうに頷いた。私はもう一度念を押す。
「絶対だからね」
ルイが深く頷いたのを確認し、私は重い足取りでバーへ向かった。
何を言われるかは想像がつく。でも――何を答えたらいいか…。まともな返事なんて思いつくはずもない…。
バーに入ると、カウンター席に一人の女性が座っていた。私の気配に気づき、その女性はゆっくりと振り向く。
思わず、息をのむ。
――この人が、カイの母親。
そこにいたのは、怪しさとは程遠い、凛とした美しさを纏った女性だった。肩までの髪は丁寧に整えられ、黒いワンピースを着ていても、どこか華やかさがある。
背筋はピンと伸び、ただ座っているだけなのに、空気が引き締まるような圧を放っていた。
何より、その顔立ちは、驚くほどカイに似ている。
すでに、この空間を支配しているこの女性に、私はどう立ち向かえばいいのだろう――。
「場所、変えましょうか?」
私の問いかけに、女性は無言のまま、すっと立ち上がった。その背筋は、まるで“勝負”に向かうようだった。
カフェに移動する道すがらも、女性は一言も発さなかった。私もまた、口を開けずにいた。何をどう話すべきか、答えは出ないまま。
――まさか、その先に、水をかけられる未来が待っているなんて。
このときの私は、知る由もなかった。
***
(数十分後)
「カイとは、別れなさい。今すぐ」
言葉ではなく、皮膚が突き刺されるような視線を感じる。しかし、なんと返せばいいのか、喉が詰まって声が出ない。
「付き合ってません」と訂正する?
正直に「セフレです」と告げる?
無理だ。堂々と言えるような関係でないことは、自分が一番よく分かっている。
「カイ? 誰ですか?」と、とぼけてみる? いや、それこそ無謀だ。
――どの選択肢も、地雷でしかない。
「何か言いなさいよ!」
怒声が店内に響き渡った。髪の先から、水滴がぽたっ、と床に落ちる音が、やけに鮮明に聞こえる。張り詰めた空気の中、私は脳内をフル回転させた。
――私が、踏み込んでいい世界なのだろうか。
もしこれが恋愛小説の世界なら、「カイはモノじゃない!この毒親が!」と感情的に叫ぶ場面になるだろう。
だが、親を知らない私が、“毒親”などと罵る資格などない。
家族を知っている、“愛されて育った人間”だから言える台詞だ。
小説の世界では言えても、現実の私には無理だ…。
では、これは“母性愛”と呼ばれるものなのだろうか? 子どもを守りたいという、本能的な、純粋な愛?
確かに、そうかもしれない。
カイのために、本気で心配し、本気で怒れる。この熱量、この温度。
その“愛”には、確かに温もりがある。その温もりに触れた瞬間、私の中で何かがざわついた。
――素敵だな…。思わず、感心してしまう。
でも、その温かさは、守るべきものだけに向けられたもの。私の目の前にいる女性の瞳は、まるで獲物を捉えたかのように鋭く、敵対する者には容赦ない冷たさを宿している。
――この視線、私はよく知っている。
親がいない私を見る、大人たちの目だ。
「仲良くするな」「話すな」「近寄るな」「関わるな」
そう言わずとも、彼らの視線は常に私にそう語りかけていた。
そういう目を、私はたくさん見てきた。
――ああ、普通の親なら、これほどまでに当然の感情だったんだな…。
結局、私はいつだって、こっち側。
ダメな人間で、排除される側。
どこかで「息をさせてもらっている」と、そう思って生きてきた。
でも――
だからって、黙って引き下がるのは、もうやめたい。
…なら、戦ってみようじゃないか。誰かのためじゃなく、私自身のために。
私は、ぼそりと、しかし確かな声で言った。
「……あんたみたいな人間、大嫌い」
「え?」
「私のこと、何も知らないくせに……どうしてあなたが、勝手に決めるの?」
声が震える。それでも、止められなかった。
「あんたより、カイの方が、私を見てる。知ってる。
…だから――あなたに決められたくない。
カイに、私を選んでほしい」
喉の奥が熱くなり、心臓が、嫌になるほど大きな音を立てている。
頭の中に、次々と過去の映像が浮かんだ。
学生の頃、仲が良かった友達も担任の先生も…。
私の家庭の事情を知った途端、急に離れていった。
母親に捨てられた子。父親が誰かもわからない子。祖母にも愛想を尽かされた子。
誰からも愛されない、かわいそうな子。
「育ちが悪いから仕方ないよね」と、汚いものでも見るような目。
私の居場所は、いつだって、気づけば消えていた。
みんな、私のこと、本当に見てた? 知ってた?
――それで嫌いだと判断されるなら、構わなかった…
もう、私を知らない人に、とやかく言われたくない。
それに…、カイにだって、決める権利がある。
私って、そんなに“ダメな人間”なの?
そんな目で、見られなくちゃならない人間なの?
この世界から、消されなくちゃならない人間なの?
