だからこそ、この季節は忘れられない【17】#創作大賞2025 #恋愛小説部門
第5話 秋:触れたいのに届かない④
***
(小説:すれ違う季節)抜粋
翌朝――ガチャリ、と扉の閉まる音がして、目を覚ますと、カイの姿はなかった。
毛布を深くかぶり、カイの残り香に包まれたソファの中で、ひっそりと息をついた。安堵と同時に、じんわりと胸に広がる鈍い痛みが、昨夜の情景を呼び覚ます。
溢れ出てしまった自分の感情。心の奥底に押し殺してきたはずの想いが、声になって零れ落ちた瞬間。
――喪失感。ああ、この感情、知ってる。
当たり前だった存在が、ふっと消える時の、あの感覚。
まだ、親という存在を認識するよりもずっと前。私は祖母の家に預けられた。母の顔は思い出せないが、ただ、振り向きもしなかったその背中の輪郭だけが、幼い私の記憶に焼き付いている。
「どうせ捨てるなら、産むな。育てる気がないなら、いっそ殺してくれたほうがマシだった」
そんな卑屈で、とげとげしい思いを抱く私を、祖母が可愛がるはずもなかった。
優しい言葉をかけられた記憶は、ひとかけらもない。冷たく、乾いた声。鋭い刃のように、突き刺さる言葉。そのたびに、私はひとつずつ心を削られていった。
だから、心の奥ではずっと思ってた。
「早くいなくなればいい」と。
それでも、そんな呪いのような感情を抱いていた自分も、祖母の死を目の前にした途端、複雑な思いが渦巻いた。
――これから、私は本当に一人になる。
私を縛り付けていた、あの冷たい視線がなくなった世界。
解放されたわけではなかった。
見渡す限り、暗く、冷たい場所に、一人きりで取り残されたような感覚。誰かを憎むことすらできない静寂が、こんなにも苦しいなんて、知らなかった。
そんな時でも、変わらず私の傍で寄り添ってくれたのは、幼馴染のユウタだった。
私の居場所をくれた人。唯一、私を見捨てずにいてくれたユウタ。
なのに、私は、そんな彼を傷つけた。
そして、彼は――もう、いない。
あの時の痛みと、今の痛みが、重なる。同じ色をして、心に降ってくる。
でも――カイは。
「リコ…おーい、リコ」
誰かに名前を呼ばれる声が、ぼんやりとした意識の奥に響いてきた。まぶたをゆっくり持ち上げると、視界にカイの顔が浮かんだ。いつの間にか、また眠ってしまっていたらしい。
「…あれ?帰ったんじゃなかったの?」
寝起きの声でそう尋ねると、カイは私の頭の上に影を落としたままニヤッと笑う。
「ほら、出かけるぞ」
「え?」
言葉の意味が追い付かず、私はソファで毛布にくるまったまま固まった。11月とはいえ、外はすっかり冬の気配。毛布のぬくもりが恋しくて、動く気になどなれやしない。そんな私の毛布を、カイが容赦なく引っ張る。
「おいー」
「ちょ、寒いってば!やめてー!」
私は毛布を抱きしめるようにして抵抗した。
すると、カイは小さくため息をつき、近くにあった赤外線のパネルヒーターのスイッチを入れる。静かな音とともに暖かさが部屋に広がる。
「わあ、あったけー、ありがてー」
私はあっさりと毛布を手放し、ソファの前に座り込んだ。
そんな私をカイは冷たい目で見下ろしている。
「で?どこに出かけるの?」
「紅葉。一緒に見に行きたい」
「紅葉?もう寒いし、散っちゃったんじゃない?」
「何言ってんだよ、関東はちょうど見ごろだから」
「えーーーー?寒いのに?」
「寒むくなってきたから、紅葉が綺麗なんだろ?」
「えええええ!」
「えええええ!って、何年日本人やってんだよ」
「すみませーん。でもなー、寒いなー、家から出たくないなー」
私はソファで丸くなりながら、ブツブツと愚痴をこぼす。
