だからこそ、この季節は忘れられない【20】#創作大賞2025 #恋愛小説部門
第8話 冬の終わり:愛のカタチ
(小説:すれ違う季節)抜粋
それから数回の冬が過ぎ去った。
それは、偶然だった。
もっと早くに気が付いていたら、ユウタを失わずに済んだかもしれない…。そんな可能性をもった、彼が私に託した手紙。
***
「え?今日って私、誕生日でしたっけ?」
浮田先輩は会議室の扉を押し開け、ショートケーキを持って入ってきた。
「違う。今日はクリスマスイブでしょうが」
「ああ…。そんな日もありましたか…」
「…どうせ、小林は今年も一人だし、私も一人だし、たまたまイブの夜に、打ち合わせを二人でしっぽりとやる仲だし?」
「先輩…。怖い…妙な圧を感じるのは、私がひねくれ者だからってことにしてもいいです?」
「ふふ、さすが小林。意図を汲んでくれて感謝する」
「はあ…。やっぱり」
「なんてね。まあまあ、とりあえず召し上がれ!ってことで。まさかー、小林が全く仕事しないことについて?厳しく言うつもりは、今日に限ってはないし?」
「…もう心臓一突きされてますけども」
「ふふ、はいどうぞ」
窓の外はすっかり暗く、さまざまな高さのビルの窓から白い灯りが光っているのが見える。イブの夜でも、私と同じように仕事をしている人がいるのだと、なぜか安心する。
「イブにケーキが食べられるなんて、私って意外と幸せ者かもですね」
「来年こそは、作品出しなさいよ。じゃないと、来年はケーキじゃなくて、昆虫食持ってくるから」
「げ。それはまじで勘弁してください」
「で。マジな話、小林はいわゆるスランプに陥ってるって感覚なわけ?」
「…スランプと言えるほど、私プロじゃないんで。なんなんでしょうね?」
私はケーキを頬張りながら、手帳を開き、締め切りで埋め尽くされたスケジュールを先輩に見せた。
「これ、全部ライターの仕事?」
「そうです、林ミコとしてでなく、小林としてライター業に励んでます」
「なんで?まだ貯金あるでしょ?」
「ありますけどね、いつかは底つくんで。食ってけなくなりますからね」
「…そう。はああ、今日は厳しいこと言いたくなかったけど――」
「ちょ、ちょっとーーあーーー、だめ、だめですよ先輩!さっき厳しいことは言わないって、言ったばっかりですからね?」
「でも、一言だけ」
すかさず言い返そうとしたが、浮田先輩の真剣な顔に、私は口を噤んだ。
「向き合いなさい。今の自分と」
「…」
図星だ。自分が一番よく分かっている。小説が書けないんじゃなくて、書くつもりがない。ライターの仕事で時間を埋めつくして、向き合うことから逃げている。そんな日々が当たり前になって、もう数年が経っていた。
「ねえ、その手帳、結構年期入ってきたわね。そこ壊れてるし」
先輩はスナップボタンが壊れて閉まらない手帳を指して言う。
「ああ…これ…。ずっと壊れたまま使ってて…」
「それ、今すぐに直してきなさい」
「い、今すぐ?」
「そういう小さなことから、ちゃんと向き合っていかないと。まだ、そこの路地の革のお店、やってるはずだから」
そう言うと、先輩は私の荷物をまとめてカバンに放り込み、半ば強引に私を会議室から押し出した。
「先輩…、イブの日に営業してますかね?」
「あそこ、年中無休。21時までやってるから、さ、早く行きなさい」
半信半疑でお店に向かう。イブの夜に本当に営業しているのか…。暗がりの中、店の前まで来てみると、思った通り静まり返っていた。
やっぱり閉まっているんじゃ――そう思いながらふと表札を見ると、「OPEN」の文字。
ひっくり返し忘れただけじゃないかと、恐る恐る扉を押してみる。
「…」
重たい音を立てて扉が開いた。カウンターの奥で新聞を広げたまま、こちらをじっと見ている店主らしきおじさんがいた。
「やっぱり、閉まってますよね?」
「…やってるよ」
私は店内に足を踏み入れ、カバンから手帳を取り出して、カウンターに置く。
おじさんは手帳をじっと見つめ、革を指でなぞり、手元のライトに当てながら、スナップボタンの部分を表と裏からじっくり観察した。
「いい革だ」
ユウタと付き合ってすぐの頃だった。
社会人になったユウタが初給料で買ってくれたものだ。
革の手入れができるほど、私はマメな性格ではないが、毎日持ち歩く唯一のアイテムというほど、大切に使っているつもりだった。
だが、壊れたのは、いつだったか覚えていない。カイと出会う前だったのか、それよりもずっと前だったのか…。
気が付けば、そのスナップボタンが壊れて、閉めることができなくなった手帳に愛着のような情すら湧いていた気がする。
「…向き合う…か」
おじさんは手帳を置き、こちらを見て言った。