一瞬、カフェの空気が凍りついた。
カイの母親は言葉を失い、私を睨むでもなく、ただ呆然としていた。
私は、どこまで声に出してしまったのだろう。
戦うどころか…
――自滅ちゃったな。
目の前が滲んでいく。きっと、私の目からは、今、たくさんの涙が溢れ出ているのだろう。
「……」
沈黙の中、私は次第に冷静さを取り戻そうと体を動かし、姿勢を取り直す。
「私、子どもっぽいですよね…。カイよりもずっと…」
私の声は、ひどく掠れていた。涙で滲む視界の先で、彼女の表情は、怒りから一転、どこか痛みを宿しているように見えた。
「これは、劣等感でした。本当はカイが羨ましいって、思ったんです。こんな風に、本気で心配してもらえて。敵とみなせば、ためらいなく飛び込んでくるほど守られてて。どんな形であれ、ちゃんと愛されている。あなたに。
――親子って、そういうものなんだなって…」
震える声で、自分が抱えていた、醜いとさえ思える感情を吐露する。今まで誰にも言えなかった本音が、止めどなく溢れ出した。
「私にも唯一いたんですけどね…そんな存在が。でも、私のせいでいなくなった。…正解です。あなたは…。私なんか、いない方がいい…」
言葉を続けるたびに、目の前の母親の表情が、複雑な陰りを帯びていくのがわかる。その視線は、もはや私を咎めるものではなく、何かを探っているようにも見えた。
「…ごめんなさい。あなたを否定してるわけじゃないの…。私のほうよ。羨ましかったのは。すでに、私はカイに捨てられてるの」
母親は、ゆっくりと首を横に振った。その声には、先ほどまでの激しい怒りはなく、深い悲しみが滲んでいた。私の胸のざわつきとは異なる、もっと重く、深い響き。
「もう、四年経つわ…。あの日は雑誌の撮影だった。しかも表紙の大きな仕事。現場に現れなくて、家にも帰ってこなかった。連絡は一切なし。それから――四年よ…」
その言葉が、まるで細い糸のように、私の心を縛り付けていく。四年。カイが、そんなにも長い間、母親と断絶していたなんて。私の知るカイからは、想像もつかない話だった。
「ようやく見つけたと思ったら、あなたがそばにいて…。あんな表情…、いつから見てなかったんだろうって、込み上げてきて…」
母親の声が震えている。その瞳の奥には、過去の光景が走馬灯のように映っているかのようだった。その痛みが、私にも伝わってくる。愛し愛されていた時間を共有した親子にしか分からない、深く、そして複雑な絆。それは、私が決して持ち得なかったものだ。
「あの表情を見たときに、気付かされた。母親として間違ってたって…」
一瞬、時間が止まったようだった。
ぼそっと、私は思ったことを口にした。
「…間違ってた?」
「…」
「間違いなんてあるんですか?どんな形でもちゃんと、あなたにはカイを想う温かいものがある…。だから、彼はきっと気づいているはずです。ちょっとした言葉尻、ちょっとした仕草を敏感に感じとれる人だから」
沈黙が続いたが、それは、張り詰めたものではなく、少しだけ柔らかい沈黙だった。
「親子は一旦休憩、っていうのはどうですか?もう少しの間だけ…」
母親の反応はなく、ただ静かに私の声を聞いていた。その瞳には、怒りでも、悲しみでもない、何かが揺らいでいるように見えた。
やがて、彼女は静かに席を立つと、小さく一礼をした。その後、カフェの出口へと歩き出す。
私も立ち上がり、母親の後を追うようにカフェの外まで出た。
ドアを開けた瞬間、オレンジ色の夕暮れ時だというのに、ひぐらしの声が力なく聞こえる。まだ昼間の熱を忘れられない地表から、ジワリと蒸気が立ち上がっていた。
その中で、母親の背中がゆっくりと通りを進んでいくのが見えた。足を止めて見送る私の前で、その背中は少しずつ小さくなり、やがて人混みの中に消えていった。
「…さようなら」
――いつか、二人が笑顔で、美味しいご飯を一緒に食べていて欲しいと、願いながら。
私はその背中が完全に消えるまで見送った。
***
気付けば、あたりはもう真っ暗だった。
ゆっくり歩いて、ぐるっと遠回りをして、頭の中をリセットしようとしたのに、全くうまくいかない。
いろいろな感情とか、雑念とか、言葉にならない想いがぐるぐると渦巻いて、心は空っぽになるどころか、むしろ重苦しいまま――足は自然とバーの前に立っていた。
取っ手に手をかけて、一つ深呼吸。
「ふーーっ」
口角を無理やり持ち上げて、いつもの顔を作る。
そして、扉を開けた。
店内は、いつも通りだった。
静かにジャズが流れてて、カウンターには、ルイとカイ。ふたりは何か楽しそうに笑い合って話している。
その様子を見た瞬間、体中のどこかが、ふっと緩んだ。
――ああ、落ち着く。
先に私に気づいたのはルイだった。
カイに悟られないように、そっと私の顔を覗き込んでくる。
「大丈夫だった?」
ルイの目がそう言っていた。私は小さく笑って、うんうん、と頷いた。
「おかえりー、リコちゃん」
ルイの声に、カイも気づいて振り向いた。
いつもの調子で口角をちょっとだけ上げて、見慣れたあの顔と、いつもの声。
私はそっと近づき、カイの前に立つ。すると、カイがじっと私の顔を見て、こう言った。
「どうした?なんか老けたな?」
――は?