カイは肩を落としながら、ちょっとだけ拗ねたような口調で言った。
「あーあ、せっかく車借りてきたのに。ひでぇなリコって」
「え?車⁉」
「うん、車の中なら暖かいぞ?」
「あ…。でも」
「でもでもでもって、なんなんだよさっきから」
「だって、コート持ってないんだもん!寒くて外に出られない。ましてや紅葉なんて…」
その瞬間、カイの表情は、まさに「絶句」という言葉そのものだった。
「…ずっと、どうやって過ごしてたんだよ」
「パーカー2枚重ねして、3枚重ねして…。毛布かぶって…、移動はタクシー?もしくは引きこもり」
「…コート買いに行けよ」
「だって…寒いんだもん」
言い訳する私を見て、カイは大きく深呼吸をすると、無言で私を立ち上がらせ、そのまま玄関へと連れて行く。
靴を履く暇もない勢いで、車に押し込まれた。
「もっと優しく扱ってー」
「うっさい、シートベルト!」
「はい…」
素直に言われた通りベルトを締めると、カイはハンドルを握り、無言のまま車を走らせた。
しばらくして、車が止まった先は、見覚えのないアパートの駐車場だった。
「ねえ、ここって」
「出て」
「はい…」
少し不機嫌なカイに従って車を降りると、彼は私の手を引いて、アパートの階段を上がっていく。二階の一室のドアの前で、カイが鍵を差し込みながら答えた。
「ここって、カイの家?」
「うん」
私は思わず声を上げた。
「心配だよ!」
カイがドアノブに手をかけたまま、怪訝そうにこちらを振り返る。
「何が?」
「え、だって、セキュリティがゆるいアパートで一人暮らしなんて、カイが襲われる!」
「襲われるって…俺、男だし」
「男でも…」
カイが苦笑しながらも、ドアを開けて私を中に入れる。室内に足を踏み入れた瞬間、私は一瞬で圧倒された。
白を基調とした壁に、明るい木目のフローリング。キッチンには最小限の調理器具が整然と並び、リビングにはソファとテレビが置かれている。
足元を見ると、見慣れない大きなサイズの靴が2つ置いてあるのが目につく。再度部屋を見渡すと、トイレや浴室がありそうな場所以外に、ドアが2つ…2LDK?
「もしかして、誰かとルームシェアしてるの?」
「うん」
私は足元にある靴と自分の足を並べてみる。明らかに大きい…、このサイズの靴、普通に売ってるのだろうか。
「30センチぐらいの足のサイズの人と?」
「ああ、身長190センチ、ラグビー部の大男だからな」
「よかったー」
私は心の底から、ふーっと安堵の息をついた。
「は?」
「襲われそうになっても、大丈夫そうだ!」
「あのな…。見た目は熊でも、子犬かってくらい気が小さいんだからな」
「大丈夫。見ただけで逃げてくはず」
「なんで俺がか弱い男子の前提なんだよ」
「当たり前でしょ!気を付けてよね」
「はいはい…。それより、こっち来て」
カイがリビング脇のドアを開けて、私を中へと促す。
そこは、ベッドと勉強机がある、男の子らしい質素な部屋だった。床にはベージュのラグ、窓際のカーテンは落ち着いたグレー。まさに「カイらしい」部屋。そして、私があげたバリのお土産の鬼のお面が壁に掛けられていた。
「カイの部屋?」
「そう」
カイは、備え付けのクローゼットを開け、そこから黒いダウンジャケットを取り出して私に差し出した。
「これなら着れそう?」
「…え?」
「コートないんだろ?」
「はい…」
渡されたダウンジャケットは、お尻まですっぽり隠れる丈で、ふわっとカイの香りがした。安心する。
「なんだよ?」
「…なんでもない」
「あと、コレとコレ」
そう言って、ベッドの上にポンポンと投げたのは、マフラーと手袋、それからニット帽。