「…スナップが付いてる革の部分。革も取り替え必要だけど。いいか?」
「…お願いします」
「中身、抜いといてくれ…」
「あ、すみません」
手帳のリングから紙を取り外し、再びおじさんに手帳を手渡した。
「よろしくお願いします」
扉へ向かおうとしたその時。
「お姉さん、ちょっと待った」
「え?」
振り返ると、おじさんが手帳の裏ポケットを指さしている。
「これ、挟まってたぞ」
近寄って確認すると、そこには折りたたまれた数枚の紙。なんとなく取り出して、カバンに入れようとした瞬間、目に飛び込んできた文字が――ユウタの筆跡だ。
血の気が引いたような感覚とはこのことかもしれない。怖いでもなく、嬉しいでもなく、何という感情か…。
ただ今は、心の準備ができていない。一瞬止まった手を元の軌道のまま動かしカバンに紙を押し込んだ。
「どうした?」
「あ、いえ、ありがとうございます。ではお願いします」
どう歩いてきたのか覚えていない。
私は気が付けば、部屋に戻り、シャワーを浴びていた。
見なくてはいけないものはすぐそばにあるものの、カバンを開けることすらできない。
――私は、ずっと見ないふりをして、生きてきたのかもしれない。
こんな夜に、気づくなんて。
***
ユウタが私に告白をした日。
あの日も、クリスマスイブだった。
「ずっと…リコを女として好きだった」
あのとき、ユウタの声は震えていて、目だけが真っ直ぐに私を見ていた。私の答えを待つ顔は、まるで祈るようだった。
「俺を男として見てほしい…」
まったくの予想外だった。あまりの衝撃に、言葉を失ってしまった。
「……」
思考を停止した脳が一気に動き出し、ユウタとの思い出が次々と鮮明に蘇ってくる。
――いつから、ユウタの気持ちは私の気持ちと違うものになってしまったのだろう。
幼い頃、ユウタと家族になりたいと願ったあの日?
中学生の頃、ユウタが彼女と並んで歩く後ろ姿を見て、自分とは違う世界の人間なのだと感じた瞬間?
高校時代、ユウタの香りにふと違和感を覚えた日?
ユウタに依存していることに気がついたあの時?
離れていた間、一度も連絡を取らなかった日々?
久々に再会して、大人びたなと感じた時?
それでも、私は、男女の恋愛なんていう、脆くて危うい関係を超えた、もっとずっと強い絆でユウタと結ばれていると信じていた。
――私が男だったら、私たちの関係は変わっていた?
それとも、女の私だから、仲良くしてくれた?
女である自分が憎い。
気がついた瞬間、私は孤独という名の不安に押しつぶされそうになった。
関西へと旅立つユウタの背中を目で追った瞬間、胸を貫くような寂しさに心臓は悲鳴を上げ、息をするのもやっとだった。あの日の張り裂けそうな想いが蘇り込み上げてくる。
思い出が交錯する中、私はユウタの告白にそっと頷いた。
「……うん」
それが、ユウタを壊すはじまりだった。
――私の想いに嘘はなかった。ユウタのそばにいたい。
この気持ちに嘘はない。これは、私にとって“愛”だ。
自分に言い聞かせるように「これでいいんだ」と呟きながらも、結局は自分の都合ばかりを優先し、その度に彼の心を傷つけ、気づけば二人の絆は、私が無意識にかけた力で少しずつひび割れていった。
***
ベッドに腰を掛け、バッグに視線を落とす。
「向き合え、か…」
私はバッグから、手帳に挟まっていた紙を取り出した。
折りたたまれた紙は三枚。こんなに厚みがあったのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
そっと開くと、そこにはタイムカプセルに入れたはずの私の手紙とユウタの手紙。
そして、もう一枚——それは新しい紙に書かれた、ユウタからの手紙だった。
【1枚目】
「未来のリコへ」
ユウタは私にとって、唯一無二の存在です。
近くにいるからこそ、忘れていませんか?
あなたは、ちゃんと恩返しができていますか?
母からも祖母からも、誰からも愛されなかった私にとって、ユウタだけが、いつもそばにいてくれた。
この十年、ユウタからたくさんの幸せをもらいました。
だから今度は、私がその幸せを返す番です。
どうすればいいのか、今の私にはわかりません。
私はきっと、全部偽物だから。
愛のカタチを知らない私に、何ができるのかもわからない。
でも、それでも。
ユウタは、私にとって一番大切な人。
それは、これまでも、これからも、ずっと変わりません。
どうか、この気持ちを忘れないで。
――リコ
【2枚目】
「何年後かのユウタへ」
この手紙を開けているとき、オレたちはどうなっている?
リコへの気持ちは、離れている大学生活の四年間で変わっているのか?