「ちょっと!カイちゃんひどいじゃないの!レディにそんなこと!」
ルイの声も虚しく、私はカイを睨みつける。
――てめえのせいだっつーの!私の気も知らないで。
「なんだよその顔、反抗期か?」
「ちょっと、カイ。おでこ貸しな?」
「は?なに急に」
パシンッ。
そのまま勢いで、デコピンを食らわせてやった。
「いってえ!なんだよ急に!」
カイはおでこを押さえて、ポカンとした顔でこっちを見てくる。
その間の抜けた顔がまた、ちょっとムカつく。
「ルイ、これでも全然チャラになんないよね?」
「そうねぇ、カイちゃん。今日はもっと、リコちゃんに奉仕してあげないとだめよ?」
「はあ?俺なんかした?」
私は「したした」って笑いながら、カイの隣に腰を下ろした。
***
(現在・カイ視点)
実家のチャイムを押すのは、思ったよりも勇気がいった。
心のどこかに刺さっていた母親との距離。
8年という月日が生んだのは、ただの距離じゃなかった。避けようとしてきた、許せなかった、あの時の自分の感覚に引き戻される。
嫌いになれたら、どれだけ楽だっただろう。でも、そうできない感情が、ずっと胸の奥に燻っていた。どこにも整理のつかない、複雑な塊になっていた。
「本当にこれでいいのか?」
そう自問しながらも、リコの言葉が頭をよぎる。
「二人が笑顔で、美味しいご飯を一緒に食べていて欲しい」
リコの想いがなければ、俺は永遠にここに来ることはなかったかもしれない。
チャイムの音が静寂を切り裂き、数秒後、インターホン越しにすすり泣きのような音が聞こえた。
「カイ?」
聞き慣れたはずの声は、どこか弱々しく震えていた。
「俺だよ…」
しばらくの沈黙の後、扉が静かに開く。
そこに立っていたのは、俺が知っている母よりもずっと小さく、年老いて見える姿だった。
「おかえり」
その一言に胸が詰まる。何も言えず、ただ涙が溢れた。
「…ただいま」
それだけ言うと、母はそっと俺の腕を引き、家の中へ迎え入れた。
部屋に入ると、俺の子ども部屋が当時のまま残されていた。
机の上に並んだ小物、壁に貼られたポスター、少し色あせたカーテン。すべてが、時間が止まったままの記憶だった。
「あの頃のまま、残してあるわ」
母の声が背後から聞こえる。
一瞬、俺は足を止めた。
この部屋に…いや、母と向き合うのが怖い。
――いつからだろう。母の言葉に耳をふさぎたくなったのは。
小さい頃、母は俺にとって誇りだった。どんな場所に行っても美しく、誰からも賞賛される人だった。
芸能事務所に所属していた俺は、そんな母の期待を一身に背負い、子役やモデルとしてステージに立っていた。
でも、ある日気づいてしまった。
オーディションで順調に勝ち進む俺の裏で、母がどれだけ苦労していたのか――。
周りの大人たちが、どんな目で母を見ていたのか。
「カイ君のお母さん、本当に綺麗だね」
「彼女の努力があれば、君ももっと上を目指せるよ」
褒め言葉に隠れた欲望や取引の気配を、幼かった俺は敏感に感じ取っていた。
やがて俺は、視線の意味を完全に理解する。
彼らが母の美貌に何を求めているのか。そして、母がそれにどう応えてきたのか――。
――汚らわしいと思った。
あの大人たちの視線も、母の立ち振る舞いも、それを黙って見ていた自分自身も。
洗っても洗っても落ちない。そんな感覚だった。見た目ばかりキレイに整っていくのに、心の奥に染み付いた何かが、どんどん濁っていくようだった。
そして、同じ視線が俺にも向けられるようになった。
成長した俺を見て、「似てきたね」と微笑む女性たち。彼女たちの視線が、母を見ていた男たちと同じだと気づいたとき、心の底から気持ち悪くなった。
その嫌悪感はやがて、母親そのものにまで及んだ。
彼女の愛情を信じられなくなり、その存在が重く、息苦しくなった。
だから、俺は逃げた。
家を出て、すべてを捨てるようにして、新しい生活を始めた。それでもどこかで、母親の影がつきまとっている気がしていた。
「私のせいだった…。ごめんなさい、本当に」
母がぽつりと漏らした言葉が、部屋の静けさを切り裂いた。
振り返ると、母は小さな背中を丸めて座っていた。その姿は、俺の中にある「完璧な母」のイメージとはかけ離れていた。
「…俺も、悪かった」
自分の声が震えているのがわかる。本当は気づいていた。逃げるのではなく、声をあげるべきだったと。
「今日は、ちゃんと、母さんに言いたかったんだ」
母が顔を上げる。
「ありがとう」
母の目が潤むのを見て、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
「一緒にご飯でも食べよう」
それは、リコの願いでもあり、俺の心の底からの願いだった。