それを取って、一つひとつ、私の体に身に着けていくカイ。そのたび、カイの温度と香りが増していく。
「完成、はは、似合ってる」
「…かなり暖かい。むしろ今、ちょっと暑い」
「もう、寒いとは言わせないからな」
「はい…。すみませんでした」
「よし出かけるか!」
「うん」
ダウンジャケットにマフラー、手袋まで装備して、私はすっかり冬仕様。玄関を出ると、澄んだ空気が頬に触れたが、今日は全然平気だった。
車に乗り込むと、シートがじんわりとあたたかくて、思わずほっと息をつく。
「やっぱり車って最高。ぬくぬくする」
「さっきまで“寒い”って騒いでたやつとは思えないな」
「これなら、冬が来ても問題ない!」
「そのまま、パクるつもりか?」
「冬の間、お借ります」
「それ、借りパクってやつだろ」
「あはは」
「まあいいけどさ」
「少し車内だと暑いなー」
私はそう言いながら、少しだけ窓を開けてみた。冷たい風が頬をかすめ、それが心地よく感じた。
ふと、横を見ると、カイが前を見たまま、小さく口ずさんでいた。鼻歌混じりのその横顔は、風になびく髪のせいか、いつもより少しやわらかく見えた。
「今日、なんかルンルンじゃん?」
「俺が?」
「うん、かなりね」
「まあな、運転するのも、紅葉見に行くのも、久々だしな」
そう言うカイの声が、なんだか少し照れくさそうで、私もつられて微笑んだ。
「…くれぐれも安全運転でお願いしますよ?」
「はいはい、お任せください」
車は静かに走り出す。秋の空気が、胸の奥まで静かに流れ込んできた。
***
赤い橋の上に立つと、視界いっぱいに広がる紅葉の海に、思わず息を呑んだ。
燃えるような赤、やわらかな橙、はじけるような黄色――色とりどりの葉が秋の風に揺れ、まるで生き物のように枝先で踊っている。
その下をゆっくりと滑るカヌーの上から、観光客たちの笑い声が水面をわたり、静かに耳をくすぐった。
「きれい…」
小さな声で呟くと、隣でカイが静かにうなずいた。
「タイミング、ばっちりだったな」
その声も、どこか遠くから響いてくるようで、まるで、すべてが現実ではないようだった。
「絵葉書だよ、コレ…」
「だな。ほんと、キレイ」
風が吹くたびに、はらり、はらりと葉が舞う。その様子は、見るものを一秒たりとも飽きさせることはない。
一枚の赤い葉が、ふわりと舞って、私の肩にそっと落ちた。気づいたカイが、それを指でつまみ、空に放る。
「…不思議だね」
「ん?」
「こんなにきれいなのに、どこか切ない。…なんでだろう」
視線の先では、ひらひらと葉が空中でゆっくりと回転しながら落ちていく。
「最後の悪あがき…かな」
「悪あがき?」
カイが不思議そうに問い返す。
「うん。散る前の一瞬だけ、こんなに色づいて、精一杯輝いてさ。あとは、静かに終わっていくだけ…」
自分で言いながら、胸の奥にチクリと何かが刺さる。
まるで、自分のことみたいだと思った。
こんなふうに、一瞬だけ人と近づいて、温かいと思ったその次には、きっと冷たい孤独が待っている。そんなことなら、いっそのこと…。
「気づかず、終わってたらいいな…」
ふと、そう漏らした言葉は、風に乗ってどこかへ流れて言った。
「…リコ?」
カイが小さく声をかけてくれる。
カイの腕が、そっと背中からまわされる。そのまま、彼の額が私の肩に触れた。
「俺も、条件追加したい。いい?」
「え?」
「いいよな?」
その甘えたような声に、小さく笑いながら頷く。
「どうぞ?」
「条件5つ目。俺の断りなしに、死んだらダメ」
「え?」
一瞬、苦しくなった。カイに心が読まれたみたいで。
振り返った私を、カイがまっすぐに見つめていた。
その目は、紅葉のように、どこか切なく、優しい。