今のオレには、そんな未来が想像もつかない。
リコのそばで過ごす時間が苦しくて、想いが届かない今が辛くて、オレはここを離れたんだから。
オレはずっと、リコが好きだった。
もしオレの気持ちが、これから先、リコを支えられる“幼馴染”のままでいられたら、リコにとって、それが一番幸せなことだと思う。
でももし、リコの気持ちが俺に向く未来があるなら、これ以上ないほど、嬉しい。
そして、オレたちが家族になって、幸せな家庭を築いている未来があるなら…
そんな奇跡が起きることを願って。
――ユウタ
【3枚目】
「リコへ」
勝手にタイムカプセルを開けて、ごめん。
でも、どうしても、あの時の君の気持ちが知りたかった。
リコ。恩返しなんて、いらないよ。
誰かの一番になれたことはなかった。
家族がいたって、オレはいつだって二番だった。
そんなとき、君が現れた。
君の中で、一番になれたことが、オレは嬉しかったんだ。
だからずっと、君の“ヒーロー”でいたかった。
でも、いつからか、それだけじゃ足りなくなった。
君にとっての一番でいたい、じゃなくて。君にも、同じようにオレを想って欲しいなんて。そんな欲が生まれた。
幼馴染。恋人。婚約者。
名前が変わるたび、近づけた気がしてた。
でも、そのたびに溝も深くなっていったのかもしれない。
気づくのが、遅かった。オレの愛は、少し歪んでいたかもしれない。
ごめん、リコ。
君を傷つけた。君を苦しめた。本当に、ごめん。
それでも、リコと過ごした時間は、本当に幸せだった。
手放したくない。だけど、それは違う。リコには、心から笑っていて欲しい。
だから、オレは君のそばを離れる。
でも、それは終わりじゃない。
また、笑って会えるように。オレは前に進むよ。
だからリコも、どうか自分を縛らないで。もっと自由に、リコらしく愛したらいい。恐れないで。愛されることにも、愛することにも。
もう、振り返らなくていい。オレは、もう大丈夫だから。
ありがとう、リコ。
またいつか、あの時みたいに、何も気にせず、ただ笑い合える日を楽しみにしてる。
――ユウタ
手紙を読み終えた瞬間、全身から力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。
胸に抱えた手紙は、しわくちゃになり、涙がこぼれて文字を滲ませていくのを、どうすることもできなかった。
――どうして…ユウタ。謝らないでよ…、全部、私が壊したのに。なんで…
雨の音――?
あの日の記憶が、鮮明に蘇った。
***
(数年前)
梅雨の湿った空気の中、重く垂れこめた雲から、冷たい雨が降り注いでいた。
ユウタの声が、かすかに震えていたことに、どうして気づかなかったのだろう。
「俺たち、別れよう」
そう告げたユウタは、私の薬指にはめられた婚約指輪を静かに外した。
冷たい指先が触れた瞬間、胸の奥が締めつけられる。
ユウタは一度も振り返ることなく、雨の中へと歩き出した。私は、その背中を見送ることしかできなかった。
ただ、雨が降りしきる音だけが耳を満たしていた。
足が動かない。声も出ない。
彼の背中が見えなくなってから、ふと軽くなった薬指に目をやり、気づけば私は、ユウタの背中を追いかけていた。
びしょ濡れになりながら、雨の中を必死に走った。
「ユウタ!」
呼びかける声は、雨音にかき消される。
――どこいるの?ユウタ、どこに…!
息を切らしながら、濡れた街を彷徨う。そのとき、遠くで誰かの悲鳴が聞こえた。
「いやああっ!」
何かが胸を締めつけ、嫌な予感が全身を貫く。視線を向けると、人だかりができていた。
――まさか、ユウタ…?
心臓が跳ね上がり、震える足で駆け寄る。人混みをかき分けて見えたのは、赤く染まった血の海に倒れたユウタだった。
私は駆け寄り、彼の身体を抱きしめた。
雨と混じった血が、じわりと服に広がり、指先が震えていた。
息が詰まり、視界がぐにゃりと歪む中、懸命に叫ぶ。
「ユウタ…お願い、お願いだから、目を開けてよ…ユウタ」
返事はなかった。
代わりに、遠くで雨の音だけが静かに響いていた。
***
カーテンに閉め切られ、薄暗い部屋の中。私はずっとベッドの上に座り込んでいた。
飲みかけの水も、冷めたままのコーヒーも、無言のままテーブルの上で時間を止めている。
涙は枯れることなく流れ続け、まるでユウタの声が今も耳の奥で囁いているかのようだった。
誰とも話したくない。外の世界に出る気力もない。
ただ、無為に日々だけが過ぎていく。
目を閉じれば、今でも雨の中を私は走っている。あの時から、時間が止まったまま動かないのかもしれない。
ふと視線がノートパソコンに向ける。
無意識に電源を入れ、震える指でキーボードに触れる。
青白い画面が静かな部屋をぼんやりと照らす。
――カチ、カチ。
最初の一文字。そして、次の一文字。まるで自分の胸の内を少しずつ吐き出すように、ゆっくりと物語が紡がれていく。
物語の主人公は、愛を知らずに彷徨いながらも、誰かを求め続ける“私”だった。
キーボードの音だけが、静寂を破り、確かに私がここにいることを告げていた。