「俺は、梶課長やルイほど、リコのこと知ってるわけじゃない。でも、こうやってリコの隣にいたいから。だからさ。生きててくれないと困る」
…不意に、心がふわっと浮かび上がるような感覚がした。
それは、重力が一瞬だけ消えて、ふっと風に乗ったみたいな――そんな感覚。
「…私だって、カイのこと何も知らない。まさか大男と一緒に住んでるとか、意外と家近いとか…、驚きだった」
「それ、俺に興味なかったってことか?」
「そういうわけじゃ…」
「焦ってるし」
「焦ってない!そもそも“何も聞かない”って関係でしょ。私たち」
「それ、あんまり意味ないかも」
「え?どうして?」
「そりゃ、リコが普段何してて、学生時代は、家族はどんなんで…とか、興味はある。けど、俺にとっては、リコは“リコ”だから。それで十分」
――リコはリコ。
その言葉が、ぽとんと、心の奥に落ちた。
“何も聞かない”それは、私なりの距離の取り方だった。線を引いておけば、踏み込むことも踏み込まれることも、傷付けあうこともなく、セフレの関係を保てる。
でも、カイは――
その線をあっさり越えてきた。詮索するでもなく、追いかけるでもなく。ただ一言「リコはリコだから」って。
その言葉に、強引さはなかった。でも、どこまでもまっすぐで、迷いがなくて――。気づけば、張っていた境界線の内側にカイが居て…。カイはどんどん近づいてくる。
「ばかー、死なないよ!痛いのやだし!じゃあ、カイも約束して。私の断りなしに死なないって」
「うん。じゃあ、リコの命は俺が預かったからな?絶対だからな?」
その言葉に、思わず胸がきゅっと縮こまる。カイはもっと近づいて…つながってくる。
「…」
不意に涙があふれだす。
こぼれ落ちる涙が、あたたかくて、少しだけ苦かった。
紅葉が風に舞い、赤や黄のひらひらが視界をゆっくり通り過ぎていく。
「リコ?」
「このまま、時が止まればいいのに…」
その一枚一枚が、まるで思い出みたいで、触れようとすれば壊れてしまいそうで。幸せを感じてしまった、その瞬間から、もう、この手では掴めない気がした。
この風景も、このぬくもりも、きっと、もうすぐ冬に呑まれてしまう。でも今だけは。
せめて、今だけは――
***
(現在・カイ視点)
リコと一緒に見た、燃えるように赤や黄色に染まった木々は、すっかり葉を落とし――春の気配に押されるように、柔らかな緑をまといはじめている。
それでも俺の目には、あの日の紅葉が、いつまでも記憶の奥で色鮮やかなままだ。
――リコは今も、俺との“条件”を守ってくれているのだろうか。
日本に長く留まる気のない彼女は、冬を越す覚悟すら持っていなかった。コートひとつ買わず、バッグの中にはいつでも逃げ出せるだけの軽さを詰め込んで。
紅葉を見ていた彼女は、いつでも消えていなくなってしまいそうで。俺の前からだけでなく。完全に、死さえも簡単に受け入れてしまいそうで。落ちる葉を見ながら、リコは、そう感じているように見えた。
ふと、俺は返しそびえれた、リコの愛用ペンをポケットから取り出す。リコがこの小説を書き終えてしまった今、ふと不安にかられる。
まだこの世界のどこかで、ちゃんと息をしているのだろうか。
それとも――
もしあの時、素直に「好きだ」と言えていたら。
「そばにいてほしい」と言えていたら。
「手放さない」と、本気で伝えていたら――
彼女は、ここにいてくれたのだろうか。
もう一度でいい。
彼女の声を聞きたい。笑顔でも、怒った顔でも、涙を浮かべた横顔でもいい。ただ一度だけでいいから、もう一度――この目で、彼女を見たい。
そんな願いを春の風に紛らわせながら、この景色の中に、彼女の姿を探してしまう。
